よく晴れた朝。
青い空にまぶしい太陽。
明るい陽の射す縁にペタリと座っているあかねの前に頼久は立っていた。
あかねが龍神の神子として京を救ったのはつい一月前のこと。
本来ならばその役目を終えてもといた世界へ帰るはずだったあかねは今、頼久の前で深いため息をついている。
いつもなら自分のすぐ側に神子殿がたたずんでいるのを見つめているだけで幸せになる頼久だが、さすがに目の前で憂鬱そうにため息をつく姿を見せられては心配しないではいられず、真剣に神子殿の話に耳を傾けていた。
「やっぱりね、いけないと思うんですよ、ぶらぶらしてるのは。」
「はぁ。」
鬼との戦いが終わり、怨霊がいなくなり、四神も龍神も力を取り戻してこの京は日に日に穏やかで平和な姿を取り戻そうとしている。
今まで龍神の神子として毎日忙しく動き回っていたあかねにも当然その平和な日々は訪れるわけで、この一ヶ月というもの、あかねは藤姫と一緒におしゃべりをしたり絵巻物を見たりして騒いでいたわけだが…
さすがに一ヶ月もそうしているとすることもなくなったというわけだ。
いまだに頼久に与えられた龍神の神子の警護という任は解かれておらず、当然のことながら朝からこうして神子殿をお守りしに来ているわけだが、一月目にして頼久が何よりも大切に思う神子殿は目の前で悩ましげにため息をつき出したのだった。
「怨霊がいなくなって京も平和になったし、私の龍神の神子としてのお役目も無事に果たせたわけです。」
「はぁ。」
「ということはつまり、私にはこれといってやらなくちゃならないってことが何もなくなったってことなんですよねぇ。」
「はぁ。」
「それで、やっぱり、毎日毎日遊んで暮らしてるのってどうかと思って、それで藤姫ちゃんに話してみたんです。」
「はぁ。」
「私、この京でお仕事しながら自分で生活したいって。」
「はぁ…………………はぁぁぁっっ?!」
今まであかねが何を言いたいのか全くわからずに「はぁ」と返事をしながら小首をかしげていた頼久は、今のあかねの言葉をよーーーーく頭の中で反芻し、そして驚きの声をあげたのだった。
「こんなことで驚いてちゃダメです。」
「いや、その…。」
「私がこの話をしたら藤姫ちゃん、なんて言ったと思います?『大切な神子様にそんなことをおさせすることができるとお思いですか?どうしてもお一人でお住まいになりたいと仰せなら、この藤が生活に必要な全てのものをそろえさせて頂きます』っていきなり言われて、次に『お仕事だなんてとんでもございません、神子様はもう十分にこの京のために働いて下さいました。お一人で生活なさりたいというお話はともかく、仕事だなどと藤は藤は…』って泣き出されちゃったんですよ。」
「は、はぁ…その…。」
「まだここで驚いちゃダメです!一番の問題はこの次なんです!」
「は、いや…。」
「藤姫ちゃんったらそこからあの色の小袖もとか文箱はとか色々選び出して、私が何もいらないって言ってるのに最後にこう言ったんです『そうですわ、この屋敷のすぐ近くに神子様のお屋敷をおたてしますわ。』って。私は空いてる小さな家を探してくれればそれでいいって言ったんですけど、どうしても屋敷を建てるって藤姫ちゃんはりきっちゃってもう…。」
「いや、ですからその…。」
「お屋敷ですよ、お屋敷!お家じゃないんです、お屋敷です!そんなのポンって私のために建てられても…はぁ…。」
いや、そういうことではなく…
と頼久は心の中でつぶやいた。
何故、元の世界に帰るはずだったあかねが帰らずにこの京に一人残ることにしたのかといえば、お慕いするあなたのお側に一生置いて頂きたいと言った自分の想いにあかねが応えてくれた結果であり、応えてくれたということは当然あかねも自分を慕ってくれているということであって、ということは自然の話の流れで頼久としては妻としてあかねを迎えることを考えていたわけだが、あかねはというとどうやらそんなことは毛頭考えていないようなのだ。
武士団の棟梁たる父に話しをして許可を得るのが先決と先日父に話をしたところ、「やっとお前も嫁を…」と感極まった上に、今あかねから聞いた藤姫の反応と大差ない反応を見せられてしまった。
すっかり反対されると思って意気込んでいた頼久としてはほっと胸をなでおろしたわけだが、屋敷を建てるだの調度品をそろえるだのと騒ぎ出す父をなだめるのに必死で、よくよく考えてみれば一番大切な神子殿にその話をするのを忘れていたという次第。
「あの、神子殿…。」
「はい?」
「神子様、忘れておりましたわ、几帳なのですけど……あら、頼久…ちょうどよかった、神子様、頼久を少々お借りしてもよろしいでしょうか?」
「へ?あぁ、うん、いいけど…。」
せっかく重要な話をしようとしていた頼久は、どうやら一人暮らし用の調度品の話をしにきたらしい藤姫に見つかり…そして自分をにらむような藤姫の視線に気付いてしまった。
とてつもなく嫌な予感が頼久の背筋を凍らせる。
「さ、頼久、神子様のお許しが出ましたから、少々こちらへ、話があります。」
「はっ。」
いつものように返事はしたものの、藤姫の厳しい口調に頼久は更に嫌な予感を深めながら愛しい神子に一礼して藤姫の局の前の庭へとその身を移した。
残されたあかねはというと、小首をかしげて二人を見送ってから藤姫のやる気をどうしたらいいものかとそればかりが気になってまた深いため息をつくのだった。
「さて頼久、話というのは他でもありません、神子様のことです。」
「はぁ。」
場所を移した藤姫と頼久はちょうどさきほどあかねと頼久がたたずんでいたのと同じような感じで向かい合っていた。
藤姫は縁に座り、頼久がそこから少し離れた庭に立っている。
どこからどう見ても不機嫌この上ない藤姫からは視線をそらし、頼久は主筋にあたるこの少女の前に片膝をついて頭を垂れた。
「よいですか頼久、神子様は、この京を命がけでお救い下さった神子様は元の世界にお戻りになることがおできになるにもかかわらず、この京に、藤の側に残って下さいました。それだけでもこの上なく有難いことですのに、こともあろうに神子様はこの藤に迷惑をかけたくはないから、この屋敷を出てお仕事をなさりながらお一人でお住まいになりたいと、そうおっしゃられたのです。」
「はぁ。」
それはさっき神子殿から聞いたなどということは決して口には出さない。
そのようなことを口に出したらこの怒れる少女がどんな態度に出るか…。
「何故このような事態になっているのです?」
「はぁ……はぁ?」
聞き流そうとしていた頼久は自分が何か問われていることに気付いて顔を上げた。
上げた視線の先に見えたのはかわいらしい少女のあまりにも不機嫌な顔。
「はぁ?ではありません。よいですか。神子様がこの京にお残り下さったのは決して藤の側にいたいがためではありません。他でもない、頼久の側にいたいとお思いだからではありませんか。ということは“当然のことながら”いつかは神子様も頼久のもとへと嫁がれるのでしょうが、“どうしてか”神子様はそのことを考慮に入れてはいらっしゃらないようで、あろうことかご自身お一人で生活なさるなどとおっしゃって…わたくしは“わたくしなどが何も言わずとも”神子様は頼久のもとへ嫁ぐからそれまでの間もう少しだけここにいたいという話をして下さるものと思っておりましたのに“何故”このような仕儀に相成っているのでしょうね?」
「そ、それは…。」
やっとそう口を開くまでの間に頼久の顔色は藤姫が強調する言葉を聞くたび、ころころと変わった。
頼久の顔色はまず当然のことながら♂ナぐのところで赤くなり、どうしてか″l慮に入っていないというところで青くなり、何も言わずとも§bをして下さるのところで白くなって、最後に何故¢叶ャっているのでしょうね?のところですっかり血の気の引いた顔を地面へ向けた。
「それは?なんです?」
すっかり打ちひしがれている頼久に藤姫は容赦がない。
龍神の神子様のことを姉とも慕う少女はこれでも大切な神子様のために懸命なのだ。
「その…。」
「まさか、頼久はこの京へ神子様をお引き止めしておきながら、嫁として迎えるつもりはない、などと言い出すのではないでしょうね?」
「ま、まさか!そのようなことは決してっ!」
と咄嗟に言ってしまい、そしてその言葉に藤姫が満足そうに微笑んだところで頼久は自分が何を口走ったのかに気付いて顔色を再び赤くした。
頼久にしてみれば主筋に当たる人物に自分が今、神子殿を妻にすると大声で宣言したようなものだ。
顔から火が出そうな思いでいる頼久の心中を知ってか知らずか藤姫はあっという間に機嫌を直していつもの愛らしい笑顔を浮かべていた。
「それを聞いて安心しました。とりあえず、神子様がどうしてもとおっしゃるのでわたくしが屋敷とその他諸々、必要なものは全てご用意申し上げて、吉日を選んでお移り頂きはします。小さな小屋で神子様お一人でお暮らし頂くなど、わたくしにはとても耐えられませんから。」
「はぁ。」
「はぁ、ではありません!神子様はもったいなくもこの藤や、頼久、あなたに迷惑をかけずにこの京で暮らしてゆこうとよくよく考えておいでなのです。この藤が、神子様には何一つ不自由のない生活を整えて差し上げるこは簡単ですが神子様はそれでは納得なさらないのです。神子様に幸せにお過ごし頂くためには頼久、あなたの配慮が必要です。わかりますね?」
「重々承知しております…。」
「ならばよいのです。頼久の返答にわたくしも安心しました。では、神子様の元へお戻りなさい。重々承知している≠フなら。」
「し、承知致しました。」
頼久は深々と一礼してそそくさと藤姫の前を辞した。
藤姫の最後の一言、強調された「重々承知している」が頼久の胸に突き刺さっていた。
そう、重々承知していたはずなのだ、異世界からやってきた神子殿がこの京へ残ることを選び、ただ一人生きていくということがどれほど寂しく、どれほど不安なことであるかを。
それなのに自分は…
頼久のあかねの局へ向かう足は自然と駆け足になった。
「あ、お帰りなさい頼久さん、藤姫ちゃんの話、なんだったんですか?」
急いで戻ってみればまだ縁に座ったままのあかねが笑顔で頼久を迎えた。
この笑顔を目にしたとたんに頼久は落ち着かなくなり、言わなくてはならないこともなんとなく霞の向こうへ行ってしまったようで、とりあえずは挨拶をして呼吸を整える。
「ただいま戻りました…それがその…さきほど神子殿がお話になった…。」
「あぁ、お屋敷のことですね!やっぱり建てるって言ってたでしょ?藤姫ちゃん。」
「はい…。」
「あぁ、やっぱりやめてくれるつもりはないんだぁ…。」
がっくりとうなだれるあかね。
「どうしよう…。」
「あの…その話なのですが…。」
「え!頼久さん、何か藤姫ちゃんを止めるいい方法を思いついたんですか?!」
「いえ、あの…。」
思いついたかといわれれば思いついたのだが、その方法を口に出すとなると生真面目な頼久にとってはとてつもなく勇気のいる仕事であり…。
神子殿にはこの頼久のもとへ嫁いで頂くので何一つご心配は無用です、という言葉がどうしても口に出せず…
顔を赤くしてしどろもどろになっている頼久をあかねが下からのぞきこんだ時点で頼久は完全に凍り付いてしまった。
愛らしい瞳でどうしたの?と言いたげに見上げられてはもう頼久は息をすることさえも普通にはできないのだ。
「何かいい方法を思いついたんじゃないんですか?」
「はぁ…あの…いえ………………申し訳ございません…。」
やっとそれだけの言葉を搾り出した頼久に、あかねはにっこり微笑んで見せた。
「謝らないで下さいよ、私だってどうしたら藤姫ちゃんを止められるか全然いい考え浮かばないんですから。」
この笑顔で完全に思考が停止してしまった頼久は、ただ愛らしい神子殿から目を離すことができないまま必死に呼吸することだけに専念してしまった。
「ん〜。」
頼久が己の心の波を整えている間にあかねはすっかり考え込んでしまっていた。
とにかく藤姫の屋敷建造計画を阻止したいのだがいい案が浮かばないようだ。
目の前で頭を抱えて悩む愛しの神子を見て苦しそうに表情を曇らせた頼久だったが、次の瞬間、あかねはぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべて頼久を見上げた。
「考え込んでばかりじゃ答えなんて出ないですよね!出かけましょう!頼久さん!」
「はぁ……は?」
「そうだなぁ、大文字山へ行きましょう!きっと気持ちいいですよ。一緒に行ってくれますよね?」
「はっ、お供させて頂きます!」
命を懸けて一生守ると誓った少女にお願いされて頼久が断れるわけもなく、こうして二人は怨霊を封印して歩いていた頃のように連れ立って出かけることになったのだった。
道中、あかねはとても上機嫌だった。
道端に咲いている花が美しいと言っては駆け寄り、川の水が澄んでいると言ってはその水を手にすくい、鳥の鳴く声が綺麗だと言っては微笑んだ。
そのたびにいちいち頼久の方を振り返って綺麗な瞳で見つめてくる。
心の底から楽しそうなあかねの姿を頼久はうっすらと口元に優しい微笑を浮かべながら見守って歩くのだった。
「頼久さん、見て見て、空があんなに高くて綺麗。」
「はい。」
「風も凄く気持ちいいですよね。」
そう言って楽しそうに歩くあかね。
「京がこんなにも美しく住みやすい世になったのは神子殿がお救い下さったからこそです。」
「はい」以外の言葉を久々につむいだ頼久に、一瞬驚いた顔を見せたあかねはすぐに満面の笑みを浮かべた。
「私が救ったんじゃないですよ、みんなで頑張って救ったんじゃないですか。」
満面の笑みでそう言って歩き出すあかねの後ろについて歩きながら、頼久はその後ろ姿に見惚れた。
小さな背中だ、全身が華奢でとても怨霊と戦ってきた少女には見えない。
だが、この少女がどれだけ強い意志を持ち、清らかな心であらゆるものを癒し救ってきたかを知っている。
軽やかに歩く主の後を追いながら、頼久はこの少女を守り続けるという決意を新たにせずにはいられない。
京を救った少女には、ふさわしい幸福な未来があっていいはずだ。
「うわぁ、綺麗。」
浮き立つあかねとそれにただ黙々と従う頼久の二人は大文字山の中腹、見晴らしのいい場所へとたどりついた。
そこからは京が一望できる。
穏やかで平和そうな京の姿がそこにはあった。
「ん〜、いいですよねぇ、やっぱりこういうの。」
平和な京を見下ろしてあかねはご満悦の様子で、その姿を見守る頼久の顔にも穏やかな表情が浮かび続けている。
こんな時間がこれからずっと続けばいい、頼久はそう願わずにはいられない。
「ね、頼久さん。」
「はい。」
「歩きましょう。」
「は?」
「山道を散歩しましょう。」
そう言うが早いかあかねはさっと頼久の左腕を抱いて歩き出す。
木漏れ日の中をゆっくりと。
ただきょとんとするばかりの頼久はそれでもあかねにひきずられるように歩きした。
「み、神子殿?」
「頼久さんって、こういう風にするの、人前だと凄く嫌がるじゃないですか。ここだと誰もいないし、木漏れ日が凄く気持ちいいし、いいかなぁって…嫌、ですか?」
「いえ、嫌では……。」
「私がいた世界ではこういう風に歩くことってけっこう普通のことなんです。私、大好きな人とこうして歩くの憧れてたんですよ。」
さらりと「大好きな人」と言われて頼久が顔を真っ赤にしているのに気付いているのかいないのか、あかねは頼久の左腕を抱いたままゆっくり歩き続ける。
それは頼久にとっては今まで想像したこともない穏やかで幸せな時間で、あかねの手を解くことも歩みを止めることもできずにただあかねに腕を引かれるまま歩き続けた。
人前であかねと並んで歩くなど、今まで主に仕えていた感覚からして平然とできるわけのない自分のその心情まで思いやってくれたことも嬉しくも有難くて、その気持ちを伝えるために何か言わなくてはと考えれば考えるほどあせるばかりで、頼久は顔を赤くしたまま結局何も言えない自分にいらだつしかなく…。
「私、こっちの世界にきてからは藤姫ちゃんや八葉のみんなに守ってもらってばかりだったから、自分のことも満足に自分じゃできなかったりして…これからこの世界でやっていくって決めたんだし、少しは自立しないとなって思ったんです。それなのに藤姫ちゃん、お屋敷建てるって言い出すし、仕事はだめですって泣かれちゃうし…。」
「はぁ」と深いため息をつくあかね。
その憂い顔を見るにつけ何か言わねばと思う頼久だが、思う言葉はなかなか口をついて出てはくれない。
「どうしよう…お屋敷なんていらないし、お仕事だってどこかのお姫様の女房とかいうんじゃなくて、お料理作る下働きの人、とか、お掃除とかなんか、そんなので全然いいんですけど、藤姫ちゃん絶対許してくれそうにないし…。」
「とんでもありませんっ!」
その頼久の声はあまりに大きくてあかねは驚いて歩みを止めた。
「頼久、さん?」
この京を命をかけて救い、そして自分の求めに応じてこの世界へ残ってくれたあかねが、下働きだの掃除だのをしている風景を想像して頼久の顔色は急速に青くなった。
この清らかで尊い少女にそんなことをたとえ一日でもさせられるわけがない。
「藤姫様でなくてもそのようなこと、お止めしないわけがありませんっ!」
「頼久さんも反対、なんですか?」
驚いたように目を丸くして見上げてくるあかねをいつもなら照れくさそうに顔を赤くして視線をそらす頼久がきりっと見つめ返した。
「よろしいですか、神子殿はたとえ怨霊との戦いが終わったとしても龍神の神子殿なのです。この京をお救い下さった尊い方なのです!下働きなどとんでもありません。」
いつもは寡黙で余計なことは一切口にしない頼久にここまで饒舌に反対されてはあかねも正面からは反論する隙もなくて、抱きついていた頼久の左腕を解放するとくるりと頼久に背を向けてうつむいてしまった。
「でも、これからずっと藤姫ちゃんのところにお世話になるっていうのも…もう龍神の神子なんて必要ないんだし…。」
木漏れ日の中で力なくうつむくあかねの背中を見つめているうちに頼久は胸が締め付けられる想いにさいなまれた。
自分が生まれて育ったのとは全く違う世界に一人生きていくことの恐怖とはどのようなものか。
何にも頼らず、居場所さえ自分で作るところから始めようとしているこの少女がどれだけ心細く思っているか。
この京を救ってくれた大恩ある少女に、いや、自分が生まれて初めて息が詰まるほどに愛しく想っている少女にそのような思いをさせるとは…。
唇をかたく引き結び、つものように難しそうな顔でそこまで考えた頼久は、何惑うことなく自然と次の言葉を口にしていた。
「神子殿、神子殿にはこの頼久のもとへ嫁いで頂きますので何一つご心配は無用です。ですからどうか、もうお一人で暮らすだの、仕事をなさるだのとそのようなことをお考えになるのはおやめ下さい。」
「…………………えっと………今、なんて言ったんですか?」
くるりと頼久の方へ向き直り、あかねは長身の青年のその端正な顔を下から大きく目を見開いてのぞきこむ。
「何、と申されますと?」
「ですから、今、頼久さん、なんて言ったんですか?」
「…お一人で暮らすだのお仕事をなさるだのというようなことは…。」
「その前です。」
「……神子殿にはこの頼久のもとへ嫁いで…頂きます、ので………。」
再び言葉にして頼久は初めて自分が何を口走ったのかに気付き、あかねから一歩身を引いて顔を真っ赤にすると、左手で顔を覆うようにしてうつむいた。
とんでもないことをさらりと言ってしまった。
あかねをなんとか止めようと必死になっていて、自分が何を言ったのかに気付いていなかったのだ。
頼久は顔どころか体から火が噴き出しそうな思いで、それでも愛しい人がよもや自分の言葉を嫌がってはいないだろうかと恐る恐る左手を下ろしてあかねの方へと視線を向けた。
するとそこには、自分を見上げる見開かれた愛らしい瞳が。
「それって…私をお嫁さんにしてくれるってことです、よね?」
「は…はぁ、そのつもりで申し上げましたが…お嫌でしたか?」
「まさかっ!」
「お嫌でしたらその、お断り頂いても…。」
いや、断られたりしたら生きてはいられないんじゃないだろうか、そう思いながら口走る頼久にあかねは激しく首を横に振って見せる。
「嫌なんかじゃないですってば!嬉しいです!嬉しいですから!」
そう言ってしまってから今度はあかねが顔を真っ赤にしてうつむいた。
頼久があまりにも自信なさげにしているから、どうしても自分が喜んでいることを伝えたくて必死に言ってしまったが、よく考えるとまだ少女のあどけなさの残るあかねにはとても恥ずかしい発言で…
「そ、そう言って頂けると…。」
自分でも何を言っているのかと思うがこれ以上頼久にはつむぐ言葉もみつからない。
ただ、拒否されなかったことにほっとするばかりだ。
「でも…あの…。」
「な、何かご不満でも?」
「いえ、あの、不満じゃなくて…頼久さんはその、家族とかいるでしょ?反対とかされません?違う世界からきたこんなまだ子供の女の子で、しかも龍神の神子って…とんでもない子と結婚、なんて…。」
そんなことを気になさっていたのかと頼久はその顔にうっすらと微笑を浮かべた。
自分よりも何やら慌てているらしいあかねを見て、ようやくいつもの頼久らしい冷静さを取り戻すと、この無骨な青年武士はその手をやっとあかねの両肩に優しくのせた。
「そのようなことは神子殿が心配なさるほどのことではございません。」
「でも、無理させて頼久さんに迷惑かかるの嫌だし…私はね、頼久さんのそばにいられるだけでいいんですよ?本当に無理してませんか?」
心の底から心配そうに自分を覗き込むあかねはどこかはかなげで、頼久は一度目を閉じて軽く息を吐いてから再び目を開けた。
そうしなければあまりにも目の前で自分を見上げる少女が愛しくて、話が終わらぬうちに抱きしめてしまいそうだった。
「実を申しますと、父にはもう話をしてあるのです。」
「へ?」
「神子殿を我が妻に迎えたいと父に話し、許しを請いましたところ…。」
「ところ?」
「その…お前のような朴念仁が自分で嫁を見つけてくるとはと感極まって涙ぐみ、屋敷を建てる調度品をそろえると大騒ぎで…。」
「それって…。」
あかねはくすっと微笑んだ。
さっきまで自分が止めようとしていた藤姫と同じ行動を頼久の父親が起こすなんて想像もできなかったからだ。
「はい、藤姫様と似たようなことに…。」
「優しいんですね、棟梁さんって。」
そう言って微笑むあかねに想いはあふれて、頼久は静かにその細い肩を抱き寄せた。
今まで幾度となく自分を守り、救ってくれた広い胸にうっとりしながらあかねはそっと目を閉じる。
「帰ったら藤姫ちゃんに、お屋敷は頼久さんが建ててくれるから建てなくてもいいって言ってもいいですか?」
「もちろんです。いい解決策になりましたでしょうか?」
「はい、とっても!」
頼久の腕の中でにっこり微笑んだあかねは、広い胸から離れると再び頼久の左腕をとって歩き始めた。
「さ、帰りましょう。藤姫ちゃんに早く話さなきゃ。」
楽しそうにそう言う愛しい人の隣で、この少女に出会う前は常に鋭くとがった空気を放っていた青年は今、やわらかな微笑を浮かべていた。
翌日、いつもよりも晴れやかだが少しばかり気恥ずかしい思いで神子の局の前へとやってきた頼久は予想外の風景を見て絶句した。
いつもならば声をかけるまで御簾の向こうから出てこないあかねが、もう縁にペタリと座ってうなだれている。
まさか自分の求婚を受け入れたことを悔いているのかとあせった頼久が駆け寄ると、あかねは頼久の予想に反してさっと顔を上げ、急に声をかけてきた。
「頼久さん、聞いてくださいよ。」
「はぁ。」
いつもならそこにだけ陽が射したように麗しい笑みをたたえて朝の挨拶をするあかねが、挨拶ぬきでいきなり話しかけてきたものだから、頼久は目を丸くして「はぁ」としかいえなくなってしまった。
「昨日話したんです、藤姫ちゃんに。お屋敷は頼久さんが建ててくれるから藤姫ちゃんは建てないでって。」
「はぁ。」
「そしたら藤姫ちゃんたら、頼久さんはどこに屋敷を建てるつもりなのかって聞いてくるんですよ。」
「はぁ。」
「だから私がそこまではわからないって答えたら、藤姫ちゃんなんて言ったと思います?」
「……。」
「『この屋敷から遠く離れたところに建てられたりしてはお会いすることもやすやすとはできなくなるではありませんか、やはりこの藤がすぐ近くに屋敷を御用意させて頂きます』って、そう言って私の話を聞いてくれないんですよ…はぁ…。」
頼久は誰からも愛されるが故の悩みを抱えているらしいこの少女が愛しくて、口元にかすかな笑みを浮かべる。
武士の身分ではこの近くに屋敷を構えるのは確かに無理なこととも思えるし、藤姫の気持ちがわからないこともない。
せっかくこの京にとどまってくれた姉とも慕う神子が男にさらわれて自分からは離れてしまうのでは、それは寂しかろうと頼久は一つの決断を下した。
「では、藤姫様にお屋敷を建てて頂きましょう。それで藤姫様のお気がすむのでしたら。」
「え、でも、せっかっく頼久さんのお父さんがお屋敷建ててくれるって…。」
「藤姫様から父の方に話をして頂けば、父とて嫌とは申しますまい。主筋に当たるお方のお頼みですから。」
「でも…。」
「いいのです。私は神子殿と、神子殿が大切に思っていらっしゃる方が幸せであってくださればそれで。ですからお気になさらず、そのようにさせてください。」
「頼久さん…はい、頼久さんの言うとおりにします。私一人じゃ藤姫ちゃん止められそうにないし。」
そう言って微笑むあかねを見ているだけで頼久の心は暖かくなる。
本当に自分はこの神子が幸せであるだけでいいのだと、それほどまでにこの少女に強い想いを寄せているのだと自覚する。
そしてあかねもまた、自分だけでなく、自分の大切なものまでも気遣う頼久をどれほど自分が想っているかに気付く。
こうして二人は互いへの想いを重ねるだけで、この日は何も語らず、だが二人とも幸せそうな微笑を浮かべて見つめあいながらたたずむのだった。
後日、藤姫と源氏武士団棟梁との間で火花を散らすほどの激しい話し合いが持たれた末、屋敷を建てるといってきかない双方の妥協案が成立した。
それは藤姫が用意した土地に棟梁が屋敷を建てるというもの。
どうあっても譲らなかった二人に用意された新しい屋敷で、あかねと頼久の生活は優しい想いに包まれて始まるのだった。