あかねは御簾の内側からぼーっと庭を眺めていた。
庭は夏の強い日差しに照らされて、どの植物も元気がよさそうだ。
池の水に反射するきらきらとした陽光は御簾の内側にいてもまぶしいくらいで、あかねはその光を見て目を細めた。
「気温、何度かなぁ。」
誰もいないとわかっていてあかねは一人つぶやいてみた。
もちろん、この京に温度計なんてものは存在しなくて、屋敷の中が何度あるのかなんてわからない。
けれど、あかねの体感では間違いなく35度を超えていた。
京の夏は暑い。
それはもうよくわかっている。
だから頼久や藤姫は気遣って薄手の着物を用意してくれたけれど、それは薄すぎてすっかり裸が透けて見えてしまうほどで…
当然のことながらあかねにそんなものを着る勇気はなくて、暑い夏をあかねはきちんと着物を着こんで過ごしていた。
といっても、もちろん十二単ではない。
そんなものを着ていたら間違いなく熱中症で死ねる気温だ。
「エアコンもなし、冷蔵庫もなし、やっぱりこっちの夏はつらいよねぇ。」
できることと言ったら池の上に船を浮かべて風を楽しむくらいのもの。
京の女性はおいそれと外へは出られないからそれも毎日やるわけにはいかない。
だいたい、今は夫不在のこの屋敷、あかねの一存で外に出るなどもってのほかだ。
どうして頼久が不在なのかと言えば当然のことながら武士団の仕事に行っているから。
それもこの3日というもの頼久は一瞬だってこの屋敷に帰ってくることができずにいた。
何故なら、武士団の武士の中に夏バテで倒れるものが続出したから。
頼久は普段からの鍛錬が足りないのだと少しばかり不機嫌そうに屋敷を出て行ったけれど、あかねにしてみればこの暑さは確かに尋常ではないと思う。
いくら体を鍛えているからって調子を崩す人が出るのはしかたがないとも思う。
だから、忙しくしている頼久の顔を見られないのは寂しいけれど、こうして我慢しているのだ。
京の夏は夜も暑くて、寝苦しい日が続いている。
あかねはここのところ夜もあまり眠れてはいなかった。
もちろん、不眠の理由は暑さだけではなかったけれど…
「頼久さん、大丈夫かなぁ……薬草でも送ろうかな。」
あかねは屋敷の中でただ座っていればいい自分とは違い、この炎天下で仕事をしている頼久のことを想った。
どんなに心配しても自分にできることは限られている。
だから、あかねは自分にできる精一杯のことをしようと決めた。
鷹通が調達してくれた薬草の中に疲れをとるものがあったはずだ。
それを頼久のもとへ手紙と一緒に送り届けてもらおうと考えて立ち上がって…
あかねはそのままばたりと床に倒れた。
あかねがゆっくりと目を開けて最初に飛び込んできたのは泰明の顔だった。
いつもあまり表情を見せないその顔にはうっすらと安堵の色が浮かんでいて、あかねは小首をかしげた。
「どうしたんですか?泰明さん。」
何故、自分の屋敷に泰明がいるのかもわからなくて、あかねは霞のかかったような意識の下で懸命に考えた。
確か、御簾の内側から庭を眺めていて、あんまり暑いから頼久さんに薬草を届けようと思って…
そこまで思い出してあかねはがばっとその身を起こした。
「私、もしかして…。」
「倒れたのだ。」
わずかばかり不機嫌そうな声でそう言って、泰明はあかねの体を褥の上に寝かしつけた。
あかねが抵抗しようとしても泰明の力は見た目よりはずっと強くて、それ以上に自分の体には力が入らなくて褥の上に素直に横になってしまう。
「それで泰明さんが呼び出されちゃったんですね…すみません…。」
「問題ない。」
「ありますよ、迷惑かけちゃって…。」
「そう思うのなら無理はしないことだ。」
「…はい…気を付けます…。」
心の底から反省しながらあかねがそう言えば、泰明はその口元をほんの少しだけ解いた。
するとそこへ…
「神子殿の声がするということは、もう目覚めたのかな?」
優しく御簾を持ち上げて体をすべり込ませてきた声の主は友雅だ。
相変わらず艶ないでたちが胸元を少しはだけているおかげでなお一層色っぽい。
あかねはそんな友雅に思わず顔を赤くしながらうなずいた。
「すみません、友雅さんまで心配して来てくれたんですね。」
「神子、気を使う必要はない。病人の、しかも女人の局に先触れもなく勝手に入ってくるような者にはな。」
棘のある泰明の言葉もどこ吹く風、友雅は手にしていた扇を広げるとそれでゆるゆるとあかねの顔をあおぎ始めた。
「暑気中りだってね、主上のお気づかいで氷を持ってきたのだけれど、食べられそうかい?」
「こ、氷ですか?!」
あかねは思わず大声を出していた。
何故なら、氷はこの京ではとても貴重なものだと知っていたから。
友雅は今、主上のお気づかいと言った。
ということは帝が用意させたものだろう。
そういった権力者でなければ真夏に手に入れることなど到底できないのが氷だ。
「主上もとても心配しておいででね、そばにいた私をすぐ使わしてくださったので助かった。じゃなければ、私は仮病を使う必要があったからね。」
「友雅さん…お仕事はちゃんとしてください…。」
「冗談だよ、それより、神子殿はもう氷くらいは食べられるかい?」
あかねがそんな高価なものをおいそれと口に入れるわけにはいかないと抗議しようとしたその時、女房がやってきて永泉から氷が届けられた旨が伝えられた。
「これはこれは、永泉様も御身は忙しくとも、取り急ぎ氷だけは届けたかったというわけかな。」
「永泉さんまでそんな高価なもの…。」
永泉はもとをただせば皇族。
現在の帝の弟という高貴な身分の持ち主だ。
氷くらい手に入らないわけはないけれど、それでも高価なものに違いはない。
あかねはどうしたものかと褥の上で考え込んでしまった。
「まあ、放っておいても溶けてしまうものだしね、とりあえず食べてはどう…。」
友雅がそう勧めている間にも再び女房がやってきて、今度は鷹通から氷が届けられたという。
そして立て続けに女房がやってきて、今度は安倍晴明から氷が届けられたという知らせを持ってきた。
「ちょ、ちょっと待って…そんなたくさん高価な氷を…。」
「みんな神子殿のことが心配なのだよ。泰明殿がすぐに暑気中りだと連絡してくれたからねぇ。皆一様に氷だ!と思ったのだろうね。」
楽しそうに笑っているのは友雅ばかりで、あかねはうろたえた。
暑気中り、つまりはただの夏バテ。
ただの夏バテにみんながみんな寄ってたかって普通では手に入らない氷をあかねに贈ってきているのだ。
自分の体調を管理しきれなかったというだけなのに、なんだかとんでもなく申し訳ない。
「えっと…これって氷、ものすごい量になっちゃってますよね…。」
「そうだねぇ。」
「放っておいたら溶けちゃいますよね?」
「そうだろうねぇ。」
優しくあかねを扇であおぎながら微笑む友雅。
そしてその隣で静かにたたずむ泰明。
二人に見守られてあかねが屋敷中のみんなで氷を分けて食べようと決断したその時…
「あかね、大丈夫か?」
御簾を跳ね上げて入ってきたのはイノリだった。
手には大きな瓜を持っている。
「なんだ、友雅も来てたのかよ。」
「まあね、主上のお言いつけでね。」
「ふーん、そうだ、あかね、暑気中りなんだろ?これ、よく熟れてるの選んできた。これ食って早く元気になれよ。」
「イノリ君まで…ごめんね、心配かけて。」
「いや、暑気中りだろ、あかねならそんなもんすぐに治しちまうってオレは思ってたんだけどよ…。」
「へ?オレは?」
「ああ、少し前に頼久から使いが来てさ、あかねが暑気中りで倒れたから口当たりが良くて涼しげな食べ物を何か見繕って持ってきてくれって言うからさ。」
「それで、瓜…。」
「おう。うまそうだろ?」
「ごめんね、私のせいで…。」
「いや、オレも一度は見舞いに来ようと思ってたしさ。」
どうやら泰明からの連絡は頼久のもとへもいってしまったらしいとわかって、あかねはしゅんとしてしまった。
これはきっと頼久は仕事をしながらもかなり心配しているに違いない。
仕事の邪魔をしてしまったことが悲しくて、あかねが落ち込んでいると…
女房達があわただしく局へ荷物を運びこみ始めた。
「あれ、えっと……。」
あかねが驚いて半身を起して辺りを見回す。
「あの、この荷物、どうしたんですか?」
「はい、頼久殿からの届け物ですわ。文はこちらに。」
女房はあかねの質問に答えると文を一通あかねに渡して、すぐに作業に戻ってしまった。
運び込まれる食べ物の数々、夏用の着物一式、何故か扇や香までが荷物の中にあって、最後に運び込まれたのは氷だった。
「こ、こんな…。」
「頼久はかなり慌てたらしいね。扇はともかくどうして香など入っているのやら。」
神子殿大事の堅物武士が、その神子殿が倒れたと聞いてどれほど慌てたかを想像して友雅はくつくつと笑いを漏らした。
けれど、あかねはそれどころではない。
頼久にそんなに心配をかけたのかという申し訳なさはもちろんのこと、荷物の中にある氷を見て深いため息をついた。
本来、氷は高貴な身分の者しか手に入れることができないはずだ。
頼久は武士という身分で、それは決してこの京では高い身分ではない。
その頼久があかねが倒れたというので慌てて氷をどこからか調達してきてしまった。
きっとそれにはひどく手間だのお金だのがかかったに違いないのだ。
「頼久さんに大変な思いさせちゃった…氷なんてどうやって……。」
「いや、頼久なら氷の調達くらいそんなに難しくないんじゃね?」
「へ?」
思いもよらないイノリの発言にあかねが小首をかしげる。
「まあ、源武士団若棟梁なら、氷の調達くらいそう難しくはないだろうね。」
「そう、なんですか?」
友雅のうなずきにあかねが更に首をかしげる。
「神子殿は常日頃からあまり自覚がないようだけれどね、源家というのは私などよりはよほど財力があるのだよ?それに氷室から氷を運ぶ人出もすぐに確保できるだろうしね。」
「そ、そういう問題じゃ…。」
ことあるごとにあかねも頼久から懐具合については心配いらないと言われ続けてはいる。
けれど、元の世界で一般庶民として生活していたあかねにはそういう金銭感覚はどうしても身につかなくて、常に節約しようとするあかねに頼久はよく苦笑を漏らしていた。
友雅が言うのならそうなのだろうし、イノリまで当然のような顔をしているから気にするほどのことでもないのかもしれないけれど、それでもあかねにはどうしても当たり前のように氷を受け入れることはできなくて…
「えっと…こんなに氷が大集合しちゃって…でも放っておいたら溶けちゃうし…。」
「たぶん屋敷の人間全てに分け与えても余る量になっているのではないかな?頼久がよこしたのがこの大きさだしねぇ。」
そう言って運び込まれた氷の塊に友雅は苦笑した。
「そ、そうですよね…あ、そうだ、じゃあ、土御門の方に持って行ってもらって、藤姫とか武士団のみんなにも食べてもらいましょう。」
いいことを思いついたとばかりにあかねがにっこり微笑むと、周りにいた3人も自然と笑みを浮かべた。
あかねはいつだってこうして皆を幸せにする笑顔を見せるのだ。
だが、そんな平和な時間は長くは続かなかった。
「神子殿!」
よく通る低い綺麗な声。
明らかに慌てていること丸わかりの大きな足音。
そして…
「失礼いたします!」
大きな声で宣言するその律義さ。
その場の誰もが予想した人物がこの場に姿を現した。
ただし、そのいでたちばかりは予想できなかったけれど…
「頼久さん、どうしたんですか、それ…。」
あかねがキョトンと見上げる頼久は、くつくつ笑っている友雅に一瞥を投げただけですぐあかねの傍に膝をついた。
そして手にしていたものをあかねに差し出す。
「藤姫様よりお叱りを受けまして…。」
「ええっ、どうして頼久さんが藤姫に怒られるんですか?」
「暑気中りで倒れている者に氷の塊を送ってどうするのかと…。」
「それで、これ……。」
「はい、すぐにでも、どうぞ。」
頼久の手の中にあったのは小さな椀。
中には小さく砕いた氷が山盛りになっている。
つまり、食べさせなくてはならないのに氷を塊で送ってどうするのか、食べられるものを早々に持って行けと頼久は藤姫に尻を蹴られるように土御門邸を出されてきたのだろう。
あかねはそれを思うと、頼久から椀を受け取りながらその目に涙を浮かべた。
自分のせいで大切な旦那様に恥をかかせてしまった。
そのことがひどく悲しい。
「み、神子殿!お具合が!」
「違います…ごめんなさい、私のせいで頼久さんが怒られちゃって…。」
「そのようなことはお気になさらず、気遣いの行き届かぬ私が悪いのです。」
「頼久さんは悪くないです。私が…。」
「いいえ、神子殿は…。」
「ああ、取り込み中のところ悪いのだけれどね、そのままやり続けていると氷が溶けてしまうし、見せつけられているこっちもたまったものじゃないよ。」
「友雅殿!」
「友雅さん!」
苦笑しながら割って入った友雅にあかねは赤い顔で、頼久は心底不機嫌な顔で抗議する。
けれど、それを飄々と受け流して友雅はすっと立ち上がった。
「どうやら神子殿は大事ないようだね。私はさっそく藤姫にそう伝えに行かせてもらうよ。」
「あ、そうか、友雅さん、藤姫に私は全然大丈夫って言っておいてください。」
「ああ、任せておいておくれ。」
「神子の気も整った。私もお師匠に大事ない旨、伝えに行く。」
「あ、はい、有難うございました、泰明さん。」
「問題ない。」
友雅が去り、泰明もいなくなると残るはイノリ。
今まで事の成り行きを苦笑しながら眺めていたイノリは、頼久とあかね、二人の間に一人だけ残されたと気付いて慌てて立ち上がった。
「お、オレももう行くわ。オレは瓜届けに来ただけだしな。」
「あ、うん、イノリ君もありがとね。」
「イノリ、私からも礼を言う。」
「ああいや、どうってことねーって、ついでに永泉と鷹通のところ寄って、あかねは大丈夫だって言っとくからな。あかねは安心して養生しろよ。」
「うん、ありがと。」
相変わらずの元気な声と朗らかな笑顔を残してイノリが去ると、あかねは小さくため息をついた。
「神子殿…。」
「あ、頼久さん、お仕事は…。」
「それにつきましても、藤姫様よりお叱りを頂きました。神子殿がお具合の悪い時に何故仕事などしているのかと。」
「で、藤姫がお休みくれちゃったんですね…。」
「はい。ですので、神子殿はどうぞ安心してゆっくりとお休みください。」
八葉のみんな、安倍晴明、それに藤姫。
何より大好きな旦那様。
みんなにただの夏バテでさえこんなにも心配してもらえて、そんな幸せをかみしめながらあかねは小さな椀の中身を口にした。
「おいしい…。」
「この瓜はイノリが持ってきてくれたのですね。水で冷やしますので、あとでこちらも召し上がってください。」
「…はい…。」
小さな声で答えると、あかねが氷を口にする手を止めた。
具合が悪いのかと頼久が様子をうかがってみれば、どうやらそうではないらしい。
感極まったのか大きな瞳にあかねは涙を浮かべていた。
ただ、その顔は決して辛そうなわけではない。
仲間達の心遣いに感謝している、そういう顔だった。
目の前にたたずむ妻の姿が愛らしくも神々しくて、頼久はその顔にうっすらと笑みを浮かべるとあかねの手にある椀の中から大きめの氷のかけらを取り上げて口に含んだ。
そして、驚いているあかねにそっと口づけて、溶けかかった氷を小さく開いたあかねの口へと移してやる。
唇を離した時にはもうあかねの顔は真っ赤に染まっていて、コクリと愛らしく氷を飲み込むのが見て取れた。
「よ、頼久さん…。」
「きちんと食べて、早く良くなってください。食べられないようでしたら、私がさきほどのように…。」
「だ、大丈夫です!食べます!……あんなの何回もされたら、それこそ熱が上がって倒れます…。」
最後は小声でつぶやくように言って、あかねは氷を口に運ぶ。
その様子を見守りながら、頼久はつい伸びそうになる手を必死でとどめていた。
いくら愛しいからとはいえ、暑気中りで倒れた妻をここで抱きしめたりしては離せなくなりそうで…
そうなればあかねが更に暑がることは間違いない。
せめてあかねの体調が回復するまでは、こうしてそばで静かに見守り続けよう。
頼久は心の中でかたく誓うのだった。