アシュヴィンは木々の間に降り立った。
傍らには真っ青な顔をしている偵察兵と二人を背に乗せて空を駆けてきた黒麒麟がいるのみだ。
木漏れ日に照らされるアシュヴィンは目の前の急斜面を見上げて目を細めた。
偵察兵が言うにはこの急斜面を登りきったところにちょっとした平地があり、平地の向こうに大きな洞窟があるという。
その洞窟こそが賊どもの根城だということだった。
おそらく連絡をとればこの周囲にまだ偵察に来たまま、敵の根城を見張っている兵士がいるはずで、偵察兵は彼らを呼び集めることをアシュヴィンに提案した。
ところが、その提案はアシュヴィンの首の一振りで却下された。
アシュヴィンの体から発せられる殺気に気圧されて兵士は何故仲間を集めないのかと問うことさえできなかった。
真昼間、奇襲をかけるにはあまりにも不利な状況だ。
しかも常世の皇が単身で乗り込むなど、まったくもって現実的ではない。
アシュヴィンは以前、黒雷と呼ばれて恐れられ、その後は暗黒神にさえ勝利した英雄と噂されている豪傑だ。
神にさえ勝利したといえば確かに山賊の相手など一人でもつとまるのかもしれないが、神と戦った際は確か仲間がいたはずだった。
その仲間の中に龍神の神子である今の皇妃もいたはずだ。
皇妃もなく、神と戦った際の仲間もなく、今のアシュヴィンは真実、ただ一人。
いくら英雄とはいえ山賊にたった一人で立ち向かえるものだろうか?
偵察兵は心の中でそんなことをつらつらと考えては見たものの、何一つ答えを出すことはできないままその場に膝をついてしまった。
偵察の命を受けてから働き通しだったため、どうやら体力が限界に達したようだった。
さくりと下草を踏む音が聞こえて兵士は顔を上げた。
目の前には黒麒麟を伴って歩き出した皇の姿がある。
慌てて立とうとして膝をついて、兵士はすぐに口を開いた。
「陛下!」
「お前はそこにいろ。ついてきても足手まといだ。」
低い声は逆らうことを許さないと言外に告げていた。
足元がふらついている兵士など、確かに足手まといにしかならないに違いない。
だから、偵察兵は唇を噛みながら主を見送るしかなかった。
あとは仲間達がこの事態に気付いて駆けつけてくるのを期待するしかない。
「敵は30人ほどかと思われます。ご用心を。」
この言葉にアシュヴィンはただ軽く右手を上げて答えただけだった。
自分の不在時にリブの命令で命をかけた偵察をしていたのだろう忠義の部下にこれ以上の危険を冒させるつもりは毛頭ない。
敵はたかだか30人。
相手はただの山賊だという。
ならばアシュヴィンに負ける気は欠片ほどもなかった。
ただ、心配なのは千尋だ。
武術もできるが人質を取られてさらわれたとなれば、おそらく無抵抗のまま賊の言いなりになっているのだろう。
万が一にも賊どもが不埒なまねに及ぼうとしたなら、千尋は舌を噛んででも自らの命を絶つような女だとアシュヴィンは思っている。
もし本当にそんなことになっていたら…
ただ殺すだけで済ますものか。
アシュヴィンの体から殺気と怒気が同時に放たれた。
呼応するように黒麒麟も首を振り、その目に殺気を宿らせる。
人と麒麟の主従は急斜面を息も切らさず登り切り、相手をうかがうことなく勢いよく平地へと躍り出た。
洞窟の前には案の定、見張りの賊が二人ほど立っていた。
すぐに剣を抜いて構えるアシュヴィンに「何者だ?」と声をかけようとしてそれはかなわなかった。
見張りの一人を有無をアシュヴィンは有無を言わさず切り倒したのだ。
そしてもう一人は黒麒麟がアシュヴィンと同時に突き倒していた。
二人の見張りは呻き声をあげることはできたが、仲間達に危険を知らせることはできなかった。
剣にまとわりつく敵の血を振り払い、アシュヴィンは洞窟内へと足を踏み入れた。
入口からは想像もできないほど広い洞窟の中は灯りがともされていて辺りが良く見える。
洞窟内に響く音からすると、どうやら賊は何かトラブルに見舞われたようで浮足立っているようだった。
ならば好機とばかりにアシュヴィンはどんどん奥へと進む。
すると、一際広い空間へとたどり着いた。
十人以上の賊がその部屋に集っているのが目に入る。
誰もが不審そうな顔でアシュヴィンを見上げた。
「なんだ?てめぇは。」
賊の頭らしき男が一番奥にどんと胡坐をかいて座ったままたずねるのにもアシュヴィンは何も答えなかった。
抜身の剣を構えたかと思うと、一番手近な賊に切りつける。
同時に黒麒麟はアシュヴィンの左へと回り込み、賊を一人突き倒していた。
岩に体を打ち付ける鈍い音と呻き声、そして血飛沫が同時に辺りに広がった。
一瞬で賊達が立ち上がり、手に得物を構える。
アシュヴィンはそんな賊達を睨みまわした。
「俺の妻はどこだ?返せ。さもなくば皆殺しにする。」
声だけで人を殺しそうな殺気に賊は一様におののいた。
ただし、頭らしき男だけは眉根を寄せて胡散臭そうにアシュヴィンを睨み付けている。
「妻だ?あのじゃじゃ馬か…。」
「かすり傷一つでもつけていたら、死んだ方がましだと思う目に合わせてくれる。」
「てめぇ正気か?お前の妻とやらを殺されてもいいのかよ。」
「やってみろ、お前達の命もない。」
アシュヴィンが剣を構え直した。
切っ先を正面に構え、怒りに満ちた瞳で頭を睨み付ける。
声を聞いただけならば平気なふりもできた賊の頭が額から脂汗を流し始めた。
怒りの炎を宿したアシュヴィンの視線が頭の体を焦がしていた。
アシュヴィンの視線には敵を射すくめる以上の威力があった。
賊の頭はアシュヴィンの視線だけで体を焼かれるような思いにさいなまれ、いてもたってもいられずに立ち上がった。
緊張で張りつめた山賊達にとっては頭のその行動が引き金になった。
緊張と恐怖で引きつっていた精神がぷつりと音を立てて切れ、山賊達は一斉にアシュヴィンに切りかかった。
奇声さえあげながら襲い掛かってくる賊に対してアシュヴィンは一歩も引かない。
引くどころか剣を構えたアシュヴィンは頭の方へ向かって足を踏み出していた。
左右から飛びかかる敵を一刀のもとに切り伏せ、次に襲ってくる刃を身をひねってかわすとそのまま頭へと突進する。
がら空きになった背中を賊が狙えば、ものすごい勢いで突進してきた黒麒麟が賊の一人を突き飛ばし、次に襲いかかってきた賊は黒麒麟の後ろ蹴りで胸を砕かれた。
頭を守ろうとするというよりも自分の身を守ろうという本能で襲い掛かってくる山賊を更に二人切り倒し、アシュヴィンは頭に迫る。
あまりの勢いに慌てた頭は力自慢なのかやたらと刃の大きな剣を振り上げたが、それを振り下ろすことはできなかった。
素早く間合いを詰めたアシュヴィンはあっという間に頭の手から大剣を叩き落とし、次の瞬間には首元に己の剣の切っ先を当てていた。
つーっと赤い筋が頭の首に糸をひく。
頭に集中しているアシュヴィンの背後では次々に鈍い音と呻き声が響いていた。
何度も共に死地を潜り抜けてきた黒麒麟は見事に主の背を守っている。
10人ほどいた山賊はあっという間に再起不能にされていた。
「な、なんだってんだお前…。」
「この黒雷の妻をさらったこと、地獄へ落ちてからも後悔するがいい。」
「く、黒雷……皇!」
頭は驚きのあまり腰を抜かした。
そこでアシュヴィンはようやく小首を傾げた。
この頭の驚きようは演技ではない。
とすると、千尋は常世の皇妃だからさらわれたというわけではないのか?
すっかり千尋を人質に自分の命なり常世の覇権なりを要求するつもりでさらったのだと思っていたアシュヴィンはここで少しばかり冷静さを取り戻した。
よくよく考えてみれば、そんなつもりでさらっているのなら既に何らかの要求が根宮の方へ突き付けられていいはずだ。
だいたい、ただの山賊がそんな恐ろしいことを考え出したりするものだろうか?
「お前、なんのために千尋をさらった?」
「ま、まさかそんな…。」
「どういうつもりでさらった!」
「ひぃっ…。」
詰め寄るアシュヴィンに頭は青白い顔いろのまま目を白黒させている。
どうやら気絶寸前らしい。
そうこうしている間にアシュヴィンの背後が再び騒がしくなった。
残りの山賊が異変に気付いて駆けつけてきたのだ。
頭の喉元に切っ先を突き付けたままアシュヴィンが辺りの様子をうかがえば、背を合わせた黒麒麟の前に賊の群れが出現していた。
ここは頭を人質にとって千尋の居場所を吐かせるか?
いや、そもそも賊にとってこの頭は人質としての価値があるのか?
見殺しにされるのがオチなのではないか?
アシュヴィンは瞬時に様々な可能性を考えていた。
何よりも優先されるべきは千尋の居場所を聞き出すこと。
そして千尋を無事に救出することだ。
「おい、お前、命が惜しければ千尋の居場所を吐け。言わぬなら殺す。」
千尋の居場所を聞くだけならこの頭に吐かせれば問題はない。
ただし、黒麒麟だけで背後の敵の相手をするのは無理だ。
時間はかけられない。
アシュヴィンが何が何でも千尋の居場所を聞き出そうと切っ先を怯える頭の首に強く押し当てたその時、背後で呻き声が立て続けに聞こえた。
慌てて振り返れば賊の何人かが声をあげながら倒れていく。
「アシュヴィン!無事?!」
聞こえてきた声にアシュヴィンは目を見開いた。
入口に姿を現したのは間違いない、さらわれたはずの千尋だった。
手には弓を構え、背後には白い麒麟とリブ、それに何人かの味方の兵士を従えている。
「千尋?」
「よかった!無事ね!」
何が起こっているのかアシュヴィンには全くわからなかった。
助けなくてはならないはずの千尋に何故自分が無事を確認されているのか?
まったくもって訳が分からない。
アシュヴィンがあっけにとられているうちにリブが指揮を執り、賊はあっという間に味方の兵に制圧されてしまった。
「どこも怪我はない?」
「それはこっちの台詞だ、お前こそ怪我はないのか?」
「うん、大丈夫。」
にっこり笑う千尋をアシュヴィンは左腕一本で抱きしめた。
今は右腕に握っている剣を鞘へ戻す間さえ惜しかった。
腕の中にある温もりは間違いなく本物。
笑顔も作り物ではない。
千尋は無事だった。
かすり傷一つなく。
アシュヴィンには今、それだけで充分だった。
リブが味方を指揮し、敵を縛り上げている間、アシュヴィンはずっと千尋を抱きしめ続けていた。
「で、何がどうなってるんだ?説明してくれ。」
アシュヴィンは千尋と二人、黒麒麟の背に乗っていた。
千尋はというとニコニコと微笑を浮かべてアシュヴィンの胸に寄り添っていた。
「視察をしていたらね、女の人が山賊にとらわれていたんだけど逃げてきたから助けてほしいって言われて…。」
「ああ、それは聞いた。助けようとしたら山賊が女の妹を人質に現れて、お前は二人を助けるために賊に自らとらえられたのだろう?」
「うん、そうなの。でもね、実はそれ、お芝居だったみたいで。」
「芝居?」
「そう、私をさらうためのお芝居だったみたい。女の人は二人とも姉妹でもなんでもなくて山賊の仲間だったの。こんな罠にひっかかって心配かけてごめんね。」
「それはもういい。人質を見捨てられるような女なら俺はこんなに惚れてはいないしな。」
「ほ、惚れてって……。」
顔を真っ赤にする千尋の額に口づけて、アシュヴィンは微笑を浮かべて見せた。
いつもなら不敵な笑みの一つも浮かべそうなアシュヴィンは今、千尋の体に腕を回して上機嫌だ。
そんなアシュヴィンからやっとの思いで視線を外して、千尋はこほんと一つ照れ隠しの咳払いをすると再び口を開いた。
「どうやら私をお金持ちの家のお嬢さんって思ったみたいで、どこの家の娘だ?とか色々聞かれたんだけど、まさか常世の皇のお妃ですって言うわけにもいかなくて黙ってたの。」
それはそうだろう。
皇の妃だなどと言ったらそれこそ即座に殺されかねない。
アシュヴィンが千尋の英断にほっと安堵のため息をついていると千尋は思いがけない一言を放った。
「私がアシュヴィンの奥方だってわかったら常世のみんなに迷惑がかかっちゃうでしょう?だから黙ってたんだけど、そうしたら言い争いになっちゃって…。」
ここで今度はアシュヴィンが呆れたため息をついた。
まさか民に迷惑をかけたくないからという理由で身分を隠したとは…
しかもそこで言い争いになるとはどういう状況だ?
アシュヴィンは突っ込みそうになる自分を制して千尋の話に耳を傾けた。
「で、女の人達は山賊の仲間だってわかったから天鹿児弓で反撃したんだけど敵が多くて倒しきれなくて…。」
おいおいおいとアシュヴィンは思わず心の中でつぶやいていた。
山賊の頭が「あのじゃじゃ馬」と言っていた理由が判明した気がする。
それにしてもあの人数を相手にしていたなら確かに千尋一人では手に余ったはずだ。
ならば何故、千尋はリブを伴ってアシュヴィンの前に現れたのか?
「おい、それならお前は再び捕えられたんじゃないのか?」
「そうなるかなって思ったんだけど、反撃を始めたらすぐに白麒麟が来てくれて私を外へ連れ出してくれたの。それで根宮に急いで帰ってみたらリブが兵を集めてたから…。」
「事情を聞いて俺を救出に来たわけか…。」
「そうなの。アシュヴィンのことだから無茶してるんじゃないかと思って心配で…。」
「それはこっちの台詞だ…。」
アシュヴィンは深いため息をついてから千尋を抱きしめた。
すると千尋は悲しそうな顔でアシュヴィンを見上げると、碧い瞳に涙さえ浮かべた。
アシュヴィンの表情が一瞬にして凍り付く。
「ごめんね、すごく心配させちゃって…。」
「そう、だな。お前を失うかもしれないと思った時の俺の心持を想像してくれ。」
「うん、ごめんなさい。」
「悪いと思っているなら償ってくれるか?」
「へ、どうやって?」
「俺も少しばかり疲れた。休みを取ることにする。だからお前は、休みの間は四六時中俺のそばにいろ。それが償いだ。」
そう言って千尋に優しく口づければ千尋は嬉しそうに笑みを浮かべてうなずいた。
さすがにこの休みが3日を越えたところで、仕事をしなさいと千尋に説教されることになるのだが…
その日までアシュヴィンは千尋との甘い一時を満喫するのだった。