月明かりに照らされてあかねの瞳に美しく映っているのは真っ赤に色付いたもみじの葉。
風のない秋の夜はとても穏やかで、あかねの顔には常に微笑が浮かんでいた。
いつも眺めている自分の屋敷の庭とは全く違った風景は想像していたよりも圧倒的に綺麗で、あかねはいつまでも飽きることなく眺めていた。
ここは頼久が手配してくれた宿の一室。
どうして宿にいるのかと言うと、それは温泉につかるためにちょっとした旅をしたから。
すっかり辺りが秋めいて気温が下がってきたというので、まず騒いだのが藤姫だった。
快適に冬を過ごる世界からやってきたあかねはきっとこの京の寒さを憂鬱に思っているに違いないと。
それを聞いて、さもありなんとうなずいたのが頼久だった。
この二人、こと龍神の神子のこととなると周りが見えなくなることはなはだしい。
その二人が意見を合わせてしまったものだから、話はあれよあれよと言う間に大きくなった。
あかねはきっとこの寒さを辛くて仕方がないと思っているに違いないというのが二人の寸分たがわぬ意見だった。
当のあかねは、元いた世界より夏が暑かった分、冬は暖冬だななどとのんきに思っていたのだけれど…
そして意見が合致した頼久と藤姫の二人は、是非ともあかねに暖かい場所を用意しなくてはならないという結論にたどり着いた。
その結果、屋敷を改築するだの着物を新調するだのと大騒動が始まりそうになって、あかねが必死でそれを止めた。
あかねがやめてくれと言うのだから頼久も藤姫も右往左往するのをやめはしたが…
もちろん、二人ともあかねに京で快適な冬を過ごしてもらうことを断念したわけではなかった。
どうしてもあかねにこの京で快適な冬を過ごしてもらうべく、神子様大事の二人によってこの旅行が計画されたのだ。
そう、ここは温泉。
紅葉と温かい温泉の両方を楽しむことができる宿を確保したのは頼久だ。
そして旅支度の全てを整えたのは藤姫だった。
道中は牛車が苦手なあかねのために用意された大人しい馬に頼久と二人で乗ってきた。
だから車のないこの京では長い道のりになるはずの旅程もあかねにとっては楽しい一時だった。
宿へ到着してからも温泉につかるまでは仕事で留守がちの頼久と二人で過ごせたから、あかねにとっては楽しいばかりの旅行になっていた。
「あかね?」
「頼久さん。」
月ともみじを楽しんでいたあかねの前に姿を現したのは、単を身に着けただけの頼久だった。
濡れ髪が肩にかかっているその姿はいつもの颯爽とした姿とは違って、あかねは思わず頬を赤く染めた。
「こんなところで月を見ておいででしたか?」
「はい。あ、紅葉も。凄くきれいで。」
「確かに…。」
あかねに言われて頼久は空を見上げた。
そこには真円に近い満月が。
「お屋敷のもみじも綺麗ですけど、ここは山も綺麗に紅葉してて見ごたえがありますよね。」
「気に入って頂けましたか?」
「はい!温泉もとっても気持ちよくて。」
「それは何よりです。」
あかねの返事にほっと安堵の溜め息をついて頼久はあかねの隣へと腰を落ち着けた。
「頼久さんが選んでくれたんですよね、この温泉。」
「はい。気に入って頂けるか心配でしたが…。」
「凄く気持ちよかったです!温泉なんて初めてで。」
「そうでしたか。」
「はい。紅葉も凄くきれいでびっくりしました。」
頼久はあかねを見つめる目を細めた。
ニコニコと微笑むあかねの笑顔は頼久にとって頭上の満月よりもまぶしく尊い光に見えるのだ。
「藤姫も一緒に来られたらよかったのに。」
それは頼久も考えたことだった。
きっとあかねはこう言うに違いないと頼久には分っていたから、藤姫も一緒にと誘ってはみた。
けれど藤姫は残念そうに苦笑しながら首を横に振ったのだ。
あかねには大好きな夫と二人で過ごしてもらいたいのだと、藤姫はそう言った。
いつもは頼久を父があかねから取り上げてしまっているのだからとも言っていた。
頼久が仕事をするのはだいたい藤姫の父である左大臣からの命令がある時だ。
そのことを藤姫はあかねに常に申し訳なく思っているのだった。
「二人きりももちろんとっても嬉しいんですけど…。」
明日にでも藤姫に来てもらえるように使いを出そうかと言おうとしていた頼久の耳に、小さなあかねの声が届いた。
思いがけない言葉に頼久が隣に座るあかねの顔を見やれば、あかねは恥ずかしそうに頬を染めてうつむいていた。
「……私も、その…幸福です。」
こういう時、頼久は言葉が不得手な自分を呪いたくなる。
今自分がどれほど幸せか、こんな言い方であかねに伝わるだろうか?
そんな思いで頼久があかねをじっと見つめていると、上目遣いに頼久を見たあかねはにっこり幸せそうに微笑んでいた。
言葉が拙くても想いが伝わっていることを実感した頼久は、思わずあかねへと手を伸ばした。
その手があかねの手に触れると…
「あかね…。」
「はい?」
呼ばれて不思議そうに小首をかしげるあかねに頼久は溜め息をついた。
何故なら…
「すっかり冷えてしまっているではありませんか。」
「へ…。」
「このままでは風邪をひいてしまいます。」
「これくらい大丈夫…。」
「ではありません。」
きっぱりと言い放った頼久はさっとあかねを抱いて立ち上がった。
あかねに有無を言わさず歩き出し、向かった先はもちろん温泉だ。
「頼久さん、大丈夫ですよ。」
「いけません。寒さの増すこの季節を温かく過ごして頂くためにここまで来たのですから。」
真剣な顔でそう言う頼久にあかねは苦笑した。
相変わらず大げさだ。
そう思っていたあかねに頼久はふっと艶やかな笑みを浮かべて見せた。
「それに、ここまで来て一度しか温泉につからぬというのもどうかと。」
「まぁ、確かに。」
「今度は二人でというのはいかがでしょうか?」
予想もしなかった頼久の申し出に、あかねは顔を真っ赤にしながらも小さくこくりとなずいた。
一人で入った温泉は、それは確かにゆったりとくつろげたけれど、少し寂しくもあったから…
頼久は愛らしい了承を得て、歩みを速めた。
向かった先の温泉は、白い湯気を上げながら紅に染まったもみじと共に二人を迎え入れた。