月が中天に差し掛かった頃、あかねの屋敷の縁でただ座っているしかなかった鷹通と永泉の前に人影が現れた。
二人が顔を見合わせると人影は縁に座って小さく溜め息をついた。
「友雅殿?藤姫はなんと?」
藤姫なら何かわかるかもしれないといって飛び出していった友雅だったのだが、二人の前に戻ってきた友雅はというと困惑したような顔で飛び出して行った時よりは幾分か落ち着いて見えた。
だが、決して事情がわかってほっとしたという顔ではない。
鷹通はそんな相棒の顔をのぞきこんで小首を傾げた。
「それがね、鷹通。」
「はい?」
「藤姫はなんだかひどく落ち着いていてね。」
「は?」
「昨日も占いはしたが、神子殿に悪しきことは起こらぬはずだと断言された。」
「はぁ…ですが…。」
「万が一にも星見の姫の占いに間違いはないと思ったが、改めて神子殿の身に危険が及んでいないか占ってもらった。だが…。」
「神子殿の身になんら危険は及んでいないと?」
「藤姫はそう言っている。」
「ですが、実際に神子殿は姿を消され、しかもまるで神隠しであるかのように…。」
「そう話してみたのだがね、藤姫はおかしいといって小首を傾げるだけで、占いでは神子殿の身には何も危険は及んでいないはずだからとそればかりでね。」
「はぁ…。」
「『きっと神子様にも何か事情がおありなのでしょう』といわれて追い出されたよ。」
「……。」
幼い姫とはいえ、藤姫は怨霊との戦いの間もその占いで神子と八葉をずいぶんと助けてくれたものだ。
その藤姫が、あの神子様大事の藤姫が、頼久とどちらが神子を思っているか競っても負けないほどの藤姫が動揺一つ見せないとなると、さすがの鷹通も困惑した。
「では、やはり神子は御自分の意思で姿を消してしまわれた、ということでしょうか?」
控えめに小さな声でそう言ったのは永泉だ。
そしてこの言葉を聞いた友雅と鷹通は互いに顔を見合わせてから、その視線をまだ横たわっている頼久へと向けた。
まさか、本当にあの神子が頼久に愛想を尽かして出て行ったというのだろうか?
果たしてそんなことがありえるだろうか?
自分が生まれ育った世界を捨ててまで頼久を選んだ女人だ。
しかも他の八葉の誰でもなく、自分から頼久を選んだのだ。
そんな人が果たして夫に愛想を尽かして、仲間を頼るでもなく姿を消したりするものだろうか?
「浮気が露顕してきついお灸をすえるためというのは考えにくいだろうねぇ。」
「頼久に限ってそれは…。」
小首を傾げる友雅に鷹通が苦笑する。
自分がそういう生活をしていたからそのような発想になるのだと突っ込みたい気持ちをぐっとこらえて、鷹通は頼久を見つめた。
八葉として神子を守っていた時から、恐ろしいほどまっすぐで不器用で、不器用ながらも一途に神子を守っていた頼久だ。
その神子を妻としてからは妻のことしか目に映っていないと言ってもいいほど妻にぞっこんな男だと誰でも知っている。
そんな頼久に限って浮気など天地がひっくり返ってもありえない。
「では、神子殿が他の男に心を移された、か?」
「それも…。」
鷹通はその顔の苦笑を深くした。
あの清らかな神子に限ってそれはもっとありえないだろう。
高貴な身分のうぬぼれた女性ならまだしも、あかねは八葉全員に平等に接する心優しき女性だ。
その想いは清らかで、一途に頼久に向いている。
それがわかっていればこそ、あきらめきれないながらも元八葉皆が頼久とあかねを温かく見守っているのだ。
頼久はあかねに一生まっすぐ仕えるだろう。
あかねは頼久を一生まっすぐ想うだろう。
そうわかっているからこそ、誰にも横恋慕ができない。
あかねの純粋さや一途さは頼久の一途さに負けずとも劣らないはずだ。
「お心を移してくださったのが私だったら大喜びだったのだけどね。」
「友雅殿…。」
藤姫が大丈夫と太鼓判を押したので安心したのか、友雅の口調がいくらかいつもの友雅のものに戻っていた。
「鷹通だってそう思うだろう?」
「思いません。」
相棒の言葉を瞬時に切り捨てて鷹通は溜め息をついた。
この相棒は少しくらい焦っていた方がいい。
心の中でそうつぶやきながら。
頼久がハッと気付くとそこは屋敷の縁で、庭には満開の桜が美しかった。
鳥の囀りが聞こえて陽射しが暖かく心地いい。
よくよく見れば頼久に背を向けて庭に立っているのは愛しい妻だった。
「神子殿。」
呼びかけてみればあかねはくるりと振り返ってにっこり微笑んだ。
輝かんばかりに美しくも嫌味な所がまるでない。
女神のように神々しいかと思えば次の瞬間には野に咲く小さな花のような愛らしさを見せる頼久の最愛の妻の姿がそこにはあった。
「神子殿、桜を愛でておいでなのですか?」
頼久がそう尋ねれば、あかねは楽しそうに微笑みながらうなずいた。
「そうですか、今年も綺麗に咲きました。来年はきっともっと美しく咲きましょう。」
幸福に満たされて頼久がそう言えば、あかねの表情が急に陰りを見せた。
今まで匂い立つほどの美しさと、無邪気な愛らしさを同居させていた笑みが一瞬のうちに消えうせて、その顔はなにやら憂いを帯びている。
「神子殿?」
「頼久さん、私、来年はもうこの桜を見られません。」
「は?」
やっと聞けた妻の声に頼久は目を見開いた。
何を言っているのだ?
「私、やっぱり向こうの世界が恋しいんです。」
「神子殿…。」
「だから……帰ります…。」
頼久の背筋に嫌な汗が伝った。
それは今まで頼久が心の奥底の、更に奥の方で、いつもは意識しなくてもうっすらと恐れていた言葉だった。
いつか妻を失う時がくるとしたらきっとこんなふうにやってくるのだろう。
そう想像したこともあった。
もしそんなことになったら、自分はきっと泣き叫び、魂も砕け散って儚くなってしまうだろう。
そうも思っていた。
だが、実際に目の前で妻にそう言われてしまうと、頼久は泣くでも叫ぶでもなくその場に凍りつくしかなかった。
「ごめんなさい、さようなら…。」
あかねが悲しそうな顔でそう言うと、小さなその体が徐々に透き通り始めた。
頼久は慌ててあかねに駆け寄って手を伸ばす。
「神子殿!どうか!どうか私もお連れ下さい!」
だが、頼久の手は空をつかむばかりであかねに触れることができない。
頼久があかねを捕まえようと腕を伸ばし、何度もその腕が空を切る。
そうこうしている間にゆっくりとあかねの姿は透けていき、最後には大気に溶け込むように消えてしまった。
「神子、殿………。」
頼久はその場に呆然と立ち尽くし、あかねが消えていったそこをじっと見つめ続けた。
目の前であかねが消えてしまった。
何があろうとも、必ず一生守っていくと誓った尊い人だったのに。
自分は何一つできないまま、全てを失ってしまった。
その現実を受け入れることができなくて、頼久はただただひたすら立ち尽くした。
ところが、そんな頼久の背後で声が聞こえた。
「頼久さん!助けて!」
悲鳴にも似たその声に、頼久は慌てて振り返った。
するとそこには、左半身が壁に埋まっているあかねの姿が…
「神子殿!」
頼久は壁に埋まり行くあかねに駆け寄ろうとしてハッと我に返った。
今まさに自分は異世界へ帰ろうとしているあかねの手をつかもうとしていたのではなかったか?
だがしかし、今またあかねは壁の向こうへ引きずりこまれようとしている。
「助けて!頼久さん!」
今目の前であかねが消えてしまったことを不可解に思いながらも、今度こそあかねを失うまいと頼久は壁に埋まろうとしているあかねの方へ駆け寄ろうとした。
ところが、今度はいくら走っても少しもあかねに近づくことができない。
足はしっかり動いているのに、少しもあかねが近くならないのだ。
そうこうしているうちにあかねの姿はどんどん壁に埋まっていき…
「助けて…頼久さ……。」
頼久の目の前で、あかねは壁の向こうへと吸い込まれていってしまった。
「神子殿!!」
また失うのか?
また目の前で自分は妻のために何をすることもできずにただ失ってしまうのか?
いや、もう失ってしまったのだ。
頼久の全身から血の気が失せた。
青白くなるほど拳を握り締め、そして頼久は声を限りに叫んだ。
「神子殿っっ!!」
「神子殿!!」
叫びながらがばっと頼久が体を起こすと、そこは暗闇の中だった。
何がなんだかわからずに、とにかく乱れている呼吸を整える。
膝の上には袿が小さくかたまっていて、どうやらそれは自分の体の上にかけられていたようだ。
頼久はそれを手にとってまじまじと見つめた。
するとそれは見慣れた妻の持ち物で…
そこで頼久ははっとして辺りを見回した。
異世界へ戻ろうとしていたあかねは?
壁に吸い込まれそうになっていたあかねは?
辺りを見回してもあかねの姿はどこにもなく、ただ静かな局には闇だけがあった。
夢であったかと額に浮く汗の球を拭って溜め息をついて、頼久は再び目を見開いた。
夢、確かにさっきの二人のあかねは夢だったかもしれない、だが、自分は現実にも妻を失いかけていたのではなかったか?
そう気付いて頼久の顔から血の気が失せた。
「頼久?起きたかい?」
縁から聞こえてきたのは同じ元八葉の仲間、橘友雅の声だ。
頼久はすっと立ち上がると、急に鳩尾に走った痛みに顔をしかめながら袿を手に縁へ歩み寄った。
「友雅殿…。」
「少しは落ち着きましたか?」
今度は鷹通の声が聞こえて、頼久は縁を見回した。
すると友雅、鷹通と共に永泉も心配そうな視線を頼久に向けている。
頼久は小さく息を吐いてその場に座った。
「はい…。」
「それは何よりだ。」
「友雅殿、事態は…。」
「好転しているとは言いがたいかもしれないけれどね、藤姫に占ってみてもらったんだが、神子殿の身に危険が及んでいるというようなことはありえないとのことだったよ。」
「危険は及んでいない…つまり…。」
「神子殿は自分の意思で出て行ったと考える方が自然だろうね。」
「自分の、意思で……。」
頼久はそこまで言って言葉を切ると、庭の地面を穴が開くほど見つめた。
友雅でなくても頼久が心の中で何を思ったのか想像はついた。
やはり自分はあかねに捨てられたのではないか?
頼久の顔を見ればそう考えているということが誰の目にも明らかだ。
今にも失神して倒れそうな顔をしている頼久を見て最初にため息をついたのは友雅だった。
脇息にもたれて髪をかき上げた友雅はギロリと剣呑な目で頼久を見上げた。
「神子殿のことだ、何かやんごとない事情があったのだろう。頼久が考えているようなことはないと思うが。」
「しかし友雅殿、神子殿が八葉の誰にも何も告げずに自らこの屋敷を出て行くとは…。」
「確かにそこが不可解でもあります。何も言わずにいなくなれば皆が心配すると神子殿はよくご存知のはずですし。私もそこが解せません。」
頼久に同意したのは鷹通だった。
いくら藤姫が自分の意思で出て行ったのだと断言しても、あのあかねに限って仲間達に心配をかけるような行動をとるとは考えにくい。
いや、怨霊と戦っている間も心配させられるような大胆な行動に出たことはあったが、それはそれ、そうしなくてはならない何らかの事情があった場合に限られる。
あかねは決してわがまま気ままで仲間達に心配をかけるような女性ではない。
「危険が及んでいないということですから、とりあえずは安心してよいのではないでしょうか。神子はしっかりしたお方ですし、ご自身の意思で行動していらっしゃるということならわたくし達に話せない何か事情がおありなのかもしれません。」
最も落ち着いた声を出したのは意外にも永泉だった。
普段はどちらかというとおろおろとしているイメージがあっただけに、3人の男達が目を丸くした。
「あの……何か…。」
「いえ、永泉様はずいぶんと落ち着いていらっしゃるのですね。」
「神子はもともとお強い方でしたが、最近はますますしっかりして大人の女性らしくなられました。ご自身の意思で出かけたのであって危険が及ぶようなことはないということならまず心配はいらないのではないかと思うのです。」
うっすらと笑みさえ浮かべる永泉に鷹通と友雅は顔を見合わせて苦笑した。
ここに来て最も落ち着いているのはどうやらこのひ弱そうな法親王らしい。
「しかし…。」
「頼久、神子は頼久から離れたいがためにこの屋敷を出たわけではありません。神子がそのような方でないことは頼久が一番よく知っているはずです。」
「永泉様…。」
優しく静かな永泉の声に、波立っていた頼久の心が凪いでいった。
「にしても、神子殿はどんな理由でどこへお出かけなんだろうねぇ。」
脇息にもたれたまま友雅がそう言って空をあおいだその時、深夜とは思えないほどうるさい足音をたててバタバタと二つの人影が飛び込んできた。
「おい!なんでそんなくつろいでんだよ!お前ら!」
飛び込んでくるなり叫んだのはイノリだった。
そう、泰明の力を借りるため、出かけている泰明を呼びに行ったイノリがやっと戻ってきたのだ。
つまり、飛び込んできたもう一つの人影は泰明ということになり…
「お前達はいつから神子の八葉ではなくなったのだ?」
その泰明はというといつもは無表情なその顔に珍しく心の底から不愉快そうな表情を浮かべて4人の男達を睨み付けていた。
驚いたのは藤姫に危険は無いと断言されてわずかに安堵していた4人の方で、お互いに顔を見合わせて小首を傾げてからいっせいに泰明へと視線を戻した。
「泰明殿、その…何をそのように……。」
「神子の気を探ったがどこにも感じられない。神子がどこにいるかが全くわからないのだ。八葉だというのにお前達は何故そのように悠長に構えていられるのか。神子の身にどのようなことが起きているのか見当もつかぬ。」
不機嫌そうに低い声でそういった泰明の言葉に、4人は一瞬で凍りついた。
第五話へ
管理人のひとりごと
やっと泰明さん登場♪
でも問題は解決しないみたいです(’’)
藤姫ちゃんと泰明さんの意見が食い違ってるみたいですねぇ。
なんでだろ(’’)(マテ
今回はとりあえず苦悩する頼久さんの回だと思ってください(オイ
解決編は次回♪
もうすぐ完結しますので、もう少々お付き合い下さいませm(_ _)m
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