見上げる長身。
後ろで束ねられ、風に揺れる長い髪。
切れ長で鋭い眼光を宿す目。
端整な顔立ち。
自分の腕をつかむ力強くて大きな手。
眉間に寄せられたシワ。
何もかもが本物。
あかねの目の前に立っていたのは源頼久、その人だった。
夢ではないか?という思いと驚きと、どう見ても不機嫌そうに見える恋人へのおののきと…
色々な感情があまりにも突然にあかねを襲って、あかねは物を言うことも身動きすることもできなかった。
昨日、電話で話した時は間違いなく海の向こうにいたはず。
まだしばらくは仕事で日本に帰ってこれないはずの人。
けれど、あかねの腕をつかむその感覚は間違いなく本物。
あかねが目をぱちぱちさせながら身動き一つできずにいると、頼久があかねの腕を引いて歩き出した。
「へ?よ、頼久さん?」
「場所を変えます。」
ひどく不機嫌そうに聞こえるけれど、それは間違いなく頼久の声だった。
あかねは驚きからなかなか立ち直れずに頼久に腕を引かれて引きずられるように歩き出した。
まるで幽鬼のような足取りで歩きながら、自分が何か大切なことを忘れているような気がして…
あかねはハッと思い出して後ろを振り返った。
「あれ…。」
そう、今、自分は頼定と話をしていたのだった。
そのことを思い出して振り返ってみたけれど、何事かと不審に思っているだろうと予想した頼定の姿はもうどこにもなかった。
辺りを見回してもどこにも頼定の姿は見当たらない。
まるで頼久と入れ替わりに消えてしまったかのようだ。
そんなことを考えている間にあかねは頼久の車の助手席へと乗せられていた。
何がなんだかわからない。
何からどう尋ねたらいいのかも。
あかねは戸惑いながらも何度か運転する頼久の横顔を盗み見た。
以前と同じようにあかねを気遣ってか丁寧な運転で車を走らせ始めた頼久の横顔は、やっぱりどこか不機嫌そうだった。
眉間のシワは消えないし、唇もかたく引き結ばれたままだ。
京にいた頃、出会ったばかりの頼久に戻ってしまったような気さえする。
沈黙は鉛のように重くて、あかねはうつむいたまま口を開いた。
何か言わなければ沈黙に押しつぶされてしまいそうだったから。
「あの…どうしてここにいるんですか?」
「帰ってきたからです。」
即答。
ただし、声は非常に不機嫌そうだ。
「でも、その、どうして…。」
「仕事が終わったからです。」
再び即答。
もちろん、その声は不機嫌そうなままだ。
「そうなんで……はい?お仕事、終わったんですか?」
さらりと聞き流そうとしてあかねははっと隣で運転を続ける人の顔を凝視した。
相変わらず不機嫌そうで厳しい表情の横顔は変わらない。
視線はまっすぐ前を見据えていて、運転に集中したいように見える。
「終わりました。」
端的に返ってくる頼久からの返答はあかねの質問に答えてはいた。
けれど、根本的に何の解決にもならない答えばかりだ。
あかねはここで質問するのをやめた。
もともと頼久は話し上手ではない。
何か怒っているようでもあるし、これ以上ここで質問攻めにしてもきちんと会話が成立するとは思えなかった。
それに何より、あかねはこれ以上話をしていて頼久が質問の答え以外のことを口にするのが恐かった。
さっき、頼定と話をしていたのをこの恋人は目撃したはずだった。
あれは誰で、どうして二人でいて、何を話していたのか。
それを問われたら、今、その問いに対して正確な答えを返せる自信があかねにはなかった。
何を言っても言い訳になる気がした。
どんな話し方をしても後ろめたい想いが残るような気がした。
だから、あかねは口を閉ざした。
本当なら泣き出したいほどうれしい再会だったはずなのに、二人の間にある空気は緊張で張りつめたままだ。
頼久が無言で運転する車はあかねが沈黙に押し込められている間に頼久の家へと到着した。
車を止めればすぐにドアを開け、あかねの腕をとって家の中へと場所を移す。
誰が見ているかわからない路上ではできないような込み入った話をしようというのだろう。
そう思うと、これから話す話の内容が恐ろしくて、あかねはうつむいた視線を上げられないまま頼久に腕を引かれてリビングまでやってきてしまった。
何か言わなくちゃいけない。
せっかく会えたのにお帰りなさいさえまだ言っていない。
二人別れている寂しい夜、あかねは一つだけ決めていたことがあったのだ。
頼久が帰ってくる時は必ず笑顔で迎えると。
それなのに…
笑顔一つ作ることができずにあかねは微笑みたいという希望とは逆にその目に涙を浮かべた。
何をどうしたらいいのか一つもわからない。
涙をこぼすまいとあかねがとりあえず視線を上げようとしたその時、視界が一瞬にして真っ暗になった。
「へ、頼久さん?」
「神子殿…。」
腕の中に閉じ込められたのだと悟った時にはあかねの耳にかすれた頼久の声が届いていた。
そして次の瞬間、あかねの体は頼久の重さに負けて傾き始めていて…
あかねの小さな体はドサッという音と共に背後のソファの上に倒れこんでいた。
背中にはソファの柔らかい感触。
そして体の上には頼久の大きな体の重み。
視界はと言えば頼久の肩越しに天井が見えるだけだ。
何が起きたのかを一生懸命に考えて、自分が頼久に押し倒されたのだと悟って、あかねは突如としてその体をひねり始めた。
「よ、頼久さん!あの!急に、あの…。」
何を言ったらいいのかわからない。
何を言っても頼久からの反応はない。
あかねは必死に頼久の縛めから逃れようとするものの、頼久の体の重さに拘束されて、その逞しい腕でしっかりと抱きしめられていて、身動きができない。
首のあたりには頼久の吐き出す吐息を感じる。
あかねはさっと顔色を赤くしてじたばたともがき始めた。
「頼久さん!ちょっとですね!待ってください!その…いやとかじゃなくて、なんというか、その……。」
取り合えず思いつく言葉を並べてみて、あかねははっと暴れるのをやめた。
このまま頼久に抱かれるのが嫌なのかと言われればそんなことはない。
ただ、突然のことで少し慌ててしまっただけだ。
何も考えずに頼久がそんなことをするわけもない。
それだけは間違いない。
なら、ここで自分が必死に抵抗する必要もないはずだ。
このまま、離れていた時間を埋めるように頼久に抱かれてなんの不都合があるというのだろう。
あかねはこわばらせていた全身から力を抜いた。
鼓動は今までにないほど早くなっているけれど、気持ちは少しだけ落ち着いてきた。
すると、自分の上にあるその重みが愛しくて…
あかねはそっと頼久の背に腕を回すと優しく抱きついた。
「頼久さん、大好きです。」
「……。」
「頼久、さん?」
呼んでみても頼久は全く反応しない。
よくよく考えてみればあかねがこれまで散々暴れていたのに、頼久は抱きしめるばかりで全く動こうとしなかった。
なんだか様子がおかしい。
やっと冷静になったあかねが頼久の様子をじっくり観察してみれば、ソファの上に倒れこんだ時のまま、頼久は微動だにしていなかった。
しかも、あかねの首にかかる吐息はやたらと穏やかで規則的で、耳に聞こえてきたのは…
明らかにわかる安らかな寝息だった。
「よ、頼久さん?寝ちゃってるんですか?」
反応はなし。
聞こえるのは規則正しい寝息ばかり。
これは間違いなく眠っている。
しかも熟睡のようだ。
あかねはほっと安堵のため息をつくと、頼久の髪を優しくなでた。
しっかりと自分を抱きしめる2本の腕はしばらく力が緩められることはなさそうだ。
なら、この恋人の縛めから逃れることは絶対に不可能。
何より、安らかに寝息をたてて眠る恋人を起こしたくはなかった。
きっとよほど疲れているのだとわかったから。
京ではちょっとした気配の動きにさえ敏感ですぐに目を覚ましたほどの人が、こんなに前後不覚に眠り込むなんてよほどのことがあったに違いない。
だから、あかねは頼久の腕から力が抜けるまでその髪を撫で続けると決意するのだった。
トントントントン。
同じテンポで続く音。
小気味よい、木を打つようなその音に頼久は目を開けた。
最初に目に入ってきたのは見慣れた天井。
霞のかかる意識の下で音のする方へ目をやれば、そこには見たくて見たくてたまらない人の後ろ姿があった。
ああ、自分はまた夢を見ているのか。
そんなことをぼんやりと思いながら、それでも一秒でも長くその姿を目にしていたいと愛しい人の後姿から目を離すことができない。
ただひたすら消えないでほしいと祈りながら小さな背を見つめていれば、やがて、何やら食欲をそそる匂いが漂ってきた。
夢の中だというのになんと鮮明な匂いだろうか。
音を聞いて匂いを嗅いで、それらの情報で頼久の脳裏にかかっていた眠気という霞が晴れていく。
「神子、殿?」
上半身を起こしてみれば、そこは自宅のリビングにあるソファの上だった。
そうだ、自分はやっと帰ってきたのだったと思い出すのと同時に、頼久の視界の中で小さな背が振り向いた。
「あ、頼久さん、目が覚めたんですね。勝手に台所使わせてもらっちゃいました。簡単なものですけど、夕ご飯作ってみたんです。」
にっこり微笑んでそう言うあかねに頼久は一瞬見惚れた。
夢の中でもこんなに愛らしく微笑んでいただろうか。
天女の微笑みとはまさにこれだ。
頼久はふらりと立ち上がるとおぼつかない足取りで台所まで歩き、にこにこと微笑んでいるあかねを抱きしめた。
「よ、頼久さん、私、包丁握ってるので…。」
「はい…。」
「はいって…もぅ…。」
これはしばらく離してもらえないと悟ったのか、あかねは包丁をまな板の上に置くと、頼久の胸にそっと頬を寄せた。
「お帰りなさい、頼久さん。」
「ただ今戻りました、神子殿。」
やっと「お帰りなさい」と言えた。
あかねがそう思った瞬間、頼久から至極当然な返答が返ってきて、そのことが嬉しくて、あかねの目にはうっすらと涙が浮かんだ。
「冷めてしまわぬうちに頂きます。」
あかねが予想していた以上に頼久があかねを早く解放したのは、既に焼き魚が焼きあがっていて、味噌汁には刻んだねぎを入れるのみになっていることがわかったから。
こんなに心のこもった手料理を、しかも愛しい人の手料理を食べるのはいつ以来であろうと思いながら頼久が席に着けば、あかねが手早くご飯と味噌汁をよそってくれた。
「どうぞ。」
頼久の向かい側に座って嬉しそうに微笑むあかねは『いただきます』と律儀に手を合わせてから箸を持つ頼久をじっと見つめていた。
テーブルの上にのっているのはどうということはない簡単な料理ばかりだ。
焼き魚とおひたしと漬物、それに味噌汁。
それだけの簡単なものだったけれど、頼久は一口一口をとてもおいしそうに口にした。
「あの…頼久さん。」
「はい?」
あかねが話を切り出したのは頼久が食事をすっかり綺麗に平らげて『ごちそうさまでした』と手を合わせた直後だった。
幸せいっぱいの顔をしている今の頼久は、再会した刹那の頼久とはまるで別人。
どうして学校で再会した頼久はあんなにも怒ったような顔をしていたのか?
何故、まだまだ帰ってこられないはずの頼久が今ここにいるのか?
あかねの中には疑問ばかりが山と積まれている。
食事をして一段落したとなれば、その疑問が口をついて出るのは自然の流れだった。
「色々聞きたいことがあるんですけど…。」
「ああ、何故私が帰ってきたか、ですね。」
「あ、はい、それも…。」
「車の中でもお答えしましたが、仕事が終わったので戻りました。」
「終わったってでも…2か月かかるんじゃありませんでしたか?」
「当初はその予定でしたが、急いで終わらせて参りました。」
「急いでって…。」
「そのことについては神子殿にお詫びしなくてはなりません。」
「はい?何をですか?」
「ここ2週間はまともに寝ておりませんでしたので、神子殿とこの部屋へ入った途端に気が緩み…とんだ醜態をお見せいたしました。」
そう言って頼久は律儀にしっかり頭を下げた。
つまり、頼久の話の内容を噛み砕けばこういうことだ。
ここ2週間、ほぼ眠らずに仕事を続け、本来なら2か月かかるはずだった仕事を半分の1か月そこそこで仕上げてしまった、と。
そのため過労がたたり、先ほどはあかねに倒れこんだまま眠りこけてしまった、と。
「なっ…。」
話の内容に気付いて、あかねは口をパクパクさせた。
何か言わなくてはと焦るばかりで言葉が出てこない。
体のことを考えない人だとは思っていたけれど、なんて無謀なことをしたのだろう。
なんて無茶なことを。
それも自分のために…。
思ったことはどれもあかねの口をついて出てはくれなくて、赤い顔でパクパクしているあかねに頼久は苦笑を浮かべて見せた。
「無理をしたとお思いかもしれませんが、体力には自信がありますので。」
「そ、そういう問題じゃ…。」
「神子殿と離れ、震えるお声を電話越しに聞いている方が私にはよほど堪えます。」
「ご、ごめんなさい…。」
「いえ、耐えられぬのは私の未熟さ故ですのでお気になさらず。」
頼久はそういって困ったように苦笑した。
柔らかい表情、優しい言葉。
それらは間違いなく大好きな恋人のもの。
あかねは自分を学校からここまで連れてきた時の頼久とのギャップにキョトンとしてしまった。
「神子殿?」
「あ、ごめんなさい。あの、大学まで迎えに来てくれた時、頼久さん、なんか怒ってるみたいだったから…。」
「怒って……怒ってなどおりません。ただその……必死だっただけです。」
「必死?」
「早く取り戻さねばと。」
「取り戻す?何をですか?」
「神子殿をです。」
「はい?」
あかねはキョトンとした顔で小首をかしげた。
何がどうして取り戻すという表現になるのだろう?
あかねが何が何だかわからないという顔をしていると、頼久の苦笑が深くなった。
「天真から電話がありまして、神子殿が何やら私によく似た男に言い寄られているから早く戻ってこないと二度と取り戻せなくなると…。」
「はい?え?はぁ?て、て、天真君!」
「いえ、天真は私のことも神子殿のことも気遣ってそのような言い方をしたのかと。」
「へ?」
「天真なりの気遣いでしょう。」
天真がわざと大げさに言ったのだとわかっていたのに、それでも急いで仕事を終わらせて、それこそ倒れるほどの疲労をためてまで頑張って帰ってきてくれた。
そして万が一にも自分をとられてなるものかと焦って迎えにまで来てくれた。
その思いが嬉しくて、あかねは泣きそうな顔で微笑みながら頼久に頭を下げた。
「ごめんなさい、頼久さん。」
「は?」
「天真君が言ったのは本当に大げさで、取り戻せなくなるとかそんなことはありません。」
「はい。」
「でも、頼久さんがいない間に頼久さんの知らない男の人に勉強を教えてもらったり、励ましてもらったりしたのは本当です。だから、ごめんなさい。」
「それは……神子殿がその男に想いを寄せていおいでだということではないのですね?」
「そ、そんなことあるわけないです!毎日頼久さんのことしか考えてなかったのに…。」
「でしたら、私に謝って頂く必要はございません。」
「頼久さん。」
優しく微笑む恋人はゆっくりと椅子から立ち上がってあかねの方へと歩み寄ってきた。
無骨だけれど大きくて安心できる手が伸びてきてあかねの腕をとらえると、優しくあかねを立たせてその体を抱きしめた。
「謝って頂く必要はありませんが…。」
「はい?」
「しばらくはこうしていて頂けますか?」
「はい…。」
そんなの断るわけがない。
あかねは頼久の腕の中で頭上にある端整な顔を見上げて微笑んだ。
この腕の中にいる時が一番幸せであることが伝わるように。
自分のために無理までして帰ってきてくれたことがどれほど嬉しいのかも伝わるように。
すると、ふわりと幸せそうな笑みを浮かべた頼久の顔が少しずつ近づいて、あかねの唇は頼久のそれに優しく奪われた。
― 終 ―