あかねはニコニコと微笑みながら大好きな旦那様の温もりを小さな背中に感じていた。
馬は思っていたよりずっと揺れるけれど、馬での移動はあかねにとってそんなにつらいものではなかった。
何故なら、疲れてくればしっかりと支えてくれる旦那様に寄りかかっていればよかったから。
その旦那様、頼久はといえば、あかねに寄りかかってもらえた方が安心するらしく、あかねの一日の後半はたいてい頼久がその小さな体をぐっと抱き寄せていた。
馬に乗ると目線が高くなるから辺りの景色も眺めやすくて、夜になると少しお尻が痛くなるということを除けば快適な旅だといえた。
行く先々で手配してあった宿に泊まりながら移動するから野宿ということも今のところは避けることができているし、ずっと屋敷にこもりきりだったあかねにとってはいい息抜きだ。
そんなあかねを見ていると、他の面々もこれが鬼といわれているものの正体を暴き、その鬼を退治するための旅なのだということを忘れてしまいそうだった。
京にとどまっているとそれぞれに公の立場があるから、こんなふうにあかねと共に過ごすことはなかなかできなくなっている。
だから、今回のこの旅は元八葉の面々にとってもいい息抜きになりつつあった。
「神子殿、熊野には湯治場があるのをご存知かな?」
「湯治場って温泉が出てるってことですか?」
「ああ、ずいぶんと体にはいいらしい。せっかくだから帰りに寄っていくことにしよう。」
「いいんですか?今回はちゃんとお仕事できてるのに…。」
「それがね、主上に今回の仕事には神子殿が同行することになったと申し上げたら、それは申し訳ないからついでに湯治場に寄ってくるといいとおっしゃられてね、仕事の結果は文か何かで知らせて、あとはゆっくりしてきていいということになったのだよ。」
「うわぁ。」
周囲のなんていうことをしてくれたんだと言いたげな一同とは逆にあかねは嬉しそうな歓声をあげた。
これでこの一行の仕事が終わってからの行動は決定されたといっていい。
あかねがこれほど喜ぶことに対して反対できる者などこの中にはいない。
帝にあかねが同行することを話して上手く休暇の許可を引き出してくる辺り、友雅は相変わらずだと呆れながらも誰もそれを口に出さなかったのはあかねの笑顔に水を差すまいと誰もが思ってしまったからだった。
「雨が来る。」
「はい?」
突然聞こえた泰明の宣言にあかねは空を見上げた。
雲一つない青空がそこには広がっている。
雨の気配は全くといっていいほどしない。
けれど、宣言したのはあの泰明だ。
稀代の陰陽師の弟子にして元八葉、その霊力は計り知れない人物だ。
それでもあかねは雨が降るとは信じられなくて隣で馬を並べている泰明の横顔をじっと見つめた。
「雨、降るんですか?」
「ああ、降る。陽が暮れる前には。」
はっきりと宣言する泰明から友雅や鷹通などの仲間に視線をめぐらせて、あかねは最後に頼久を見上げた。
仲間達はみんなどうしたものかという顔をしていたから、頼久ならどうするのだろうと思ったからだ。
すると頼久は真剣な顔で考え込んで、それから友雅へと視線を移した。
「友雅殿、まだ宿まで距離はありますか?」
「あるだろうねぇ。」
「では、急ぎましょう。」
言うが早いか頼久は踵を馬の腹に入れた。
すぐに今まで優雅に歩いていた馬が駆け足になる。
それでもあかねが慌てることはなかった。
何故なら、頼久の左腕はしっかりとあかねの腰を抱き、右腕一本で馬の手綱を持っていたから。
頼久に倣って残る面々も馬の腹を一蹴りして馬の速度を上げた。
「凄い雨ですね、外。」
あかねは頼久と二人、灯りと言えば紙燭一つしかない暗い局の中にいた。
泰明が予想したとおり日暮れ前に降り出した雨に打たれて一行がやってきたのは、人里はなれた場所に建てられている大きな屋敷だった。
その一室が夫婦二人のために割り当てられて、他の面々は同じ屋敷の他の局でそれぞれ休んでいるはずだ。
「はい。これでは万が一敵が近付いてきても気付かぬやもしれません。」
頼久は妻の言葉に答えながら小さく溜め息をついた。
雨の音は激しくなる一方で、外の気配が掴みにくい。
武士として鍛え上げられた頼久の鋭い感覚でも、今は外の様子がうかがい知れなかった。
「でも、泰明さんが式神を見張りに立てるって言ってましたから、大丈夫ですよ。」
そう、泰明はこの屋敷に到着して早々、式神を配置して全員に休養をとるようにと宣言したのだった。
それでもどうしても警護の確認をしてしまうのは頼久の習慣だと言っていい。
「友雅さんもこの雨音じゃちょっとやそっとじゃ隣の局の音も聞こえないだろうって言ってましたし、警護のことは考えなくていいんじゃ…。」
「友雅殿がそうおっしゃったのは別に警護のことを考えてではないかと思いますが…。」
「へ?」
あかねの隣で頼久も友雅の発言は聞いていた。
その言葉を口にする時の友雅の顔もよーく覚えている。
部屋の割り振りを手際よく済ませた友雅はさきほどあかねが口にした言葉を放ちながら、相変わらず面白くてたまらないといった顔で頼久に目配せまでしてきたのだ。
おかげで頼久は友雅の言葉の裏にある意味を嫌でも勘ぐらずにはいられなかった。
「警護のことじゃないんですか?」
「どうせこの雨音で何も聞こえぬから気にせずに過ごせとおっしゃっていたのかと。」
「気にせず過ごせ?」
「はい、私と神子殿を一つ局に入れたのも友雅殿の計算のようでしたので。」
実を言えばこの屋敷はかなり広い。
あかねと頼久が別々に眠ることも不可能ではなかったのだ。
それを友雅があかねが恐がるからとかなんとか全員を言いくるめて、夫である頼久と同室にしてしまった。
その時点で頼久は既に眉間にシワを寄せていたのだが、あかねは単純に友雅の好意と受け取っていたらしかった。
「えっと、それって……えーっ!」
友雅と頼久が何を言っているのかに思い至ってあかねは顔を真っ赤にすると大声をあげた。
当然その声も雨音に消されて誰も聞いてはいない。
頼久はというと急に二人きりであることを意識してそっと自分から離れようとするあかねに溜め息をついた。
「神子殿が気になって休めないとおっしゃるのでしたら、私は外にて…。」
「言いません!」
このまま放っておけば本当に外へ出て行きそうな頼久に、あかねは慌てて大声をあげた。
もちろんその声も外までは届かない。
「この雨では万が一にも賊が襲ってきたとして、私はおそらく気配でとらえることができないでしょう。今宵は他の皆と交代で見張りを立てることになりますので、神子殿はゆっくりお休み下さい。」
「でもみんなにだけ見張りをお願いして私だけ寝ちゃうのは……。」
「神子殿に見張りをして頂いて我々が眠ることは不可能ですので。」
苦笑する頼久の顔を見てあかねはうつむいた。
確かに自分がここで我を張って見張りに立ったところで、結局は頼久がその隣に立つことになり、迷惑をかけるだけで何の役にも立たないだろう。
実際、見張りの最中に賊が襲ってきてもあかねにはどうすることもできない。
頭の中でそう想像してあかねは一つうなずいた。
「わかりました。おとなしくここで休みます。」
「そうなさってください。」
ようやく頼久の顔に笑みが浮かんだ。
これで友雅辺りと交代で見張りに立てば全ては一件落着だ。
「では、私は見張りの予定を皆と……。」
「あの…。」
「何か?」
早速頼久が皆と話し合いを始めるために立ち上がろうとすると、慌ててあかねが口を開いた。
その顔はなんだか申し訳なさそうな表情で、上目遣いに頼久を見上げている。
紙燭の灯りに照らされたあかねのその表情は、陽の下で見るよりもずっと美しく艶やかに見えて、頼久は息を飲んだ。
「その……ここ、初めての場所で……暗くて…外は雨ですし…。」
「はぁ…。」
「一人きりになるのはちょっと……恐いというか……心細いというか……。」
だんだん声が小さくなっていくあかねに頼久は微笑を浮かべて見せた。
確かに、この屋敷は友雅の知人という貴族が国司としてこの辺りに赴任した際に立てた、いわば別荘のような建物でしばらく無人の状態だった。
そこを無理に手入れをして使っているから少しばかり雰囲気が悪い。
調度品はそろっていないし、灯りも紙燭一つのみだ。
その小さな灯りで照らし出される辺りの様子は確かにこの世界に慣れている女性でも心細く思ったかもしれない。
友雅があかねが恐がるからと言ったのはあながちただのこじ付けではなかったようだった。
「では、神子殿がお休みになられるまではお側に。それから皆と見張りの打ち合わせをしてまいります。もちろん、長くここを離れたりは致しませんので。」
「有り難うございます。」
あかねはにっこり微笑むとその場に横になった。
この屋敷には調度品もそろってはいないから、雑魚寝になるのはしかたがない。
それでも頼久は少しはましになるかと、屋敷から持ってきた単などの衣をあかねの上にそっとかぶせた。
「あの…。」
「寝心地は悪いかと思いますが、ご辛抱を…。」
「そうじゃなくて…その……ちょっと寒いというか……。」
確かに雨が降っているから少々肌寒いとは感じたが、頼久にはこたえるほどの冷え込みではない。
それでも女性にとっては寒いのだろうかと心配してあかねの顔をのぞきこんで、頼久はその顔に笑みを浮かべた。
頼久がさきほどかぶせたばかりの単を口元まで引き上げているあかねの顔は真っ赤に染まっていたからだ。
どうやら寒いというのは口実らしいと気付いて、頼久はすぐあかねの隣に横になるとその小さな体を抱き寄せた。
「これで宜しいでしょうか?」
「あ、有り難うございます。」
かわいらしいあかねの望みをかなえて頼久は幸せを噛み締めていた。
本来であればあかねとは会えない日々が続くと思っていた仕事の旅に、あかねと一緒に出ることができるとは夢にも思っていなかったのだ。
それが、こんなふうに共に過ごすことができるとは、頼久にとって望外の喜びだった。
「本当はお屋敷で留守番してれば良かったんですよね。」
「は?」
頼久の腕の中であかねは小さくつぶやいた。
何を言い出したのかと頼久は腕の中にいるあかねの顔をのぞき込むと、あかねは苦笑を浮かべていた。
「鷹通さんの言うこともわかってるんです。私、もう龍神の神子じゃないし、ついてきても役には立たないんだろうなって。」
「そのようなことは…。」
「あります。わかってるんですけど、やっぱりみんなが危ない目にあうってわかってるのに何もできないのは嫌で……それに……そんなに長い間頼久さんと離れてるの寂しいなとかも思っちゃって……。」
「神子殿…。」
あかねも同じ気持ちでいてくれたのかと思えば頼久は嬉しい限りなのだが、あかねはというと寂しさが我慢できなかった自分に溜め息をついていた。
公には頼久の妻という立場になったということもあかねにはもうよくわかっている。
出発する前、鷹通が話したこともよく理解はしている。
それでも、どうしても仲間達だけを送り出すことには抵抗があったし、頼久と離れたくないというのも本心だった。
そういう気持ちを抑えて屋敷で待っているのが京の女性なんだろうなということも最近ではわかってきていて、それだけにあかねの思いは複雑だった。
「ごめんなさい、わがまま言って…。」
「そのようなことは…。」
「頼久さんに迷惑かけるのいけないってわかってるんですけど…。」
「迷惑などではありませんので。」
「頼久さん、優しいです…。」
「いえ、本心で申し上げております。私も神子殿と長く離れていることは耐え難く…。」
「そう、なんですか?」
腕の中であかねが頼久の顔を見上げた。
つぶらな瞳が愛らしくて、頼久は思わずぎゅっと小さな体を抱きしめた。
「もちろんです。神子殿が側にいて下さるだけで私の力になると申し上げたのは本心ですので。」
優しく抱きしめて耳元でつぶやけば、あかねの首元が赤く染まるのが見えた。
「神子殿のお心はこれで静めて頂けたでしょうか?」
「はい、とっても。」
頼久が腕の力を緩めると、あかねは赤い顔で幸せそうに微笑んで、すぐに頼久の胸に擦り寄って目を閉じた。
「では、ゆっくりお休み下さい。」
「はい、おやすみなさい。後で頼久さんもちゃんと休んでくださいね?」
「そうさせて頂きます。」
囁くように答えれば、あかねは頼久の腕の中でゆっくりと眠りに落ちていった。
小さな寝息が聞こえるまであかねの体を抱きしめていた頼久は、あかねがすっかり眠りに入ったのを確認すると、その髪に優しく口づけてそっと立ち上がった。
大切なあかねを守るため、見張りの打ち合わせをしなくてはならない。
それでも全てが終わったらなるべく早く戻って、あかねが目覚める前に必ず隣にいようと心に決めていた。
「まったく、朴念仁だとは思っていたけれどねぇ。」
「友雅さん!」
あかね達一行は順調に旅を続けていた。
雨に降られたのは一日だけ。
その他は曇る日は多々あっても雨が降ることはなかった。
おかげで歩みは順調で、目的地には予定より少しばかり早く到着するところだった。
そんな道中、友雅は幾度となく同じ理由でため息をついて見せていた。
それがこれ見よがしなものだから、ついついあかねはムキになって反応してしまう。
あの雨の夜、せっかく二人きりにしてやったのに何事もないとはなんと情けないと嘆く友雅に、いい加減にしろと説教をするあかね。
二人の賑やかなやり取りを仲間達が苦笑しながら見つめての旅は、それなりに楽しいものとなっていた。
だから、彼らは現地に到着し、怯えきっている住人達を目にするまで自分達がここへ派遣された理由がそんなにも逼迫した問題によるものだとは思っていなかった。
「そんなに甲斐性のない夫では心配だねぇ。」
「頼久さんは甲斐性ありますから!友雅さんと違って気遣いもあるんです!もぅ、帰ったら藤姫にお説教してもらいますから。」
「それは勘弁してもらいたいところだが…。」
異変に最初に気付いたのは友雅と頼久だった。
食ってかかるあかねを止めようとした頼久は、視線の先に荒れ果てた畑があることに気付いたのだ。
同時にからかっていた友雅も同じことに気付いていた。
雑草が生え放題に生えていて、田畑はただの草原のようになっている。
それでいてしっかり区画が整えられていて、人が畑として使っていた土地であることは間違いない。
二人の異変に気付いて辺りを見回したあかねはその顔に不安を浮かべて二人を見比べた。
「これは、さすがにただ事ではないね。」
「当然だ。故に我々がここへ来た。問題ない。」
予想もしなかった風景に馬を止めた二人とは違って、泰明はそのまま馬を進めた。
泰明の言うことはもっともで、問題があるからという理由で派遣されたのだから、異常がない方が異常というものだろう。
それでも荒れ果てた田畑の風景は一行の会話をすっかり消し去ってしまった。
どうしてこんなことになったのか?
田畑がこんなことになっているのなら、この辺りを耕している人々はどうしたのか?
いつからこんなことになっているのか?
疑問はいくつでも湧いてくる。
けれど、それを訪ねることができる人の姿はどこにもない。
一行は泰明を先頭に言葉を交わすことなく先を急いだ。
ただ一人、永泉だけが口の中で経を唱えていたが、誰もそれに気づくほどの余裕はなかった。
「神子殿、大丈夫ですか?」
しばらく馬を進めてから頼久は改めて腕の中の妻の様子をうかがってみた。
あかねはというと「大丈夫です」と苦笑を見せたものの、怯えているには違いなかった。
「ご安心ください。何があろうともこの頼久がお守りいたしますゆえ。」
「あ、はい。すみません気を使わせちゃって、でも大丈夫です。恐いとかそういうことじゃなくて…人の姿が見当たらないから、この辺の畑の持ち主はどうしちゃったのかなって心配で……。」
小さな声でそう言うあかねの声に頼久は微笑んだ。
こんな状況でまで自分のことではなく見知らぬ人間の心配をするあかね。
こういうところこそが龍神の神子であった人だったと改めて思い知らされる。
そしてそんなあかねに魂さえも虜にされたのだと思えば、頼久の顔には自然と笑みが浮かんだ。
だが、その笑みは、あっという間に消えることとなった。
先頭を行く泰明が馬を止めたのにつられて馬を止め、自然と前へ向けた頼久の視線は廃墟と化した建物ばかりの村をとらえた。
本日の一行の目的地である村には、やはり人の姿は見えなかった。
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