
庭からはさらさらと細かな雨の降る音が聞こえている。
珍しく御簾を上げて縁に座っているあかねの目には、静かに雨に濡れる庭が映っていた。
御簾を上げているのはこの雨では来客もないだろうと思ったからだ。
もちろん、夫である頼久の許可はとってある。
雨に濡れる庭をゆっくり眺めたいというあかねの希望を頼久は快く聞き入れた。
これまでも頼久がそばにいる間は御簾を上げて共に庭を眺めたりしてはいた。
けれど、今はあかねの隣に頼久の姿はない。
始めのうちは休みをとっている頼久と二人で庭を眺めていたのだが、急な報告があると頼久の部下が駆け込んできたのだ。
武士団の若棟梁である頼久としては報告があるという部下を放っておくわけにはいかない。
あかねを縁に残し、頼久は今、別室で部下の報告を聞いているはずだった。
この京では女性の姿をその目で見ただけで女性に思いを寄せて言い寄ってくる男がいる。
という話はあかねが友雅や藤姫から聞いて知ったこと。
あかね自身は頼久の仲間である武士団の武士達にも姿を見せているが、片思いされたことはない。
だからあまり実感はないのだが、頼久に心配をかけてはいけないという思いはあるので、最近はずっと御簾の内側にいることにしていた。
実際のところ、武士団の若い武士にはあかねに密かに思いを寄せている者も少なくはない。
ただ、頼久の溺愛ぶりを見ては恐ろしくて思いを口にすることさえできないだけだったが、もちろん、あかねがそのことを知るはずもなかった。
頼久はといえば、部下達の気配でなんとなくは気づいていたが、全て視線で牽制してあかねには何も言っていない。
ただし、あかねが窮屈な思いをするとわかってはいても、御簾だけは下してほしいと懇願していた。
その頼久の懇願を聞き入れて日頃は御簾の内側でおとなしくしているあかねは、雨のせいで薄暗くはあるけれど、静かにしっとりと濡れる庭を堪能していた。
ただ、まだ桜が散ったばかりのこの季節は気温がさほど高くはない。
陽が射していれば汗ばむほどの陽気でも、こうして雨が降って陽射しが遮られてしまえばあかねの周りにはひんやりとした空気に包まれた。
「くしゅんっ。」
「神子殿、寒いのですか?」
くしゃみをした直後に思いがけず聞こえた声に、あかねは慌てて振り向いた。
そこには、どうやら戻ってきたばかりらしい頼久が心配そうな顔で立っていた。
「頼久さん、もうお仕事は終わったんですか?」
「はい、報告を受けただけですので。それよりも、神子殿、寒いのでしたら中へ入られた方が…。」
「寒いっていうほどじゃないんですけど…肌寒いくらいというか…。」
言いよどむあかねは視線を自分の膝の上へと落した。
せっかく久々に外を眺めているのに、もう中へ入るなんてと思っているだろうことは頼久にも容易に想像がつく。
うなだれるあかねの様子を見てしばらく考え込んだ頼久は、突然口元に笑みを浮かべるとすっとあかねの傍らに座り、あかねの体を軽々と自分の膝の上に乗せてしまった。
「頼久さん?」
「こうしていれば少しは寒さもしのげましょうから。」
「それは、まぁ…そうなんですけど……。」
急に顔を赤くしてまたうつむくあかねを頼久はそれは大切そうに抱きしめた。
この大切な人に風邪などひかせてなるものかという思いがその腕を通してあかねに伝わると、あかねの顔はいっそう赤く染まった。
ここで以前の頼久なら『申し訳ありません』くらいのことは言っていただろう。
なにしろ、外を一人で自由に出歩くことが普通なことであるあかねをこの屋敷の中に閉じ込めてしまっているのは自分の都合だと頼久は思っているのだ。
だが、今の頼久はそんなことを口に出したりはしない。
頼久が謝罪をしてもしかたがないことなのだということも、謝罪されることをあかねが望んでいないということも今の頼久にはわかっている。
だから、頼久はただひたすら愛しい人に愛しいというその思いが伝わるように、小さな体を抱く腕に優しい力を込めた。
「それにしてもよく降りますねぇ。」
「この雨が上がる頃には夏になりましょう。」
「あ、それもそうですね。」
「雨が上がりましたら、どこかへお連れ致しましょうか?」
「へ、いいんですか?」
何気ない会話を交わしているつもりだったあかねの耳に思いがけない頼久の言葉が聞こえて、あかねは思わず振り返って頼久の顔をじっと見つめてしまった。
すぐ近くにあるその端整な顔には穏やかな微笑が浮かんでいる。
「はい、毎日屋敷にこもりきりでは退屈でしょう。」
「やることはたくさんあるんですけど……勉強とか…。」
「いえ、そういうことではなく、たまには気晴らしも良いのではないかと…。」
「頼久さん……あ、でも、頼久さん、お仕事忙しいんじゃないですか?」
「それにつきましては、藤姫様が休みを下さるとのことでしたので。」
「藤姫が…。」
「はい。おそらくは神子殿のお生まれになった日を覚えておいでになったのではと。」
「ああ、誕生日!そうでした!」
「神子殿のおいでになりたいところへどこへでもお供致しますので、考えておいてください。」
「お供って……。」
まるで従者みたいな言い草に抗議しようとあかねが頼久の表情をうかがえば、頼久の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
どうやらわざとそんな物言いをしたらしい頼久に少しだけ驚いて、それからあかねは顔を赤くしておとなしく元の体勢に戻った。
背に最も信用している人の温もりを感じながら、しとしとと降る雨に濡れる庭を眺める体勢だ。
一人で見れば少々物悲しくも見える薄暗い庭が、今のあかねにはどこかしっとりと落ち着いて幸せなものに見えた。
「今年は花の美しい季節が短かった気がしますが…。」
「そうですねぇ、でも、花が終わったら夏が来ますよね。私、夏も楽しみです。」
「夏はお嫌いなのでは?」
思わず頼久がそう尋ねたのは、夏になるたびにあかねが暑さにやられて体調を崩したり、夜眠れなくなるためだ。
あかねの元いた世界には「えあこん」なるものが存在することを頼久はもう知っている。
この京にはあかねに涼をとってもらえる「えあこん」ほどに便利なものは存在しない。
寒ければ頼久が寄り添って温めることもできるが、暑いとなると頼久があかねにできることは限られてしまうのだ。
だから、頼久はこのところ、夏があまり好きではなくなっていた。
大切な人に苦労を強いる季節のような気がしていたから。
ところがあかねは、くすっと笑みを漏らすと小さな背を頼久にすっかり預けて微笑んだ。
「嫌いじゃないですよ。だって、頼久さんとお出かけできるの楽しみですし、それに夜もずっと一緒に星を眺めたり、色々楽しいことがありますから。」
「ですが、毎年暑いと…。」
「暑いのは暑いですけど……暑い暑いって言いながら過ごすのも夏の醍醐味なんだなって最近思うんです。」
「醍醐味、ですか…。」
「はい。暑い時は暑い!って騒ぐのがいいんだなって。」
「そういうものでしょうか…。」
「あっちの世界にはエアコンがあって、家の中はいつも快適なんですけど、なんだかそれって不自然なんだなって思うようになったんです。」
「不自然…。」
「はい。エアコンがなかったらこんなふうに暑いんですよね。で、それが本来の姿なんですよ。私、便利な世界で育ったからそんなことも気が付かなかったんです。」
「ですが、それは良いことなのでは?」
「んー、快適ですし、悪いことじゃないとは思いますけど、でも、不自然かなとも思うんです。夏は暑いものですから。」
「はあ…。」
便利で快適ならその方が良いと頼久は思う。
少なくてもそれであかねが幸せだと思えるのなら頼久はその方がいい。
けれど、膝の上に大切に抱くその人は、そうではないらしい。
頼久はほのかに梅花の香る小さな体を抱きしめながら、天女の声に耳を傾けた。
「春は花が咲いて、梅雨が来て、雨が上がったら夏が来て暑くて、秋には木々が色づいて、その葉が落ちると冬が来て雪が降る、そういうことの一つ一つが素敵だなってここにいると思うんです。」
「はい。」
「でも、そういうふうに余裕をもって世界を眺めることができるのも頼久さんがいてくれるからなんですよね。」
「は?そう、なのですか?」
思わぬあかねの言葉に頼久は目を丸くした。
すると、あかねは頼久の腕の中でくるりと振り返ってにっこり微笑みながら、一つ静かにうなずいた。
「そうですよ。頼久さんが一緒にいてくれるから、何も心配しないで色々なことを見つめることができるんです。だから、やっぱりここに残って頼久さんと一緒にいて良かったなって毎日思ってます。」
心から幸せそうな笑みを浮かべて見せるあかねをじっと見つめて、それから頼久はぎゅっとあかねを抱きしめた。
「私も毎日思っております、神子殿が側にいて下さる幸福を。」
あかねの耳元でそっとそう囁けば、あかねの色白のうなじがさっと真っ赤に染まるのが頼久の目に映った。
恥じらっているらしいあかねが愛しくてならなくて…
そうなると今度は顔を見たくてしかたがなくて…
頼久がそっとあかねの顔を上向かせると、案の定、顔を真っ赤にしたあかねが幸せそうに微笑を浮かべた。
自然と頼久がその愛らしい唇に口づけを贈ると、あかねの腕が静かに頼久の首抱いた。
衣擦れの音さえ聞こえない静かな屋敷の中。
雨の音だけが響く濡れ縁で、二人はしばらくそのまま動こうとしなかった。
管理人のひとりごと
気付いたら暑い季節になってた(’’)
ということで、雨企画京バージョンを慌ててUPです!
現代版がちょっと糖度低めだった気がしたので、こちらはべたべたいちゃいちゃしてもらいました(笑)
さあ、雨の季節が終わったら暑い夏がやってきますよ!
あかねちゃんと一緒に、節電の夏は暑さを楽しむ方向で頑張ろうと思います!
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