トントンと小気味いい音が耳に届いて、頼久はその口元に笑みを浮かべた。
目の前には目に刺さるほど明るいパソコンの画面。
背後には愛しい人が自分のために料理を作ってくれている気配。
目の前の仕事は邪魔と言えば邪魔だが、背後に感じる優しい気配が在れば仕事などあっという間に片づけて見せる。
それが源頼久という男だった。
特に、彼の愛する婚約者、あかねが頼久にきちんと仕事をすることを望んでいるとなればなおさらだ。
あかねは決して自分のために仕事をおろそかにすることを頼久に許さない。
もっとわがままを言ったり甘えたりしてほしいと頼久が思ってしまうほど、あかねは頼久のことを思って色々我慢をしてくれるのだ。
そんなあかねの気持ちを思いやればこそ、頼久は目の前の仕事を光速で仕上げている最中だった。
早速書斎にまで流れ込んでくる香りはというと生姜と味噌のものだ。
その香りで今晩のおかずは生姜焼きに違いないなどと頭の片隅で予想することさえ幸福で、頼久の顔にはうっすらと微笑が浮かんだままだった。
まさに幸福の塊と化しつつあった頼久の耳にとんでもないものが聞こえてきたのは、仕事がもう少しで片付くというその直前のことだった。
『痛っ!』
小さく響いたその声は、おそらく頼久以外の人間の耳には聞き取れなかっただろう。
それほど小さな声を頼久の耳は素早くとらえ、そして頼久の体は反射的に動いていた。
当然仕事はそっちのけ。
書斎のドアを音も高らかに力いっぱい開け放つと、大きな体が俊敏にキッチンへと駆け込んだ。
「どうなさいましたか!」
「頼久さん…ごめんなさい、お仕事の邪魔しちゃって。」
あかねは口にくわえていた左手の人差し指を解放して振り返ると、頼久に苦笑して見せた。
そんなあかねの背後には途中まで刻まれた長ネギと放置された包丁。
それを見ただけで頼久は現状を把握した。
「失礼致します。」
たった今まであかねの口の中にあっただろう細い指を抵抗する間も与えずに頼久は自分の方へと引き寄せた。
指先には3ミリほどの細い線が走っている。
頼久が眉間にシワを寄せるその一瞬の間に、ついさっきまでただの線だったそこから紅の血液があふれてきた。
「あの……ちょっとなので、大丈夫ですから……。」
これは大げさに騒がれるのでは?と警戒したらしいあかねが控えめにそう言うと、頼久はあかねの手を解放した。
そして…
「少々お待ち下さい。」
ほっとしているあかねにそう告げた頼久はキッチンを駈け出して、どこからともなく救急箱を持ってきた。
「そんなのあったんですね。」
「はい、最近用意しました。」
あかねが驚いているうちに頼久は救急箱を開けて、消毒液だの脱脂綿だの絆創膏だのを次々に取り出した。
何とはなしにあかねが箱の中をのぞいてみると、そこには胃薬、風邪薬、ビタミン剤に始まり、痛み止めや鼻炎薬に至るまでありとあらゆる薬がそろっていた。
「うわぁ、たくさんありますね。」
「はい。いつも病院が開いているとは限りません。神子殿に何があろうとできることは全てできるように用意してあります。」
至って真剣な口調でそんなことを言われて、あかねは一瞬驚きで目を見開いた。
その間にも頼久が手際よくあかねの指の傷を治療していく。
脱脂綿に軽く消毒液をしみこませて傷を優しくぬぐうと、絆創膏を優しく丁寧に、しかも素早く貼るその手際にあかねはまた驚かされた。
頼久の手は決して小さくはない、というか大きい。
最近でも木刀で鍛錬をしているらしいその手はごつごつとしていたし、とても繊細な作業を得意としているとは思えなかった。
ところが、その手があかねの細い指先を見事に治療して見せたのだった。
「これでもう大丈夫です。」
「有り難うございます。頼久さん上手ですね。なんか私、女としてちょっとショックかも…。」
「は?」
「ナイチンゲールは女性はみんな看護婦だって言ったって聞いたことありますけど、私、頼久さんより手際よくやる自信ないです…。」
力なく苦笑するあかねを見て頼久は小さく溜め息をついた。
あかねに何かを褒められるのは頼久にとって何より嬉しいことだが、この技術ばかりはそうも言っていられないからだ。
「頼久さん?」
「私が傷の治療に慣れているのは経験のためです。」
「経験…。」
「はい。京では現場での応急処置が適切かどうかで生きるか死ぬかの大半が決まりました。」
「あ……。」
頼久の言葉にあかねは京で過ごした日々を思い出した。
そう、目の前にいるこの人は京では武士という仕事をしていた人だ。
武士とはつまり刀をふるって戦う人達のことで、軽い怪我は日常茶飯事だったに違いない。
「特に切り傷の治療は数えきれないほどしてきましたので、私の手際が良いのは当然のことです。」
「そう、ですよね……。」
「ですから、神子殿が気になさる必要はどこにも。」
そう言って苦笑して頼久はあかねの手を解放した。
今度は手際よく使ったものを救急箱に詰め込んでいく頼久を見つめながら、あかねは治療してもらったばかりの左手を優しく抱きしめた。
この手を治療してくれたその技術が命をかけた日々の中で養われたものだと思うと、苦しいような悲しいような、それでいて嬉しいような複雑な気持ちだった。
ただ、今はもう、命をかける必要のない世界に大切な人といられることは嬉しい、それは間違いない。
だから、あかねは救急箱を元の場所に戻そうと歩き出した頼久に抱きついた。
「神子殿?」
「治療、有り難うございます。」
「いえ、お役に立てて光栄です。」
「それから、私と一緒にこの世界に来てくれて、有り難うございます。」
突然のその言葉は頼久を驚かせた。
だが、頼久はすぐにあかねの言いたいことを読み取った。
「お礼を申し上げるのは私の方です。この頼久を連れ帰って下さったこと、どれほど感謝しても感謝しきれるものではありません。」
そう言って頼久は自分に抱きつくあかねの体を一度優しく抱きしめると、すぐにそっと引き離した。
「これを片付けて参ります。それから料理の続きを致しますので。」
「へ……そんな!私がやります!ゴム手袋すれば大丈夫ですから。」
「いいえ、今日は私が。」
こればかりは譲らないという勢いでそう言った頼久は、あっという間に救急箱を片づけて戻ると、包丁を手に長ネギの小口切りを始めた。
「これは味噌汁用ですね?」
「そう、ですけど……。」
「何か?」
「頼久さん、包丁の扱いもうまいですね…。」
「それはその……武士でしたので。」
「それ、何か関係ありますか?」
「同じ刃物ですので……。」
おろおろとした様子でそう言う頼久をあかねは横からじっと見つめた。
同じ刃物とはいえ包丁と刀の扱いが同じ、もしくは似ているとはとても思えない。
「もぅ、頼久さんばっかりなんでもできて私全然追いつけないです…。」
「そんなことはありません。料理は神子殿の方が遙かにお上手です。」
「でも包丁使うのは頼久さんの方が上手そうです…。」
「そんなことはないと思いますが……。」
冷や汗さえかきそうな勢いで頼久がそう言い淀むと、あかねは急にギュッと右手を握りしめて姿勢を正した。
「私、もっともっと料理勉強します。絶対、頼久さんより上手に包丁使えるようになりますから。」
「ですがその…。」
「もちろん、怪我には気をつけます。」
「はい。」
頼久は自分の言いたいことをくみ取ってくれたあかねの横顔を見て微笑んだ。
あかねの努力を惜しまないところは美点だ。
頼久は別にその美点に水を差すつもりはない。
「これからはたーっくさんお料理作りますから、覚悟してくださいね。」
「食べる量には自信があります。ご安心を。」
「それにさっきの救急箱に胃薬ちゃんと入ってましたもんね。」
「神子殿の料理を食べて腹を壊すことはないと思いますが、神子殿が体調を崩された時にはすぐにおっしゃってください。各種薬は用意してありますので。」
「各種、ですか。」
あかねはさきほど見たばかりの救急箱の中身を思い起こした。
確かに薬の瓶はかなりの数ならんでいた気がする。
「えっと、たとえば…。」
「口内炎の薬には驚かされました。」
「ビタミン剤みたいなやつですか?」
「いえ、炎症部分に貼る薬です。」
「は、貼るんですか?口内炎に?口の中ですよ?」
「はい。薬局の者がよく効くと進めてくれました。」
「そ、そんなのあるんだ…。」
「はい、ですので、口内炎の際もおっしゃってください。」
「はい、有り難うございます。」
そんな薬まで用意しているのは頼久があかねを心から想っているから。
あかねの身に何かあったら一瞬でも早く、少しでも楽にしたいと思っているから。
そんな頼久の想いに気付いてあかねはその顔に幸福でいっぱいの笑みを浮かべた。
「神子殿…。」
「色々たくさん有り難うございます。」
「いえ、そのような…。」
あかねの幸せな笑顔は頼久の顔にも同じような笑みを引き出す。
二人はしばらく笑みを交わして、それから食事の支度を再開した。
最後、頼久が刻んだ長ネギで味噌汁が完成するとあとはもう食べるばかり。
テーブルの上に全ての料理を並べ終わったその時点で頼久はあることに気付いた。
そう、さきほどまでかかりきりだった仕事を放り出していたことを思い出したのだ。
「頼久さん?」
急に動きを止めた頼久にあかねが小首を傾げた。
その愛らしさに思わず見とれて、それから頼久は自分のいつも座っている席についた。
「どうかしました?」
「いえ、なんでもありません。いただきます。」
「あ、はい、どうぞ。」
あかねが向かい側に座ると、頼久は箸を手に勢いよく食事を開始した。
あかねが手を切りながらも作ってくれた食事が目の前にある。
それを仕事が途中だからと言って放り出すことなど頼久にはできなかった。
この食事が冷めてしまうくらいなら、仕事など後の後でかまわない。
頼久は仕事のことを頭の片隅から更に隅へと押しやって、あかねの手料理を堪能するのだった。