あかねは一人、大量のプリントを抱えて中庭を歩いていた。
あかね、天真、蘭が通う大学はそこそこ大きな大学で、立派な中庭がいくつか備えられている。
今は講義を受けている学生が多いのか、中庭にはほとんど学生の姿が見当たらなかった。
そこをあかねはプリントを抱えて横断中だ。
何故かといわれれば、選択した講義で使用するプリントが一度に大量に配布されたから。
これからそれを図書館で整理して資料の一つも確認しようかと、近道を選択した結果が中庭横断だった。
春の陽が降り注ぐ中庭はとても心地が良くて、あかねの視線を少しだけ上向かせた。
蘭や天真と参加したコンパから一週間。
あかねは大学と自宅を往復するだけの生活を送っていた。
あんな事件があった後では他のコンパに出席する気にはなれなかったし、もともとサークルに入るつもりもない。
となると学校で勉強をする他は自宅に直行するしかなく、あんな事件の後では蘭や天真が遊びに誘ってくることもなくて、結局、大学と自宅を往復して過ごすことになった。
だからといってあかねは別につまらないとか、退屈だとか思ったことはない。
そんなことは思わないけれど、ただ、大学と自宅を往復しているだけだとどうしても常に頼久のことを考えてしまって、一人の夜は泣いたりもしてしまうのが悩みの種だった。
頼久は約束通り、毎日三度のメールと寝る前には必ず電話をくれた。
もちろん頼久の声を聞くことができるのはとても嬉しい。
嬉しいのだけれど、声は聞けても会うことはできないのだと思うと、電話越しに会話をしながら泣きそうになったことも一度ではなかった。
会話そのものも心から楽しんで交わすというわけにはとてもいかなくて、電話を切った後はどっと気疲れがするような有様だった。
何故なら、電話の間中、あかねは会いたいとわがままを言って泣き出しそうになる自分と戦っていなくてはならなかったから。
頼久には心配をかけないように、明るい声で他愛もない話だけをするのがあかねの精一杯だった。
そんなふうにつらい時間は永遠のようにも感じられるけれど、時間というものはあかねが意識しなくても流れているようで、大学の授業はどんどん進んでいった。
おかげでこうして大量のプリントを手に中庭を横断することになったというわけだ。
大学の授業はあかねが想像していたよりはずっと楽しかった。
受験勉強とは違う学問はあかねにはどうやら向いていたようだった。
だから、配られたプリントをもとにしっかり予習をしようと思い立って、覚えたばかりの図書館への近道を歩いていたのだが…
突然強い風が吹いて、乱れる髪を片手で押さえたそのあかねの反対の手からプリントが空へと舞い上がった。
「あ…。」
風がおさまってみればプリントはあちこちに四散してしまっていて、あかねは深い溜め息をついてからそれを一枚一枚拾い始めた。
幸い地面は濡れていないからプリントは無事だが、通行人がここを通りかかる前に全てを拾わなくては迷惑がかかってしまう。
あかねが急いでプリントを拾うことに集中していると、すっとプリントの束が目の前に差し出された。
「どうぞ。」
「頼久さ…あ…。」
かけられた声が現在電話でしか聞くことのできない恋人のものに聞こえてあかねは慌てて視線を上げた。
すると、プリントの束を差し出していたのは恋人とは似ても似つかない外見の人だった。
声だけ良く似た先日の恩人、源頼定だ。
「有り難う…ございます…。」
「どういたしまして。」
あかねはプリントを受け取りながら、目の前の笑顔をまじまじと見つめてしまった。
蘭に誘われて一緒にコンパに参加した夜。
男に絡まれて困っていたあかねを助けてくれた後、満足にお礼も言わないうちに姿を消したその人が目の前に立っていた。
「元宮さん、でしたよね。大学生だろうとは思ってましたが、ここでしたか。」
「あ、はい、今年から…。」
「なるほど。ああ、俺はここの4年なんですよ。」
「そ、そうだったんですかっ!」
ニコニコと微笑んでいる頼定を前にあかねは驚きで目を大きく見開いた。
あかねも蘭も天真も同じ大学で、近場の会場でコンパを開いたのだから同じ大学の学生とばったり出くわしていても別に不思議なことはない。
ないけれど、まさかこんなふうにもう一度会えるとは思っていなかったから、あかねは一瞬呆然と立ち尽くしてからバタバタとプリントを片付けて、頼定に深々と頭を下げた。
「はい?」
「その節は有り難うございました。」
「ああ、いえ、どういたしまして。」
丁寧にお礼を言ってあかねが顔を上げれば、そこにはやっぱりやわらかな笑顔があった。
先日、夜のネオンの下で見た顔よりは少しばかり年が若くて穏やかに見えるその姿は頼久とはやっぱり違っていたけれど、普通にステキな男性で、思わずあかねも一瞬見惚れてしまった。
「ああ、そのプリント量は斉藤教授かな。」
「あ、はい。」
「で、ここを歩いてるっていうことは図書館へ行く途中ですか?」
「はい。色々予習しておこうかなと思って…。」
「勉強熱心なんですね。今時の新入生には珍しいな。」
「いえ、その、他にやることがないと言うかなんというか…。」
「ああ、コンパであんな事件に出くわしちゃ、次のコンパっていう気にもならないでしょうしね。」
「そういうわけじゃないんですけど…。」
会えない恋人のことばかり考えていて何も手につかないのでしかたなくとりあえず勉強してますとは言えなくて、あかねは困り果てて苦笑を浮かべた。
「そういえば…。」
「はい?」
「頼久って、この前も俺のことをそう呼びましたよね。知り合いですか?」
「ああ、えっと…その……。」
好きな人、恋人、婚約者、どの表現が一番的確なんだろうと考え始めると答えが出なくて、あかねは答えに詰まってしまった。
そんなあかねを見て、頼定は優しい笑みを浮かべた。
「恋人、なのかな?」
「あ、はい、お付き合いをしている人、ですね。」
テレながらあかねが肯定すると頼定は保護者のような温かい微笑を浮かべた。
そんな雰囲気も頼久に良く似ていて、あかねが思わず視線を反らす。
「なるほど。じゃあ、俺は元宮さんの恋人に似ているんですか?」
「あ、いえ、その、外見は全然。頼久さんはもっと凄く背が高いですし、ただ、声が凄く似てて…。」
「声、ですか。」
「はい。この前も顔を見る前に声を聞いたので、本当に頼久さんかと思っちゃって。すみません。」
「いえ、かまいませんよ。そうか、声が似てたんですか。」
「あ、あと、その敬語とか…。」
「敬語?恋人は元宮さんに敬語で話すんですか?」
「はい。えっと、変わってるかもしれませんけど、それが普通で…。」
「確かに変わってるかな。」
そうは言いながらも本当におかしいと思っているというよりは、楽しい話を聞いているといった様子で頼定は微笑を絶やさない。
あかねはそんな頼定の優しさもどうしても頼久に似ているような気がしてしまって、少しずつ胸の鼓動が速くなるのを止められずにいた。
「他にも似ているところがありますか?」
「え、あ、えっと…頼久さんも剣道をやっていて、ケンカに強いのでそこが似てます。」
「ああ、なるほど。だから俺があの時、元宮さんを助けに入ったからなおさらダブって見えたのかな。」
「はい、たぶん…。」
「なんだか心ここにあらずっていう感じだったので、何かあるんだろうなとは思ってました。」
「ごめんなさい。失礼ばかりして…。」
「そんなことはありませんよ。ああ、恋人がいるならこんな所で二人きりで話しているのを見られたりしたら誤解されてしまうかな。」
「それは大丈夫です。頼久さんは今、お仕事で日本にいないので。」
「それは…寂しいですね。」
「はい…。」
少しだけ逡巡して頼定が口にした「寂しい」という言葉に、あかねは涙が出そうになった。
今まではなるべく自覚しないように、寂しいという言葉を口にしないできたのだ。
それをこんなふうに頼久にそっくりの声で言われてしまうと、寂しさがつのってしまう。
「俺でよかったら付き合いますよ。」
「はい?」
付き合うという言葉に驚いて、あかねは思わず一歩後ろへ身を引いてしまった。
突然、頼定の顔に苦笑が浮かぶ。
「ああ、えっと、付き合うというのはそうじゃなくて、俺も1年と2年は斉藤教授の授業を受けてたんで、よければ予習を手伝いますよって意味です。」
「あ、ああああああ!」
あかねは一気に顔を真っ赤にした。
とんでもない勘違いをしたのだと気付いたからだ。
そんなあかねを見ても頼定はあきれることなく、やさしい微笑を浮かべたまま歩き出した。
自然とあかねの足も動き出す。
「斉藤教授は資料もたくさん出しますし、参考文献もやたらと挙げてくるんですが、実はこれさえ読んでおけば大丈夫という一冊があるんですよ。」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、まあ、山盛りの資料は新入生に対するこけおどしってところかな。」
「そうなんですか!」
先輩らしい頼定の言葉にあかねは目を丸くした。
先ほどから話題になっている斉藤教授の授業は確かに資料が山盛りで、予習しておかないととてもではないけれどついていけないと思っていたところだった。
それがどうやら一瞬にして解決してしまいそうだ。
「少しは俺でも役に立てそうですね、よかった。」
「ありがとうございます、一生懸命勉強します。」
「今時、そんなに一生懸命勉強している学生も少ないですよ。まあ、適度に頑張ってください。」
「何かしていた方が楽なので…それに、文学をちゃんと勉強しようと思ってこの大学に入ったんです。」
「なるほど。じゃあ、他にもお手伝いできそうなところはしますよ。」
「そんな、申し訳ないです。」
「かわいい後輩のためです、それくらいはしますよ。どうやら俺とあなたは縁があるようだし。」
縁があるといわれてしまえば確かにそうなのかもしれなくて…
あかねはそれ以上頼定の申し出を断ることができなかった。
右も左もわからない大学の授業で、こんなにも先輩の助言がありがたいとは思ってもみなかった。
もちろん、断れなかった理由はそれだけじゃない。
この人の声を聞いていると、すこしだけ頼久と一緒に歩いているような気になれた。
別人だとちゃんとわかっているつもりなのに、どうしても耳に届く声から離れることができない。
「それじゃあ、お願いします。」
「任せてください。俺はこう見えて成績はそこそこいいんですよ。」
柔らかく笑う頼定に申し訳ないような後ろめたいような淀んだ想いを抱きながら、あかねは図書館へと足を踏み入れた。
静かな中に紙の鳴る音や、人の気配が満ちているそこであかねは頼定の声を小一時間ほども聞き続けるのだった。
「本当に助かります。斉藤教授の授業って資料のあそこを見ろとかていう指示が多くて…。」
「でも結局のところ、あの一冊を読んでおけばOKだったでしょう?」
「はい。おかげで楽しちゃってます。」
「それは何よりでした。」
中庭で頼定に再会してから一週間。
あかねは頼定と共に学食にいた。
食事時ではないから食堂の中はがらんとしていて、2、3人の生徒がおしゃべりをしながら座っている程度だった。
そんな中で二人は何冊かの本を挟んで向かい合って座っていた。
「あの…。」
「はい?まだわからないところがありましたか?」
「いえ、そうじゃなくて…その…なんだか色々お世話になってばかりで申し訳ないので、今日、帰りに一緒にどこかでご飯食べませんか?私、おごりますから。」
「……。」
今まで頼定の顔に浮かんでいた微笑がすっと溶けるように消えた。
そして微笑の代わりにその顔には困惑と苦悩とが入り混じった表情が浮かんだ。
気軽にOKしてもらえるだろうと思っていたあかねは驚いて目を見開いた。
そして…
「おい、マジかよ。」
「天真君、学食なんて珍しいね。」
「珍しいねってお前…。」
姿を現したのは天真だった。
その顔には呆れたといわんばかりの表情が浮かんでいる。
あかねが小首を傾げて見上げているうちに、決して上機嫌というわけではない頼定と天真の視線がぶつかった。
「お前か、あかねにちょっかい出してるって奴は。」
「天真君!ちょっかいなんか出されてないから!」
「じゃあ、何か、お前の方から声かけたとかいうんじゃねーだろーな、こんな頼久と似ても似つかない奴に。」
「天真君!頼定さんに失礼でしょ、謝って!」
「謝ってってな、俺は頼久にお前のことを頼まれてんだ!お前が他の男にかっさらわれるの黙って見てられるわけねーだろ!」
「かっさらわれるって…何言ってるの!天真君!」
「あー、ちょっと待ってもらっていいですか?」
天真とあかねが盛大に喧嘩を開始しようとしたその間に、頼定が穏やかに割って入った。
普通だったら短気な天真がこんなことでひるむことはありえなかっただろう。
けれど、頼定の声を聞いた瞬間、天真は凍りついた。
理由はあかねの勘違いと同じ。
声が真の友にそっくりだったからだ。
「おま、その声…。」
「ああ、この声が似てるんでしたね、元宮さんの恋人に。」
「こいつには頼久がいるって知っててつきまとってんのかよ。」
「つきまとってるつもりはないよ。元宮さんがいやだというのなら今すぐここから出ていくしね。」
「……。」
頼久と瓜二つの声で宣言されて天真は黙り込んだ。
声が似ているせいなのか、それとも雰囲気まで似ているからか頼定の言葉には頼久が発するのと同じほどの迫力があった。
「俺はちょっと縁があって元宮さんが同じ学部の後輩だとわかったから勉強の手伝いをしているだけだよ。で、君は元宮さんの友人かな?」
「友人だ。で、こいつの婚約者の真の友だ。」
「こ、婚約者って天真君!」
「そんなもんだろうが。あいつがもたついてプロポーズしてねーだけだろ。」
「そ、そんなのまだわかんないから。」
「俺にはわかってんだ。」
天真に宣言されてはそれ以上あかねに抵抗できるはずもなかった。
だいたい、天真が言うとおり、あかねも頼久さえいやだと言わないでくれたらお嫁さんにしてもらいたいと思っているのだから、あかねにとっては婚約者みたいなものだ。
「真の友、ね、それは親友だと思っていいかい?」
久々に真の友という単語に突っ込まれて天真の顔が一気に赤くなった。
頼久には言われるたびに恥ずかしいことを言う奴だと思っていたのに、その言葉をまさか自分が無意識のうちに口に出すとは思ってもみなかった。
「ま、まぁ、そういうことだな。」
「なるほど。それなら心配になるのはわかるが、俺には元宮さんに無理強いして何かをどうこうしようという気はないよ。ただ、彼女がちょっと…。」
「ちょっと、なんだよ。」
「そうだな、寂しそうにしていたから、少し気分を変えてあげられたらと思っただけさ。」
「そういうの下心っていうんじゃねーの。」
「天真君!もう、変なこと言わないで!この人はこの前のコンパの時に私を助けてくれた人なんだから、恩人なんだからね!」
「うぉ、マジか…。」
おののく天真にあかねは深くうなずいて見せた。
天真にとってあのコンパの一件は自分のミスだったという思いがある。
頼久からあかねを託されていたのに守りきれなかったとさえ思っている。
だから、そのミスをフォローしてもらった恩人というのが天真の中の頼定のポジションになってしまった。
そんな天真の心理を察したのか、頼定の顔に苦笑が浮かんだ。
「恩人っていうのは少し大げさかな。たまたま通りかかって、たまたま俺が合気道なんかやっていたんででしゃばったってだけのことだよ。君がその場にいたら、君が助けたんだろう?」
「いたら、な。」
憮然とした表情の天真に頼定はあの保護者のような笑みを浮かべて立ち上がった。
「誤解が解けたならそれでいいよ。元宮さん、夕飯のお誘いは今回は遠慮しておきます。彼に殴られそうなんで。」
「そ、そんなことは…。」
「そのうちここで何かおごってください。今日のところは退散しますから。」
「すみません、なんか嫌な思いさせちゃって…。」
「そんなことないですよ、気にしないでください。誤解はとけたようなんで。」
穏やかな笑みを浮かべて頼定は片手を軽く振るとあかねの前から去って行った。
その背中が扉の向こうへ消えるまで、あかねと天真は黙って見送るしかなかった。
第六話へ