垣間見(前編)
 頼久はカタリという音で目を覚ました。

 それは控えめに玄関の扉を開ける音だった。

 パチリと目を開けて上半身を起こして、玄関から中に入ってくる気配を感じてその顔に微笑を浮かべる。

 時計を見れば時刻はまだ朝の7時。

 玄関から入ってきた気配は間違いなくあかねのものだ。

 今日は10月9日。

 そう、頼久の誕生日だ。

 あかねから電話があったのが昨日のこと。

『頼久さんのお誕生日を朝からお祝いしたいので、すっごく朝早くから行ってもいいですか?』

 と聞かれて、そんな嬉しい申し出を拒否するなどということは欠片ほども発想しなかった頼久は二つ返事でOKしたのだが…

 まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。

 たまたま今年は誕生日が週末に当たったのであかねが張り切って一日かけて祝ってくれるというので、頼久はこの日をとても楽しみにしていた。

 楽しみにはしていたのだが、こんなに早くから来てくれるとなるとあかねが無理をしているのではと頼久としては少々心配だ。

 頼久はベッドから抜け出すと着替えを始めた。

 あかねのことだからきっと張り切って何か準備しているに違いない。

 本当はまだ寝ているふりをしてもう少しあかねを一人にしておいた方がいいのかもしれないとは思うのだが、愛しい人がドアの向こうにいると思えば頼久に寝ているふりをしている余裕はない。

 流れるような所作で着替えた頼久は邪魔な髪を後ろで束ねている間に聞きなれない音が聞こえてきたことに気付いた。

 トントンと小気味いい音がドアの向こうから聞こえてくる。

 あかねが何を始めたのか気になって、髪を束ね終えた頼久は寝室のドアを開けた。

 すると、急においしそうな匂いが漂ってきた。

 それは懐かしいような幸せな、そんな香りだ。

「あ、頼久さん、おはようございます。ごめんなさい、こんな早くに、起こしちゃいました?」

「おはようございます。昨日は早く休みましたのでお気になさらず。こちらこそこんなに早くから来て頂き……。」

 そういいながらあかねが立っている台所へ入って頼久は目を丸くした。

 可愛らしいピンクのエプロンを身につけたあかねが包丁を持って立っているのはまぁ最近では見慣れた光景なのだが、既に台所では味噌汁が完成間近で、テーブルには和え物や漬物なんかが準備万端整えられている。

 先ほどの小気味いい音はあかねが味噌汁に入れる葱を刻んでいる音だった。

「今、秋刀魚を焼いてるんです、すぐ朝ごはんにしますから。」

「これは…こんな短時間に…。」

「あ、いえ、今作ったのはお味噌汁だけ。秋刀魚は焼き始めたばっかりです。ご飯はうちで炊いたのを持ってきました。和え物も。漬物はお母さんの自信作をもらってきちゃいました。これ以上早く来て準備するのは迷惑かなって思って…。」

「お心遣い、有難うございます。」

 頼久がそう言って微笑むと、あかねは嬉しそうに笑って頼久に背を向けた。

「すぐできますから座っててください。」

 そういうあかねは再び葱を刻み始めた。

 懐かしいような味噌汁のいい香り。

 葱を刻む小気味いい音。

 頼久は食卓の椅子に座ってそれらをゆっくり堪能した。

 包丁を持つあかねの手元はなかなかの手際だ。

 この1年とちょっとであかねの料理の腕はめきめきと上達している。

 それだけあかねが努力して料理の腕を上げているからだ。

 こうして背を向けて料理をしているあかねはまるで新妻のようで、頼久は幸せそうな笑みを浮かべたままじっとあかねの背を見つめていた。

「はい、どうぞ。」

 焼きたての秋刀魚とできたての味噌汁が頼久の前に並べられて、同じものを並べた向かい側にあかねも座った。

「いただきます。」

「はい。」

 しっかりと手を合わせてから頼久は味噌汁に手を伸ばした。

 だしがきいていてとてもおいしい。

「どう、ですか?」

「神子殿はまた料理の腕を上げられました。」

「よかったぁ。」

 頼久の感想を聞いて安心して、あかねも食事を開始する。

「申し訳ありません、こんなに朝早くからこのように手料理を用意して頂き…。」

「あ、えっと、それなんですけど。」

「はい?」

「今日は頼久さんのお誕生日なので、晩御飯を食べ終わるまでずっと今日は一日私が頼久さんのご飯を作って、お洗濯とかお掃除とかして、お茶をいれたりとかもして、頼久さんのお世話をしようと思うんです。」

「は?」

「ですから、今日一日私が頼久さんのお世話をします!」

「……。」

 箸を持つ頼久の手が止まった。

 誕生日は一緒に過ごそうと約束はしてあった。

 してあったが…

 こんなことになるとは思ってもみなかった。

 頼久にとってあかねはとても大切な人であって、自分の主であった記憶も持っているだけに世話をされるというのは今でもなんとなく畏れ多いと思ってしまう。

 それに、大切な人にそんな労働をさせるということ自体がなじめない。

 料理も掃除もあかねがやりたくないと言えば喜んで自分がしようと思ってしまうほどなのだ。

 たまの休みに昼食を作ってもらうだけで十分有難いというのに、一日中とは…

「ダメ、ですか?」

 上目遣いにそう聞かれて頼久は反射的に首を横に振った。

 自分の世話をしてもらうなどもったいない話ではあるのだが、それをあかねがどうしてもやりたいというのなら頼久に拒否できるわけもない。

「いえ、その、申し訳ないと…。」

「そんなことないです!私が色々したいんです!頼久さんにはいつもたくさん助けてもらってるし、お誕生日くらい大好きな人に尽くしたいんです…。」

 大好きな人に尽くしたいだなどと嬉しいことを言われてはそれこそ頼久に拒否などとてもできるわけがなくて、頼久はその顔に微笑を浮かべて食事を再開した。

「では、宜しくお願い致します。」

「はい!お誕生日なんですからやってほしいことあったら何でもいってくださいね!」

 あかねは一転して嬉しそうな声をあげてにっこり微笑んだ。

 その笑顔があまりに愛らしくて頼久は一瞬見惚れてしまう。

 これまで何度も見ているはずの笑顔だというのに、何度見てもその輝くばかりの美しさにどうしても見惚れてしまうのだ。

「頼久さん?どうかしました?」

「いえ、神子殿があまりにお美しいのでつい。」

「ま、また頼久さんはそういう恥ずかしいことを言う!」

 一気に顔を赤くしたあかねはうつむいて黙々と食事を再開した。

 そんなあかねも愛らしくて頼久の顔には笑みが絶えない。

 あかねが何をしてくれるでなくとも、頼久にとってはこうしてあかねと共に過ごす時間を持てるだけで十分な幸せだ。

「そ、そうだ、頼久さんは週末でもお仕事したりするんですよね?」

「締め切りが近ければすることもありますが…。」

「今日はお仕事ありますか?」

「しなくてはならないというわけでは…。」

「私、お掃除とか色々やっておきますから、その間はお仕事していてください。お昼ごはんを食べて、午後からは映画でも見ませんか?」

「はい。」

 どうやら午前中は家事に集中したいらしいあかねにうなずいて頼久はニコニコと微笑んでいる。

 仕事は本当に急ぎのものはない。

 何しろこの日は一日あかねと一緒に過ごそうとずいぶんと前からあけておいたのだ。

 仕事など入れておくわけがない。

 が、そのあかねが仕事をしていてほしいと言えば、もちろん頼久は言われたとおりにする。

 昼食もあかねの手料理が食べられるのなら、仕事も楽しく終えられるだろう。

 しかもその後はあかねと楽しく午後の一時を過ごせるというのだ。

「あの…。」

「はい?」

「今年はその…晩御飯も私が作ろうと思ってるんですけど……その…どうしても二人きりがいいなって思って、それで…みんなには声かけてないんです。」

 申し訳なさそうにそう切り出されて、頼久はまた幸せそうに微笑んだ。

 あかねは頼久のことをとても大切に思っているが、同じように友人達のことも大切にしている。

 だから、何か祝い事があれば友人達もみんな集めてという流れになることが多いのだが、どうやら今日はあかねと最後まで二人きりで過ごせるらしい。

 それは頼久にとっては嬉しい限りだ。

 もちろん頼久も真の友とも思っている相棒の天真は共にいて楽しいし、その妹や友人でもあり同じ八葉として共に戦った仲間でもある詩紋も共にいてまずい相手ではないのだが…

 やはりあかねと二人きりの方がいいと思ってしまうのはしかたがない。

 普段はあかねの学校があるからなかなか二人きりでゆっくり会うことができないだけに、こうして一日ゆっくり二人きりでいられるのはやはり嬉しかった。

「私も神子殿と二人きりの方が嬉しいですから。」

「頼久さん…ご、ご飯食べちゃいましょうね。」

 あかねはまた顔を真っ赤にして食事を再開して、頼久はそんなあかねに優しい視線を向けながら秋刀魚に箸を入れた。

 いつもは一人で簡単なものを食べるだけで、味気ないが、こうしてあかねと向かい合って食べれば朝食はとてもおいしくて…

 二人はあっという間に用意した料理を全て平らげた。

 食器を片付けようと頼久が立ち上がれば、慌てたあかねに止められて、苦笑する頼久は台所から追い出されてしまった。

「今日はお誕生日のお祝いなんですから、頼久さんは後片付けなんかしちゃダメです。お仕事しててください、お茶もって行きますから。コーヒーの方がいいですか?」

「神子殿が飲みたいと思われる方で。私はどちらでも。」

「じゃぁ、紅茶持って行きますね。」

 そう言うあかねに追い出されて頼久は書斎に入った。

 本当ならもう少しあかねとゆっくりしていたかったところだが、どうやらそれはあかねが許してくれないらしい。

 急ぎの仕事はないのだが、あかねに集中して家事をしてもらうためには仕事をしていた方がいいだろうと頼久はパソコンの電源を入れた。

 いくつか締め切りまではまだ間のある仕事の原稿を呼び出してチェックする。

 資料に目を通さなくてはならないものがいくつか見つかって、今日はそれに目を通すことにしようと決めた。

 パソコンの電源を落としてメモ帳を取り出し、本棚から目当ての資料を引き出したところでドアがノックされた。

「はい。」

「紅茶持って来ました。」

 あかねの声に頼久がドアを開けると、そこにはトレイにティーカップを乗せて微笑んでいるあかねの姿があった。

 ピンクのエプロンをしたままのあかねはとても愛らしい。

 頼久が微笑みながらあかねを中へと通すと、あかねはデスクにティーカップを置いてすぐにドアの方へと戻ってきた。

「それじゃぁ、お仕事頑張って下さいね。あ、何か洗濯物があったら出しちゃってください。一緒にお洗濯しますから。」

「洗濯は先日したばかりですからそんなにはないかと…。」

 やる気満々のあかねに頼久がそう言って苦笑すれば、あかねは少しだけ残念そうな顔をしてからすぐに立ち直った。

「わかりました。じゃぁ、家中ぴっかぴかにお掃除しますから、頼久さんはお仕事頑張ってください!」

「はい。」

 ガッツポーズさえして見せそうなあかねにおとなしく従って、頼久はあかねを見送った。

 張り切ったあかねが部屋から出て行ってしまえば書斎は少しばかり寂しい。

 それでも、ドアの向こうから聞こえてくるカタカタという音や優しい気配はとても愛しくて…

 頼久はその口元を緩めたまま椅子に座って資料を開いた。

 あかねがいれてくれた紅茶を時々口に運びながら、頼久はいつになく穏やかな気持ちで資料のページをめくる。

 いつも仕事をする時は一人きりだ。

 それはそれで確かに集中できるのだが、寂しくないといえば嘘になる。

 あかねに会えない日が何日も続くのはいつものことで、会えない間、ここで一人で仕事を終わらせて夜を迎えてもやはり一人で…

 いつもはそんなふうに寂しくもむなしい一日を終えたりするのだが、今日は違う。

 ドアの向こうには愛しい人が家事をする気配や音があって、それを感じているだけでも頼久はこの上なく幸せだ。

 頼久が資料に目を通している間にドアの向こうでは掃除機をかける音や、食器を片付ける音がする。

 普通はそんな音は気が散ると思うのかもしれないが、頼久にとっては幸せ以外のなにものでもない。

 頼久はいつになく幸せな気分で紅茶を楽しみながら資料に目を通し続けた。

 そうすること数時間…

 すっかり必要な資料の全てに目を通し終わってもドアの向こうではまだ何か音がしていて…

 頼久はもう昼も近いというのにまだ書斎から出られそうになくて苦笑した。

 仕事が終わってしまえばあとはもうただあかねと一緒にいたいと思うばかりなのだ。

 だが、ここで出て行ってしまえばきっとあかねの家事の邪魔になることは間違いなくて…

 それでもどうしても我慢ができなくて、頼久はそっと気配を殺してドアへ歩み寄ると、音を立てないように少しだけドアを開けてリビングをのぞいてみた。

 するとそこにはサイドボードを熱心に磨いているあかねの姿が…

 可愛らしいエプロンを身につけたまま拭き掃除をするあかねの後ろ姿はとてもけなげで、それを自分のためにやってくれているのだと思うと愛しくて、頼久は思わずその顔に幸せな笑みを浮かべた。

 だが、このまま黙っていては本当にあかねは家の中の全てのものを磨き上げそうだ。

 そんなことをさせては申し訳ないが、ここで出て行けば邪魔だから仕事をしているように言い渡されそうでもある。

 さてどうしたものかと考え込んだその時、どうやらあかねが掃除を終えたらしく、立ち上がって満足そうに一つうなずいた。

 頼久はそっとドアを閉めて座っていた椅子に戻って、そして深い溜め息をついた。

 これはどうしたものだろうか?

 大切な恋人にこの家全部を磨かせるなどとんでもない。

 だが、あまりにあかねは幸せそうで邪魔をするのも申し訳ない気がしてしまうのだ。

 自分はどうするのが最善かと頼久が眉間にシワを寄せて考え始めたその時、書斎のドアがノックされた。

「頼久さん、今いいですか?」

「はい、どうぞ。」

 あかねは何やら楽しそうな笑みを浮かべてドアの向こうから姿を現した。

 そんな姿も愛しくて、頼久の眉間から一瞬にしてシワが消える。

「あの、お仕事まだ終わってないんだったらお茶のおかわりなんかどうかなぁって思ったんですけど…。」

「仕事はちょうど今しがた終わったところですが…。」

「ああ、じゃぁ、もうすぐお昼だし、お昼ご飯にしちゃいましょうか?」

 これはすっかり仕事が終わってしまった頼久には願ってもない申し出で、頼久は思わず間髪いれずにうなずいてしまった。

「はい、お願い致します。」

「本当はもうちょっと窓拭きとかしたかったんですけど、それは年末にとっておきますね。」

「年末、ですか?」

「はい。今年はちゃんと年末は大掃除をお手伝いに来ますから。」

 そう言ってあかねは楽しそうに歩き出した。

 もちろん向かうは台所。

 頼久はこれで年末も楽しみが増えたとは思うものの、いや、神子殿に掃除の手伝いなど断るべきだろうかと一人で悩みつつあかねの後を追った。

「その、神子殿。」

「はい?」

「年末の掃除など私一人でも……。」

「私がお手伝いしたいんです。ダメ、ですか?」

 悲しげにそう問われてはもちろん頼久に断ることなど不可能だ。

「承知致しました。では、宜しくお願い致します。」

「ハイ!頑張ります!」

 パッと明るい笑みを浮かべて嬉しそうなあかねはそのままくるりと頼久に背を向けて料理を開始した。

 これはどうあっても大掃除を手伝ってもらうことになるらしい。

 ならば、あまりあかねに頑張ってもらわなくてもすむように、あかねが手伝いにくるまでにある程度は済ませておかなくてはと頼久は年末のスケジュールを脳内で組み始めた。

「あ、頼久さんは座っててくださいね。できたら呼びますから。」

「はい、お手数おかけいたします。」

「気にしないで下さいね。今日は頼久さんのお誕生日なんですから。」

 本当に楽しそうにあかねがそう言ってくれるから、頼久はゆっくりとリビングのソファに座って年末の予定を立て始めた。

 風呂場やトイレといった水周りは絶対に自分で終わらせておこう。

 窓拭きも重労働だからあかねにやらせるわけにはいかない。

 大掃除とはあとは何をすればよかったか…

 あかねが楽しそうに料理をする間、頼久は必死に大掃除のスケジュールについて考え込むのだった。



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管理人のひとりごと

結局、前後編になりました(’’)
今年は天真君達は呼ばれなかったようです(笑)
あかねちゃんが大張り切りで色々頑張っちゃってますが、頼久さんは申し訳ないとか思っちゃってますね。
でも、決して嫌なわけじゃないです(笑)
二人っきりのお誕生日パーティはまだまだ続きます。
後編はもうちょっと甘いのを目指します(’’)







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