
頼久は眉間にシワを寄せてテーブルの上を睨み付けていた。
京で武士として刃を振るっていた頃は、その視線一つで下等な賊どもは身動きできなくなったほどの威力を持つ眼光が今貫いているのは一つの指輪だった。
白地に花柄刺繍のある愛らしいハンカチの上にその指輪は鎮座していた。
それだけ見ても指輪の持ち主がどれほど大切に指輪をそこに置いたのかがわかるというものだ。
指輪の持ち主が指輪を大切にしている。
そのことは見ればすぐにわかるから、頼久は何も言えずにただ眉間にシワを寄せて考え込むしかなかった。
その指輪の主、あかねはというと、目下台所で頼久の昼食を調理中だ。
つまり、あかねは頼久に背を向けて料理に夢中だから、今のところ頼久はなんの気兼ねもなく指輪を凝視していられるというわけだ。
頼久はちらりとあかねの小さな背中へ視線を投げてから、すぐに指輪へとその視線を戻すと小さくため息をついた。
あかねは頼久の前へ姿を見せる時は必ずその左手の薬指に指輪をしてくれている。
それは頼久が将来の約束の証にと贈ったものだから、あかねの左手の薬指にその輝きが見えると頼久は何とも言えない嬉しさと安堵感に包まれた。
ところが、つい先日、真の友である天真からまさかという話を聞いたのだ。
天真が言うには、あかねは頼久の贈ったこの婚約指輪を大学にはつけていっていない。
そのせいで、頼久があかねに結婚を申し込んだことさえ天真はつい最近まで知らなかった。
先日、何かの拍子に酒を飲みに来ていた天真にその話をして驚かれたのだった。
あかねが大学では指輪をしていない。
その理由がわからずに頼久は常にそのことを考え続けていた。
デザインが気に入らなかった?
大学の友人達にからかわれるのが鬱陶しい?
ただ単に邪魔くさい?
それらの理由を思い浮かべて、そしていつも最後の可能性にいきつく。
この指輪に込められた意味をそもそも拒絶している?
その可能性を考えると、頼久の思考はそこで停止してしまって動かなくなる。
指輪を渡した時のことを詳しく思い出して落ち着こうと試みて、なんとか呼吸と鼓動を整えるのがやっとだ。
頼久が指輪を渡し、結婚を申し込んだ時、あかねはそれは嬉しそうだったし、間違いなく結婚することを承諾してくれた。
今でも頼久はその時のあかねの笑顔を昨日のことのように思い出すことができる。
それなのに、あかねは指輪を拒否しているようだというのだ。
しかも、ここへ来る時だけはちゃんと左手の薬指にその指輪はちゃんとおさまっている。
となれば、本当は気が進まないのに、贈り主である頼久に気を使ってここへ来る時だけちゃんと指にはめてきていると考えるのが妥当なのではないか?
頼久は眉間のシワを深くしながら穴が開くほどに指輪を睨み続けた。
「頼久さん、お昼ご飯……。」
どうやら調理が終わったらしいあかねが振り返ると一瞬遅れて頼久がはっと我に返った。
「頼久さん?どうしたんですか?」
あかねは小首を傾げながら頼久がついさきほどまで睨み付けていたのがなんなのかを確認して、それから慌ててテーブルへ駆け寄ると下に敷いてあったハンカチごと大事そうに指輪を取り上げた。
「ど、どうしたんですか、こんなのそんなにじっと見つめて。」
あっという間に顔を赤くしてあかねは指輪を大事そうに両手で包み込むように握った。
頼久はそんなあかねの様子を見て、自分でも意識しないうちに口を開いていた。
「神子殿、お尋ねしたいことがあるのですが…。」
「えっと、今じゃなきゃダメですか?先にご飯食べませんか?冷めちゃうし…。」
「……そうでした。」
頼久は小さくため息をついて立ち上がった。
そう、今まであかねは頼久のために昼食を作ってくれていたのだ。
せっかくあかねが作ってくれたというのに、自分のわがままのために冷や飯にするなどありえない。
頼久はそう心の中で己に言い聞かせて、それからこれが最後になるかもしれないのだからという想いが浮かんできて、慌てて首を横に振った。
「頼久さん?」
「すみません、今、参ります。」
心配そうなあかねの視線を受けて慌てて頼久は昼食のテーブルについた。
テーブルの上にはあかねが健康に気遣い、彩も考えて作ったのだろう料理が並んでいる。
普段の頼久ならその全てをあっという間に平らげるところなのだが…
今の頼久は箸を手になんとかのろのろと食べ進めることしかできない。
あかねも一緒に箸を手にしながら、そんな頼久の様子を心配そうな目で見つめていた。
「あの、おいしくないですか?」
「まさか!神子殿の料理がまずかったことなど一度もございません。」
「でも……あ、ひょっとしてさっきの質問のせいですか?気になることがあって食事に集中できないとか?」
「……。」
あまりに図星の指摘に頼久は黙り込んでしまった。
すると当然のことながら更にあかねが心配を増すわけで…
頼久は観念して口を開いた。
「申し訳ありません。神子殿の料理がまずいということは断じてないのですが…。」
「頼久さんがそんなに気になることがあるなら聞いてください。先に答えます。そうしたらごはん食べられますよね?」
「はぁ…。」
あかねはもう質問に答える気満々だが頼久は躊躇った。
どうして学校へは指輪をしていかないのか?
その質問はなんだか詮索のようで、あかねを信用していないようにも聞こえる。
そうは思っても自分の中にある悶々とした想いをこのまま抱えて平気な顔をしていられるほど頼久は器用ではない。
あかねの前でいつも通りにふるまえない以上、頼久にはあかねを信用していないようにも聞こえる質問を口に出すしか手立てがなかった。
「頼久さん、遠慮しないで何でも聞いてください。私に答えられることならなんでも答えますから!」
質問一つに答えるだけで大好きな人が元気になるのならどうということはない。
そんな気合が見えるようなあかねの真摯な瞳に見つめられて、頼久は重い口を開いた。
「その…神子殿は何故、さきほど、指輪を外されたのでしょうか?」
「へ、それはもちろん、料理をする時に指輪していると汚しちゃったり間違って流しに流しちゃったりしたら嫌だからですけど?」
「では、大学へ指輪をして行かれないのは何故なのでしょうか?」
「えっ、どうしてそんなこと…。」
「天真より聞きました。」
なるほどという表情を浮かべてから、あかねははっと頼久を見つめて顔を赤くした。
目の前の頼久はというと、これ以上ないほど真剣な顔をしている。
これはきちんと答えなくてはとあかねは姿勢を正した。
「えっとですね、この指輪、ダイヤがついてるんです。」
「はぁ…。」
それはそうだ。
頼久が天真の忠告などを考慮に入れて選んだ婚約指輪は小さなダイヤが一つついていたのだから。
大きなダイヤはあかねの年齢だと豪華すぎて受け取りづらい。
けれど、やはり婚約指輪となればダイヤは譲れない。
色石なんてとんでもない。
そう言ったのは天真だった。
その天真の意見を入れて、あかねの細い指にもよく似合うだろうと小さなダイヤを選んだのは頼久自身。
指輪にダイヤがついていることは良く知っている。
「えっと、その…普段は私、すごく庶民的なかっこうをしてるというか…あんまりおしゃれしてないんです。だから、ダイヤの指輪ってしてると目立っちゃって…。」
「なるほど…。」
言われてみれば確かに、あかねは常日頃からブランド物の服を身につけたりアクセサリーをつけたりして歩くタイプではない。
頼久とデートの時だけはあかねなりのおしゃれをして出かけるが、毎日の通学までそんな恰好をしているわけではない。
だいたいそんなにおしゃれをする必要がないくらい、あかねは何をしなくても美しいと頼久は思っているからおしゃれをしないあかねに不満を持ったこともない。
けれど、おしゃれをしないとなると確かにダイヤのついた指輪はそれだけが浮いて見えるような気がした。
「それに、この指輪はするなら絶対左手の薬指にしたいし…。」
「はぁ…。」
左手の薬指が問題なのか?と頼久は一瞬表情をこわばらせた。
他の指ならしてもかまわない。
そう言われたら…
そんなことを頼久が考えているとは知らないあかねは、頬を赤くしてうつむいた。
「左手の薬指ってことは婚約指輪だって誰が見てもわかるじゃないですか、これ、ダイヤだし。」
「はぁ…。」
「それってなんだか、その、私は結婚が決まってて幸せいっぱいな人ですって宣伝して歩いてるみたいで恥ずかしいと言うか、申し訳ないと言うか…。」
どんどん顔を赤くするあかねを頼久はきょとんとした顔で見つめた。
あかねの口から語られた疑問に対する解答は頼久が全く、欠片ほども予想しない内容だった。
つまりは、あかねは自分が既に婚約者のいる幸せな人間だと周囲に自慢しているように見える気がするのが嫌だから指輪をはずしているということらしい。
どうやら自分との婚約を後悔しているわけではないと理解して頼久はようやく安堵のため息をついた。
「もしかして頼久さん、私が指輪していないの気にしてました?」
「……事情はよくわかりましたので。では、何か違う石の指輪も…。」
「そ、そんなのダメです!私のわがままでそんな、婚約指輪を何本もなんてダメです!絶対!それに……その……必要もないので……。」
「は?」
「確かに指にはしてないんですけど、この指輪、普段はチェーンを通してペンダントにして毎日学校には持って行ってるので…。」
恥ずかしそうにそう言ってあかねは赤い顔に笑みを浮かべた。
指にはしなくても、ちゃんと毎日肌身離さず持って歩いてくれている。
それだけで頼久は全身から力がすっと抜けていくのを感じた。
そうして今まで自分がどれだけあかねが指輪を身につけていないと思うだけで緊張していたかを実感した。
万が一にも返されるようなことがあったらどうすればいいのか?
意識しなくても心の片隅にいつもその心配があった気がする。
「頼久さん?あの…。」
急に様子が変わった恋人にあかねが心配そうな視線を向ける。
頼久は小さく息を吐いてから箸を握り直してあかねが作ってくれた昼ごはんへとその箸をのばした。
「もう大丈夫、ですか?」
「はい、冷めないうちに頂きます。」
笑顔でそう答えて頼久はいつものペースで食事を再開した。
見る見るうちに減っていくテーブルの上の料理にあかねは思わず笑みを浮かべた。
表情も行動も雰囲気もやっと全部いつもの頼久だ。
「あの…すみませんでした。せっかくもらったものをちゃんと指にしてなくて。」
「いえ、差し上げた物をどうするかは神子殿の自由ですので。私がいらぬ詮索をしたのです。」
「いらない詮索、やっぱりしたんですね……。」
「そ、それはその……申し訳なく…。」
「次からは詮索する前にちゃんと聞いてください。今回はせっかくもらったものをちゃんと指にしてなかった私も悪いですけど…。」
「いえ、神子殿は何も悪くは……。」
このままではどちらも自分が悪いの応酬が延々と続く。
それに気づいて二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「神子殿の就職活動はうまくいっておいでですか?」
食事の合間の頼久の何気ないこの質問に、あかねは苦笑を浮かべた。
大学を卒業したらとりあえずは社会人になろうとしてはいるものの、就職活動なるものはそう簡単に進んではくれないということを最近は切実に実感しているところだ。
世の中というものが厳しいということをあかねは初めて体験している気がした。
京での戦いは本当に大変だったけれど、社会に出て大人になる大変さはまた質の違う苦労が多かった。
「……あまり、うまくはいってません。」
結婚しようと言ってくれている人にこんなことで嘘をつく必要もないわけで、あかねはありのままを口にした。
既に社会人として立派にやっている大人の恋人からはきっと良いアドバイスがもらえるのだろう。
そう思っていたあかねの耳に届いた頼久の言葉は、あかねの予想とは全く違ったものだった。
「神子殿が就きたい職業がおありなら、その職業に就けるように頑張ってください。ですが、気の進まない職業に就いてまで働くことはありません。」
「でも、それだと就きたい仕事に就けなかったら社会人になれませんよ?」
「それは……その……なれずとも……。」
「でも社会人になれないと私、親の脛かじりに……。」
そこまで言って、あかねは頼久が何を言いたいのかにようやく気が付いた。
そして気が付いてしまうと、もう顔が赤くなるのを止められない。
「無理をして社会人とならずとも、この頼久が貰い受けますという証を差し上げたつもりなのですが…。」
「そ、それはわかってます!わかってますから!」
「わかって頂けているのならいいのですが。」
慌てるあかねに今度は頼久が苦笑した。
婚約したとはいうものの、それはまだ二人の間でだけの小さな約束に過ぎない。
だからあかねはこうして何かにつけてその事実を失念するのだろう。
指輪を常にしていられないのも理由の一つかもしれない。
ならば、と頼久はあかねの手料理を味わいながら考えた。
もっときちんとした形にするべきだろう。
そうすればあかねもきっと自分と婚約しているのだということを失念したりはしないはずだ。
頼久の思考はそう結論をはじき出し、それと同時に食事を終えた。
箸を置き、律儀に両手を合わせて「御馳走様でした」と言った後はあかねと二人で食器を片づける。
そんないつもの作業をこなしているうちに、あかねの顔にも頼久の顔にも幸せな笑みが戻っていた。
頼久がきちんとスーツを着込んであかねの家を訪れたのはそれから数週間後のことだった。
頼久はあかねの両親に改めてあかねとの結婚を許してほしいと申し出て、即答で許可をもらい、結納の日取りを決めてしまった。
もちろん、あかねにとってもそれは嬉しい出来事だったからとんとん拍子に話は進み…
更に時間を空けること数週間後には綺麗な振袖を着たあかねとスーツを着た頼久があかねの両親を交えて結納を交わす姿があった。
管理人のひとりごと
まだ若いからねぇ、あかねちゃん。
色々恥ずかしかったり、周りが気になったりね。
あかねちゃんはきっと指も細いからね、大きなダイヤはたぶん似合わないと思うんだ。
しかもダイヤでしょ、普段はしないよ?普通。
ってことで想像してみた一本でした。
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