雲井の余所 第七話
 あかねは頼久と長電話をしたあの日から三日、今までにないほど穏やかな生活を送っていた。

 ちょっとした長電話一本でこんなに変わるなんて現金だと自分でも思うけれど、それはそれ、現実なのだからしかたがない。

 頼久からは毎晩電話がちゃんとかかって来ているけれど、あれからはあまり長電話はしないようにしている。

 もちろん国際電話で長電話なんてもったいないというのが理由の一つ。

 もう一つは頼久に負担をかけたくないからだ。

 もともと話をすることが苦手な人に毎晩長電話をしてくれというのは酷というものだろう。

 当然のように頼久は何を話そうかメモまでとって電話の前にのぞんでいたらしいのだけれど、あかねはもう大丈夫だからとこの三日は短いあいさつを交わしただけで電話を切っていた。

 元気そうな声を聞いておやすみなさいと言うだけで、一日の寂しい思いが薄らいだのは本当のことで、おかげで今日も朝からしっかり授業が頭に入った。

 そうして少しずつ、あかねがいつもの調子を取り戻しつつあった晴れた午後。

 あかねは友人からの誘いの言葉で、あることを思い出してしまった。

 ゴールデンウィークにどこかへ遊びにいかない?

 それは友人にとっては何気ない誘いだったのだろう。

 けれど、その一言であかねは明日からゴールデンウィークに突入することを思い出してしまった。

 本当なら、頼久と二人、ゆっくり過ごせるはずだった連休だ。

 もしかしたら泊りの旅行という可能性だってあったかもしれない。

 けれど、今のあかねにとってその連休は苦痛以外の何物でもなかった。

 先約があるからと友人の誘いを断ると彼氏がいたんだったねと苦笑されてしまった。

 確かにいるのだけれど、その彼氏には会うこともできない。

 友人に言われた何気ない一言さえつらくなって、あかねはカバンを手に教室を出た。

 教室にとどまっていると次から次へと誘いが来そうだったけれど、もちろん連休は何をする気にもなれない。

 連休をどう過ごすか、考えてみれば答えはすぐに出た。

 どこへ行ってもきっと思い出すのは会えない人のことだけ。

 だったら、一人で図書館にこもって勉強でもしているのがいい。

 天真や蘭なら色々と愚痴も聞いてくれるだろうし、付き合って一緒にいてくれたりもするだろう。

 けれど、そんな二人と一緒にいてもやっぱり頼久のことばかり考えてしまうのは間違いない。

 ならいっそのこと一人でいるのがいい。

 そう思った。

 だからあかねは教室を出るとすぐに図書館へとその足を向けた。

 連休中はきっと晴れているんだろうなと思わせる快晴の空。

 その下を歩いていくと、図書館の前であかねを迎えた人物がいた。

 庇の下で壁にもたれて立っていたその人物は、あかねの姿を見つけるとにっこり微笑んで軽く手を上げた。

「頼定さん…。」

「やっぱりきましたね。ゴールデンウィーク中、通うつもりじゃないかなと思って。」

「はい、そのつもりですけど、頼定さんも勉強ですか?」

「待ってたんですよ、元宮さんを。」

「はい?私をですか?」

「ええ、たぶん斉藤教授の講義ではゴールデンウィーク明けにレポートの提出が求められるはずだから、その勉強をゴールデンウィーク中にできた方がいいかなと思ったもので。」

「すみません、わざわざ。」

「いや、俺もゴールデンウィーク中はどこへ行く予定もないので。」

 笑顔は全く別のもの。

 けれど、耳に届くのは大好きな人と同じ声。

 その声を聞いているだけでなんだか悲しくなって、あかねは思うようには笑うことができなかった。

 すると頼定はあかねの手を取って図書館を背に歩き出した。

「あの、頼定ださん?」

「この前、おごってくれると言っていたでしょう?」

「あ、はい。」

「まだ有効なら、今日の昼ご飯をおごってもらおうかと。」

「まだ食べてないんですか?」

「ええ、なので学食のカレーをおごってください。」

「そんな安いのでいいんですか?」

「ええ、カレー、大好物なので。」

「わかりました。」

 答えながらあかねは好物は違うんだなと心の中でつぶやいていた。

 頼久が好きなのは肉じゃがとか焼き魚、それに大根の煮つけなどなど…

 和食のメニューがーほとんどだ。

 もちろん、あかねが作ったとなれば洋食だろうが中華だろうがおいしそうに食べてくれるけれど。

「今年は連休がつながってずいぶん長くなりますね。」

「そう、ですね…。」

 頼定に言われるまでもなく、あかねはその長い連休を利用して頼久と初の旅行へ行こうと思っていたのだ。

 だから連休が長いことはよくわかっている。

「恋人に会いには行かないんですか?」

「それは…。」

 もちろんそれは考えた。

 頼久のそばに一週間ほどいられるのなら、アルバイトでもなんでもして訪ねて行こうかと。

 けれど、そんなことをしたらきっと頼久はあかねにつきっきりになって観光名所を案内してくれたりするに違いない。

 当然、その間は全く仕事にならないだろう。

 それではまるっきりあかねは邪魔ものでしかないし、その分、結局は帰ってくる時期が遅くなってしまう。

 あかねにとって頼久の邪魔をすることは絶対にしたくないことだったし、たとえここで一週間一緒に過ごせたとしてもその分帰りが遅くなるなら同じことになってしまう。

 なら、頼久の邪魔をせずにおとなしく連休をやり過ごそうというのがあかねの決断だった。

「…行きません。邪魔、したくないので。」

「ああ、仕事で海外でしたか…。」

「そうなんです。頼久さん優しいから、きっと私が行くと色々かまってくれると思うので…。」

「なるほど。それで図書館にこもって勉強、ですか。」

「その予定です。」

「じゃあ、俺も付き合いますよ。」

「はい?」

「勉強です。俺も調べものがあるし、ついでです。」

 あかねの脳裏に天真の顔がちらついた。

 頼定が好意で言ってくれてるのはわかるし、あかねだって別に天真が先日言っていたような意味で頼定と一緒にいるわけじゃない。

 けれど、頼久のいないところで男と二人でいるというのは確かにあまりよくないのかもしれないとも思い始めていた。

 実際、天真は何やら誤解しかけたようだったから。

「迷惑、ですか?」

「そんなことないです。頼定さんの方こそ迷惑じゃないですか?」

「全く。」

 そう言って爽やかな微笑を浮かべる頼定とあかねはガラガラにすいている学食の一画に陣取った。

 席を取ってすぐにあかねが食券を買って頼定が持ち込んだのは宣言通りカレーだった。

 昼食にしては少々遅れ気味のカレーを食べている頼定の顔から機嫌のよさそうな笑みが消えることはない。

「そうだ、この前は友達が変なこと言ってすみませんでした。」

「ああ、あの『真の友』君、気にしてませんから大丈夫ですよ。」

 真の友を強調した頼定はよほど面白いのかくすっと笑みを漏らした。

 確かに親友ならともかく真の友という表現を使う人はいないだろうなと思うと、あかねの顔にも苦笑が浮かんだ。

「元宮さんはいい友人をお持ちですね。あんなふうに友人のために懸命になってくれる人間はそうはいませんよ。」

「はい、すごく大切な友達です。たぶん頼久さんにとっても。」

「ああ、そうでしょうね、真の友というくらいですから。」

 まあ、真の友になったのには色々と経緯があって、命がけの戦いがあったりしたからなのだけれど…

 あかねはそんなことを考えながら苦笑するしかなかった。

 いくら頼定が良い人だからといって、京での出来事を説明したりはとうていできない。

「俺にも彼みたいな親友がいたらもう少し…。」

「もう少し?」

 カレーのスプーンを手に言いよどんだ頼定は一瞬曇らせたその笑顔を元に戻してあかねをじっと正面から見つめた。

 正面からしっかり見れば見るほど頼久だは頼久とは似ても似つかない顔をしていて、そのせいであかねはついつい頼定の顔を凝視してしまった。

「もう少し楽しかったかなと思いますね。」

 少しだけ寂しそうな頼定の笑顔が気になって、あかねは口を開きかけたけれど、頼定が鞄の中から一冊の本を取り出してあかねに差し出したものだから、あかねの口は自然と閉じられてしまった。

 そして差し出された本を受け取って小首をかしげる。

「あの…。」

「それ一冊読んでおくとレポートが楽なので、どうぞ。俺が去年使ったものですけど。」

「ありがとうございます。えっと、いつまでにお返しすればいいですか?」

「差し上げますよ。俺はもう使いませんし。」

「でも…。」

「終わってしまった授業の資料を持っていても邪魔になるだけですし、古本屋に売ってもその手の本は二束三文なんですよ。邪魔じゃなければ受け取ってください。」

「邪魔なんかじゃないです!ありがとうございます、一生懸命勉強します。」」

「それは疑ってませんよ。元宮さんくらい勉強熱心な大学生は日本中探しても他にいないと思いますね。」

 頼定はこんどこそからりとした笑顔を浮かべてそう言い切ると、カレーを口にした。

 あかねは本を開いて目次に目を通す。

 確かにその本は今受けている授業の参考になりそうな内容だ。

「恋人が帰ってくるのはいつ頃なんですか?」

 カレーを食べながらの頼定の問いに、あかねは開いていた本を閉じた。

 本当なら指折り数えてその日を待ちたいところだけれど、頼久が帰ってくる日は確定していない。

 だから、はっきりとは言えないけれど、だいたいならわかっている。

 出発の日から二か月。

 大雑把に計算してもまだ一月以上は優に残っている計算だ。

「その…まだ一か月以上は……。」

「それはまた、長いですね…。」

「はい、長いです…。」

 尋ねられて計算して、その長さを口に出して、あかねは深いため息をついてしまった。

 そう、まだ一か月以上残っているのだ。

 最近少しばかり長電話をして機嫌をよくしていただけに、この現実はあかねには重かった。

 うつむいて頼定からもらった本の表紙をじっと見つめて、あかねは残り一か月以上という現実をかみしめていた。

 我に返ったのはカタリという音が聞こえたから。

 慌てて視線を上げれば、その音は頼定がカレーを食べ終わり、スプーンを置いた音だった。

「あ、ごめんなさい、私…。」

「食事も終わりましたし、よければこれから図書館に戻りませんか?」

「はい?」

「それと一緒に読んでおくといい本があるんですが、俺は持っていないんで、図書館で探しましょう。」

「でも…。」

「俺の心配ならいりません。元宮さんの勉強を手伝うつもりで待ってたんですから。」

 そういって頼定は空になった食器を手に立ち上がった。

 そうなるともうあかねも一緒に席を立つしかない。

 頼定は食器を片づけると、穏やかな笑みで歩き出した。

 歩調はあかねに合わせてゆっくりと、つかず離れずの距離を保って気遣いながら歩いてくれている。

 そういう気遣いも頼久によく似ていて、あかねはどうしても下がる視線を上げられなかった。

「俺がこういうことを言うのはなんというか、出すぎているというか…。」

「はい?」

「余計なお世話かもしれませんが……元宮さんは恋人がいなくて寂しいから勉強に集中して紛らわそうとしてますよね。」

「はい…すみません、勉強をする動機が不純で…。」

「いや、勉強をする理由は人それぞれで、別にそれはいいんですが…。」

 てっきり学問に対する姿勢について注意されるのだと思っていたあかねは、足を止めた頼定の横顔を見つめた。

 頼定の方はというといつになく寂しげな顔であかねの方へ振り返った。

「勉強で紛らわすのもまあ、方法の一つだとは思います。ですが、それがこれから先、まだ一か月以上も続くとなると話は別です。」

「……。」

「一瞬のことだとか、元宮さんが別に平気だという人なら問題はないと思いますが、そうではないでしょう。」

「…ないです…。」

「なら、もう少し、なんていうかな…相手に甘えて自分がどうしたいのかを伝えた方がいいと思います。」

「でも…その……そういうわがままはどうかなって思って…頼久さんは立派な大人だから、足手まといにはなりたくなくて…。」

「この前の彼の真の友なら、あなたのそういう部分を足手まといだと思うような人物ではないような気がしますが…。」

 頼定の言葉に、あかねは何も言えなかった。

 確かにそうだ。

 たとえばあかねが今すぐ会いたいと駄々をこねれば頼久はすぐに会いに来てくれるだろう。

 仕事を放り出して、誰に迷惑がかかろうとあかねの希望を叶えてくれるはずだ。

 そしてそのことであかねのことを迷惑だの足手まといだのとは絶対に言わない。

 言わないし思いもしないだろうけれど、それと実際に足手まといになっているかどうかは別問題だ。

 足手まといになりたくないということさえ自分のわがままのような気がしてきて、あかねの視線は再び地面へと注がれた。

「こういうことを俺が言うのは出すぎてるとは思うんですが、元宮さんはかなり無理をしているように見えるので。そういう無理はよくないと思うので。」

 その姿を見なければ頼久とそっくり同じその声で頼定に優しく言われると、あかねの目には自然と涙が浮かんだ。

 無理をしている。

 頼久と同じ声で言われて、あかねは自分が無理をしていると改めて自覚してしまった。

 そう、頼久が旅立ってから無理をしていない時間なんて一秒だってなかった。

 二度と会えないわけじゃない、二か月の辛抱だとわかっていてもつらかった。

 永遠に会えないわけではないけれど、それでもやっぱり会えないのは寂しい。

 それを口に出さずに我慢していただけだ。

「無理はよくないですから。でも、それでもどうしても恋人にわがままを言わずに黙って過ごしたいということなら、少しなら俺が手伝います。」

 あかねの涙に潤んだ目が頼定をとらえた。

 そこにはどこか遠い青空のような笑みが浮かんでいる。

「ただし、俺なんかの手伝いじゃなんの気晴らしにもならないくらいつらくなったら、その時はもう我慢せずに恋人にちゃんと話をしてください。いいですか?」

「…あの…。」

「はい?」

「頼定さんはどうしてそんなに私に親切にしてくれるんですか?」

 普通、あったばかりの女の子相手にこんなに親切にしてくれるものだろうか?

 さすがにここにきてあかねもそこに疑問を感じた。

 別に頼定の善意を疑ったわけじゃない。

 そうではなくて、ここまでしてくれるには何か理由があるんじゃないかと思った。

 たとえば、実は頼久の記憶にはないところで頼久の知人であったとか。

 頼久は京からこちらへ飛ばされてきた人だから、その記憶も京での生活の分とこちらでの生活の分、二つ持ち合わせている。

 混乱した中で欠落した記憶の中に頼定がいて、頼定だけは頼久を覚えていたとか。

 あかねはそんなことを予想したのだけれど、頼定は蒼天のような笑みを寂しげに翳らせて小さく息を吐いた。

「まぁ、不自然ですかね。」

「あの、その…疑っているとかじゃなくてですね…。」

「別に他意はないので。真の友君が言うような下心を持っているつもりもありません。そこは心配しないでください。」

「そ、そんなこと疑ってません!」

「俺がやりたいことをやっている、それだけのことです。迷惑だったらそう言ってください。」

「迷惑なんかじゃないです!ものすごく助かってます!」

「よかった。それじゃあ、もう少し手伝いますから、図書館へ急ぎましょう。閉館までに色々資料も集めたいので。俺の分もね。」

「あ、はい!」

 そうだった、この人も学生だったと思い出してあかねは慌てて歩き出した。

 頼定が嘘をついているとは思えない。

 その善意は本物だ。

 京で悪意と善意の両方を数えきれないほど浴びてきたあかねには肌で頼定から善意を感じ取ることができた。

 けれど、どうしてそんなに自分に良くしてくれるのかはやっぱりわからなくて…

 あかねは図書館へ行く間も、図書館に到着してからもずっと、ちらちらと頼定の表情を盗み見ずにはいられなかった。

 善意を疑っているわけじゃない。

 ただ、どうして親切にしてくれるのか?と問いかけた時の頼定の寂しげな微笑があかねの心の奥に小さな棘のように刺さって消えなかった。



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管理人のひとりごと

第七話終了でございます♪
なんでこんな話になってるんだろう?(’’)(マテ
頼定さんに事情説明させる気はなかったんだけどなぁ(オイ
あ、設定はありますよ(笑)
一応今のところ全10話で完結の予定となっております。
第七話を終了した時点で見えました(笑)
あとシーンが多くても三つだろうと思うので。
二つになるかもしれないけど(’’)(コラ
どちらにせよ、物語の終わりまではもう少々お付き合い頂くことになるかと思います。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m










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