
あかねは講義中、そっと窓の外を眺めてみた。
朝はどんよりと曇っていただけの空は、今、しとしとと雨を落としている。
午後の講義は一つだけ。
いつもならそのことを喜んで恋人の家へ急ぐところだけれど、雨はだんだん激しくなるばかりで止む気配がない。
傘は一応持ってきたけれど、雨の中を歩くとなるときっと足元が濡れてしまうに違いない。
そのまま恋人の家を訪ねてもあかねの年上の恋人は歓迎してくれるに決まっているのだけれど、あかねとしては家の中を濡らしてしまうのもはばかられる。
だいたい、雨でぬれたみっともないかっこうで恋人に会うというのも気が進まなかった。
となると、学校から恋人の家へ直行するという選択はなし。
一度家へ帰って着替えて、それから長靴を履いて恋人の家に向かうのが一番いい。
せっかく午後の講義は一つだけなのに恋人に会うのが遅くなるだろう事実に、あかねがそっとため息をついた瞬間、教団に立つ教授が講義の終了を告げた。
がたがたと音を立てて学生達が立ち上がると、あかねには何人かの女子学生が声をかけてきた。
もちろん、どれも簡単な別れの挨拶だけだ。
あかねは講義が終わるとすぐに恋人の家に向かうことはもうみんなの知るところだった。
だからあかねは友人達に軽く挨拶を返しながら支度をすると、すぐにカバンを手にして席を立った。
「あっかねちゃん!」
教室を出るとすぐに声をかけてきたのは蘭だった。
顔には満面の笑みが浮かんでいる。
あかねはそんな蘭に苦笑を浮かべて見せた。
「あれ、どうしたの?これから頼久さんに会えるからうっきうきだと思ったのに元気ないね。」
「あ、うん、一度家に帰らないとなぁと思って。」
「どうして?」
「雨がひどくなってきたでしょう?直接遊びに行っちゃうと傘をさしてても足元はたぶん濡れちゃうから、家の中汚しちゃいそうだし、一度帰って着替えて長靴履いてって思って…。」
「長靴はくために家に帰るより一瞬でも早く行ってあげた方が頼久さんは喜ぶと思うけどなぁ。」
「そ、そうかなぁ…。」
「って、こんなすごい雨なのに頼久さん迎えに来てないの?」
「うん、だって、今日はお迎えの日じゃないから。」
頼久とあかねの間には約束事がいくつかある。
そのうちの一つがこのお迎えの日、だ。
本来なら毎日のように送り迎えをしたい頼久と、毎日では学校中の有名人になってしまいそうなのでそれは避けたいあかねとの間に成立した妥協案が週に三日だけ頼久が送り迎えをしてもいい日にするというものだった。
月曜、水曜、金曜は頼久が送り迎えをする日で、本日は木曜。
つまり、頼久が送り迎えをしない日なのだった。
「あかねちゃん律儀すぎだよ。こういう日は携帯で呼び出せばいいじゃない。」
「そんな迷惑なことできないよ。」
苦笑しながら言うあかねに蘭は大仰なため息をついて見せた。
迷惑なんてことがあの頼久に限ってあるわけがないと蘭とその兄はよーく知っている。
「迷惑なわけねーだろ、あの頼久が。」
「天真君。」
「いまだに神子殿のためなら命も捨てかねない奴だぜ?」
「そんなことないから!」
『あるある』
天真と蘭の二人に同時にうなずかれて、あかねは返す言葉が見つからなかった。
「さて、俺があかねを送ってやりたいところなんだが…。」
「そんなことしたらお兄ちゃん、頼久さんに殺されちゃうから。私で我慢しようね。」
「ってわけで、俺はこいつの買い物の荷物持ちさせられることになってんだ。悪いな、あかね。」
「あ、ううん、大丈夫。子供じゃないんだから帰るくらい一人で大丈夫だから。」
年上の恋人もそうだけれど、その真の友もあかねのこととなると心配症が過ぎるところがある。
同じ青龍の加護を受けていた八葉だったからなのか、頼久と天真は妙なところが似ているとあかねは常々苦笑させられていた。
「マジで、あいつ、お前に呼び出されて迷惑ってことはねーから、あんまり雨がひどくなるようなら呼び出せよ。」
「大丈夫だってば。そんなにひどくなったらちゃんとタクシー拾って帰るよ。」
「了解、じゃな。」
「じゃあね、あかねちゃん。また明日。」
「うん、また明日。二人とも帰り遅くなるなら気を付けてね。」
「大丈夫、一応、お兄ちゃん一緒だから。」
「一応ってのはなんだ、一応ってのは。」
じゃれ合いながら去っていく天真と蘭を見送ると、もう教室の中にはほとんど学生の姿が亡くなっていた。
さすがにこうも天気が悪いと空き教室に残って無駄話なんていう女子もいないようだ。
あかねは頭の中でこれからの予定を立てながら歩き始めた。
もし雨足が強くならない様子なら帰りに買い物をして帰ろう。
そうして、きっと帰りは自宅まで送ってきてくれるのだろう恋人のために夕飯を作る。
献立は焼き魚と煮物、そんな和食がいいだろう。
本当は明日の講義のために図書館で調べものをしたかったけれど、この雨のおかげで恋人の家にたどり着くのが遅くなってしまうからそれは中止。
などなど…
あかねは大学の長い廊下を考え事をしながらゆっくり歩き、そして玄関へとたどり着くと素早く傘を広げて外へ出た。
雨足はどんどん強くなっているようだ。
これは買い物なんて悠長なことは言っていられないかもしれない。
そう思いながら歩き出したあかねの目に、思いがけない光景が飛び込んできた。
大学の正門の向こうに長身の人影が濃紺の傘をさして立っている。
一本に束ねられた長い髪はあまりにも特徴的で、あかねの目に鮮烈に焼き付いた。
そしてその髪の主が誰なのかを認識するのと同時に、あかねの足は動いていた。
雨水が跳ねて足元が汚れることを気にする余裕もなく、全速力で校門へと駆け寄ったあかねは振り返ったその人の笑顔に思わず笑みを返していた。
「頼久さん。」
「もう今日の講義は終わられたのですか?」
「あ、はい。でも今日は…。」
「はい、お約束している日ではありません。そのことにつきましてはまことに申し訳なく…。」
急に頼久の顔に影が差してあかねは慌てた。
確かに約束している日以外は迎えには来ない、そう約束してはいる。
けれど、今日はこんなに雨が降っているから間違いなく心配してきてくれたのであって、あかねにとっては謝ってもらうようなことではない。
「謝らないでください、そんな…心配してきてくれたんですよね?」
「はい。これからまだ雨足は強くなるとのことでしたので。お叱りは覚悟の上。」
「叱りません!叱りませんよ、そんな、心配してきてくれたのに…。」
もじもじと最後の方は小さな声で言い淀むあかねに頼久は微笑んだ。
「では、車の方へ。お送り致しますので。」
「あ、そっか、頼久さん車ですもんね。」
あかねを雨から守るためにやってきた頼久が徒歩なはずもなく、二人はすぐ側にとめてあった頼久の車へと乗りこんだ。
雨の中、頼久が丁寧な運転で車を走らせると、あかねはほっと安堵のため息をついた。
窓の外を見れば雨足はますます強くなっている。
これは冗談ではなく、天真に言ったようにタクシーを拾う羽目になっていたかもしれない。
そう考えると、あかねは隣で何気ない様子で運転を続ける恋人に感謝せずにはいられなかった。
「頼久さん、有難うございました。」
「は?」
「その、わざわざ迎えに来てもらって…。」
「いえ、それは私がしたくてしていることですので。それよりも神子殿、このままご自宅までお送りしてよろしいでしょうか?」
赤信号にひっかかったところで頼久に見つめられて、あかねは首を横に振った。
ついさっきまでこれから買い物をして家に帰って着替えてから頼久の家へ行こうと考えていたのだ。
このまま自宅へ送られてはそれでさようならということになってしまう。
「あの…ちょっとお買い物してから頼久さんの家に行こうかなって…。」
「買い物、ですか?」
「はい、その…頼久さんの晩御飯をよかったら作ろうかなって…。」
信号が青に変わるのと同時に頼久は視線を前方へと戻し、そして口元をほころばせた。
よかったらも何も、あかねが手料理を作ってくれるというのに異存のあろうはずがない。
「冷蔵庫に先日作って頂いた時の材料が少々残ったままになっておりますが、それではたりませんか?」
「へ、あれ、頼久さん全然食べてないんですか?」
二日ほど前、あかねは頼久の家を訪れていつものように晩御飯を作っていた。
たまたま材料を買いすぎて冷凍庫に入りきらないほど料理を作るわけにもいかず、残った材料は冷蔵庫に入れたままにしてあった。
どうやら頼久はその残った材料に手を付けていないらしい。
男性の一人暮らしとなれば頻繁に自炊をしないという人も多いのはあかねも知っている。
けれど、頼久はそういう一般男性とは少し違っている。
あかねが突然の病気になった時には自分ができなければと頼久は普段から料理をきちんと自分でやる。
ちょっとあかねが油断していたら頼久の方が料理上手になっているんじゃないかと疑いたくなるほど熱心だ。
その頼久が冷蔵庫に残っている食材に手を付けていないとなると…
「頼久さん、お仕事、忙しかったんですか?」
「はぁ、その……ここ二日は…それなりに……。」
それなり?
あかねは心の中でつぶやきながら頼久の横顔をじっと見つめた。
こんなふうに頼久が言い淀む時は必ず何かあかねに話したくないことがある時だとあかねは既に学習済みだ。
「それなりにってまさか頼久さん…。」
「な、何か?」
「二日間寝てないんじゃ…。」
「……。」
頼久は基本的にあかねに嘘をつくということができない。
とういことは、言いたくないことを聞かれた時には黙るしか手立てがない。
つまり、今の無言はあかねの言葉を肯定したということだ。
あかねは深いため息をついた。
二日間徹夜で仕事をして食事も満足にとっていないのに、わざわざこんな雨の中、恋人を雨に濡らさないために出かけてきてしまう人。
自分の恋人がそんな人であることを嬉しく思いながらも心配で…
あかねは膝の上に置いていたカバンを両手で抱きしめてうつむいた。
「その、神子殿、仕事はもう終わりましたのでご安心を。」
「なら、こういう時は家で寝ててください。私一人だってちゃんと頼久さんの家まで行けますから…。」
「このような雨の中、神子殿を一人歩かせて寝ているなど、私にはできかねます。」
「それは…頼久さんはそういう人ですけど…でも、私も頼久さんの体が心配です。」
「それにつきましては、私は普段より……。」
「鍛えてるってのは知ってます。京にいた頃の宿直とか警護とか思えばそりゃたいしたことじゃないかもしれませんけど…。」
そう、頼久の中にはいまだに京で武士として生活していた頃の習慣が残っている。
京ではいつ寝ているのだろう?というほど職務に忠実だった頼久だ。
それを思えば二日の徹夜などどうということはないというのはあかねも頭ではわかっている。
けれど、それとこれとは話が別だ。
「神子殿…その……。」
「心配なものは心配です。でも、頼久さんに家で寝ててくださいって言っても寝ててくれないのもわかってます。」
「申し訳……。」
「だから、やっぱりスーパーによってください。」
「は?」
「スーパーによってください。元気が出るような晩御飯作りますから。」
頼久はどんなにあかねが自分のことは放っておいて家で寝ていてほしいと言ってもきっと言うとおりにはしてくれない。
いや、言うとおりに家にいたとしてもきっと眠れないのだろう。
そうとわかっているだけに、あかねはもう自分でできることを頑張ることに決めた。
これ以上頼久にあかねが何かをお願いしても、それは頼久にとって負担にしかならない。
それが今のあかねには良くわかっていた。
「神子殿…。」
「何にしようかなぁ。カレーとか、牛丼とか、チゲ鍋とか?……頼久さん食べたいものないですか?」
あかねがそう問いかけると、頼久は急に何かを思いついたように表情を変えると、ハンドルを切った。
それはあかねが知るスーパーへの道からは外れる選択で、知らない道を行へとハンドルを切った恋人の横顔をあかねは小首を傾げながら見つめた。
「あの…スーパーによってほしいんですけど…。」
「いえ、食べたいものを思いつきましたので。」
「こっちの方に売ってるものなんですか?」
「はい。先日、仕事の関係者に差し入れされた鰻がうまかったので買って帰ればよいかと。」
「う、鰻…。」
それはあかねの頭の中に高級食材としてインプットされているものだった。
けれど、同時に元気になる食べ物でもある。
これは大変なことになったと慌て始めるあかねをよそに、頼久は良いことを思いついたとばかりに上機嫌だ。
「梅雨が明ければ夏になりましょう。共に食べれば夏になる前に神子殿にも体力をつけて頂けます。」
「それはそうなんですけど…そんななんていうか、贅沢しちゃっていいんでしょうか…。」
「私が食べたいものですので。」
「はぁ…。」
あかねは自分はまだ学生で頼久は既に社会人だというのに、決して頼久の経済力を頼ろうとしない。
そんなところも頼久には好ましく見えるのだが、こういう時ばかりは頼ってほしいというのも本音だ。
「年に一度のことです、たまには良いかと。」
「そう、かな……そうですね、ここで元気をつけて夏いっぱい元気でいられるならいいかな。」
「はい。」
やっと納得してくれたあかねの返事に頼久はふわりと微笑んだ。
夕飯を買って帰ればあかねが調理している間、一人で時間をつぶす必要もない。
鰻ならばあかねが望んでいた元気になる食事でもあるし、頼久だけでなくあかねも体力をつけることができる。
これぞ一石二鳥とばかりに頼久はハンドルを握りながらも幸せそうな表情を浮かべていた。
そして、そんな頼久の横顔を盗み見るあかねもまた、幸せそうに微笑むのだった。
管理人のひとりごと
南の方の皆様は梅雨に襲われておいでだと思いますが、お元気ですか?
北の方はといいますと、梅雨がないのはいいんですが、なんですかこの暑さはΣ( ̄□ ̄‖)
という状態です(^^;
梅雨創作と言いながらこっちはあまりに暑いため、鰻食べたい(’’)という管理人の願望も同居しました…
あれって暑くなる前に食べないと効果がないそうで…
皆様も何かおいしいものでも食べて、このじめついた季節を乗り切ってくださいませ(><)
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