雲井の余所 第二話
 頼久はその表情をこわばらせたまま、それでもあかねからは目を離さずに口を開いた。

「保留、してあります。」

「保留ですか?」

 驚いたような顔で、あかねが頼久を見つめ返す。

「はい。昨夜、電話が来たときには驚きました。神子殿が了承なさったというのはまことですか?」

「……はい、勝手に返事しちゃって…ごめんなさい。」

「彼に何か脅しでも…。」

「脅されてはないです!それはありません!」

 急に必死になったあかねに頼久は溜め息をついた。

 脅されていないというのなら、更に状況は頼久にとって悪いものとなる。

「昨夜は遅くなりましたので、すぐにお話をうかがうことは控えました。何故了承なさったのか今、お聞かせ頂けますか?」

 頼久の声がいつもよりも一段低くなった。

 その顔は苦しげに見える。

 あかねは頼久を見上げていた視線を落として小さな声で語りだした。

「私も、ゴールデンウィークは一緒に旅行したいなとか、夏休みもどこへ行こうかって楽しみにしてたんです。でも、そんなの私のわがままだし、私は大学生になりましたけど、頼久さんは社会人のままなわけだし…。」

 あかねの声は少しずつ小さくなって、その白い手は血の気がうせるくらい強く握り締められた。

「担当さんは、今回の仕事は凄く大きくて、絶対頼久さんのためにもなるって……私がそういうお仕事の邪魔をするのは嫌だったんです。だから私はかまいませんって答えました。」

 事は昨夜の電話に始まる。

 頼久におくられて帰宅したあかねは、珍しく自宅にかかってきた電話に出た。

 それは頼久が一緒に仕事をしている出版社の担当からの電話で、電話番号が自宅の方しかわからないから自宅の方にかけさせてもらったのだと最初に説明された。

 彼とは頼久に連れて行ってもらったパーティで一度会ったことがあったから、あかねも疑うことなく話を聞いた。

 すると、頼久に新しい連載の話が持ち上がっているというではないか。

 しかもそれは雑誌のメイン企画で、頼久にとっても新境地を開くことができる重要なものになるだろうという話だった。

 ただ、問題が一つだけある。

 それは頼久の能力でも、人気でも、予算でもなく、頼久本人の了承が得られないということだった。

 ずいぶん前から持ち上がっていたその話を頼久は延々と断り続けていたのだ。

 何故そんなにもかたくなに断り続けてきたのか、その理由があかねにあった。

 雑誌の連載は紀行もので、いわゆるエッセイにあたる。

 中国を旅して遣唐使の足跡をたどり、各地に実際におもむいた頼久が歴史的資料をもとに各地を訪ねた感想を原稿として起こしていく。

 それが企画の内容だった。

 つまり、頼久は実際に中国へ渡り、歴史的に意味のある場所を回らなくてはならないのだ。

 そこに頼久がかたくなにこの仕事を断った理由があった。

 そう、中国を回っている間、頼久はあかねの側を離れなくてはならない。

 それもただ離れるだけではない、海外だ。

 あかねに何か起こった時に駆けつけることはもちろんできないし、生涯あかねを守るのは自分一人と己に誓った誓いも守れなくなる。

 だから頼久は絶対に首を縦に振らなかった。

 ところが、どうしても仕事をさせたい担当は、頼久を直接説得するのは無理と判断したのか、その矛先をあかねに向けた。

 あかねは熱心な担当の説得に全てを了承してしまい、その了承を得た担当が喜び勇んで昨夜遅くに頼久に電話をかけたというわけだった。

 電話の内容は、あかねが了承したから今回の仕事を受けてほしいというものだ。

 もちろん、担当者が最初にあかねに勝手に接触したことを頼久は責めたが、責めている間にもあかねが自分がこの仕事をすることを了承したという事実におののいていた。

 自分は一時だってあかねと離れているのがつらいというのに、あかねは自分が海外へ出て行ってもかまわないと言ったというのだ。

 やはり自分があかねを想う心とあかねが自分を想う心とは隔たりがあったのかと、頼久は暗い底のない穴に突き落とされた気分だった。

 だから、担当を責める言葉も勢いがなかったのだろう。

 あっという間に話を進められて、それでもどうしても了承できなかった頼久は返事を保留したのだった。

「神子殿は彼からどれくらいの期間、私が中国へ渡るかお聞きになりましたか?」

「二ヶ月って……。」

 そこまで聞いていて了承したのかと思うと、頼久の目の前が真っ暗になった。

 海を隔てて分かれていることなど一晩だって耐え難いというのに、二ヶ月も離れているなど頼久には想像もつかない。

「…神子殿は……本当にかまわないのですか?」

「かまわなくなんかありません!かまいます!私だって頼久さんとそんなに長く会えないのは絶対嫌です!嫌ですけど…でも…頼久さんの足手まといになるのはもっと嫌です。」

「足手まといとは…。」

「お仕事の邪魔にはなりたくないんです!頼久さん前に言いましたよね、これからはいくらでも一緒にいられるんだって。今の一瞬を大切にするんじゃなくて、もっと先の日々を大切にするために今は我慢しなくちゃならないこともあるって。」

 確かにそのような内容の話をしたかもしれない。

 頼久は自分の頭の中でその記憶をたどりながら後悔していた。

 そんな話をせずに、天真が言うようにさっさとあかねを自分のものにしておけばよかったのではないだろうかと。

「頼久さんはこれからもずっとお仕事をしていくわけだし、私はそんな頼久さんとこれからもずっと一緒にいたいって思ってます。だったら、私は絶対頼久さんの邪魔になっちゃいけないし、なりたくないです。だったら、今回のお仕事も私のために断るなんて、そんなのダメです。」

 それは違う。

 あなたのために断っているわけではありません。

 そう心の中でつぶやいて、けれど頼久はそれを口には出さなかった。

 この仕事を断ったのはあかねのことを思いやったからでは決してない。

 自分があかねのそばを離れることに耐えられないと思ったからだ。

 そう言って説得すればあるいはあかねもこの仕事は断ってもいいと言ったかもしれない。

 渋々だったとしても。

 だが、それではあかねが頼久のために我慢すると言っているその気持ちが無になってしまう。

 あかねがこれからの生活のために我慢するといっているものを男の自分ができないなどと言えば、あかねに愛想をつかされそうな気さえして、頼久は一つ溜め息をついた。

 今回は頼久の完敗だった。

 担当の方が一枚上手だったのだ。

 あかねの言葉に頼久が逆らえるはずもない。

「わかりました。では、今回の仕事は引き受けることに致します。」

「よかった……。」

 よくなどない。

 頼久にとってはいいことなど一つもない。

 仕事なら現状で全く問題がなかったし、頼久にとっては何よりあかねが一番だ。

 あかねと会う時間を削ってまで多くの仕事をとってきて名を売りたいなどとは思ってもみなかった。

 あかねに不自由かけることなく、普通に生活できればそれでいい。

 実際のところ、頼久の仕事はおそらくは順調すぎるほど順調で、あかねに苦労をさせるようなことはまずありえなかった。

 だからこそ、今回の仕事は無理をしてまで引き受ける必要なしと判断していたのだ。

 だが、あかねにこんなふうにほっとされては、もう頼久には仕事を引き受ける以外、できることはなかった。

「やるとすれば出発は来週になるといわれました。」

「えっ、早くないですか?」

「彼がたいそうやる気で…神子殿の了解さえとれれば私が断ることはないと思ったのでしょう。もうすっかり計画を立てているようでした。」

「そうなんだ…。」

「遅くても夏休み中には戻れると思いますが…。」

「はい……あ、そうだ、もしお仕事が長引くようなら、私が夏休みに頼久さんの所に行きます!」

 これで少しは解決とばかりにあかねは苦笑を浮かべた。

 少しも解決じゃないことはあかねだってわかっている。

 けれど、このまま暗い雰囲気でいるなんて、せっかくの二人の時間がもったいない気がした。

「ゴールデンウィークはもう日本にいないことになります。」

「はい…。」

「ですので、旅行ガイドも必要ありません。」

「そう、ですね……。」

 頼久の一言一言があかねの胸に刺さった。

 あかねだってゴールデンウィークを楽しみにしていたし、大学生になったらもっともっと頼久と二人の時間を過ごすつもりでいたのだ。

 それができなくなって悲しくないわけがない。

「ですので、今日の予定は全てキャンセルでよろしいですか?」

「…はい…いいです……。」

 落ち込むあかねの返事を聞いて、頼久が車のエンジンをかけた。

 車が丁寧な運転で走り出すのを体で感じながら、あかねはうつむいて溜め息をついた。

 勝手なことをして頼久さんは怒ってるのかもしれない。

 きっとこのまま家までおくられちゃって、今日はさようならなんだ。

 もうすぐ長いこと会えなくなるのに…

 そんなことをあかねが頭の中でぐるぐる考えていると、隣で頼久が深い溜め息をつくのが聞こえた。

「二ヶ月とは、ずいぶんと長いことお会いできなくなります。」

「はい……。」

「ですから、今日はこれから夜まで我が家で二人の時間を過ごして頂けますか?」

「……はい?」

「お嫌ですか?」

 赤信号で車が止まって、頼久の視線があかねをとらえた。

 すっかり自宅に連行されると思い込んでいたあかねは、何を言われたのかにやっと気付いて、ブンブンと音が聞こえそうなほど激しく首を横に振った。

 嫌だなんて、そんなことあるわけがない。

 二ヶ月会えなくなることを考えたら、これから出発の日までは一瞬たりとも離れたくないくらいだ。

「行きます!」

「有難うございます。」

 あかねの返事にやっと笑顔を見せた頼久は信号が青になるのと同時にゆっくりアクセルを踏み込んだ。

 車は信号を通過して頼久の家へ向かって走り出す。

 もうすぐ二ヶ月もの間会えなくなってしまう。

 そのことが重くのしかかってはいたけれど、だからこそ、今は二人の時間を大切にしよう。

 あかねと頼久は同じ想いで頼久の家へと足を踏み入れるのだった。







 頼久の旅立ちの日はあかねが思っていたよりもずっとすぐにやってきた。

 それまでに二人でやっておきたいと思ったことはいくつもあったけれど、それを全てこなすだけの時間はなかった。

 それでも頼久の荷造りを手伝って、取材スケジュールを受け取り、何度かデートをしたりもした。

 けれど、そんなことくらいであかねも頼久もこれから離れて過ごすことになる瞬間を平気な顔で迎えることなどできるはずもなかった。

 そんな二人の事情など無視して、無情にも旅立ちの日はやってきた。

 空港まで見送りに行くといったあかねの申し出を断ったのは頼久だった。

 そこであかねに泣かれたりしたら、自分は絶対に出発できないと思ったからだ。

 だから、あかねは頼久の家の前で頼久を見送ることにした。

 頼久は別れがつらくなるから見送りはいらないといっていたのだが、それはあかねの方が耐えられなかった。

 だから頼久の家の前で、いってらっしゃいと言うことにした。

 それなら空港での別れよりはましな気がした。

 けれど、実際にはましでもなんでもなかった。

 頼久が担いでいる荷物はとても大きくて、その大きさが会えない時間の長さを語っている気がした。

 しっかりと戸締りをして、玄関先で出版社がよこすはずの車を待つ間、あかねはぴったりと頼久の隣に寄り添ってうつむいていた。

 この仕事を受けて欲しいといったのは自分なのに、今にも行かないでと叫んでしまいそうな自分と戦うのが精一杯だった。

「神子殿。」

「…はい?」

「毎日必ずメールを出しますので。」

「あ、はい、私も必ずお返事出します!」

「それと、なるべく頻繁に電話もかけます。」

「それは…電話代とか高いんですから、メールでいいですよ。」

 気を使っているあかねの顔は消えてなくなりそうなほど儚い笑みを浮かべている。

 その笑みが頼久の胸をえぐった。

「…いいえ、かけます。電話代なら出版社に請求します。」

「もう、頼久さんったら、ダメですよ、そんなわがまま。」

 わざと明るく言うあかねとは逆に眉間にシワを寄せて不機嫌そうな頼久は、心の中で本当に必要経費として計上してやると心に誓っていた。

 こんな思いをさせられる代償としては安いもののはずだ。

「私は二ヶ月の間、神子殿に何かあっても駆けつけることはできなくなります。」

「そんなの!気にしないで下さい!」

「気に致します。神子殿をお守りする役目は一生誰にも譲らぬと誓った身ですので。」

「頼久さん…。」

「ですが、今回ばかりは致し方ありません。ですので、万が一、私の助けが欲しいとお思いのことがありましたら、我が友、天真を頼ってください。天真には私の代わりに神子殿を守って欲しいと頼んでありますので。」

「そんなの!こっちの世界は京と違うんですからそんなに危ないことないですし、大丈夫ですから!」

「約束、して頂けませんか?必ず天真を頼ると。」

「頼久さん?」

「他の誰でもなく、天真を頼ると約束して頂きたいのです。」

 他の誰でもなく、その言葉があかねの心にひっかかった。

 頼久の代わりなんて誰にもできるはずはないのに。

 いったい他の誰を頼るというのだろう?

 そう考えて、あかねは怒ったような眼差しで頼久を見上げた。

「私、浮気なんかしませんよ?」

「そういう意味では…。」

「そういう意味に聞こえました。」

「……それは…申し訳なく……。」

 大きな体の頼久が肩をすくめてうつむいた。

 捨てられた子犬のようになってしまった頼久に、あかねはくすっと笑みを浮かべて見せた。

 こんなふうに会話することもしばらくはお預けになるのだから、今はちゃんと笑顔を見せたかった。

「わかりました。約束します。ないとは思いますけど、何かあったら必ずまずは天真君を頼ります。」

「神子殿…有難うございます。」

 頼久は無理に微笑むあかねを腕の中に閉じ込めた。

 これで二ヶ月は触れることもかなわなくなると思うと、思わず腕に力がこもる。

 そしてあかねも。

 同じ思いを抱くあかねの細い腕も、いつもよりも強く頼久を抱き返した。

「お前らなぁ…外はやめとけ、外は。」

 呆れたような声を出したのはもちろん天真だ。

 いつも通りの格好でいつも通りの態度の天真に、抱擁を解いた頼久とあかねはやっと自然に微笑むことができた。

「たかだか二ヶ月だろう?一生会えないってわけじゃないだろうが。京とこっち、離れ離れになったかもしれないことを考えればたいしたことじゃねーだろ?」

「それはそうだけど…。」

「だいたい、中国なんざ隣だろうが。行こうと思えば飛行機であっという間だ。おおげさなんだよ、お前らは。」

「天真君には乙女心はわからないもん。」

「ヘイヘイ。」

 むくれるあかねと天真を頼久がほっとした気持ちで見比べているうちに、待っていた車がやってきた。

 黒い大きな車はその存在感だけで威圧される気がして、あっという間にあかねの顔から笑みが消えた。

「天真。」

「ん?」

「神子殿を頼む。」

「だーから、おおげさなんだっつーの。」

 呆れて頭をかきながら、それでも天真は一つうなずいた。

「りょーかい。安心して行ってこい。」

「うむ。」

 頼久は車のトランクに荷物を乗せ、自分も車に乗る前にもう一度あかねと天真の方を振り返った。

 今生の別れではないとわかっていても、あかねの姿を目に焼き付けずにはいられなかった。

「頼久さん……その……いってらっしゃい。」

「はい、行って参ります。」

 やっとの思いであかねが言おうとしていた一言を口にすると、頼久もうっすらと微笑を浮かべて車に乗り込んだ。

 ドアを閉めた車はあっという間に走り出した。

 窓を隔てて頼久とあかねが視線を交わすことができたのは一瞬。

 車はどんどん小さくなっていき、あかねが涙を流すこともできないうちに見えなくなってしまった。

「あかね、大丈夫か?」

「え、うん、大丈夫、かな。なんか思ってたよりあっけない感じ。」

「ならいいけどな。家まで送るから、今日は家に帰ってゆっくりしろ。明日、朝から講義だろう?」

「うん、そうだね。」

 気遣ってくれる天真に笑顔を見せてあかねは歩き出した。

 天真が隣を歩いてくれるのが心強い。

 気遣ってくれる天真を退屈させないように何か話をしようと思って隣を見て…

 その瞬間、あかねの目から涙がこぼれた。

「おい、あかね?」

「ごめん、ちょっと……今頃、ごめんね…。」

 隣を歩いているのが頼久ではなかった。

 ただそれだけのことであかねの涙は次から次へと止まることなくあふれ出てきた。

 その涙をどうすることもできなくて、あかねはただ泣きながら歩いた。

 そんなあかねを天真は何も言わずにただじっと見守るしかできなかった。




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管理人のひとりごと

ということで第二話でございました。
頼久さん、お仕事のため海外へ出発しました!
やっと行ったよ(’’)(マテ
これで次回からあかねちゃんと頼久さん、お互いにお互いのいない生活が始まります!
どんなふうになるんでしょうねぇ…
とりあえず二人ともやつれそうだな(’’)(コラ
頑張れ!天真君!みたいな話になるような気がしないこともない…









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