「ではな、くれぐれも俺以外の男に移り気などせんでくれよ、奥方殿。」
「またそういうこと言う!アシュヴィンはっ!」
「有力豪族どころか下々の者の心までとらえる美しい奥方を持つとな、気苦労が絶えん。」
「なっ…。」
さらりと交わされる朝の会話。
いつもは憎たらしくも自分をからかってばかりのアシュヴィンから思わず惚気を聞かされて千尋は一瞬で顔を真っ赤にした。
何か言わなくてはと思っても言葉が出てこなくて、わたわたしているとアシュヴィンがすかさずその隙をついて唇をかすめ取る。
「アシュヴィン!」
「そう怒るな。しばらく会えんのだからな。」
アシュヴィンの寂しさを含んだ言葉に千尋は黙り込んだ。
そう、アシュヴィンはこれから少々離れたところへ視察に出ることになっているのだ。
つまり、視察がどれほどかかるかはわからないが、少なくても数日の間は会えないということになる。
だからこそアシュヴィンは千尋が他の男にとられはしないかと思わず口に出してしまったのだ。
「別れ際には笑顔を見せてくれ。その笑顔を視察先で思い出せるようにな。」
「…無茶言わないで…。」
ポスッと千尋がアシュヴィンの胸に額を預ければ、アシュヴィンは千尋を優しく抱きしめた。
これから数日の間、離れ離れでいなくてはならないというのに笑ってくれというのは無理な相談だ。
それでも千尋はゆっくりと上げた顔になんとか苦笑を浮かべることに成功した。
「無茶を通してくれるお前は、本当に俺の理想の奥方殿だ。」
そう言って自分も微笑を浮かべると、アシュヴィンは千尋の額に口づけを落としてポンポンと千尋の頭を撫でた。
「では、行ってくる。リブを置いていくから、何か不都合があればリブに言えばいい。」
「うん、わかった。アシュヴィンも気を付けてね。」
「ああ。」
アシュヴィンは最後に片手を軽く上げて見せると、千尋に背を向けて歩きだした。
凛とした姿勢のいい背中はマントを盛大に従えて千尋の視界から消えていく。
一度も振り返らない颯爽としたその背を見送って、千尋は一人深呼吸をして気合を入れる。
これからアシュヴィンのいない間、自分は自分できちんと仕事をしなくては。
そう気合いを入れて千尋は自分の部屋へと移動を始めた。
「長が是非にもと申しておりますが…。」
アシュヴィンは緑があふれている畑を眺めながら部下の報告を聞いていた。
見渡す限り秋には収穫が見込める作物が青々と茂っている風景は何とも心地がいいものだ。
風景は心地がいいのだが…
部下が恐る恐ると言った様子でアシュヴィンに報告しているその報告の内容はアシュヴィンに深いため息をつかせるものだった。
どこへ行っても必ずこの問題でアシュヴィンはいらだつことになる。
もういいかげん、自分が望んでいることをわかってもいい頃だと思うのだが、常世の有力豪族達はアシュヴィンの想いをなかなか理解しない。
いや、理解していて尚、アシュヴィンを苛立たせるこの申し出が必ず成されるのかもしれない。
何故なら、それが自分自身の地位の確保につながるからだ。
その申し出とは…
自分の娘を一夜のお供に献上したい。
である。
普通であればこれを断る男はまずいない。
権力者であればなおさらだ。
当然のことだと思っている。
娘を献上する側も心の底からもてなしているつもりである場合も多いし、たとえば娘を使って立身出世を狙ったとしても別に悪意があるというわけではない。
それが『常識』だからだ。
けれど、アシュヴィンはその『常識』とやらから逸脱した権力者、つまりは皇だ。
そこのところがなかなか理解されない。
リブを連れてきていれば毎回アシュヴィンが眉根を寄せることになるこの申し出はリブのところで廃棄される。
ところが今回は、少々長旅になるからと千尋のことを思ってリブを置いてきた。
おかげで行く先々で毎回のように娘をどうぞとほくほく顔で豪族達に勧められるものだから、さすがにアシュヴィンの苛立ちも頂点に達しつつあった。
「断れ。」
「はぁ…。」
「いらんと言っている!」
「はっ!」
思わず声が大きくなったアシュヴィンに部下は慌てて返事をすると、そそくさとその場を離れた。
アシュヴィンは決して傍若無人な皇ではないが、それでも怒れば恐ろしいと部下は良く知っている。
感情に任せて当たり散らすようなことはないが、怒りを受ければそれなりに恐ろしい事態が起こることもありえる。
特に今はその怒りを間違いなく沈めてくれるだろう奥方様がいない状態だということをこの部下は良く心得ていた。
だから無駄なことは言わずに引き下がった。
リブのようにとはいかないまでもどうやらそこそこ優秀な側近らしいとアシュヴィンが一つ安堵の息を吐いたその時、再び部下の足音が聞こえてアシュヴィンは視線を巡らせた。
するとアシュヴィンの視界に今にも倒れそうになりながら先ほど立ち去ったばかりの側近の肩を借りて歩いてくる兵士が現れた。
衣服は見るも無残に汚れ果てて、あちこち擦り切れてずいぶんとくたびれている。
顔色は悪く、目が血走っている辺り、相当な思いをしてここにたどり着いたのだろう。
アシュヴィンの脳裏に嫌な予感がよぎった。
「皇!」
「何事だ?」
「根宮より急使です!」
「根宮だと?」
アシュヴィンの鋭く光る眼が側近からぼろぼろになっている兵士へと向けられた。
その瞬間、兵士はその場に膝をつき、アシュヴィンに向かって深々と頭を下げた。
「リブ殿の要請により、急ぎ皇にご報告申し上げます!」
「リブが…なんだ?何があった?」
「奥方様が行方不明につき、急ぎ根宮へ御帰還頂きたく…。」
「……。」
一瞬、辺りを沈黙が満たした。
何かを命じるか、もしくは即行動を起こすと思われたアシュヴィンは何も言わず、身動き一つしなかった。
それが報告を持ってきた兵士にも側近にも不思議だった。
アシュヴィンが千尋を何よりも大事にしていることは常世では知らない者がないほどだ。
そのアシュヴィンが千尋が行方不明の報を受けて反応がないとは…
指示を仰がなくてはと側近が口を開こうとしたその時、アシュヴィンの口から地を這うような低い声が流れ出た。
「もう一度言え、何がどうしただと?」
「…その……奥方様が行方不明に……。」
地に膝をついたままの兵士がガタガタと震え始めるのとアシュヴィンの瞳が異様な光を放ち始めるのとは同時だった。
伝令の兵士は別に寒かったわけでも何かに恐怖を抱いたわけでもない。
何がどうなっているのかわからないままに勝手に体が震えだしたのだ。
そしてそれは動物としての本能に近い震えだった。
目の前に立つアシュヴィンが恐ろしいと感情が反応する前に、動物としての生存本能の方が恐怖を感じていた。
それは側近も同じだった。
ただ、疲れ切っている伝令兵とは違い、側近の方は指示を仰がなくてはならない。
その使命感で側近は口を開いた。
「い、いかが致しましょうか……。」
「俺は先に戻る、お前達は後から来い。」
「先にとおっしゃいますと……。」
側近が質問を重ねようとした刹那、空の向こうから風を従えて黒麒麟が舞い降りた。
何も言わずにアシュヴィンがその背にまたがれば、黒麒麟はそのまま空へと駆け上がった。
後に残されたのは一陣の風。
側近が不意に去って行ってしまった主を呆然と見送っていると、その足元でドサリと音がした。
慌てて足元へと視線を巡らせて、側近は初めて伝令兵が気を失ったことに気付いた。
空は蒼天。
陽射しは優しく辺りを照らしている。
それなのに根宮は死んだように静まり返っていた。
何故なら、女主である皇妃が不在だからだ。
リブはそんな根宮を背にただひたすら待っていた。
リブが待っているのは二つ。
偵察に放った兵士達の報告と主であるアシュヴィンの帰還だ。
千尋が姿を消した経緯は救出した侍女から聞き出しているし、偵察兵が情報を持ち帰れば現状の把握は可能だろう。
だが、その後、どう行動するかの判断はリブには難しかった。
リブはアシュヴィンの信頼厚い側近だが、将軍ではない。
軍を率いることは不可能とは言わないが得意ではない。
特に今回は千尋を救出するという絶対条件が伴う。
ただ敵を殲滅するよりもそれは難しい任務になるだろう。
となれば、陣頭指揮はやはりアシュヴィンが執った方がいい。
リブはそう判断していた。
どちらが先か?
放った伝令兵が無事に到着していればアシュヴィンは黒麒麟に乗ってすぐに戻ってくる。
そう信じて疑わないリブの前に先に姿を現したのは果たして、地に舞い降りた黒麒麟の背から寸分の隙もない身のこなしで降り立ったアシュヴィンだった。
「や、陛下、お戻りくださいましたか…このたびは…。」
「謝罪はいらん、お前はしないだろうが言い訳もいらん、状況の説明をしろ。」
静かなアシュヴィンの声に今にも燃え上がらんとしている怒りが含まれていることをリブは瞬時に感じ取った。
その怒りが決して自分に向けられているわけではないことも。
アシュヴィンの怒りは千尋に仇成すもの、そしてそれらから千尋を守れなかった自分自身に向けられているに違いなかった。
「一昨日の昼に奥方様は侍女と警護兵を伴い、近隣の視察に向かわれました。しかし、戻ってきたのは警護の兵と侍女だけで、奥方様は戻られませんでした。」
「どういうことだ?」
「戻ってきた侍女の話では、奥方様は警護の兵と侍女の身の安全を確保するために賊に自らとらわれたと。」
アシュヴィンが両手をきつく握りしめるのがリブの目に映った。
確かに千尋なら自分を犠牲にして部下を救うくらいの選択はするだろう。
おそらく侍女の証言は間違ってはいない。
だが、ならば何のための警護兵かとアシュヴィンは胸の内で叫びながら両手を握りしめていた。
「陛下、賊はどうやら人質をとっていたようで。」
「人質、だと?侍女でもとらわれたのか?」
「いえ、侍女の話ですと賊がとらえていた女が逃げてきて奥方様に助けを求めたそうで、その女を追ってきた賊が女の妹を既に人質に取っていたとか。」
「その人質を助けるために千尋が自分からつかまった…。」
「はい。警護兵は力ずくでも奥方様を逃がそうと努力はしたと思うのですが…。」
「千尋が折れるわけがないだろう。」
そう、誰かの命と引き換えに自分だけが助かる道を千尋が選ぶわけがない。
そんな女ならアシュヴィンはこれほどまれに恋い焦がれたりはしなかった。
そうとわかっているだけにアシュヴィンの苛立ちはつのるばかりでぶつける先が見つからない。
「御報告申し上げます!」
アシュヴィンが放ちようのない怒りに身を震わせていると、そこへリブが放っていた偵察の兵が戻ってきた。
兵士は二人の前に膝をついて一礼するとすぐにリブの顔を見上げた。
「かまわん、報告しろ。」
許可を出したのはアシュヴィンだった。
今は皇に直接口をきくなだのと悠長なことを言っている気にはなれない。
「賊の正体は突き止めたか?どこの勢力のものだ?滅亡したがっているのは。」
低いアシュヴィンの声に思わず兵士がふるりと体を震わせた。
地を鳴らすのではないかと思うほどアシュヴィンの声は低く、そして力に満ちていた。
兵士は気を取り直すと一度アシュヴィンに頭を下げ、やっとの思いで口を開いた。
「いえ、豪族などの勢力を持ったものではありません。皇妃様をさらったのは山賊でした。」
「山賊、だと……。」
「はい、リブ殿の指示で敵に見つからぬように捜索を続けた結果、敵の根城を発見。報告に参りました。」
「つまり、我が妻をさらったのは山賊ごとき下郎で、居場所も見つけたというのだな?」
「はっ!」
アシュヴィンは腰の剣に手をかけると、そのままふわりと黒麒麟にまたがった。
「乗れ。」
「は?」
「俺の後ろに乗って案内しろと言っている。」
「やっ、陛下!それは…。」
「黙れリブ。俺は一人で行く。山賊ごとき根こそぎ追い払って千尋を取り戻す。」
「しかし陛下…。」
「千尋にかすり傷一つでもつけていたら皆殺しだ!何をしている!乗れ!」
珍しくわたわたとあわてふためくリブを無視してアシュヴィンはふらふらと近づいてきた偵察兵を黒麒麟の上へ引き上げてしまった。
するととたんに黒麒麟は空へと駆け上がる。
リブが「あ」と声をあげる間さえもないほど、それは一瞬の出来事だった。
空の彼方へと消えていく主を呆然と見送って、リブははっと我に返ると自分がすべきことについて思いを巡らせた。
兵を集め、主の後を追わなくてはならない。
黒麒麟の速度には追いつかないが、後詰くらいはできるはずだった。
偵察兵は一人で偵察していたわけではないから、偵察に出した誰かからは敵の根城を聞きだすことができるだろう。
そう計算してリブは一つうなずくと行動を開始した。
後編へ