
綺麗な笛の音が響いている。
どこまでも澄み切った、奏者の人となりがわかるような音色だ。
奏でているのは永泉、場所は僧坊。
一人静かに春の陽気を感じながら永泉は笛を奏でていた。
それはいつものことで、何一つ変わったことはないのだが、永泉は何か胸の中にいつもとは違うさざめきがあるのに気付いて笛を口から放した。
音色がいつもよりも少し濁っている。
誰が聞いて気付かなくても永泉自身がその微妙な音色の変化に気付いていた。
楽の音は人の心を映すものと日頃から信じているだけに、己の笛の音が濁っていることに気付いて永泉は戸惑った。
笛の音が濁っているということはすなわち、己の心が濁っているということに他ならない。
深い溜め息をついて、永泉は庭へと下りた。
春の花咲く庭へ下りれば少しは気が晴れるかと思ったのだ。
だが、それは間違いだった。
咲き乱れる桜や、その他の花を見ても永泉の心は晴れなかった。
花を見ると思い起こすのは龍神の神子の華やかな笑顔ばかりだ。
そう、あの清らかな神子は花を見るたびに朗らかに笑って見せる。
その笑顔を思い起こして永泉も自然と笑みを浮かべた。
だが、次の瞬間、その笑顔はあっさりと崩れた。
桜の下で微笑んでいる龍神の神子、あかねの隣に立っている人物のことを思い出したからだ。
あかねの笑顔の隣には必ず、永泉と同じ八葉の仲間、天の青龍、源頼久の姿があった。
あかねと同じように頼久の顔にも優しい笑みが浮かんでいる。
以前は凍りついたような厳しい表情しか見たことのなかった青年武士にそのような笑顔が浮かぶようになったのは全て神子のおかげだ。
かくいう永泉自身も神子に出会って自分は変わることができたと思っている。
神子の一言一言に励まされ、なんの力も持たないと信じてきた自分が京を救う八葉として神子を支えることができたのだ。
いつしか永泉の心は僧籍にある身でありながら、自分を変えてくれた神子を恋い慕うようになっていた。
だが、永泉が自分の気持ちに気付いた時にはもう神子の心は違う男性の方を向いていた。
それが天の青龍、頼久だった。
異世界からやってきたという神子をこの京へ引き止めたのは頼久だった。
そして神子はそんな頼久の想いに応えてこの地に留まり、そのまま頼久の許婚となった。
陰陽師であり、八葉の一人でもある泰明の占いで吉日を選んだために婚儀はすぐに執り行うわけにはいかなかったが、それでも神子も頼久も許婚同士中睦まじく暮らしていた。
そんな期間ももすぐ終わり。
また桜の季節が巡ってきて、二人はもうすぐ婚儀を執り行い、二人共に暮らし始めることだろう。
神子が幸せならばそれでいい、己は御仏に神子の幸せを祈ろうとさえ思っていたはずなのに、それでも二人の婚儀が近づけば永泉の心は乱れた。
神子が幸せに微笑んでいるのなら全てはそれでいいはずなのに、それなのに神子の瞳に自分が映っていない事が悲しくて。
神子の心の中に己の存在が欠片ほどもないことが悲しくて。
永泉の笛を持つ手に自然と力が入った。
どんなに悲しもうと嘆こうと、自分には笛を奏でるくらいしかできることがないのだ。
「気が乱れているぞ。」
その声に永泉がはっとして顔を上げると、視線の先にはいつもと変わらぬ無愛想な相棒の顔があった。
希代の陰陽師、安倍晴明の愛弟子、泰明だ。
永泉も最初は恐れていた天才陰陽師だが、同じ玄武の八葉として京を救った今となっては誰よりも信頼できる仲間だ。
「も、申し訳ありません、少々考え事をしておりましたので…。」
「お前はくだらない考え事が多すぎるのだ。」
「はい…。」
「だが…。」
「は?」
「私が同じように考え事をしているとお師匠が喜ぶ。何故だかわからぬが…。」
そう言って泰明は不機嫌そうに顔をしかめた。
出会った頃はまるで人形のようだった泰明からは考えられないような話の内容、そして表情に永泉は思わず微笑んでいた。
こうして泰明が人間らしい表情を見せるようになったのもまた神子のおかげ。
いや、頼久や泰明だけではない、八葉の全員がそれぞれ神子のおかげで人として成長したような気がする。
そう思えば、永泉はやはり自分も神子のために何かしたいと思うのだ。
「どうした?永泉。」
「泰明殿…神子の……神子の婚儀を祝うため、わたくしも何かと思っているのですが…わたくしなどに何ができるかわからず…。」
「そのようなことか。簡単だ、お前にできることは一つだろう。」
「わたくしにできることは一つ…。」
永泉は自分の手を見つめた。
そこには一本の笛。
いつも奏でている笛だ。
そう、自分には笛を奏でるくらいしかできることはない。
永泉はそう心の内でつぶやいてふと微笑んだ。
ならばその笛を贈ればよい。
そう心に決めて視線を上げると、泰明が懐から何か包みを取り出して永泉の方へ差し出した。
「これは?」
「先程、神子の屋敷の結界を張り直してきた。その際に神子から預かってきたのだ。永泉が最近塞いでいるようだからと神子が案じていた。」
「神子が…。」
包みを受け取って永泉は苦笑した。
誰よりも幸せであってほしい人に自分が心配をかけていたとは。
丁寧に包みを開けてみると中には焼き菓子のようなものが入っていた。
「これは…。」
「神子が神子の世界の菓子を模して作ったそうだ。材料がそろわなかったので思うようにはできなかったと言っていた。」
「神子が…。」
永泉が菓子を一つ手にとって口に含んでみると、それは上品な甘さで、香ばしさが口の中に広がって、懐かしいようななんだか幸せな気分になった。
「泰明殿。」
「なんだ?」
「有難うございます。」
「何がだ?」
「いつも、わたくしを導いて下さること、感謝しております。」
「私は地の玄武だ、問題ない。迷いは消えたか?」
「はい、泰明殿と、神子のおかげで。」
にこりと微笑む永泉に泰明は無愛想な顔のままうなずいて見せた。
「ならばよい。」
それだけ言って泰明は永泉の前から立ち去った。
そっけないそぶりではあるが、泰明なりに自分を気遣ってくれていることが永泉にはわかった。
だから、永泉は去っていくその背に向かって笛を奏でた。
感謝の想いをこめて。
あかねは急に永泉がやってくるというのでうきうきとしながら歓迎の準備をしていた。
他の八葉もそうだが、最近はなかなか永泉にも会えないでいたから、わざわざ永泉の方から会いに来てくれるというしらせはあかねにとってとても嬉しいものだった。
だから、心ばかりのお菓子を用意して、夫と二人、朝からニコニコとして永泉の訪問を待っていた。
頼久も、愛しい新妻が他の男を嬉しそうに待っていることに複雑な想いはあるものの、相手はかつて命を預けあった仲間の八葉でもあることだし、妻がこれほどにも楽しそうにしているのならと割り切ることにした。
それでも少しばかり無理をして仕事を休んだのは、やはりあかねと永泉を二人にするのが心配だったからかもしれない。
もちろん、自分の生まれ育った世界を捨ててまで自分の妻となってくれたあかねを信じていないわけではないのだが、自分が共にいられぬ間に妻と誰かが共にいるだけで嫉妬心がわくのだからしかたがない。
狭量な自分にあきれるばかりだが、それでも自分も共に永泉に会うと言うと喜んでくれた妻の笑顔が嬉しくて、頼久はあかねの隣に座して共に永泉を待った。
「友雅さんも鷹通さんも忙しそうだし、イノリ君も修行が大変そうだし、定期的に結界のために来てくれる泰明さん以外は本当にみんなとなかなか会えなくなっちゃいましたよねぇ。」
「そうですね。」
「もちろん、頼久さんがいてくれるから寂しいってことはないんですけど、でもやっぱりみんなに会えると嬉しいです。」
そう言ってあかねは本当に幸せそうに微笑んだ。
その笑顔は頼久の腕の中にいる時とは少しばかり質が違う。
頼久の腕に抱かれている時のあかねはどこかうっとりとしたような、夢見るような顔で微笑む。
だが、今は、快活明朗、まるでお祭りを楽しむ子供のような顔だ。
「神子。」
頼久が心行くまで愛らしい新妻の笑顔を堪能しているところへ永泉は現れた。
いつものように僧衣を見につけた姿は可憐で美しい。
頼久は僧籍にあるとはいえ、高貴な身分の永泉が相手であるから、その場に座したままではあっても深々と一礼した。
そんな頼久に永泉は少しだけ困ったような顔をして、それからあかねに微笑みかけた。
永泉にしてみれば、自分が大切に想う神子の夫に当たる頼久に平伏されても戸惑いがあるのだが、生真面目な頼久にそんなことを説明しても平伏を改めてもらえるとも思えない。
だから、頼久のことはそのままにしてあかねに視線を向けたのだが、永泉の顔にはやはりどこか寂しそうな表情が浮かんでいた。
もしかするとあかねと二人きりで会えるかもしれない。
そんな想いが心のどこかにあったから。
「こんにちわ、永泉さん。ほんと、久しぶりですねぇ。」
「はい。ご無沙汰しておりました。神子にはお変わりありませんか?」
「私はもう、ずっと元気でした。」
心の底から楽しそうに微笑むあかね。
怨霊と戦っていたあの頃でさえ笑顔を忘れぬ人であったと思い起こして永泉は微笑んだ。
いつだってあかねのこの笑顔に自分は支えられ、励まされてきたのだ。
「永泉さん、今日はどうして急に会いにきてくれたんですか?何か用事とか?」
「いえ、その…神子の婚儀に際して、何かお祝いの贈り物をと思ってはいたのですがなかなか良い物が浮かばず…。」
「そんな!そんなの全然気にしないで下さい!おめでとうって言ってもらえるだけで嬉しいんですから!」
「いえ、わたくしが何か贈りたいと、そう思ったのです…それで、やっと完成しましたので…。」
「完成?」
「はい。神子の婚儀を祝して、笛を一曲、奏でさせて頂いても宜しいでしょうか?」
「笛、ですか?」
「はい。神子のために曲を…。」
「作ってくれたんですか?」
「は、はい…。」
頬を赤らめてうつむいて、消え入るような声でそういう永泉は本当に可愛らしくて、あかねはそんな永泉に見惚れながら目を見開いた。
何事につけても奥ゆかしく控えめな永泉が自分のために曲を作曲してくれたとは。
あかねは一瞬とても驚いて、そして次の瞬間、喜びの笑みをその愛らしい顔いっぱいに浮かべた。
「嬉しいです!聞かせてもらえますか?」
「はい、では…つたない笛ではございますが…。」
そう前置きして、永泉は懐から愛用の笛を取り出すとそれをそっと唇に当てた。
春の空の下、永泉の奏でる笛の音はその最初の一音から美しく澄み切った音が流れ出した。
いつも聞いている永泉の笛の音ももちろん美しいが、今日の音色はいつもよりも一段と澄み切って美しくて頼久とあかねは目を大きく見開いて驚いた。
そんな二人の反応には気付かずに永泉は演奏を続ける。
すると、驚きに目を見開いていた二人はやがてその顔に微笑さえ浮かべて永泉の笛の音に聞き惚れた。
その旋律はゆったりとしていて穏やかで、音色の美しさとあいまって二人の耳に心地いい。
そうして永泉が笛を奏で、あかねと頼久が聞き惚れることしばし。
永泉が全ての演奏を終えて笛を唇から離すと、あかねのキラキラとした美しい瞳が永泉を見上げていた。
「神子…あの……。」
「とってもステキでした!永泉さんの笛はいつもステキですけど、今の曲、いつもよりずっとステキでした!」
「あ、有難うございます…。」
永泉はうっすらと頬を赤くして微笑んだ。
「こちらこそ有難うございます。こんなにステキな曲を作ってもらえて、私、幸せ者です。」
本当に嬉しそうなあかねの笑顔がまぶしくて、永泉は目を細める。
今では手の届かない人だけれど、それでもこの明るく差し込む輝きに触れることはできる。
龍神の神子はこの京に留まってくれたのだから。
「永泉さん、せっかくですから一緒にお菓子食べませんか?なかなかこうしてゆっくり会うことってできなくなってきたし、それに、今の笛のお礼もしたいです。」
にこやかなあかねの申し出を以前の永泉だったなら断っていただろう。
仲睦まじくしているあかねと頼久を見るのがつらいからだ。
だが、今の永泉は違った。
すっとあかねの隣に座っている頼久に視線を向ければ、頼久はどうぞといわんばかりに軽く一礼して見せてきた。
夫の自分も承知なので気兼ねはいらぬということだろう。
永泉は軽く深呼吸するとその顔に再び笑みを浮かべた。
「では、せっかくのお誘いですのでお邪魔させて頂きます。」
そう永泉が答えて縁に上がる足を踏み出した瞬間、あかねの瞳が輝いた。
断られるかもしれないと思っていたのがすんなりと了承されたからだ。
永泉はあかねがどうやら喜んでくれたらしいことがわかって嬉しくて、頼久とは反対側のあかねの隣に座ると勧められるままに菓子を手にとった。
そこからはもうあかねが楽しげにおしゃべりをするばかりだ。
時折、永泉があいづちをうったり、質問をはさんだりはするものの、頼久はあかねを暖かく見守っているだけで口をはさまない。
ただひたすらあかねは楽しそうに語り続け、その鈴が鳴るような愛らしい声を永泉と頼久は静かに聞き続けるのだった。
夜、永泉は僧坊で一人笛を唇に当てた。
思い起こされるのは昼間の神子の笑顔。
夫の隣で幸せそうに微笑む神子は美しく、見ている永泉までも幸せにしてくれた。
常に神子の側にいることはできないけれど、それでも神子の笑顔を見に行くこと、神子の笑顔のために笛を奏でることくらいはできる。
そのことに気付いて、永泉は今、何か穏やかな想いに満たされていた。
それは神子を恋した時の想いとは違うけれど、確かに永泉を幸せにしてくれる想いだ。
その想いを胸に、永泉はあかねのために初めて己が生み出した曲を奏でる。
月の明るい夜空にその美しい音色は響いてとけていった。
管理人のひとりごと
ずいぶんと遅れてしまいましたが、永泉さんお誕生日記念ということで(’’;
永泉さんといえば笛、そして泰明さん。
そう思い込んでいる管理人の思い込みぽい話になりました(爆)
やはりあかねちゃんを頼久さん以外の人に渡す気にはならなかったのでこんな感じに…
泰明さんの時よりはおだやかで幸せな感じになったかと思うのですがどうでしょうか?
永泉さんの笛、実際、私も聞いてみたいです(’’)
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