
こちらの世界へやってきてからというもの、頼久がこの日をこんなに憂鬱な気持ちで迎えるのは初めてのことだった。
何故なら、あかねは毎年この日は必ず一月も前から頼久に空けておいてほしいと予約を入れていたからだ。
それが、今年は全くなんの話も出なかった。
この日、そう、バレンタインにあかねと逢瀬の約束をしなかったのは初めてだった。
あかねはいつもと変わらない様子だったし、自分から催促をするなど頼久にとってはもってのほかだ。
つまり、バレンタインの予定について頼久からは何も話せないまま当日を迎えてしまっていた。
あかねのことだからきっと何かのっぴきならない事情があったのだろうとは思う。
そうは思うが、もしかしたら誰か他の人間との予定があるのかもしれないという不安も完全にはぬぐえなくて、頼久は早朝、ベッドから起きだして以降、ふらふらと家の中を歩き回ったりと不審な行動の連続だった。
そんな一日ももうすぐ終わる。
窓の外はもう真っ暗で、時計を見れば午後8時を過ぎている。
今日という日はまだ4時間ほど残ってはいるが、その間にあかねと共にバレンタインを過ごすことはないだろう。
ただ、もしかするとメールなり電話なり、何らかの連絡くらいはもらえるかもしれない。
そう思うと、頼久は携帯のそばから一瞬でも離れることができなかった。
そして、そんな頼久の他人とは違う鋭い感覚が、突然、玄関の向こうにあかねの気配をとらえた。
こんな時間にありえない。
これは幻か?
そんなことを思いながらもふらふらと立ち上がり、玄関へと向かった頼久は扉を開けてすぐに自分の感覚がとらえたあかねは幻などではなかったと安堵のため息をついた。
そこに立っていたのは本物のあかね。
いつもとは違う悲しそうな顔で紙袋を抱えて立っている。
その様子に気付いて頼久は一瞬で顔色を青くした。
現在、時刻は午後8時。
普段ならあかねが一人で出歩くような時間ではない。
それに加えてあかねの落ち込んだような表情だ。
これは何事かあったのかと頼久は青くなりながらあかねを中へと引き入れた。
「神子殿、どうかなさったのですか?」
「ごめんなさい、こんな時間に…。」
「いえ、私はかまいませんが、外はもう危険です。何が御用でしたらお呼び頂ければ…。」
「そんなことできません!」
急に大声で叫んだあかねに頼久が目を丸くしていると、はっと我に返ったあかねがまたしゅんとうつむいた。
これは重症だと判断して頼久があかねの腕をとり、リビングへといざなってソファへ座らせる。
普段とはかなり違うこのあかねの様子では明らかに何か重大な事件が起きたと思った方がいい。
頼久はとにもかくにも事情を把握せねばと、あかねの隣に座って落ち込むあかねの顔を覗き込んだ。
「どうなさったのですか?」
「…その……今日はごめんなさい。」
「何が、でしょうか?」
「今日、せっかくバレンタインだったのに…忙しくて……。」
「そのようなこと、お気になさらず。」
頼久は内心安堵のため息をつきながら笑みを浮かべた。
あかねが気にしてくれていたのだということが分かっただけで頼久にはもう十分だった。
けれど、あかねはそうではないようで、先ほどから抱きしめていた紙袋を頼久の方へと恐る恐る差し出した。
「これは…。」
「その…チョコレートです…。」
バレンタインにチョコレート、それは頼久を喜ばせるもの以外の何物でもない。
それなのに、あかねはどこか悲しげだ。
頼久は差し出された紙袋を受け取って、中から可愛らしくラッピングされた箱を取り出した。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「はい……どうぞ。」
どうぞと言いながらも乗り気ではないらしいあかねが気になりながらも、頼久は丁寧に包みを解いた。
すると、中から現れたのはおそらくはどこかの店で買ってきたのだろう、綺麗なアルミで個別包装されたチョコレートだった。
毎年、手作りのチョコレートを贈ってくれるのがあかねの常だっただけに、頼久が一瞬考え込んで、それから何故あかねがうなだれているのかに気付いて苦笑を浮かべた。
つまりは手作りではないことを申し訳ないと思っているのだろう。
そんなことは頼久にとっては些細なことでしかないというのに。
「その…今年は凄く難しくて大事なレポートの締め切りがあって、どうしてもそれを提出しないと単位を落としちゃうので、それを頑張っていたら時間がなくて、手作り、できなかったんです。」
「そのようなこと、お気になさらず。」
「でも、大好きな人にはちゃんと手作りのチョコレートを渡したかったんです。最近はちょっとお料理も上手になってきたし、今年は自信あったのに…。」
「毎年、おいしく頂いております。」
「……だって、お店で買ったチョコレートなんて、頼久さん、仕事の関係者とか読者とか、お仕事関係の人にもたくさんもらってそうじゃないですか…だから、私は特別なものをって思ってたのに…。」
「いえ、それは…。」
「ギリギリまで頑張って、何とか作ろうと思ってたんですけど、どうしても間に合わなくて買ってくることになっちゃって…。」
涙目になってうつむくあかねの肩を頼久は優しく抱き寄せた。
どうしても手作りにしたくて、そのために時間がなくて、予定を入れることも忘れて頑張ってくれていたのだろうと思えば頼久には嬉しいばかりだ。
その想いを伝えたくて、頼久はなかなかスムーズに動いてくれない口をゆっくりと開いた。
「毎年ですが、この日にチョコレートを受け取る相手は神子殿お一人です。」
「はい?」
予想もしなかった頼久の言葉に、あかねが慌てて視線を上げると、そこには優しく微笑む恋人の顔があって、一瞬であかねの顔が赤くなった。
そのことに気付いて、頼久はあかねの髪を優しくなでながらゆっくり言葉を続ける。
「仕事関係の人間からは一切受け取りませんので。」
「そう、なんですか?」
「はい。」
こういう話で頼久が嘘をつくことはまずない。
だから、あかねは驚きで目を見開いた。
きちんとした社会人である頼久は義理チョコだけでもけっこうな数を受け取っていると思っていたからだ。
対して頼久はといえば、たとえ相手が男であったとしてもチョコレートなどを受け取って万が一にもあかねに誤解をされたり、不安な想いをさせたりしてはならないと一つとして受け取らないことを決めていた。
天真にはそこまで神経質にならなくてもいいだろうと言われたが、頼久としてはどんな些細なことであっても大切な人の心を煩わせる可能性のあることは排除しておきたい。
その一心で、どんなチョコレートも受け取ったことは皆無だった。
「郵送で送られてきた物も受け取っていません。出版社の方で処理しているはずです。受け取りませんと宣言してありますので。」
「そ、それは…。」
そこまでするのはどうだろうとさすがのあかねでさえも思ったけれど、頼久はというと満足そうに微笑んでいた。
「ですので、神子殿から頂くチョコレートは私にとっては唯一のものとなります。それがたとえ購入したものであろうと手作りして頂いたものであろうと唯一つのものであることに変わりはありません。」
「頼久さん…。」
「もちろん、神子殿の手によってお作り頂いたものほど購入したものが美味ということはないかと思いますが、それでも、神子殿が私のために無理をなさるくらいならば、購入して頂いたもので十分です。こうして頂戴できるだけで果報者です。」
「そ、それは大げさ…。」
「いえ、決して大げさではありません。本日はもう神子殿にはお会いできまいと思っておりましたし、もしや神子殿には他にこれを渡したい相手がおありなのかと…。」
「いません!」
思わず頼久が内心で思っていたことを口に出せば、あかねの大声が返ってきた。
ついさっきまで泣きそうな顔をしていたのに、今は心の底から不本意だといわんばかりの顔で頼久を上目遣いに睨んでいる。
頼久はあかねがいつもの様子に戻ってくれたことの方が嬉しくて、思わずギュッと抱きしめた。
「よ、頼久さん!もぅ、変なこと疑ってたんですね!」
「ですが、こうして今年も神子殿からチョコレートを頂くことができました。本当に私は果報者です。」
「そんなに喜んでもらうと、既製品で申し訳ないんですけど…でも、他の人に渡すとかそんな心配はしないで下さい…。」
「たとえ既製品であってもこの日のチョコレートに宿る神子殿の想いは同じかと。」
「そ、それはそうですけど…。」
「でしたら、私はそれで十分です。」
正直なところ、頼久にとってはチョコレートはさして問題ではない。
この特別な日に自分のところを恋人が訪ねてくれて、そしてその想いを受け取ることができるのなら形はどうだってかまわないのだから。
だから、頼久は腕の中に愛しい温もりがあることが幸福でならなくて、思わず抱きしめる腕に力をこめた。
すると、ぎゅっと腕の中のあかねが頼久の胸に手をついて無理に体を引き剥がし、その大きな瞳を至近距離から頼久へと向けた。
澄み切った綺麗な瞳に頼久が目を奪われている間に、あかねはすっと顔を近付けて頼久の唇を奪った。
それは一瞬の出来事。
普段の頼久ならあかねがそんなことをする隙などなかったかもしれない。
けれど今は別だ。
会えないかもしれないと思っていた恋人に会えて浮かれている頼久の隙をその恋人がつくのはたやすいことだった。
「チョコレートは買ってきたもので特別じゃないので、おまけです。」
真っ赤な顔でそういうあかねにぼーっと見惚れてから、頼久はつめていた息を吐き出した。
目の前の恋人は頼久よりもずっと年が下だというのに、いや、だからこそか、時折、頼久には予想もつかないことをするのだ。
そんなあかねが尚愛しいのは言うまでもなくて、頼久は再びあかねを腕の中に閉じ込めた。
「おまけの方が嬉しいとは異なものです。」
「頼久さん!」
「来月、14日にお返しを致しますので、その日は空けておいて頂けますか?」
「それはもちろん……でも、そんなたいしたことしないでいいですよ?今年は私も手抜きだったわけだし……なんか、盛大にしてもらうの申し訳ないので…。」
「承知致しました。」
と承知してくれてもこの恋人はきっときちんとしてくれるのだろうなと、あかねはその人の腕の中で苦笑した。
とにかくまじめで几帳面な人だから、きっと一月後には嬉しいホワイトデーをプレゼントしてくれるに違いない。
あかねがそんなことを思っていると、頼久があかねの耳に唇を寄せた。
「どのようなおまけが良いか、よく考えておきます。」
「へ…。」
自分が恋人に贈ったプレゼントのおまけの内容を思い出して、あかねは首まで赤くなりながらも何も言えなくなってしまった。
仕掛けたのはたぶん自分の方。
だから抗議なんてできなくて…
やっぱり自分の恋人は自分よりもずっと大人だったと改めて自覚しながら、あかねは頼久が夜も遅いから自宅まで送ると言い出すまでずっとその腕の中で赤くなるしかなかった。
管理人のひとりごと
ちょっと遅れましたが(^^;バレンタインでございまする。
大学生になったら時間があると思ったのにねぇ(マテ
ちなみに管理人の学生時代はけっこう暇でした(’’)
だって文学部国文学科だもの、レポートなんて創作よりずっと楽だったもの(’’)(コラ
資料を調べてまとめて報告なんて、創作のための資料ノート作ってるのと大差なかったわぁ。
あかねちゃんは管理人みたいな妙な生物ではないので、難しい講義のレポートは大変なのですよ!
で、おまけに力を入れてみたと(笑)
一月後には頼久さんからおまけのお返しがくると(w
一月後、管理人が生きていればの話Σ(゚д゚lll)
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