雫
 雨が降っている。

 それはたいして珍しいことではないのだけれど…

 朝は晴れていたのに昼過ぎから降ってきた雨はとにかく激しくて、殴りつけるような雨はまるで何かが破裂するような大きな音を屋敷の中にまで響かせていた。

 あかねは雨くらいでは少しも動じたりしない。

 たとえば強い風が吹いて嵐になってもそんなに恐ろしいとは思わない。

 もちろんそれはこの京の人々よりも天候についての知識が多いせいでもあるけれど、それより何より自分のことを何からも守ってくれる旦那様がいるという想いがいつも心のどこかにあるからだろう。

 こんなふうに雨が激しい時、あかねが心配することは一つだけ。

 仕事に出ている夫のことだ。

 どこかでこの雨に打たれながら警護の任についているのではないか?

 雨の中で馬を走らせていたりはしないだろうか?

 寒くはないか?風邪をひいたりはしていないか?

 胸の内に想うことはそんなことばかりだ。

 あかねは暗くなっていく庭を眺めていたが、更に雨足が強くなってきたところで立ち上がると、奥の葛篭から何枚か大きな布を取り出した。

 そしてそれを抱えると自分の局を後にして、屋敷の入り口へと向かった。

 そんなあかねの行動を咎めるような者は誰もいない。

 何故なら女房達はみんな大降りの雨におののいて自分の局に引きこもってしまっているから。

 あかねは雨に打たれる音でいっぱいの屋敷の中を静かに歩いて、入り口までやってくるとその場に座り込んだ。

 雨に打たれて帰って来る頼久はいつものように庭を回って最短距離であかねの局に入ってきたりはしない。

 何故ならそんなことをすれば自分が連れ込んだ雨の雫であかねの局を濡らしてしまうとわかっているからだ。

 だから、必ず入り口から入って、雨水を拭ってからあかねのもとを訪れる。

 それがわかっていてあかねはここに陣取ったのだった。

 ここなら濡れ鼠になって帰って来るだろう頼久を一番に迎えることができるから。

 そしてそんなあかねの予想は的中して、あかねが座り込んでからそう時が経たないうちに頼久が姿を現した。

「神子殿…。」

 薄暗いそこに座っているあかねを見つけて頼久は目を丸くした。

 対してあかねは、全身ずぶ濡れではあるが、そんなことなど全く気にしていない様子の頼久に微笑んで、ふわりと立ち上がった。

 もともと鍛えていて体が丈夫な頼久だから、どうやら夏の雨に濡れる程度のことはどうということではないらしい。

 そんな頼久に歩み寄ったあかねは手にしていた布を思い切り背伸びして、長身の夫の頭の上へ。

「お帰りなさい、頼久さん、お疲れ様でした。」

「ただいま戻りました。」

 どうやら自分がかぶって帰るであろう雨を拭うために妻がこうして待っていてくれたらしいと気付いた頼久は、頭からかぶせられた布で顔を拭いながら笑みを浮かべて見せた。

 こんなふうに出迎えてもらえるとは思ってもみなかった。

 薄暗い中に立つあかねはうっすらと光っているようにさえ見えて、頼久にはまぶしい。

「さ、中へ入ってください。急いで着替えないと風邪ひいちゃいます。」

「はい。」

 あかねに誘われて頼久が中へ入ってみれば、屋敷の中は大きな雨音ばかりが響いて人の気配がしない。

 家人達が嵐を恐れて奥へ引きこもっているのだと気付いて頼久は苦笑を浮かべた。

 京を怨霊の手から救い出した世にも希なる自分の妻はどうやら嵐など恐くはないらしいと気付いたから。

 奥の局へ入るなり、あかねは葛篭から頼久の着替えを取り出し始めたので、頼久は雨でべたつく衣を解き始めた。

 そんな自然な動作の一つ一つに今は幸福を感じずにはいられない。

 まさか、八葉として仕えていた憧れの女性にこんなふうに着替えを用意してもらえる日がやってこようとは。

 永遠の別れがやってくるかもしれないと思いはしても、こんなに幸せな日を迎えることができるとは欠片ほども思っていなかったのだ。

 濡れた衣を脱ぎ捨てて、あかねに与えられた布で体を拭うと、頼久は何故か視線をそらしたままあかねから手渡された単を身につけながら小首をかしげた。

「神子殿?」

「は、はいっ?」

 呼んでみれば何やらあかねの声が上ずっている。

 よくよく見れば何やら顔色も赤い。

「どうか致しましたか?」

「な、何がですか?」

「さきほどからこちらを御覧にならないので……。」

 これはもしやあかねに風邪をひかせたかと頼久が慌てて歩み寄ってあかねの額に手を乗せれば、あかねの華奢な体はびくりと小さく飛び上がった。

「ち、違いますよ、具合悪いんじゃないです!」

「では…。」

「頼久さん。」

「はい。」

「早く服着てください…。」

「ああ……。」

 そういえば自分は半裸であったと苦笑して、頼久がしっかり単を着込むとあかねがほっと安堵の溜め息をついた。

 もう数え切れないくらい褥を共にして朝を迎えているのに、あかねのこんなところは全く変わっていない。

 そこも愛らしくてしかたがなくて、頼久は幸せそうに微笑んだ。

「な、なんですか?」

「はい?」

「頼久さん、なんか楽しそう。」

「神子殿がいまだにそのように恥らわれるので、なんと愛らしいお方かと。」

「またそういうことを言う!は、恥ずかしいものは恥ずかしいんです!男の人の裸とか恥ずかしいんです!」

「はい、気をつけます。」

 口では神妙そうにそう言っていても頼久はやっぱり楽しそうで…

 あかねは赤い顔でぷっとふくれながら頼久の頭に新しい布をかぶせた。

「髪、ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃいます。元結、解いてもいいですか?」

 あかねが可愛らしく小首を傾げて見上げてくるのには笑みで答えながら、頼久は自分で元結を切った。

 はらりと雨水を含んだ髪が肩に落ちる。

 それをあかねはわしわしと拭き始めた。

「ほら、やっぱり凄く濡れてますよ。」

「神子殿、あとは自分で…。」

「少しはやらせてください。頼久さんの髪、好きなんですから。」

 そう言ってあかねは髪を拭う役目を譲ってくれる気はなさそうだ。

 頼久にしてみてもあかねにこうして世話をされることは心地良く思うことはあっても決して嫌ではない。

 だから、ここはあかねの好意に甘えることにして、優しく雨水を拭われるままに任せた。

 だいたい、髪が好きだなどと言われて頼久に断れるわけが無い。

 自分の髪も長いせいか、あかねの手際は見事なものだった。

 頼久がうっとりとあかねの手に髪を任せていると、すぐに滴るほど雨水を含んでいた髪は乾いていく。

「これくらい拭いたらあとは大丈夫かなぁ。ドライヤーがあればいいのに…。」

「どら?」

「ああ、えっと、私が元いた世界にある道具で、こう、あったかい風がばーって出て髪の毛がすぐ乾いちゃう便利なものなんです。それを使えば髪が乾かなくて風邪をひくなんてことないんですよ。」

「それは…。」

「はい?」

「御不自由をおかけしまして…。」

 ついさきほどまで幸せそうにうっとりしていた頼久が急に表情を曇らせたのであかねは慌てた。

 そう、この夫はいまだにあかねが元の世界の話をすると気にすることがあるのだ。

「あああ、そういうことじゃないですってば。あったら便利だなって思っただけで…でも、ドライヤーを使うと髪が傷むんですよね。」

「はぁ…。」

「京は自然に任せることがとても多くて、そういうのもいいなって思うんです。」

「……。」

「髪は自然に乾かした方が絶対髪のためにはいいし、夏暑い時だって冷房とかなしで暑さに耐えられる体になった方が体にはいいに決まってます。」

「そう、でしょうか…。」

「そうですよ。だから、頼久さんはあまり気にしないで下さい。不自由させているとかそういうこと。」

「はい。」

 心優しい妻の言葉にはいつも救われてばかりだと思いながら、頼久はその顔に笑みを浮かべた。

 妻が本心から言っていることはよくわかっている。

 京を気に入ってくれているし、何より自分の隣にいたいと言ってくれる。

 それは全て本心。

 それでも、やはり愛しい人には何一つ不自由なく、幸福であってほしいとも思ってしまう頼久だ。

「そういえば、今日は雨が降ってから女房さん達が大騒ぎだったんですよ。」

「かなり大降りだとは思っていましたが…。」

「不吉だなんて言い出す人まで出てきて、なんだかみんな恐そうにしてたんで今日はお休みってことにしちゃいました。」

「それで誰も出てこないのですね。」

「そうなんです。私はほら、もといた世界ではこういうお天気ってどうしてなるのかわかっているからそんなに恐くないんですよね。だからみんなが恐がるのが、なんだかおもしろくて。不謹慎ですけど。」

 そう言ってクスッと笑いながらあかねは頼久の頭から布を取り除いた。

 髪はだいたい生乾きでいい感じだ。

 あとは放っておいても風邪をひくようなことはないだろう。

「神子殿は恐ろしくはないのですね、雨も嵐も。」

「ん〜、そりゃ屋敷が壊れちゃうようなのは恐いですけど、そんな嵐ってめったに来ないじゃないですか。」

 あかねがそう言っている間に局の中が一瞬明るくなったかと思うと、ゴゴゴと轟音が鳴り響いた。

「あ、雷。」

 あかねの視線が御簾の向こうへと向けられる。

 雨は相変わらず強く降り注いでいるけれど、どうやら風はないようで、御簾は揺れることなく静かにそこに在るばかりだ。

 ただ、御簾の向こうに雨雲は黒く垂れ込めていて、空の向こうがちらりちらりと光っては轟音があかねの耳へと届き始めた。

「神子殿は雷も恐ろしくは無いのですね。」

「目の前に落ちたりとかすると恐いと思いますけど、遠くで光ってるのは綺麗って思うこともありますね。」

 頼久の髪を拭いた布をきちんとたたんで傍らに置いたあかねはじっと御簾の向こうを見つめた。

 雲の合間を走る稲光が美しく見えて思わず微笑んでしまう。

 すると、すぐ側から小さな溜め息が聞こえた。

 頼久が苦笑しながらあかねを見つめている。

「頼久さん?」

「雷くらいは恐ろしいと思って頂きたいものです。」

「へ?あ、雷恐くない女の子は可愛くないとか?」

 あかねが慌ててそう言えば頼久は苦笑したまま首を横に振った。

「いえ、神子殿はどのようになさっていても可愛らしくておいでです。」

「だから、そういうことをさらっと……。」

 あかねが顔を赤くしているのを頼久は優しい目で見つめながら再び口を開く。

「藤姫様が。」

「へ?」

「藤姫様が先日、雷がおそろしいと、ちょうど訪ねていらっしゃった友雅殿にかきついておいででしたので。」

「ああ、藤姫は雷苦手ですもんね……へ?」

 見れば頼久が苦笑を深くしている。

 あかねは頼久が何を言いたいのかに気付いてパッと顔を赤らめた。

 雷が恐ろしいといって藤姫が友雅に抱きついていた。

 この話の流れでいくと、あかねが雷を恐れていれば自分に抱きついてもらえたのに。

 と頼久は言いたかったらしい、ということになる。

 あかねは顔を真っ赤にしながらも頼久の方へ身を寄せると、そのまま頼久の膝の上へ乗った。

 頼久が驚いて目を丸くしている間にその背を頼久の胸に預ける。

「神子殿…。」

「か、雷とか関係なくこうしたらいいじゃないですか。」

 膝の上で首まで真っ赤になるあかねの体を頼久が優しく抱きしめた。

 雨で冷えた体にあかねのぬくもりはいつもより一段と温かく感じる。

「頼久さん、体冷えてます?」

「寒いとは思っていませんでしたが、神子殿は温かいですね。」

「じゃ、じゃぁ…しばらくこうしてましょうか?」

「はい。」

 照れながらあかねが訪ねてみれば、耳元で頼久が静かにそう囁いた。

 雨はますます激しくなって、雷も遠くで鳴っている。

 きっと局の奥に引きこもった女房達は恐ろしさで震えているのだろうけれど、あかねは今、なんだかとっても幸せだ。

 それは頼久も同じ事で、愛しい妻を膝の上に抱きかかえながらその顔には穏やかな表情が浮かんでいた。

 御簾の外には降りしきる雨。

 時折光る局の中で二人は静かに雨音に耳を傾け続ける。

「あ、頼久さん、夕餉は…。」

「軽くとって参りましたのでもう少し後でもかまいませんが、神子殿は…。」

「私は先に食べちゃったんです。女房さん達が早く奥に入りたそうだったから。でも、頼久さんの分はちゃんとあるから、後で温めたりしますね。」

「いえ、温めていただかずとも…。」

「それくらいはさせて下さい。」

「では、それは後ほど。」

「はい。」

 そんな他愛ない会話を終えてしまえば、もう話すことも無くて…

 あかねはことりとその頭を頼久の胸へもたれた。

 そうすれば頼久が愛しそうに更に抱き寄せてくれる。

 雨音しか聞こえない局の中はなんだかとても艶めいて…

 あかねは赤い顔でうつむいたまま、何か言わなくてはと言葉を探した。

 二人きりでいることも、何も話すことのない穏やかな時間が流れることも、もう慣れたとばかり思っていたけれど、こんなふうにいつもと違う薄暗い時間はやっぱり少し緊張する。

「あ、あの、頼久さん…。」

「はい。」

「お、お仕事はその…大変、でしたか?」

 少しばかりうわずった声であかねがそう問えば、頼久は少し考えた様子だったがすぐに口を開いた。

「左大臣様の警護の任がありましたので少々雨に打たれはしましたが、特に事件はなく……。」

「そ、そうですか、よかったですね…。」

 仕事の内容を思い起こしながら答えてみれば、腕の中の愛しい妻は何やらもじもじとしているようで…

 頼久は腕の中のあかねが耳や首まで赤くなっているのに気付いてふっと口元をほころばせた。

 そして、どうやらあかねが照れているらしいと察してその耳に唇を寄せる。

「どうか、なさいましたか?」

「どどど、どうもしませんよ?」

「では、こちらを向いては頂けませんか?」

「はい?」

 言われてあかねが素直に振り向くと、いきなり間近に見えた頼久に口づけられた。

 一瞬のことに目を丸くしているうちに唇は離れて…

「よよよ、頼久さん!」

 大声でそう叫んで、慌てて頼久に背を向けて、あかねはうつむいた。

 キスくらいそりゃいつもしていることだけれど、こんな雰囲気の中でされるのは初めてで…

 あかねはドキドキと脈打つ鼓動をおさめられず、その胸の上に手を置いた。

 するとすっとその背に頼久の胸のぬくもりが…

 次の瞬間、肩にさらりと頼久の髪がかかるのを感じた。

「もう少しだけ、こうしていてもよろしいでしょうか?」

 耳元で囁かれた声は、少しでも離れたら雨音で消されて聞こえなくなってしまうほど小さく低い声だった。

 でも、その声の中に熱を感じて、あかねははっと振り向くと頼久の首に抱きついた。

「いいに決まってるじゃないですか。」

「神子殿…。」

 あかねの体から香る梅花の香りを胸に吸い込んで、頼久は小さな妻の体を優しく、けれども力強く抱きしめた。

 耳に届くのは打ち付ける雨音だけ。

 腕の中には永遠に離したくない大切な大切なぬくもり。

 これ以上は無いほどの幸せに眩暈さえ感じながら、頼久はただじっとあかねのぬくもりを心行くまで堪能するのだった。








管理人のひとりごと

まぁ、梅雨だなぁと思ったんで(笑)雨ネタ一本です。
雨ってなんだか艶っぽいなって思えば梅雨もなんだかちょっと楽しい?
管理人は雨が決して嫌いではありません。
特に風のないまっすぐ下に落ちてくる雨は好きですねぇ。
風情があるというかなんというか…
頼久さんは髪が長いので、解き髪からしたたる雨もステキだなって思います(^^)







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