頼久はパチリと目を開けた。
いつもと同じ朝だ。
腕の中には温かい人のぬくもり。
見ればもちろん、そこにあるのは愛しい妻の小さな体だ。
すりっと頼久の胸に顔をうずめて幸せそうに眠っている。
頼久はその寝顔を見て口元をほころばせた。
夜、眠っている間にあかねを失う夢を何度か見たことがある。
今は腕の中ですやすやと眠っている最愛の妻が実はこの京に残らず、異界へ帰ってしまっていたという夢だ。
そんな夢を見なくなったのは、こうして妻が腕の中で眠ってくれるようになってからだった。
ただし、夏場の暑い時も、褥を別にしていても頼久は必ず眠っている間に妻を抱きしめてしまうので、妻にとってはなかなか夏の夜は過ごしづらいことになっているらしい。
それでも、頼久が妻を抱いて眠らなければ眠れないといえば、妻は苦笑しながら一緒に眠ってくれる。
まだ春を迎えたばかりの京は少しばかり寒くて、今は妻の方から率先して一緒に眠ってくれる時期だ。
もう少し暑くなったら妻をかき抱かずに朝を迎える努力をしなくては。
そんなことを思いながら、頼久は妻の肩を抱いている腕に軽く力を込めた。
やわらかくて小さな体はどんな時もいとおしい。
この細い肩に京の未来がかかっていたのかと思うとそんな愛しさは更に増した。
頼久が腕に力を込めると、あかねは小さく息を吐いて、更に頼久にすりすりとすり寄った。
目を覚ましてはいない。
無意識のうちに頼久にすり寄って眠るあかねはことのほか愛らしくて、頼久はしばらくそのままでいることにした。
妻の寝顔が愛らしいのは毎朝のことなのだが、どうしてか今日は手放す気になれない。
本来なら早く起きて剣の鍛錬を始めるところなのだが…
あかねの髪は出会った頃からみるとずいぶんと長くのびていて、さらりと流れるその髪を頼久は優しくなでた。
その寝顔はとても幸せそうだが、果たして妻は本当に今幸福だろうか?
何かつらいことはないだろうか?
苦労していることは?寂しい時は?
愛しい寝顔を見ているとそんな想いが頼久の脳裏をよぎった。
八葉として選ばれた男達の中でも自分は決して身分が高い方ではなかったし、女性の扱いに慣れていたわけでもない。
だから、妻がどうして自分を選び、生まれ育った世界を捨ててまでこの京に残ってくれたのか、頼久は今でも疑問に思うことがあるのだ。
そんなことを口に出そうものなら、あかねは必死になって頼久がどれほどステキな人かを力説してくれるのだが、頼久自身はあかねが言うように自分が優れているとは到底思えない。
だからこそ、妻となってくれたことが奇跡のような天女に一つでも不幸が降りかかることは許せない。
何一つ不自由なく、いつも幸福で、笑顔で、満たされていてほしいと願う。
もちろん、そんなことは不可能なのかもしれないが、できうる限りのことをしたいと思うのだ。
ということを話すと妻はいつも、もう幸せですよと言って笑ってくれる。
それでも頼久はまだまだと自分を戒めずにはいられない。
あの、女性ならば誰でも喜んで局に招くといわれていた橘少将友雅の誘いさえもはねつけて自分を選んでくれた人だ。
どれほど大切にしてもしすぎるということはない、そう思っている。
毎日同じように眠って同じように朝を迎えているのに、今日ばかりはそんな想いが溢れて、頼久は思わず両腕であかねを抱きしめた。
「あなたの幸福のためでしたら、この頼久、どんなことも厭いません。」
「はい?」
抱きしめた腕に力が入りすぎたものか、頼久が慌てて力を緩めると腕の中であかねが自分を見上げていた。
その目は目覚めたばかりでまだ眠そうだ。
「申し訳ありません、神子殿の眠りを妨げてしまったようで…。」
「もぅ、また頼久さんは…いつも起こしてくださいって言ってるじゃないですか…それに今の、なんですか?」
「は?」
「どんなことも厭いませんとかなんとか…。」
「ああ、それは、神子殿の幸福のためでしたら、私はどのようなことでも致しますと、そう……。」
「もぅ、だから、頼久さんはまだそういうことを……。」
「夫らしくはありませんか?」
「ありません、従者みたいです。」
「そうでしょうか…妻の幸福のために一身を投げ打つのは夫の役目と存じますが…。」
「うっ…。」
言われてみればその通りのような気がして、あかねは言葉に詰まった。
見れば頼久は幸せそうに微笑んでいる。
「わ、わかりました、私だって負けないんですから。」
「は?」
「妻の幸せのために頑張るのが夫の役目なら、夫の幸せのために頑張るのが妻の役目ですからね。私だって負けないくらい頼久さんのために頑張るんですから。」
「神子殿…。」
真っ赤な顔でそう言って起き上がるあかねを、追いかけるようにして起きた頼久が抱きしめた。
「よ、頼久さん!朝です!」
「はい。」
「はいじゃなくて!離してください!」
「どうしても、離さなくてはいけませんか?」
「だ、だって、朝ですよ、鍛錬とかしないと…。」
「鍛錬の刻限は過ぎました。」
「だ、だめじゃないですか!」
「いえ、その分、本日は武士溜まりの方で鍛錬に励むことに致します。ですから、もうしばしこのまま。」
「もぅ、頼久さんは……。」
頼久の腕の中で顔を真っ赤に染めながら、それでもあかねの腕が頼久の背に回された。
小さな体が抱きついてくるのを感じて、頼久の顔に笑みが浮かぶ。
もうすっかり時は過ぎて、そろそろ女房達があかねの身支度をしにやってくるだろう。
それまでのわずかの間だ。
そのあとはもう頼久は仕事に出なくてはならず、愛しい妻とは一日離れることになる。
そう思えば頼久のあかねを抱く腕には自然と力が入った。
「頼久さん。」
「はい、なんでしょうか?」
小さな愛らしい声で名を呼ばれて、頼久はあかねを抱きしめたままその耳元で返事をする。
するとあかねはうなじまで真っ赤に染めて更に頼久にギュッと抱きついた。
「だ、大好きです。」
「はい、私もお慕いしております、み……あかね。」
あかねがぱっと体を離して、目を丸く見開いて頼久を見つめた。
名前で呼ばれた、しかも「殿」ぬきで。
これはあかねにとっては天変地異というほどの出来事だ。
「お嫌でしたか?」
悲しげにそう問われて、あかねはブンブンと音が聞こえそうなほど首を横に振った。
「すっごく嬉しいです!」
大声でそう言ってあかねは頼久の首に抱きついた。
そうすれば頼久は優しくあかねの小さな体を受け止める。
なんだか幸せだなぁ。
あかねがそんなふうに心の中でつぶやいていると、衣擦れの音が聞こえてきた。
「あ、女房さん達が来ちゃった。」
「そのようですね。」
「頼久さん、今日は帰り早いですか?」
「特に面倒事は起きていませんので、早く帰れると思いますが…万が一遅くなる場合は文を出します。」
「はい。早く帰れたら、たくさんお話ししましょうね。」
「御意。」
頼久はそう言って立ち上がった。
着替えて身支度を整えなくてはならない。
そのために局を一度出るのだが、その一時さえ惜しくて、さきほどまでかき抱いていた妻を振り返る。
そこには幸せそうなあかねの笑みがあって、頼久はその顔に微笑を浮かべるとあかねの局を出た。
入れ替わりにあかね付きの女房達が局に入る。
身支度を終えたらすぐに朝餉でまた顔をあわせることになるというのに、頼久は後ろ髪引かれる思いで歩き出した。
今日は本当に早く帰ろう。
そして妻が望むようになるべく長い時間を妻の傍らで過ごすのだ。
頼久は一人、そう心の中で誓っていた。
あかねが妻となってくれてから、毎日が幸福で眩暈がするほどなのだが、今朝はいつもにもまして幸福だった。
だから、頼久は満面の笑みを浮かべて屋敷を出たし、武士溜まりで一通りの仕事をしている間も何一つ不安はなかった。
急に左大臣の警護が入って帰りが遅くならざるを得ない事態に陥っても、頼久は特に気にもしていなかった。
遅くなるようなら文を出す、そう妻には話してある。
だから、遅くなるとわかった時点ですぐに丁寧にその旨を文にしたためた。
読み書きの苦手な妻のために一文字一文字を読みやすいように綴って、信用のおける者に使いを頼んだ。
あかねの可愛らしい文字で承知した旨の綴られた文がすぐに返って来たから、頼久はそれを懐に抱いて左大臣の警護についた。
そうすれば少しはあかねの気配を感じられるような気がしたし、何より、万が一、賊の相手をするようなことになっても、あかねの文が自分を守ってくれるような気がしたのだ。
頼久はあかねの文を胸に、突然発生した左大臣の警護を真剣にこなしたのだった。
頼久は家路を急いでいた。
突然入った左大臣の警護は内裏まで送っていっただけですんだので、思いのほか早く解放されたのだ。
というのも、新妻大事の若棟梁のことを思って部下達が帰りの警護を請け負ってくれたおかげだ。
頼久は仲間の武士に感謝しながら夜道を急いだ。
まだ陽は落ちたばかりだから、急いで帰ればあかねと夕餉がともにとれるはずだ。
帰りはかなり遅くなると文に書いておいたからきっと驚きながらも喜んでくれるだろう。
あかねの喜ぶ顔を見るのは何より嬉しい。
もちろん、頼久が帰ればあかねはそれだけでも晴れやかな笑顔で迎えてくれるのだが、驚きながらも花の咲いたような笑顔で迎えてくれる妻の姿は想像するだけで愛らしくて、頼久の顔には自然と笑みが浮かんだ。
武士団の古参に言わせると、頼久がそのような顔をするのは奇跡に等しいらしいが、ここのところはあかねの話となるとこの顔をするものだから、すっかり武士団の者達にもおなじみとなった。
頼久はいつの間にか軽く駆け足で屋敷の門をくぐると、すぐに庭に回った。
あかねはよくそこで庭を眺めたり、夜空を眺めたりしていることがある。
特に頼久がいない間はそうやって頼久のことを想ってくれているようで、そんなあかねを見るのも幸せで、頼久は毎日庭へ回って帰ることにしているのだが、残念ながら縁にあかねの姿はなかった。
時間が時間なだけにもう自分の局で夕餉をとっているのかとあかねの局へ回ってみるが、しんと静まり返っていて気配がない。
頼久は小首を傾げながら屋敷の奥へ入った。
「お帰りなさいませ。」
あかね付の女房がそう言って頼久に頭を下げる。
頼久は辺りを見回してあかねの姿がないのを確認してから口を開いた。
「神子殿はどちらだ?」
「はい、ご自身の局においでかと…。」
「いなかったのだが…。」
「まぁ、ではどちらにいらっしゃるのでしょう。」
どうやら女房はあかねの居所を知らないらしいので、頼久はもういいと軽く手を振り、そのまま更に屋敷の奥へと入った。
あと、あかねがいるとしたら、鷹通から山のように贈られた本に埋もれて勉強をしているか、厨で夕餉の支度を手伝っているか…
頼久はあらゆる可能性を考えながら屋敷の中を歩いて回る。
書物が置いてある部屋は人の気配さえしなかった。
あかねのことだから勉強をしているうちにうたた寝でもしているのかと期待していたのだが、違っていた。
うたた寝していたなら横抱きに抱いて局まで運べたものをと少しばかり残念に思いながら頼久が次に向かったのは楽器の詰め込んである部屋だ。
永泉から贈られた楽器が詰め込まれているその部屋では、あかねがたまに琴以外の楽器に挑戦していることがある。
だが、ここもやはり無人だった。
これはもう間違いなく厨で料理をしているのだろうと頼久は足早に厨へ向かった。
この時点で、頼久の脳裏にはかすかに不安がよぎった。
この屋敷は確かに広いが、こんなにもあかねの姿が見当たらなかったのは初めてのことだ。
厨へ足を踏み入れて、忙しく働く使用人達を眺めて、そして頼久は駆け出した。
厨にもあかねの姿がない。
もう一度、書物や楽器の詰め込まれている部屋を確認して、今はあまり使っていない部屋も全て見て回り、最後にあかねの局へ駆け込んだ。
そこは、無人。
暗く静かな空間が広がるだけだ。
間違いない。
あかねはこの屋敷の中にはいない。
では、藤姫の所にでも行ったのだろうか?
いや、自分は今、その土御門邸から帰ってきたのだ。
あかねが来ている様子はなかった。
では急用で元は八葉の仲間のところへでも行ったのだろうか?
以前ならまだしも、頼久の妻となってから頼久に無断で外出したことはまずない。
喧嘩して飛び出していったというのならまだしも、今朝はいつになく仲睦まじかったはずだ。
頼久は懐に抱えていたあかねの文を取り出した。
文字を目で追えば、頼久の身を気遣う言葉が連ねられている。
自分はあかねに見限られて、あかねはもといた異界へ帰っていったとでもいうのだろうか?
昔見たあの夢のように、もしや、あかねを妻としたという事実自体が自分の妄想だったのだろうか?
頼久の顔色が一瞬にして青くなる。
いや、この文がある、そんなわけはない。
そう頼久が心の中で不穏な予測を打ち消したその時…
「おや、頼久。」
「友雅、殿。」
青い顔で視線を上げた頼久の目に、いつもながらあでやかな出で立ちの友雅の姿が写った。
手に小さな箱を持っている友雅は、頼久の様子を一見して目を丸くした。
「どうしたんだい?顔色が悪い。」
「友雅殿、神子殿はそちらには…。」
「神子殿?いや来ていないよ。というか、来るわけがない。私が藤姫に頼まれて届け物をするから待っていてほしいと使いを出したからね。いないのかい?」
「……。」
頼久の背筋に寒気が走った。
と同時に友雅の顔に真剣な表情が浮かぶ。
友雅が訪ねてくるとわかっているのに、誰にも断らずに出かける。
あかねに限ってそれは有り得ない。
あかねからの文を持つ頼久の手が小刻みに震え始めた。
「よく探したかい?白雪が可愛らしい悪戯で隠れているということはないのかい?」
「……探しはしましたが……わかりません…。」
真っ青な顔で立ち尽くす頼久を横目で見ながら、友雅は屋敷の女房を呼び出すとあかねを探してくるように言いつけた。
あかねの可愛らしい悪戯なら同じ女性の女房達がすぐに見つけて連れてきてくれるだろう。
だが、その可能性はかなり薄いと友雅は予想していた。
何故なら、そんな悪戯をしようものならあかねが大事に想っている夫は自分の命を絶つのではないかというほど絶望するとわかっているはずだからだ。
実際、友雅の目の前にいる頼久の動揺はかなりのものだった。
「頼久、しっかりするのだ。まだ、神子殿がいなくなったと決まったわけではない。」
「……はい…。」
友雅はかろうじて反応はするものの、すっかり顔を真っ青にしている頼久は使い物にならないと判断して、自分の独断で何人かの使いを出した。
一人はイノリの元へ、もう一人は鷹通、更に泰明と永泉の元にも使いを出した。
もちろん、あかねが訪ねているかどうかを確認するための使いだ。
ただあかねからの文を握って震え続ける頼久と、珍しくいらいらと庭を歩き回る友雅、二人が無言で過ごした時間は永遠にも思えた。
そんな永遠の時の流れを破ったのは駆けつけた女房の悲鳴に近い声だった。
「少将様、神子様が…神子様がどこにもいらっしゃいません!」
友雅がちっと舌を鳴らして頼久を見る。
頼久が真っ青な顔でその場に片膝をついた。
「友雅殿、神子殿がきていないか?とはいったい何事ですか…。」
「なんだよあかねならオレのところにも来てねーぞ。」
ちょうど頼久が膝をついた次の瞬間、鷹通とイノリが飛び込んできた。
二人とも、とるものもとりあえず駆けてきたらしく、息を切らせている。
「ま、まさか、神子の行方が知れぬのですか?」
事情を説明しようとしたところに永泉も駆けつけた。
こちらも法親王であるにもかかわらずどうやら走ってきたようで、息が切れている。
残るは泰明のみ。
友雅は小さく溜め息をついた。
これは、一大事かもしれない。
友雅がそう胸の内でつぶやいた刹那、使いの一人が息を切らせながら帰ってきた。
「安倍泰明様ご不在にて、晴明様に伺って参りました。神子様はいらっしゃらないとのことです。」
使いの知らせを聞いて一同は息を呑んだ。
これであかねの居場所は完全にわからないということになったのだ。
そして、頼久は、使いの言葉を聞いて息を飲み、次の瞬間、立ち上がるが早いか駆け出した。
すぐに門の外へ飛び出そうとするのを友雅が腕をつかんで止める。
抗議しようとして振り返って、頼久はそのまま黙り込んだ。
友雅がどうして己を止めたのかはわかっているのだ。
何も手がかりがないまま闇雲に走ってもあかねが見つかるわけはない。
情報を集め、策を立てる必要がある。
わかっているが、いても立ってもいられない。
頼久の脳裏には朝のあかねの笑顔が焼きついていた。
あかねは今、どこでどうしているのかと思えば身が焼かれるような思いだ。
「ここは焦ってもしかたがない。神子殿とてもう子供ではないんだ。」
「しかし、あのお心優しき神子に限って黙って屋敷を開け、頼久に心痛をかけるなどということがありましょうか…。」
友雅の言葉に永泉が不安げな声をあげた。
永泉のいうことはもっともだ。
誰もがそう思っている。
だからこそ、この場にいる誰もがとんでもないことが起きている。
そう確信していた。
第三話へ
管理人のひとりごと
少しは進んだ、かな?(’’)
ここからしばらくしんどいシーンが続くと管理人にはわかっているので、最初はあま〜い感じにしてみました♪
たまには頼久さんにもおいしい目にあってもらいたい(’’)
まぁ、ここまでくればわかると思いますが、今回はあかねちゃん誘拐事件発生!の巻でございます(w
ここから先は慌てる八葉、もとい、慌てる頼久さんをお楽しみ頂ければ(’’)(コラ
読者様にもここからはちょっと、くら〜いシーンが続くやもしれませんが、死人が出たりはしない…と思う(’’)(マテ
ので、また〜りお付き合いくださいませm(_ _)m
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