朧月夜
 あかねはうきうきとした足取りで大きな荷物を抱え、恋人の家へと急いでいた。

 何故なら、今夜は二人でお花見をしようと計画していたから。

 恋人である頼久の家の庭には大きな桜の木が一本植えてあって、その桜がちょうど満開を迎えていた。

 もちろん、まだ蕾の頃からあかねはずっと咲くのを楽しみにしていて、毎日のように頼久の家に通ってはその桜を見上げていたのだけれど、この一週間は大学の講義が忙しくて見ることができなかった。

 その間に満開を迎えたようで、頼久がそれを電話で知らせてくれた。

 ちょうど週末ということもあってあかねは母と二人、お花見用の料理を作って準備万端恋人の家へとやってきたのだった。

 両腕で抱えているのは重箱。

 中には料理がぎっしり詰まっている。

 両手で重箱を抱えていてはドアチャイムが鳴らせないのだけれど、そこは問題ないのがいつものこと。

 あかねが扉の前に立つと、その扉はすぐに開いて、恋人の優しい笑顔が現れた。

「ようこそ神子ど……その荷物は…。」

「お邪魔します。あ、これはお弁当というか…。」

 あまりに大きな荷物に驚いた頼久は、恥ずかしそうに苦笑するあかねからすぐに重箱の包みを取り上げた。

「中へどうぞ。こんなに大きな荷物がおありでしたら、呼んで頂ければお迎えにあがりましたものを。」

「大丈夫ですよ。近いし、そんなに重くないですし。」

 そんな会話を交わしながら二人はリビングへと移動した。

 部屋の中はいつもきれいに片付いている。

 もちろん、頼久があかねが不愉快な思いをしないようにと毎日掃除をしているからだ。

 あかねはすぐにキッチンへ向かうと、頼久がリビングのテーブルの上に重箱を置いている間にお湯を沸かし始めた。

 あかねにとっては今はもう勝手知ったるキッチンで、どこにヤカンがあってどこに急須や茶葉があるかもよく心得ている。

 最初の頃は頼久とどちらがお茶を淹れるかでもめたものだけれど、今はもう頼久もお茶を淹れるのはあかねに任せることに決めていた。

 なんといっても自分が淹れたお茶よりもあかねが淹れたお茶の方が数倍おいしいのだし、あかねはとても楽しそうにお茶を淹れる。

 ならばと頼久はたとえそれが紅茶でも緑茶でも関係なく、お茶を淹れる役目はあかねに任せることに決めたのだった。

「えっと、私はお茶にしますけど、頼久さんはもうお酒にしますか?温めた方がいいなら温めますけど…。」

「いえ、まだ陽も残っておりますし、私も茶をお願いします。」

「はーい。」

 朗らかなその返事を聞いているだけで頼久の頬はゆるんだ。

 手際よくお茶を淹れたあかねが湯気の上がる湯飲みを二つ持ってくると、頼久はソファに座ってあかねから湯飲みを受け取った。

 当然のようにあかねが隣に座るのをひどく幸せに感じながら微笑んでいると、あかねもにっこりと頼久に微笑を返した。

「お腹すきました?たくさん作ってきたからもうつまんじゃってもいいですよ?」

「では、お言葉に甘えまして。」

 頼久が重箱を包んでいた風呂敷を解くと、あかねが重箱のふたを開けてテーブルの上へと三段重ねの重箱を広げた。

 詰め込まれているのは野菜の煮物、昆布巻き、かまぼこに卵焼き、焼き魚に佃煮などなど…

 炊き込みご飯や漬物までつめこまれていて、これで頼久の夕飯は何一つ不自由ないばかりでなく、酒の肴にも困らないだろうと思われた。

「これはまた豪華な…。」

「おせちみたくなっちゃって…でも、足りないって思うよりいいかなって……多いですか?」

「いえ、余ればまた明日にも頂きますので。」

 それはいつものことだった。

 あかねは手料理をふるまうたびに必ず多く作る。

 そうすれば一人暮らしで不自由しているだろう頼久も翌日の食事の心配をしなくてもいいというわけだ。

 毎度のことなのですっかり慣れている頼久も、今となっては大量に用意された料理を前にして驚いたりはしない。

「その…最近あんまりここに来られなかったので、張り切っちゃったというか…。」

 頼久が卵焼きを口に入れたところであかねがぽつりとそう言って苦笑した。

 大学というところは遊ぼうと思えばいくらでも遊べる場所なのだが、あかねは真面目に講義を受けて予習復習までしているものだから、意外と忙しい。

 アルバイトの必要もないあかねにはそれくらい忙しくても問題はないのだけれど、ただ頼久のもとへ通う時間が無くなることだけが悩みだった。

「お忙しいとうかがっておりましたが…。」

「あ、でも、レポート提出しちゃったんで、もう大丈夫です。ゴールデンウィークも全然出かけたりできなかったし、夏休みはいっぱい遊んでください。」

「それはもちろん。ですが、その前にゆっくりお休みください。無理だけは…。」

「無理なんかしてません。ここに来ない方が無理だったんで…。」

 あかねが顔を赤くしてうつむくと頼久が嬉しそうな笑みを浮かべた。

 こんなふうに目の前の恋人が自分を想ってくれる、そのこと自体が奇跡なのだと噛みしめながら頼久は次々と料理に手をつけた。

 窓の外を見れば空は濃い紫に染まっていて、月がその姿をはっきりとさせ始めていた。

 このままいけば、すぐに空は真っ暗になって、月明かりに照らされて庭の満開の桜が美しい姿を見せるだろう。

 そうなれば、愛しい人に心行くまで夜桜を堪能してもらいたいと思う頼久は、今のうちに夕食をすっかり済ませてしまうことにした。

 どれも頼久の好みに味付てある料理を堪能して、あかねの淹れてくれたお茶で人心地つくとその恋人が幸せそうに微笑みながら自分を見上げていることに気付いた。

「どうかなさいましたか?」

「どうかってわけじゃないんですけど…頼久さん、おいしそうに食べてくれるなぁと思って。」

 京にいた頃から頼久はよく食べた。

 特に京ではこちらの世界のようにおかずの種類が多いわけではなかったから、驚くほどたくさんの米を頼久はあかねの目の前で平らげて見せたものだった。

 そんな食欲はどうやらこちらの世界へやってきてからも変わっていないようで、頼久はパクパクとあかねの手料理を気持ちがいいくらいのハイペースで平らげていた。

「それはもちろん、神子殿が作って下さったものですので。」

 作った女性のあかねから見れば、こうして気持ちよくたくさん食べてくれる男性は素敵だなと思う。

 頼久の場合、鍛錬だなんだと結局のところよく体を動かしているから、食べても太るということはないようだし、こうして勢いよく食べてもらえるのは嬉しい限りだ。

 その想いをこめてあかねが微笑むと、頼久は湯飲みの中身を飲み干して満足そうに小さく息を吐いた。

「あ、そろそろお酒温めましょうか?」

「いえ、酒の支度は自分で致しますので、神子殿は本来の目的を果たしてください。」

「本来の目的?」

 何を言われているのかとあかねが小首を傾げると、頼久の視線が窓の外へと向いた。

 視線の先にあるのは月明かりの下、時折花弁を舞わせている満開の桜。

 うっすらと暗い庭に浮き上がる桜はとても美しくて、あかねの口元に笑みが浮かんだ。

「そうでした。お花見しに来たんでした。」

「はい、ですので神子殿は桜をお楽しみください。」

「でも……。」

 頼久の予想に反して、あかねは立ち上がろうとしなかった。

 それどころか、うっすらと頬を赤らめて頼久を上目づかいに見上げたではないか。

 思わず頼久は生唾を飲み込んで、魅力たっぷりの恋人の前で凍り付いてしまった。

「その…私はただ単にお花見をしに来たわけじゃなくて…。」

「は?」

「頼久さんと、お花見をしに来たんです。」

 つまりは一人で見ても意味はないということ。

 並んで座って二人きりで。

 そんなあかねの想いを受けとって頼久はゆっくり立ち上がった。

「頼久さん?」

「神子殿は先に庭へどうぞ。私は酒の用意をしてまいります。」

 ならば、酒の支度など早々に済ませてあかねの隣に並ぼうと頼久はキッチンへ向かったのだが…

 先に花見を始めてくれるとばかり信じた恋人はというと、さっさと重箱を窓辺へ移動し始めた。

 ここからはゆっくり花見をしながらつまもうというのだろう。

 頼久はそんなあかねを微笑ましく見つめると、すぐに酒の支度を始めた。

 温める時間も惜しいので、取り出した酒瓶の酒はそのまま徳利に移し、杯と共に盆にのせた。

 それを窓辺に運べば、準備万端といわんばかりのあかねの笑顔に迎えられた。

「お花見って感じになりましたよね。」

 重箱を広げて酒を並べて、確かに縁側周辺は花見の雰囲気に満たされている。

 頼久は「はい。」と答えて、あかねと二人、縁側に座り込んで空を見上げた。

 風はなく、空には月が浮かんでいる。

 夜の空気は少しばかり冷たく感じるけれど、二人並んで座っていれば問題はない程度だ。

 これなら散り際の桜をきっと堪能してもらえるだろうと満足して頼久がその視線を巡らせると、隣に座っているあかねもまたその視線を桜へと向けていた。

 頭上には静かに光る月、目の前には満開の桜、そして隣には何よりも大切な人。

 これ以上の夜があろうかと頼久は何もかもに満たされた思いで杯を手にした。

 すると、すっと白い手が伸びてきて、頼久がつかもうとしていた徳利を取り上げられてしまった。

「お酌くらいさせてください。」

「有難うございます。」

 杯に酒を注いで、ことりと愛らしい音をたてて徳利が盆の上へ戻されるのを眺めながら、頼久は遠い記憶をたどっていた。

 まだ京にいた頃は武士団の連中と酒盛りをすることが少なくなかった。

 命のやり取りを生業にしていればなおさらのこと、そうした憂さ晴らしの回数は多くなるものだ。

 男ばかりで酒を飲む場は確かに気楽で賑やかで、悪くはなかった。

 が、頼久が一つだけ苦手とするのが下世話な話題でその場が持ちきりになることだった。

 男ばかりがあつまって酒を飲み始めると、初めはともかく、最後は必ず女の話になる。

 どこの女が美しいとか、どこの女が尻軽だとかそんな話を聞くことになるのだ。

 そんな時、必ず仲間達はたおやかな女性に酌をされての酒は最高だ、男ばかりでは酒もまずくなると言ったものだった。

 当時はそんな発言にただ呆れてばかりいた頼久だったが、今となっては仲間達の気持ちが良く理解できた。

 この家へは天真もよく酒を飲みにやってくる。

 彼は真友と思わせてくれる良い男で、頼久はその相棒の来訪を決して迷惑とは思っていない。

 共に酒を飲むのも楽しいくらいだ。

 それでもやはりこうして愛しい人の隣で酌をしてもらっての酒は、天真と共に飲む酒とは比べ物にならないくらい美味に感じた。

 酒だけではない。

 食事だって味が変わるし、よくよく考えてみれば、毎日見ているはずの庭の桜も色濃く見えた。

 頼久はどうやらこの愛しい人が隣にいてくれるだけで、世界の色さえ変わっていくのだと気付いて桜を見上げる愛らしい横顔を見つめた。

「あ…。」

「は?」

 幸せそうに微笑んでいたあかねが急に声をあげたものだから、頼久は思わず杯の中の酒をこぼしそうになりながらあかねの顔を覗き込んだ。

 その視線をたどると、そこには先ほどまで綺麗に輝いていた月がぼんやりとその光を弱めていた。

「なんだか、月が少し霞んできたような…。」

「ああ、朧月夜、ですね。」

「ああ、これが。」

「春にはよく月が霞むのです。」

「こういうのも幻想的できれいですねぇ。」

 あかねの言うとおり、霞んだ月は光輝いていた時よりも少しばかり優しくやわらかく見えた。

 頼久には心優しいあかねに良く似合う月になったように思えて、手にした杯の中身を飲み干しながら微笑んだ。

 春ならではの朧月夜に散り際の桜。

 絵に描いたような夜になった。

 これなら恋人もきっと心から喜んでくれているだろう。

 そう思って再び隣に視線をやれば、何故かあかねはじっと頼久を見つめていた。

「神子殿?どうかなさいましたか?」

「いえ、惜しかったなぁと思って。」

「惜しい、ですか?」

 こんなに風情のある夜に何か足りないものがあっただろうかと頼久は眉間にシワを寄せた。

 月に花にあかねの手料理。

 何もかもがそろっているような気がするが…

「あ、そんな悩まないでください!たいしたことじゃないんで…。」

「しかし…。」

 頼久にとってあかねに楽しんでもらえてないのならばそれは一大事だ。

 ところが、あかねはその顔に申し訳なさそうな苦笑を浮かべると、視線を盆の上の徳利へと落した。

「もう少しで誕生日だったから、誕生日の後だったら頼久さんと一緒にお酒が飲めたのになぁと思っただけです。」

 恥ずかしそうに苦笑するあかねに頼久は目を見開いた。

 まさかそんなことを考えていたとは。

 頼久は手にしている杯を覗き込んだ。

 そこには満たされた酒と、その水面に映る月の姿がある。

 確かにこの酒をあかねと共に飲むことができれば頼久にとっても幸福なこと間違いない。

 だが、あかねはまだ未成年。

 あかねが成人する頃には桜は散ってしまっている。

 つまり、今年はどう頑張っても無理だった。

 ならばと頼久は杯を一気に空にして盆の上へ置くと、小首を傾げるあかねの方へと身を寄せた。

 一瞬で首まで赤くなるあかねを抱き寄せて、驚いている間に口づけを落とす。

 ゆっくりと口づけてからあかねを開放すれば、まだまだ初々しい恋人は恥ずかしそうにうつむいた。

「あ、あの…その…どうして急に……。」

 首まで耳の裏まで赤くなっているあかねがやっとの思いでそう尋ねると、頼久はその真摯な瞳であかねを覗き込みながら口を開いた。

「今年はまだ神子殿に酒をお勧めするわけにはまいりませんので。」

「はい?それでどうして…き…キスになるんですか?」

「香りだけでもと。」

「へ…。」

 言われて思い出してみれば、確かにふわりと甘い香りがした事に気付いてあかねは「あぁ」と小さな声を出してうなずいた。

 口づけの甘さと香りの甘さと、両方を思い出してあかねが更に顔を赤くしていると、頼久が桜を見上げながら再び口を開いた。

「今年は無理ですが、また来年。」

「はい?」

「来年も桜は咲きます。来年ならばもう神子殿は成人なさっていますし、再来年もその先もございますから。」

 あかねがハッとして隣を見れば、頼久の視線がゆっくりとあかねの方へ戻ってきた。

 その端整な顔には幸せそうな微笑が浮かんでいて、つられるようにあかねもその顔に微笑を浮かべてうなずいた。

「はい。」

 来年も再来年もその先も…

 もうすぐやってくるだろう誕生日の後はずっと二人でこうして桜を見上げながら杯を傾けることができるはず。

 そう思えば、あかねの心はすっかり晴れて、朧月さえ冴えて輝いて見えるのだった。








管理人のひとりごと

今年は花が開き始めてからすぐ寒くなりまして…
管理人の生息地ではまだまだ咲き続けております。
そして散り際がわからん(^^;
気が付けばチューリップも躑躅も水仙もみんな咲いている、それが蝦夷地(’’)
そんな賑やかな春を満喫しながらちんたら桜創作やってます(^^;
皆様お住まいの地ではもう花は終わったかもしれませんが、今年の花を思い出しながら読んで頂ければ幸いです(^^)







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