夜、あかねは縁で月を見上げて溜め息をついた。
昼間、頼久は左大臣の警護に駆り出されてしまい、あかねは一日許婚の顔を見ていない。
そんな日は夜も来なくていいからゆっくり休んでほしいと言ったのはあかねなのだが、一日中会えないとなると落ち着かなくて、必ず夜遅くまで縁で溜め息をついてしまうのだ。
頼久も同じ想いでいるらしく、休むように許婚に言い渡されているにもかかわらず月明かりの下、会いに来ることも少なくなかったが、先日わざわざ会いにきたことをあかねが心を鬼にして咎めたので今夜は来ないらしい。
来てくれないとなるとどうしても会いたくなって、あかねはまた溜め息をつく。
もう夜はすっかり肌寒くて、何枚も小袿をかぶって、冷たく輝く月を眺めながら風邪をひいたらみんなに凄く心配をかけるのだろうとわかっているのに、どうしても褥に戻って眠る気にはなれなくて…
静かな夜、月明かりに照らし出される秋の寂しい庭。
風がないから凍えるほどの寒さではないけれど、誰もいない夜の庭は静か過ぎてとても寂しい。
今まで数え切れないほどの溜め息をついてきたあかねが、そうとわかっていはいても再び溜め息をついてしまい、そんな自分にあきれて苦笑したその時、かさりと草のなる音が聞こえたような気がした。
風になびいて草が鳴ったのかと辺りを見回してみても月明かりだけの夜、あかねに何かが見えるわけもない。
風がないのだから草が鳴るわけはないと思い直して、あかねは背筋が寒くなった。
草が鳴るわけがないのに草が鳴った。
あかねに思い当たる草が鳴る理由は二つ。
一つは誰かがこの庭に入り込んだから。
もう一つはお化けが出た。
どちらもあかねにとっては恐ろしい結論だ。
お化けが出た、については却下してもいい。
何しろこの屋敷にはそういったものが入り込めないよう、泰明が二重の結界を張ってあるはずだ。
では、もう一つの可能性、侵入者はどうだろう?
頼久ならいつもすぐに自分を見つけて声をかけてくれる。
それ以外の人物が夜中にこの屋敷を訪れたことなどない。
もし、盗賊か何かならやはり泰明の結界に阻まれるはずだった。
では、今、庭にいるのはいったい何者か?
もしかしたら気のせいだったかもしれない。
あかねがそう思おうとしたその時、月明かりの中、自分の方へと人影が素早く駆け寄ってくるのが見えた。
本能的に危険を感じて妻戸の向こうへ戻ろうとしたあかねは、寒さのせいでかぶっていた何枚もの小袿が邪魔になってうまく立てない。
足音や気配が違う、絶対に頼久ではない。
泰明の結界を信じてはいる、でも、今近づいてきた人影から危険を感じているのも事実だ。
あかねはあわてて小袿を脱ぎ捨てて立ち上がった。
だが、次の一歩を踏み出そうとしたまさにその時、あかねのほっそりとした左腕が信じられないような力で捕まれた。
「痛いっ!離してっ!」
力いっぱい左腕を振ってみるがびくともしない。
あかねは右腕で相手の腕をつかんで引き離そうともがいたが、左腕が痛むばかりで相手の力は少しも緩まなかった。
それでもあきらめずにあかねが力いっぱい身を引いていると、今度は右腕がぐいぐいと引かれ、ずるずるとあかねの体は何者かわからない人影の方へとひきずられていく。
「助けてっ!頼久さんっ!」
ここにその人がいないとわかってはいても、あかねは無意識のうちにそう叫んでいた。
呼んでも叫んでも、頼久が来るわけはない。
ここへは来ないでゆっくり休んでほしいと言ったのは自分だ。
あかねは心細さと恐ろしさと不安とで泣きそうになりながら、それでもここで泣いたらもう二度と立ち直れないと直感して必死に涙をこらえる。
そうして涙をこらえながら力いっぱいの抵抗を見せるあかね。
それでも十六の少女の力では到底かなうはずもなくて、もうダメだ、そうあかねがあきらめかけた刹那、ドスっという鈍い音がして…
「うっ…。」
男のうめき声が聞こえたかと思うと、急にあかねの左腕が解放された。
勢いあまってあかねが後ろへと倒れ込む。
「神子殿!ご無事ですか!」
腰をしたたかに打って顔をしかめているあかねの体をふわりと梅花の香りが包み込んだ。
そしてその上半身を優しく抱き上げた香りの主は月明かりに照らされただけでもはっきりわかる、あかねが助けを求めた源頼久、その人だった。
「頼久、さん?」
「はい、お怪我はございませんか?」
「どうしてここに……。」
「事情は後ほどゆっくりご説明致しますので、それよりもお怪我はございませんでしたか?」
「あ、はい…えっと……今ちょっと腰を打ったのと、つかまれてた腕がちょっと痛いくらいで…。」
「間に合ったのですね、よかった……。」
そう言って安堵の溜め息をついた頼久はそっとあかねの肩を抱き寄せると、そのままきつく抱きしめた。
何がどうなったのか急のことで混乱していたあかねだが、それでも今、自分が許婚の腕の中、この世界で一番安全だと信じているところに抱かれていることだけはわかった。
やっと安心して頼久の胸にもたれかかったあかねは、今まで必死にこらえていた涙が急にあふれてきて、いつの間にか頼久の胸にすがって泣き始めてしまった。
「み、神子殿?やはりどこかお怪我でも?」
慌てたのは頼久だ。
無傷だと言われた矢先に泣き出されて、頼久は真っ青になってあかねを自分の胸から引き離すとその顔をのぞきこむ。
「大丈夫、です……安心、しちゃって……。」
ひっくひっくとすすり泣きながら、それでも頼久が困っているだろうとなんとか涙をおさめたあかねは、やっと視線を上げた。
そこには心の底から心配そうな頼久の顔が。
「ごめんなさい…凄く恐かったから…。」
「いえ、もっと早くに参上するべきでした。遅くなって申し訳ありません。」
苦しそうにそういった頼久は深々と頭を垂れる。
あかねは慌てて頼久の顔を上げさせると今度はなんとか微笑を作ることに成功した。
「私は大丈夫です。頼久さんがちゃんと守ってくれましたから。」
「神子殿…。」
あかねの笑顔を見て、頼久はあかねの手を取るとやっと安堵の表情を浮かべた。
「そうだ、そういえば頼久さん、どうしてここにいるんですか?」
「実は昼間、警護に当たっていた者から不審な人影を見たという報告を受けておりまして、この屋敷は泰明殿の結界に守られております故、大丈夫かとは思いましたが、万が一のことがあってはと様子を見に参りました。まさかとは思いましたが神子殿が賊に襲われておいでのようでしたので…。」
「そうだ!その賊の人は?!」
あかねが慌てて立ち上がると、頼久はその手をとってそっと自分の方へ引き寄せた。
「ご心配なく、峰打ちで気絶させただけですので。」
頼久の言葉にあかねはほっと安堵の溜め息をつく。
こんな時に敵の身を案じるとは、と思いながらもそんなあかねの優しさが愛しくて頼久は穏やかな表情を浮かべてあかねをそっと抱きしめた。
「よ、頼久さん、こいうことしてる場合じゃ……。」
「そうでした。」
優しい声がしてあかねの体は解放された。
少しだけ残念に思いながらあかねが見守る中、頼久は手際よく賊を縛り上げると辺りを見回した。
「どうかしたんですか?」
「いえ…夜の警護の者がいるはずなのですが……。」
賊が入り込んだだけでも異常事態だというのに、これだけ時間がたっても誰も駆けつけてこない。
頼久は眉間にシワを寄せると静まり返っている庭をもう一度見回して立ち上がった。
「少々様子を見て参ります。神子殿は中へ……。」
「ま、待ってください!」
あかねは歩み去ろうとする頼久の袖を思い切り引いてしまった。
たった今、とんでもなく恐ろしい思いをしたばかりなのに、頼久がここからいなくなるなど考えただけでも涙が出てきそうだ。
「すぐに戻ってまいりますので。」
「で、でも恐いです…。」
「頼久はそこで神子を守っていろ、周囲は私が見てくる。」
庭の隅から声が聞こえて、二人はそちらへと視線を移す。
月明かりの下、声の主はちらりと頼久に視線を送ると、すぐに姿を消した。
「泰明殿…。」
「泰明さんも来てくれたんですね、よかった……。」
「しかし、何故……。」
「結界が破られたからだ。」
さきほど周囲の様子を見に行くと言って姿を消したばかりの泰明は、そういいながら二人の前へとゆっくり歩いてくる。
「泰明殿…周囲の様子は……。」
「あれは式神だ。」
「はぁ…。」
陰陽の術に疎い頼久には何がなんだかわからないが、とりあえず泰明のやることならば間違いはないと今は追及を後に回した。
それ以上に追求しなくてはならない異常事態が発生しているのだ。
ところが、好奇心の塊であるあかねはそうは思っていないようだった。
「式神って、さっきの泰明さんは泰明さんじゃなくて、今ここにいるのが泰明さんで、さっきのが式神さん?」
このあかねの質問に、泰明は明らかに疲れたような深い溜め息をついた。
「神子、話がややこしくなっている。先程のが私の姿を模した式神で、私が本人だ。急を要したからな、式神を先によこしたのだ。神子に万一のことがあってはならぬ。」
「あぁ、なるほど、有難うございます。」
律儀にぺこりと頭を下げるあかねを見て、頼久と泰明の口元がゆるむ。
頭を上げたあかねが小首を傾げたその時、三人目の人影が現れた。
「おや、おそろいだね。」
艶な声、優雅な身のこなし、どれをとっても非の打ち所のない美男、左近衛府少将橘友雅だ。
だが、その友雅の出で立ちを見て三人は一瞬目を丸くした。
何故か友雅は男を一人、肩に担いでいたのだ。
頼久のように見るからに鍛えられた印象を与えない友雅だが、実は頼久と互角に戦える実力を持った武官であることは言うまでもない。
それにしても男一人を軽々と担いで歩く艶な少将の姿はかなり衝撃的だった。
「友雅殿、その男は……。」
「ん?この屋敷から飛び出してきて怪しげだったので捕らえておいたのだよ。おや、ここにも一人、無粋な輩がいるようだね。」
こんな時にまで艶な笑みを浮かべた橘少将はどさりと音を立てて、さきほど頼久が縛り上げた男の隣に担いできた男を下ろした。
「無粋どころではありません!この者はあろうことか……。」
「神子殿を連れ去ろうとした、かね?」
知っていたと言わんばかりの友雅を頼久は訝しげな表情で覗き込む。
「友雅、何を知っている?」
こちらはやはり不機嫌そうな声の泰明だ。
顔には出さないが声からすると自分が知らないことを友雅が知っている様子に泰明はかなり不機嫌らしい。
「こう見えて私は貴族なのでね、宮中で色々と噂を耳にもするのだよ。で、その噂からすると、ひょっとして神子殿が狙われるのではないか?と、思ったわけだ。せっかく神子殿をお守りするという名目ができたのだから夜訪ねないなんて無粋だろう?」
「友雅殿…。」
「友雅…。」
このような状況でも冗談だか本気だかわからない軽口をたたいている友雅に、頼久と泰明は刺さるほど鋭い視線を向けた。
あかねが狙われたと言うだけでも殺気立っているというのに、この状況で夜這いをかけようとしたなどと冗談を言われては二人ともたまったものではない。
「おや、二人ともそんなに恐い顔をするものじゃない。神子殿が恐がるじゃないか。」
そう言ってあかねに歩み寄ろうとする友雅の行く手を頼久が遮る。
「友雅、お前は絶対にこの屋敷に入れないという結界を張ってやろう。」
「や、泰明殿……冗談、冗談だよ、さっきのは。あははは。」
どうやら冗談ではなかったらしいと友雅の乾いた笑い声から察した二人の視線が更に鋭くなる。
そこへ溜め息をついたあかねが割って入った。
「もう、二人とも、友雅さんの冗談はいつものことじゃないですか、真剣に相手しちゃダメです。それに友雅さんも友雅さんです。こんな時に冗談言ってる場合じゃありません。私本当にさらわれそうだったんですから、頼久さんが来てくれなかったら本当に危なかったんですからねっ!」
「大丈夫、そうなったらちゃんと私が救い出して差し上げるよ、神子殿。そうしたら少しは私にもそのお心を向けてくれるかい?」
ついさきほど二人の八葉ににらみつけられたばかりだと言うのにどうやら懲りていないらしい友雅に、あかねはびしっと指を突きつけた。
その顔はかなり真剣に怒っている。
「友雅さんっ!真剣にやってくれないなら本気で怒りますよ?」
「わかったわかった。そう怒らないでくれないか。神子殿に嫌われては私はいよいよ儚くなってしまうよ。」
そう言ってさらりと髪をかき上げる友雅を見て、あかねははぁと深い溜め息をついた。
そう、どうあってもこの少将が真剣になるはずがないのだ。
「友雅、戯れはたいがいにしろ。結界は二重に張っていたのに破られた。この男から術の気配を感じる。屋敷の警護をしていた連中も術で眠らされていた。この一件、陰陽師が関係している。ただ事ではあるまい。」
「まぁ、ただ事ではないだろうね。」
「何を知っている?」
「その話は夜が明けてからにしよう。このままでは神子殿が倒れてしまうよ。頼久、賊の方を片付けてくれないか。私は神子殿を褥へお送り…。」
「頼久が神子を褥へ送り届けろ、賊は友雅だ。」
「承知。」
不機嫌そうな泰明にうなずいて頼久はあかねをすっと抱き上げた。
「よ、頼久さん、自分で歩けます…。」
「いえ、きちんとお送りしないと、どうも今宵は危険な輩が多いようですので。」
そう言って譲らない頼久はさっさとあかねを抱きかかえたまま妻戸の向こうへと姿を消した。
「おやおや。嫌われたものだね。」
「嫌ってなどいない、信用していないだけだ。」
「これは手厳しい。」
「さっさと手を貸せ、敵の正体を聞き出す。」
「陰陽の術で尋問とは、これはあまり優雅な話にはならないようだね。」
そう言いながらも友雅は、ひょいと賊の一人を担ぎ上げた泰明を自分ももう一人を担ぎ上げて追いかける。
ほっそりとした泰明も、優雅な出で立ちの友雅も、賊を担いでいる姿はかなり異様だ。
そんな二人をただ月明かりだけが見送っていた。
翌朝。
「おはようございます。」
「おはようございます、神子殿。」
「おはよう、神子殿。」
「よく眠れたか?神子。」
朝、着替えを済ませて姿を現したあかねに昨夜から泊り込んだらしい三人の八葉はそれぞれに朝の挨拶を返す。
「よーく眠れました。眠るまで頼久さんがついててくれたし、みんながここで見張っててくれてるって思ったら安心できたから。」
そう言って微笑むあかねの愛らしさに三人の男は相好を崩した。
あかねは左に頼久、右に泰明、正面に友雅という状態になるように座る。
「みんなもう朝餉は済みました?」
「まだだ。」
「あぁ、じゃ、一緒に朝餉にしましょう。」
「では、私が用意するように言いつけてまいります。」
泰明のわかりやすい返事に立ち上がろうとしたあかねを止めて頼久はすぐに立ち上がった。
「頼久さん。」
「はい、何か?」
「ちゃんと頼久さんの分も頼んできてくださいね?」
「は?」
「は?じゃありません、頼久さんはまた自分は同じ席で食事など、とか言うつもりでしょう?今日はそういうのなしですから、絶対一緒に朝餉、食べてください!」
「………御意…。」
苦しそうにそれだけ応えて頼久は姿を消した。
その様子を見ていた友雅が楽しそうにくすくす笑っているのをあかねは見逃さない。
「なんだかとっても楽しそうですね?友雅さん?」
ジト目でにらみつけられても友雅はひるまない。
辺りにあった脇息を引き寄せてそれにもたれかかると、いつものように艶のある視線をあかねに送ってにこりと微笑んで見せた。
「いやね、婚儀を済ませる前からすっかり頼久は尻に敷かれていると思ってね。」
「そ、そんなことないです!」
照れて慌てるあかねをじっくり鑑賞する友雅は上機嫌だが、泰明はそんな友雅に牽制の視線を送ることを忘れない。
朝餉の手配を終えて頼久が戻ってきた時には、からかわれて赤くなるあかね、友雅に牽制の視線を送ってひどく不機嫌そうな泰明、そしてその泰明の視線を受けて笑みをひくつかせている友雅の三人が並んでいた。
大切な神子殿の屋敷に賊が入ったというのにいつもと大差ない雰囲気の場の空気に感心するやらあきれるやらの頼久は、こほんと小さく咳をしてからもといた場所に座った。
「友雅、昨日、先送りにした話をしろ。」
「賊から話を聞くのではなかったのかな?」
「お前の話が先だ。賊の話で裏を取る。」
「…それではどちらが敵で味方だかわからないな……。」
「友雅殿、何かご存知ならば教えて頂きたい。これからの警護のしかたにもかかわります故。」
不機嫌な泰明から真剣な顔の頼久に視線を移して友雅は苦笑した。
この二人の生真面目さは相変わらずだ。
「まぁ、事が大きくなりそうなんでね、ここは残る三人の到着を待ってから話すとしよう。」
「残る三人って、永泉さんとか鷹通さんとかイノリ君とか呼んだんですか?」
「まあね。共に怨霊と戦った八葉の仲間だ。一番信用できるだろう?」
そう言って友雅はあかねにウィンクして見せた。
第二話へ
管理人のひとりごと
3000Hit御礼でございます(^^)
これより、キリ番御礼連載開始です♪
今回は事件が起こった、ただそれだけの場面(’’)
さて、友雅さんが知っているのはどんな事実でしょうか?
暗闇の中で音だけの戦いがちょこっと出てましたが、これから先はもうちょっと頼久さんがかっこよく戦うところが出てくる……かも?(マテ
では、第二話をお楽しみに〜♪
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