
「大変なんです!」
頼久があかねの屋敷の門をくぐるとすぐにそんな声が耳に飛び込んできた。
何事かと視線を上げれば目の前には息せき切って駆けつけてきたらしい愛らしい妻の顔がある。
いつもなら縁で庭を眺めていたりするあかねがこんなふうに頼久の帰りを待ちかまえて飛びついてくることは珍しくて、頼久は大きく目を見開いた。
これはとんでもないことが起きているのかもしれない。
朝から一日、平和で落ち着いた日であったと思い返しながら帰宅しただけに、頼久の背筋に緊張が走った。
異界から降臨した龍神の神子を妻として娶り、これ以上ないほどに幸福な自分だ。
毎日がそう平穏に過ぎてくれるはずがなかった。
自分は少し幸せに酔ってしまって、危機感がなくなっていたのではないか?
そんな反省さえしながら、頼久はその目でまっすぐあかねを見つめた。
頼久が何よりも大切だと思っている愛しい妻は、その瞳に涙さえ浮かべて夫を見上げていた。
「神子殿、落ち着いてください。何がありましょうとも、この頼久、全力で神子殿をお守り致しますゆえ。」
「私のことはいいんですっ!」
「は?」
うるうると涙で潤んだ目でそう訴えられて頼久は少しばかりひるんだ。
いつも自分のことは二の次で人のことばかり心配する心優しい妻ではあるが、こんなふうに慌てながらこんなことを言うとはいったい何があったのか?
「神子殿、いったい何が…。」
「さっき、土御門のお屋敷から使いの人が来て…。」
「はぁ…。」
「藤姫が、藤姫が……。」
そこまで言うとあかねはとうとうその目から涙を流して泣き始めた。
頼久はとりあえずそんなあかねを優しく抱きしめて、髪をなでた。
藤姫のことならば頼久もよく知っている。
何しろ頼久はその土御門邸から今帰ってきたのだから。
「神子殿、そのように心配なさらずとも、藤姫様でしたら軽い風邪と…。」
「心配ですよ!だって京には病院がないじゃないですか!抗生物質もないし!薬草と祈祷だけで治さなくちゃいけないのに…。」
「熱も微熱ということでしたし、お食事もされているとのことでした。そう心配なさらずとも…。」
「心配です!」
腕の中で真摯な瞳で見上げられて、頼久は「うっ」と言葉に詰まった。
実際、藤姫の風邪はたいしたことはなくて、今も薬湯を飲んで本人は静かに寝ているはずだ。
「左大臣様には高価な薬草を入手する力もおありです。祈祷もたくさんなさっていらっしゃるでしょう。きっとすぐによくなられます。」
「でもでも、やっぱり心配なんです。きっと一人で心細いだろうし…。」
そう言ってまた悲しそうにあかねの瞳が曇る。
頼久はなんと心優しい妻であろうかとまた感動して、小さなその体を抱きしめた。
だが、藤姫の風邪は本当にたいしたことはないのだ。
ここであかねが泣いていたからといって風邪が早く治るわけでもない。
これはやはりしっかりとなだめてあかねには心安らかになってもらわなくてはと頼久が決心して口を開こうとした次の瞬間…
「私、看病しに行きます!」
頼久の腕から逃れたあかねはそう大声で宣言すると、屋敷の中へと駆け込んで、あっという間に姿が見えなくなってしまった。
空になった自分の腕の中を見つめることしばし。
頼久ははっと我に返ると慌ててあかねの後を追った。
せっかく仕事を終えて帰ってきたというのに、妻にこの屋敷を出て行かれては、これから先の時間を自分は一人ですごさなくてはならないのか?
いやいや、そうではなくて…藤姫様の看病をして妻がその風邪を引き受けてくるようなことがあってはいけない…
などと一人胸の中で考えながら頼久があかねの局へ入ってみれば、あかねは奥の方から荷物をひっくり返してなにやら荷造りを始めていた。
「み、神子殿?」
「鷹通さんに薬草のことを色々教わって、よく効く薬草も色々備えてあるんです。頼久さんが風邪ひいたり怪我したりしたらすぐに治療できるように。」
「それは、お心遣い、有難うございます。」
この優しき妻はそんなことまで気遣ってくれていたのかと頼久が一人喜んでいると、あかねはさっさと荷造りを済ませてすぐに着替え始めた。
慌てて頼久の視線が御簾の向こうへと向けられる。
「み、神子殿…。」
「これで藤姫に楽になってもらえるかも。頼久さんのために用意しておいたんですけど、こんなところで役に立つなんて。」
「いえ、神子殿、その…。」
「これからすぐ行って、藤姫がよくなるまで看病してきます!女房さん達がお食事とか色々してくれると思いますから、頼久さんにはちょっと不自由かけちゃいますけど藤姫のためだから許してください。」
あっという間に水干に着替えたあかねは頼久の前に立ってそう宣言すると、その顔にきりりと決意の表情を浮かべた。
「神子殿……。」
怨霊と戦っていた頃の慈愛に満ちていながらも勇ましい表情が戻っていることに気付いて、頼久は全てをあきらめた。
もうこれはあかねのしたいようにさせてやるしかなさそうだ。
「わかりました。私のことはお気になさらず。神子殿はくれぐれもご自身のお体にもお気をつけ下さい。」
「はい!有難うございます!」
「それと。」
「はい?」
「土御門までは私がお供致します。」
「頼久さん…はい、お願いします。」
嬉しそうに微笑むあかねの顔を見ては頼久ももう何も言うことができなくて…
藤姫の風邪をすっかり治すまでは自分が面倒を見るのだと張り切るあかねを、頼久は一抹の寂しさと共に土御門邸へ送り届けるのだった。
「そこっ!集中しろ!」
武士溜まりに怒声が響く。
もちろん、発しているのは若棟梁である頼久だ。
眉間にはみごとにシワが寄っていて、木刀を手にした若者達が肩で息をしていた。
武士団の若棟梁でもあり、棟梁の息子でもある頼久の剣の腕は誰もが知るところだ。
だから、若い武士達にとって頼久に稽古をつけてもらえるというのは実にありがたい話だった。
ありがたい話なのだが…
「一瞬でも気を抜けば命を落とすことになるぞ!」
ここ三日というものその若棟梁がひどく荒れている。
荒れているといっても酒を飲んで暴れるとかいうわけではなくて、ただひたすら稽古が厳しくなっていくのだ。
これは若い武士達にとっては経験したことのある状況で、さすがに三日目に突入した今朝は、朝から皆で顔を見合わせて溜め息をついた。
以前、これと同じような状況に陥ったのは、若棟梁が許婚の顔を数日間見ることができなかった時だった。
ということは、今回はその許婚が妻となった今、おそらく妻の顔を見ることができないのではないか?
若い武士達は誰もが脳裏でそう思いながらなかなかそれを口に出せずにいた。
そんな話が若棟梁の耳に入ったら半殺しにされかねないと誰もが恐れていたからだ。
部下達の思いを知ってか知らずか、頼久は木刀を片手に鋭い眼光を隅々にまで行き渡らせている。
「これは……頼久、少し加減というものを覚えるのだね。」
頼久の背後から姿を現した人物に、その場の誰もが安堵の溜め息をついた。
機嫌の悪い若棟梁をいさめることができるのはおそらく、愛しい妻とこの人物だけだろうと思われるその人が現れたからだ。
その人とは、橘少将友雅だ。
友雅はいつものように扇を片手に艶やかな出で立ちでやってきて、頼久の隣に並んだ。
「友雅殿…。」
「神子殿の屋敷の方へ行ったら、主はおろか夫もここ数日顔を出していないというではないか。事情を聞けば藤姫が風邪で寝込んで神子殿が看病をかって出たとか。」
「…はい。」
「神子殿のいない屋敷にいてもしかたがないと思った頼久がどこで寝起きするかといえばここしかあるまいと思って来てみたが…。」
そこまで言って友雅は辺りをじっと見回した。
そこにはすがるような眼差しの若い武士達の姿が並んでいる。
友雅は扇で口元を隠してクスッと笑みを漏らした。
「友雅殿?」
「神子殿に会えない鬱憤を部下で晴らすのはいただけないな。」
「鬱憤を晴らすなどと…。」
「頼久。」
「は?」
「今日は良い知らせと悪い知らせの二つを持ってきたのだが、どちらから聞きたい?」
「どちらでもかまいませんが……。」
こんなふうにもったいぶって話をする友雅はどうせろくなことを考えていない。
そう思って頼久が警戒すると、友雅はニヤリと笑って見せた。
「では良い知らせからにしようか。藤姫の風邪はすっかりよくなってね。つまり本日めでたく神子殿は看病から解放されたというわけだ。」
頼久が周囲にわかるほど大きく息を吐いた。
正直にもほどがあると若い武士達まで苦笑する中、友雅がパチリと扇を鳴らす。
「で、次の悪い知らせの方だが。」
「はぁ。」
「見事に神子殿が藤姫の風邪をもらってね、今朝、熱を出したそうだ。」
「!」
声もなく目を見開いて驚いた頼久は、次の瞬間、木刀を傍らにいた武士に押し付けて駆け出していた。
もちろん、向かうは藤姫の局だ。
心配していた事が現実になってしまった。
知らせに来てくれた友雅のことも、今の今まで稽古をつけていた部下達のことも忘れて、頼久は藤姫の局の前へ駆けつけた。
「藤姫様!」
「頼久、声を小さく、中へ。」
藤姫に許可を得て慌てて御簾を跳ね上げた頼久は視界に苦笑しながら座っているあかねの姿を見て、とりあえずほっと安堵の溜め息をついた。
友雅の話では熱があるということだったが、あかねが水干姿で座っているということはどうやら病状はそんなにひどくはないらしい。
「友雅さんがまた大げさに言ったんですね。だから頼久さんが慌てて来ちゃったんだ…。」
「いえ、低いとはいえ熱がおありなのですから、本日はこのままここでお休み下さいませ。わたくしの看病のためにこのような…。」
そう言って涙ぐむ藤姫をギュッと抱きしめて、あかねはクスッと笑みを漏らした。
「私がしたくてしたことだもの、気にしないで。」
「今度はわたくしが看病させて頂きますので…。」
「気持ちは嬉しいけど、やっぱり屋敷に帰りたいの。風邪はたいしたことないし、それにずいぶん屋敷を空けちゃったし、頼久さんにご飯作ったりもしたいし…。」
「い、いけません!熱がおありですのにそのようなこと…。」
「大丈夫だよ。」
「いいえ、絶対にいけませんわ!」
頼久の目の前で繰り広げられる会話は大変ほのぼのとした姉妹の会話なのだが…
熱があるというあかねをこのまま座らせておくわけにはいかないと、頼久があかねの隣へ膝を進めた。
「神子殿、私のことはおかまいなく。屋敷へお戻りになるのでしたら車を…。」
「車なんていらないですよ。歩いて帰れます。頼久さんが一緒だから大丈夫だから、安心して、ね。」
そう言ってあかねが藤姫を解放すれば、藤姫はうっすらと目に涙を浮かべながらも小さくうなずいてその視線を頼久へ向けた。
「神子様がそこまでおっしゃるのでしたら…頼久、くれぐれも神子様のこと、頼みます。」
「はっ、お任せ下さい。」
頼久は藤姫に深々と頭を下げた。
あかねの夫となった今も、藤姫が主筋の姫に当たることに変わりはないので、頼久の態度も以前と少しも変わってはいない。
この一礼は、藤姫の言葉に対して寸分違わずにまっとうして見せるという決意の現われだ。
「じゃぁ、また風邪が治ったら遊びに来るね。」
「はい、お待ちしております。」
「頼久さん、帰りましょう。」
「はい。」
あかねは藤姫にニコリと微笑を見せて、頼久と二人、御簾の向こうへと歩き出した。
見送る藤姫に手を振って答えて土御門邸の門をくぐると、あかねはそこで大きな溜め息をついた。
「神子殿…。」
「大丈夫です。ただ、ちょっと安心したというか、気が抜けたというか…。」
そう言って頼久に微笑んで見せようとしたあかねはしかし、フラフラと体をふらつかせた。
今にも倒れそうなその小さな体を頼久が素早く抱きとめると、あかねはそのまま頼久の胸にもたれかかった。
「ごめんなさい、ちょっとだけ……。」
あかねがそのまま少し休んでから歩き出そうと、熱でぼうっとした頭で考えているうちにその体はふわりと宙に浮いて…
うつろな視線を上げてみればすぐ近くに大好きな旦那様の綺麗な顔が見えた。
「頼久さん…。」
「無理はなさらず。このままお運び致します。」
「大丈夫ですよ、少し休めば…。」
「少しばかり……この頼久にくらいは甘えて頂けませんか?」
「へ…。」
あかねが頼久の顔をじっと見つめれば、頼久の真摯な瞳にぶつかって…
「たまには夫らしいことをさせて頂きたく。」
「頼久さんはいつも夫らしいことたくさんしてくれてるじゃないですか。」
「いえ、まだまだ…。」
まだまだだ。
もっと、いくらでもこの尊い妻のためならば、どんなことをしても尽くしたい。
それが頼久の偽らざる本心だ。
いつもなら手足をばたつかせて抵抗するあかねが熱のせいでぐったりしているのを見て、頼久はあかねを横抱きに抱いたままゆっくりと歩き出した。
「ごめんなさい。」
「は?」
「出かける時、頼久さんに風邪がうつったらいけないからって止められてたのに、結局私がよけいなことして頼久さんにまた迷惑かけちゃって…。」
頼久の腕におとなしく抱えられながらあかねはその双眸を潤ませた。
そんな可憐な姿を見せられては自然とあかねを抱く頼久の腕に力がこもる。
「迷惑だなどということはございません。」
「だって、今だってこんなふうに運んでもらっちゃってるし…。」
「これは…神子殿をお抱きすることは私にとって幸福以外のなにものでもございませんが?」
「へ…。」
驚いてあかねが視線をあげれば、そこには本当に幸せそうに微笑む頼久の顔があった。
優しい、暖かい笑顔。
二人で暮らすようになって、よく見せてくれるようになった表情だ。
あかねはなんだか胸が温かくなった気がして、こぼれそうになる涙を袖で拭った。
「頼久さんは優しいですね。」
「身に余る光栄です。」
「私はいっつも頼久さんのこと頼りにしてるし、甘えてばっかり。」
「私にはそうは思えませんが…。」
「そうですか?」
「はい。もっといくらでも甘えて頂きたいといつも思っております。」
そう言ってあかねを見つめてニコリと微笑んだ頼久。
あかねは熱で赤くなっている顔を更に赤くしてうつむいた。
静かに運んでくれる夫の腕の中は、あかねにとって世界中のどこよりも安心できる場所だ。
頼久が気遣って歩いているから揺れは小さくて、かすかな揺れは逆に心地いいほど。
安心感と看病疲れと熱のせいであかねの瞼が重くなり始めた頃、頼久があかねの局へ足を踏み入れた。
局には藤姫が使いを出したものか、既に褥が用意されていて、頼久は褥にあかねを横たえた。
「久しぶりに頼久さんにご飯、作ってあげたかったのに…。」
「今は風邪を治すことだけをお考え下さい。」
「はい。でも、治ったら作らせてくださいね?」
「はい。」
力ないあかねに笑顔で答えて、頼久はあかねの枕元へ腰を落ち着けた。
そして熱でほんのりと赤いあかねの額に手を置く。
火のように熱いというわけではないが、やはりほんのりと熱を感じる額に頼久は小さく溜め息をついた。
この風邪を撃退するためには何を用意し、自分は何を努力すべきだろうか?
頼久がそんなことを考え込んでいると、ふと目を閉じているあかねの顔に笑みが浮かんだ。
「神子殿?」
「頼久さんの手、冷たくて気持ちいい。」
「左様ですか。」
「藤姫にもね、言われたんです。私の手、冷たくて気持ちいいって。こんな感じだったのかなぁ。」
どうやら自分にもできることがあるらしいと頼久が笑みを浮かべれば、あかねも幸せそうに微笑んでいて…
局の中に静かで穏やかな時間が流れ始めた。
「もう少し……もう少しだけこのままで……。」
「はい、お任せ下さい。」
頼久がこう答えた時にはもうあかねは深い眠りの中に意識を手放していた。
熱もあったけれど看病疲れがどっと出て…
この京で一番強い人と信じる大好きな旦那様が側にいてくれて安心で…
体調が悪いにもかかわらず、眠りについたあかねの顔には笑顔が絶えなかった。
なんとなく体がだるくて、少しだけ寒い気がして…
浅い眠りから意識を引き剥がしてゆっくり瞼を開いてみれば、そこには月明かりを背に座っている大好きな人の笑顔があった。
暗い局の中で薄い明かりに照らされたその姿はとっても綺麗で、薄い霧がかかったような意識の下であかねはそんな姿に見惚れた。
「頼久、さん…。」
「はい、ずっとお側におります、ご安心を。夜明けまではまだ間がありますので、ゆっくりお休み下さい。」
耳元で囁かれる低くて綺麗に響く声。
額には冷たい手の感触。
ああ、どうしてこの手を感じるだけで、この声を聞くだけでこんなに安心するんだろう。
あかねは頼久の笑顔を目に焼き付けて再び目を閉じた。
体はだるいけれど、熱もあるけれど、それでも今、自分は本当に本当に幸せだ。
あかねはけだるい眠りの中で額から伝わる冷たい幸せを感じていた。
管理人のひとりごと
あかねちゃんが藤姫を看病する話を書こう!
というのが今回の趣旨だったはず、なんですけどねぇ(’’)(オイ
やっぱうちは頼あかサイトだったんだなぁと再認識(マテ
具合が悪くても体が動かせなくても、頼久さんが側にいてくれるならいつだって安心♪
皆さんも新型インフルエンザなんぞに攻撃された際には、枕元に頼久さんを想像して養生してください!(マテ
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