
あかねは供をしてくれた武士団の者に礼を述べて土御門の屋敷へと足を踏み入れた。
どうしても歩いて5分ほどの距離を牛車で移動する気にはなれなくて、屋敷を警護していた武士団の武士についてきてもらってしまったのだ。
先日、藤姫から是非この日に訪ねて来て欲しいという文がきていたので、特に予定がないあかねはとことこと出かけてきたのだが、土御門の屋敷へ一歩足を踏み入れると、何やら屋敷の中は騒々しかった。
女房達がぱたぱたと忙しそうに歩き回っているのを眺めながら、あかねはボーっと自分の屋敷に帰ってからのことを考えていた。
頼久は今日は左大臣の警護があって朝早くから出かけてしまっている。
藤姫のところへ出かけるということは昨日話してあって、その時もくれぐれも気をつけてちゃんと警護をつけて歩くように言い渡されている。
自分が供をできないことを謝罪までされてしまった。
帰ってきた頼久が自分が供を一人連れただけで歩いて藤姫のところへ行ったと知ったら怒るだろうか?
などと一人考えながらあかねは勝手知ったる屋敷の中を女房達に挨拶されながら歩いた。
「まぁっ、神子様!ようこそおいでくださいました。」
この明るい藤姫の声であかねははっと我に返った。
気づけばもう藤姫の局の前まで来ているではないか。
「珍しいよね、藤姫が私を招待してくれるなんて。」
「はい、本来でしたらわたくしが神子様の元へお伺いするのが筋というものですが…。」
「そ、そんなことないよっ!」
「いえ、本来はわたくしが参上するべきなのですが、この度はどうしても荷が多く…。」
「荷?」
あかねが御簾をくぐって中へ入ると藤姫は何やら大きな綿のようなものを手に持って申し訳なさそうに一礼した。
「荷ってそれ?」
「はい。本日は重陽でございますから。」
「ちょうよう?」
現代からこの京へ一瞬で飛んできてしまったあかねにはこの京の常識やしきたりでわからないことが多い。
藤姫の前にちょこんと座りながらあかねは小首を傾げた。
「神子様は御存じありませんでしたか?」
「うん。」
「この京では9月9日を重陽と申します。」
「重陽…。」
「9は陽を極めた数、その9が重なる本日9月9日を陽が重なる日、重陽と申します。」
「……。」
「あ、あの…そうですわ、こういうことは泰明殿がお詳しいはず、詳しいことは泰明殿にお聞きくださいませ。」
「う、うん、そうするね。」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
この手の話は泰明か鷹通に頼むに限る。
「で、その重陽って何かするの?」
「あ、はい。これを。」
あかねは藤姫が差し出した綿を手にとって小首を傾げた。
なんだか少し湿っているような気がする。
「これで…えっと…。」
「お顔や体をぬぐって下さいませ。」
「これで?なんかちょっと濡れてるみたいだけど…。」
「はい、菊の露を移してございますから。」
「きくのつゆ?」
「昨日より、菊の花の上にこの真綿を置き、朝露をその真綿にしみこませてありますの。重陽に菊の露をしみこませた真綿で顔や体をぬぐうと若さを保ち、不老長寿を得ることができると言われております。ですから、神子様に是非、その真綿でお体をぬぐって頂きたいのです。」
「へぇ、そういえばこの綿、少し花の薫りがするかも。」
あかねは真綿の薫りをいっぱいに吸い込んで微笑んだ。
やはりかすかに菊の薫りがする。
「さぁ、神子様。」
藤姫に促されてあかねはまず真綿で顔をぬぐい、それから着ていた水干を脱いで全身を軽くぬぐった。
少しひんやりする真綿は心地いい。
「藤姫もぬぐった方がいいでしょう?私が背中をぬぐってあげるね。」
一通りの作業を終えたあかねは水干を身につけるとそう言って微笑んだ。
藤姫の顔がぱっと明るく輝く。
「まぁっ、神子様がわたくしの身をぬぐって下さるなどもったいない…。」
「いいからいいから。ほら、早く脱いで〜。」
有無を言わせず藤姫の着物を脱がせて、あかねはしっかり藤姫の背中を真綿でぬぐった。
「有難うございます。龍神の愛娘であられる神子様にこうして菊の露を含んだ真綿で体をぬぐって頂くなど夢のようですわ。きっとわたくし、不老長寿を得たに違いありません。」
「もぅ、それは言いすぎだよ。」
そう言って二人でクスクスと笑ってあかねは藤姫が十二単を着るのを手伝った。
藤姫があかねに会う時はたいてい正装とも言える十二単を着ていて、おかげで今回は元の姿に戻るのが大変だった。
それでも京にだいぶ慣れてきたあかねの手伝いで藤姫がやっと十二単をもとのように着終えた頃、女房が御簾の下から文を差し入れてきた。
「あれ?文?」
「そのようでございますね。」
水干姿で身軽なあかねがつつと歩み寄って文を手に取り「うっ」と呻いてから藤姫に手渡す。
文に書いてある文字はとても流暢で一文字たりともあかねには解読できなかったのだ。
「だめだなぁ、私、まだ全然こっちの文字読めないの。」
「いえ、これは友雅殿からの文ですから、神子様には読みづらい文字かと。」
「あぁ、友雅さん字上手だもんね。」
友雅はとにかく風流なことに長けている。
あかねにはわからないが歌も上手く詠むらしいし、楽器の類も達人だ。
そして筆跡。
これも友雅は一流らしく、おかげで友雅からの手紙はあかねには解読不能なのだった。
「友雅さんなんて?何か急用?」
あかねがそう尋ねる間に、藤姫の顔は不機嫌そうにゆがんだ。
「ふ、藤姫?」
「友雅殿ったらまたこのような…。」
「どうしたの?」
「最近、友雅殿はわたくしに恋の歌を贈っていらっしゃいますの。あまりのなさりようです。」
「へ?」
「わたくしを子供と思ってからかっておいでなのですわ。」
そう言って怒る藤姫を見つめながらあかねは考え込んだ。
あの友雅がそんなふうにふざけたりするだろうか?
しかも藤姫相手に。
多くの女性と浮名を流していた友雅ではあるが、そういうことをしかけていい相手とそうではない相手の区別はつく人物だ。
藤姫がふざけたりいいかげんな気持ちで恋をしかけていい相手でないことは友雅も承知のはずなのだが。
「返事を書いたりは…。」
「致しません!」
そう言って藤姫は文を文机の上に放り投げてしまった。
たとえ断りの返事であっても返事をかけば恋の誘いにのったことになる、それがこの世界なのだ。
つまり藤姫は友雅の誘いを力いっぱいはねのけたのだった。
「友雅殿はわたくしが子供だからとからかっておいでなのです。あまりのなさいよう…。」
「そ、そうかなぁ…。」
「そうに決まっておりますわっ!」
決め付けて怒り続ける藤姫はもうあかねの手には負えない。
あかねはここが潮時と立ち上がった。
「もう帰るね。」
「まぁ、神子様、わたくしが友雅殿のことで機嫌を悪く致しましたから居心地悪くお思いなのですね…。」
「そ、そうじゃないの。頼久さんには一応ことわってから出てきたんだけど、どうしても牛車を使いたくなくて歩いてきちゃったし、あんまり長居してから帰ると頼久さん心配するし…。」
そう言って赤くなるあかねを見て藤姫はクスッと微笑んだ。
「承知致しました。では、また後日、今度はわたくしがお伺いさせていただきますわ。」
「うん、待ってるね。」
そう言って二人で微笑み合って、あかねは藤姫に軽く手を振ってから御簾をくぐった。
するとそこには来るときに供をしてくれた武士団の武士が気を利かせて控えてくれていて、あかねは御簾の向こうから見送ってくれる藤姫の視線を感じながら土御門の屋敷を後にしたのだった。
あかねは急いで家に帰って着替えを済ませると、日は西の方に傾き始めた。
左大臣の警護ともなればそう簡単に終わる仕事ではないし、これは頼久が帰ってくるまでまだ間があるだろうと落ち着いていたあかねはだが、いきなり帰宅した頼久の姿を目にして驚くことになった。
「頼久さん!早かったんですね。」
「はい、本日は重陽ですので。」
そう言って頼久は縁に座るあかねの隣へ腰を下ろした。
「重陽だと早く帰ってくるんですか?」
「はい。左大臣様もお屋敷で色々となさることもおありかと。」
「あぁ、綿で顔をぬぐったりとかしないとですもんね。」
「いえ…。」
「あれ、違いました?今日、藤姫のところでそういうのやってもらったんですけど。」
「それは女人のなさることかと…。」
「あぁ、男の人と女の人じゃやることが違うんだ。」
「はい。」
「じゃぁ、男の人はどんなことをするんですか?重陽って。」
愛らしい若妻に好奇心いっぱいの目で見上げられて頼久は顔を赤くして視線を外すと、一つ深呼吸してから口を開いた。
「重陽には不老長寿を祈念して菊酒を飲むとされております。」
「菊酒?」
「はい。」
頼久が説明している間にも女房達が酒の用意を済ませた。
二つ用意された杯には酒が満たされ、酒の上には白い菊の花びらが数枚浮いていた。
「綺麗…。」
「縁起物です、神子殿も一献どうぞ。」
「あ、有難うございます。」
頼久に勧められるままあかねは杯を手に取った。
それを見届けて頼久も自分の杯を手に取る。
そして頼久は酒の上に浮かぶ菊の花びらを静かに息を吹きかけてうまくよけながら杯に口をつけて酒を飲み干した。
「このようにして酒だけ飲みます。」
「頼久さん上手。」
「いえ…。」
妻に褒められて頼久が照れている間にあかねは一大決心をしたかのような顔で杯をにらみつけた。
「神子殿?」
「いきます!」
「はぁ…。」
気合を入れて杯の上に浮かぶ菊の花を吹いて、あかねはたどたどしく酒を飲み干した。
「はぁ、できた。」
「そのように緊張なさらずとも。」
「頼久さんはもう一杯飲みませんか?」
「はい、頂きます。」
あかねが頼久の杯を新しい酒で満たすと頼久は嬉しそうに微笑んで、再び菊の花びらを上手く吹いてよけた。
「神子殿は今日は藤姫様のところにいらっしゃたのでしたか。」
「はい。藤姫がどうしても来て欲しいっていうから行ってみたんですけど、なんだか重陽の用意を色々してくれてたみたいで、菊の露のついた綿で体をぬぐってもらいました。」
「徒歩で行かれたのですか?」
「うっ…えっと…徒歩で行ったんですけど、ちゃんと武士団の人に警護してもらいましたし、すぐ帰ってきましたからっ!」
怒られるのかと慌ててそう説明してうつむくあかね。
だが、あかねの耳に届いた頼久の言葉は…
「そうですか、藤姫様はお元気でいらっしゃいましたか?」
「へ?」
すっかり怒られるものと思っていたあかねはキョトンとした顔で微笑む頼久を見つめた。
「どうか、なさいましたか?」
「どうかって…水干着て歩いて行っちゃったし、頼久さん怒るかなぁって…。」
「は?」
「は?ってだから牛車でお出かけしなかったから頼久さんに怒られるかなって思ってて…。」
「神子殿…。」
もじもじしているあかねを前に頼久はその顔に困ったような苦笑を浮かべた。
「私が神子殿に対して怒るなどということはあり得ません。」
「はい?」
「ですから、何が起ころうとも私が神子殿に怒りを向けるなどということは決してございませんのでご安心を。」
そう言ってや優しくニコニコと微笑む頼久。
ところが、安心して微笑んでくれるかと思ったあかねはというと、急に不機嫌そうにぷっと頬を膨らませてしまった。
「神子、殿?」
「頼久さんが名前で呼んでくれないことは妥協します。それはもうしょうがないです。こっちでは名前で呼ぶこと少ないみたいだし。それは我慢します。」
「はぁ…。」
すっかり怒った口調のあかねを前に頼久はその身を少しばかり後ろに引いた。
怒ったときのこの妻は頼久にとっては脅威だ。
「頼久さんはとっても優しい人です。それもわかってます。わかってますけどそれはないと思います。」
「は?」
「無条件で怒ることはないって、それってまだ頼久さんが私の従者みたいじゃないですかっ!」
「はぁ…。」
「奥さんが間違ったことしたら普通は怒るのが旦那様です!」
息巻いてそういうあかねをじっと見つめて、頼久はやっと微笑を浮かべた。
そんな頼久に今度はあかねが目を丸くする。
「では、怒った方がよろしいですか?」
「へ?えっと……それは……お、怒らないほうがいいです…。」
「承知致しました。」
よく考えてみればそれはそうで、怒る頼久が見たいというわけではないのだ。
「ただし、意見はさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「そ、それはもう!どうぞ!」
「神子殿はきちんと気遣った上で警護もつけ、徒歩でお出かけなさったので早めに帰って来てくださいました。それだけお気遣い頂ければ十分です。ただ…。」
「ただ?」
ここからが大切なこの人の意見だとばかりにあかねが身を乗り出して真剣な表情を浮かべる。
「できることならば、もう少々早く予定をお教え頂ければ。」
「へ?」
「そうすれば私が休みをとってお供することができますので。」
「えっとですね、だからそれじゃぁやっぱり頼久さんが従者みたいなわけで…。」
「この先、一生、神子殿のお側でその御身をお守りするのはこの頼久と誓っておりますので。」
「はうっ。」
ニコニコと穏やかに微笑む頼久の言葉に、あかねは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「もう一つ。」
「はい?」
「私のわがままをお聞き頂けますか?」
「はい!なんでも!」
徒歩で出かけてしまった償いができるならとあかねが張り切って返事をすると、頼久はその小さな体をさっと抱き寄せてしまった。
「よよよ、頼久さん!」
「わがままを聞いてくださるとおっしゃいました。」
「へ?」
「しばしこのまま。」
「……。」
そういわれてはもうあかねには抵抗などできなくて…。
そのまますっかり月が昇る頃まであかねは頼久の腕の中で過ごすのだった。
管理人のひとりごと
ということで重陽の節句でございました(^^)
資料は主に「魔よけとまじない」(塙新書)を参照しました。
菊酒のエピソードといえば「雨月物語」が有名ですね。
管理人も大好きです(^^)
興味のある方は文庫でも出版されていると思いますので読んでみてください。
さて、頼久さん、だいぶ自己主張できるようになってきたようですよ(^^)
もう一息だ、頑張れ(’’)
応援するくらいなら押せ押せな頼久さんを書けばいいんですが、どうもねぇ…
これからも京の行事は色々とやろうと思っております、お楽しみに(^^)
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