山桜
 頼久は夕陽で紅に染まった道を馬に乗って進んでいた。

 仕事を終えた帰り道だが、その眉間にはうっすらとシワが寄っている。

 もちろん、仕事で失態があったわけではない。

 いつものように仕事は何事もなく終えている。

 仕事に問題がなく、これから愛しい妻の待つ屋敷へ帰るとなれば、頼久の顔はいつもはうっすらと笑みさえ浮かべているのが普通だ。

 その帰路の頼久の眉間にシワが寄っているのにはもちろんわけがある。

 今回の仕事は予定にはなかった突発的なものだった。

 頼久はここ数日を休みにしてあかねと花見をする予定だったのだが、突然入り込んだ仕事のおかげでその予定が狂ってしまった。

 予定が狂っただけなら頼久もさすがに不機嫌になったりはしない。

 帰ってから妻に詫びて、改めて花見をすればいいだけのことだ。

 心優しい妻が笑って許してくれるであろうことも頼久にはわかっている。

 そんな妻に予定よりも遅れてしまった分、頼久は不得手な心遣いを精一杯努力し、尽くすつもりだったのだ。

 ところが、帰ってきてすぐにその計算も狂った。

 武士溜まりに残っていた仲間の武士達の話では、ここ数日、京では強風が吹いたという。

 今回の頼久の仕事は京を出た先まで左大臣を護衛することだったから、京でそんなに強い風が吹いたとは知らなかった。

 つまり、仕事から帰ってみれば、京の桜は強風ですっかり散ってしまっていたのだ。

 だから頼久は葉桜を前に悲しげにしているであろう愛しい妻の様子を思い浮かべて、難しい顔のままあかねの待つ屋敷へと戻ってきた。

 急いで庭の方へ回ってみれば、案の定、頼久の帰りを待つあかねが簀子の上にちょこんと座って紅の空を眺めていた。

「あ、頼久さん、お帰りなさい。」

 愛らしいその瞳が頼久の姿を素早く見つけると、あかねの顔には嬉しそうな笑みが浮かんだ。

 それはもう、一点の曇りもないといえるほど澄み切った笑顔だ。

 いつもは癒し以外の何ものでもない愛しい妻の笑顔に、頼久は眉間のシワを深くした。

 きっと散りゆく桜を眺めながら一日千秋の思いで自分の帰りを待っていただろうと想像してしまえば、頼久の胸は痛む一方だった。

「頼久さん?どこか怪我でもしたんですか?」

 いつもとは違う頼久の様子に慌てたのはあかねだった。

 何かあったに違いないと顔色を青くして立ち上がるあかねに今度は頼久が慌てた。

 何しろ今のあかねは、怨霊退治をして歩いていた時のように動きやすい服装なわけではない。

 着慣れない単だの小袿だのを着ているというのに、走るのはとても無理だ。

 つまずいて簀子から落ちるのを想像して、頼久は慌ててあかねへ駆け寄るとその肩をつかんだ。

「怪我などしておりませんのでご安心を。」

 青白い顔で自分を見上げるあかねにとりあえずそう言って、頼久はゆっくりとあかねを簀子に座らせると、その隣に自分も落ち着いた。

「本当に怪我してませんか?風邪ひいたりもしてないですか?」

「はい。」

 落ち着いた頼久の返答にあかねはとりあえず安堵の溜め息をついた。

 それでも頼久が浮かない顔をしていることは変わらないから、安堵の溜め息の次にあかねは様子を窺うように頼久の顔を覗き込んだ。

 いつもなら穏やかな微笑みと共に静かに、しかし軽い足取りで帰って来てくれる頼久が、今はどこからどう見ても落ち込んでいるように見える。

 普段から冗談を言ったり声をあげて笑ったりする人ではないけれど、こんなふうに落ち込むことも珍しい。

 あかねは久々に見る頼久の険しい表情を心配げな顔で見つめた。

「怪我してないことはわかりました。でも……なんだか頼久さん、とても辛そうです。」

 至近距離で心配そうに見上げてくるあかねを見て、頼久は思わず手を伸ばすとあかねの体を抱きしめていた。

 嫌がらないまでも、腕の中であかねが驚いて身じろぎしているのがわかる。

 それでもどうしても頼久はあかねを解放することができなかった。

 この屋敷へ帰って、庭へと足を踏み入れた瞬間、頼久の目には葉桜が映った。

 あかねの目を楽しませるためにと庭に植えられている大きな桜の木はすっかり緑に染まっていたのだ。

 この京で生まれ育ったわけではないあかねにとって桜の季節はとても楽しみらしいことを頼久は良く知っている。

 なんでも、あかねが育った世界では桜の名所には人が群れてしまってゆっくり見ることがかなわないらしい。

 それに比べてこの京は、満開の桜をゆっくり楽しむことができるとあかねが楽しそうに話してくれたことがあるのだ。

 以前過ごしていた世界の話を聞くと、あかねは明らかにこちらの世界での暮らしに不自由している。

 桜はそんなあかねが京の方が良いと言ってくれる数少ないものの一つだ。

 だからこそ、頼久は毎年、必ずあかねに京の桜を楽しんでもらいたいと思っていた。

 それなのに…

「申し訳ありません。」

「はい?」

 耳元で聞こえた苦しそうな頼久の声に、あかねは視線を上げた。

 あかねを見下ろしている頼久の顔はどこか青ざめて、そして苦痛に歪んでいた。

「私がこの屋敷を離れている間にすっかり花が……。」

 言われて初めてあかねは頼久の腕から逃れると、庭にある桜の木を見上げた。

 夕陽に赤く染められている庭に立つ大きな桜の木は確かに葉桜になっている。

 あかねはこの桜の木に咲いた満開の花が散っていくのを二日ほど前に一人で眺めていたのだった。

「そういえば、散っちゃいましたね。」

「はい……今年は共に眺めることができず、申し訳ありません…。」

「へ…頼久さん、そのことを気にしてたんですか?」

「今年も桜は共に見るとお約束しておりましたものを……。」

「そ、それはお仕事なんだから仕方ないですよ!私は全然気にしてませんから!」

「しかし……。」

「本当に気にしてませんから。だってまた来年見ればいいんですし。」

「来年…。」

「はい。来年でも再来年でも、また見ることができますから。また一年、楽しみに待ちます。」

 桜の木から頼久へと視線を戻したあかねはにっこり微笑んでいた。

 その微笑には一点の曇りも陰りもなくて、まっすぐ頼久の心を照らした。

 あかねの笑顔に引き寄せられるようにふらりと半身をあかねへと寄せた頼久は、小さなあかねの体を再び抱き寄せた。

 来年も、再来年もと言ってくれることが嬉しくて、そんなふうに思ってもらえていることが幸せで…

 どれほど今の自分が幸福なのかを言葉にすることのできない頼久はただあかねを抱く腕の力に想いを込めるしかなかった。







 頼久は腕に愛しい妻の小さな頭が乗っているのを感じながら天井を見つめていた。

 目が覚めたのは夜明け前。

 今は昇りつつある朝陽がうっすらと局の中へ光を差し入れている。

 いつもよりも早く目が覚めたのは、おそらく昨日の出来事が頭の片隅にひっそりととどまっていたからだ。

 庭に立つ葉桜。

 その前で来年またと笑ってくれた大切な人。

 あかねの笑顔は本物だったが、それでも頼久は己のせいであかねの楽しみを一つ奪ってしまったことがどうしても胸の内に淀んで消えないのを感じていた。

 せっかくあかねが生まれ育った世界よりもこちらの方が優れている物だというのに…

 一年に一度しかそれをあかねに贈ることはできないのに…

 そんなことを思っていると頼久の脳裏にはふわりと満開の桜の木が浮かんで消えた。

 その桜はつい最近見たもののような気がして、頼久が眉根を寄せて思い起こすこと数秒。

 すぐに頼久は記憶の内で咲くその桜をどこで見たのかを思い出した。

 仕事から帰る道すがら、山の上に咲いていた山桜だ。

 美しく薄紅に染まっている山桜を見たから、京へ入るまでは桜がすっかり散ってしまっているなどと思いもしなかった。

 だから京へ入って葉桜しかないことを知らされて愕然としたのだ。

 山ならば、木々の間で風に当たらず、散らずに残っている桜があるかもしれない。

 だいたい、山は京よりもかなり気温が低いはずだ。

 であれば、まだ咲き残っている桜だってきっとあるだろう。

 現に昨日の時点では山にはまだ薄紅の桜の木が何本も見えたのだから。

 あかねはこの京に生まれ育った姫君達とは違って、牛車でなければ移動ができないというわけではない。

 牛車に乗るくらいなら頼久と二人で馬に乗る方を選ぶ人だ。

 ならば、山の桜ならきっと、まだあかねに見せることができる。

 そう考えがまとまると、頼久はそっとあかねの頭の下から腕を抜いた。

 休みの朝はゆっくりあかねの寝顔を堪能するのが常の頼久だが、今日ばかりはそうもいっていられない。

 今年の桜をあかねに楽しんでもらうのは今日を逃せばもう不可能になってしまうだろう。

 頼久はあかねが目を覚まさないことを確認すると、そっと局の外へと出た。

 運よく今昇ってきたばかりの朝陽を迎える空は青く晴れ渡っている。

 よしと言わんばかりに一つうなずいた頼久は急いで奥へと戻り、そそくさと着替えを始めた。






 ぱかぽこと馬の蹄が耳に心地よい音を立てている。

 その馬の背には懐かしい水干姿のあかねと、そのあかねを大事そうに抱えながら手綱をさばく頼久の姿があった。

 朝目を覚ますとすぐそこに頼久の優しい笑顔を見つけたあかねは、すぐに朝餉を済ませて出かけようと頼久に誘われた。

 いつも外出へと誘うのはあかねの方が多くて、頼久がそんなふうに誘ってくるのは珍しい。

 だから、あかねはどこへ行くのかとも問わずに「行きます!」と即答した。

 そんなあかねに苦笑しながら行先を告げた頼久はあかねの顔に嬉しそうな笑みが浮かぶのを見て至福を感じた。

 もちろん、あかねの背を抱いて馬に乗っているこの瞬間も頼久にとっては幸福な時以外の何物でもない。

 そしてそれはあかねにとっても同じことだった。

 京を出ると周囲はすぐに自然でいっぱいになる。

 そんな自然の中を二人で馬に乗って歩くのはもうそれだけであかねにとっては旦那様との楽しいデートだ。

 山道をしばらく行くと二人の目にはちらほらと山桜が見え始めた。

 遠くに薄紅の姿を見ただけであかねは思わず「うわぁ」と声を漏らしていた。

「よかった、どうやらまだ散らずにいてくれているようです。」

「はい!満開みたいですよ!」

 自分に背を預けて弾んだ声を聞かせてくれるあかねに頼久の口元はほころんだ。

 その声を聞いただけで今はもうあかねがどんな顔をしているのか想像がつく。

 あかねを気遣って頼久がゆっくりと馬を進めている間もあかねはキョロキョロと辺りを見回してとても楽しそうだ。

 いつもは屋敷にこもっていることが多いから、たまの外出というだけであかねにはとても貴重なものだ。

 それが大切な旦那様との花見となればあかねが浮かれるのも無理ないことだった。

 二人を乗せた馬はゆっくりと山道を進み、休憩するのにちょうどいい桜の木を探していた頼久の目にやがて一本の大木が飛び込んできた。

 大きな枝には満開の花が咲き誇っていて、根元の辺りはちょうど人が座るには都合がよく平らになっている。

「神子殿、あそこで休むことに致しましょう。」

「うわぁ、大きな木ですね。」

 あかねが楽しそうに満開の大木に見とれているうちに、頼久は馬を下りると、あかねを慎重に馬から下ろした。

 楽しげに駈け出そうとするあかねの手を取ったのは、万が一にも転んだりしてはいけないという頼久の気遣いだ。

「頼久さん?」

「山は何があるかわかりませんので。」

「あ、そっか…。」

 油断するまいと表情を引き締める姿が愛らしくて、頼久は思わず笑みを浮かべると、あかねをそっと木の下へと導いた。

「遠くからもよく見えましたけど、ここまで大きいと凄い迫力ですね。」

「はい。」

 ゆるやかな風がそっとその木を撫でただけでちらほらと薄紅の花びらが辺り一面に舞い落ちて、その風景は屋敷にある庭の桜の木とは全く違った風情だ。

 頼久も一瞬、山桜ならではの風景に見とれて、それからすぐにあかねが座るのにちょうどいい場所を探すと、そこに屋敷から持ってきた布を敷いた。

「神子殿、こちらへどうぞ。」

「有り難うございます。」

 あかねが布の端へ腰を落ち着けるのを見て、頼久はすぐに微笑を浮かべた。

 布の端にあかねが座ったのは、隣に自分を座らせるためだと今ではもうわかっているから。

 以前は絶対にそんなことはできないと断っていた頼久だが、今はもう、あかねに説得されなくともあかねの隣のその席が自分のものであると確信することができた。

 黙ってあかねの隣に頼久が座れば、あかねも何も言わずに嬉しそうに微笑んだ。

 二人並んで微笑みながら見上げる桜は、いつも毎年見ている庭の桜より少しだけ特別に見えた。

「本当は…。」

 しばらく二人で頭上の桜を見上げて堪能して、そして先に口を開いたのはあかねの方だった。

 それはいつものことで、言葉を口にすることが不得手な頼久は隣で桜を見上げながら語るあかねをそっと見つめて、その言葉に耳を澄ませた。

「来年また見ればいいなんて言いましたけど、やっぱりちょっと残念だったなって思ってたんです。頼久さんにはわかっちゃってたんですね。」

「いえ、それは…。」

「頼久さんお仕事で疲れてるのに気を遣わせちゃって…。」

「それは違います。」

 頼久は間髪入れずにあかねの言葉を否定した。

 何故ならそれが真実だからだ。

 確かに今年の桜を二人で眺めることができなかったことをあかねはさぞかし残念に思っているだろうと想像はした。

 けれど、こうして今ここにあかねを連れてきているのはそれだけが理由ではない。

「私が、どうしても神子殿と今年の桜を愛でたかったのです。」

「頼久さん…。」

 桜を映していたあかねの澄んだ瞳が頼久の顔を映し出した。

 頼久は愛しい人の視線が自分に向けられたことにさえ幸せを感じながら、小さく息を吐いた。

「情けないことですが、私の方が残念に思っていたのです。神子殿との花見を楽しみにしていたのは私の方なのです。」

「だったら、ちょっと嬉しいです。」

「は?」

「だって頼久さんも私と同じように思っていてくれたってことですから。」

 少し恥ずかしそうに頬を染めて言いながら微笑むあかねに一瞬目を見開いて、それから頼久は感極まったようにあかねを抱き寄せた。

「頼久さん?」

「今しばらくこのままで…。」

「はい。」

 突然の抱擁は言葉の苦手な頼久が言葉にできない想いを伝えるためのもの。

 そうとわかっているあかねはすぐに頼久の腕に身を任せた。

 視界にはゆらゆらと舞い落ちる桜の花びら。

 何もかもが幸せで、あかねの顔には深い笑みが浮かんだ。

「軽い食事や水も持ってきておりますが…その……。」

「まだお腹はすいてないですし、後でいいです。それより今は、頼久さんとこうしていたいですから。」

 囁くようにそう言って自分に寄り添おうとしてくれるあかねの体をとうとう膝の上に抱き上げて、頼久はギュッと小さなその体を抱きしめた。

 自分の体にも、膝の上にいるあかねの体にもゆっくりと一枚ずつ積もっていく薄紅の欠片が今は幸せの結晶のように思えた。

 そんな幸せの欠片と共に抱くあかねの体は優しい温かさに満ちていて…

 京の桜が散ってしまえばこそ得ることのできた一時を、頼久はあかねのぬくもりを感じながらゆったりと過ごすのだった。








管理人のひとりごと

管理人は今年、あまりにも桜が咲くのが早くて、けっこう見逃しました……
でも!そんな時でも山はまだ咲いてたりするんですよ!
あと谷も(’’)
ということで、どうしても仕事で頼久さんが桜を逃しちゃったら…というのを書いてみました。
友雅さん辺りだと部下に命じて山から桜を一枝手折ってこさせそうだけど、頼久さんは連れていくね!
なんといってもあかねちゃんの優しさを一番理解してる人だと思うから。
あと、意外と行動派だからね!
桜の名所はどこも人が多いけど、山は大丈夫!
この二人には二人きりで思い切り桜を楽しんでもらいました(^^)












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