あかねが和室で辺りをざっと掃除して待っていると、頼久はいとも簡単に大きな箱を持って二階から下りてきた。
重さを感じさせない足取りで歩いてきた頼久はそれは丁寧に箱を床へと下ろす。
あかねはニコニコと微笑みながらその様子を見守っていたが、箱が置かれるとすぐにその箱を開けた。
中に入っているのは実家から持ってきた雛人形の七段飾りだった。
「やっぱり頼久さんは凄いですよね。こんな重たい物をあんなに簡単に持って来れちゃうんですから。」
「体力膂力だけが取り柄ですので。」
「他にも凄いところはいっぱいありますけど、その話をしていると長くなるので、今はこれに集中しましょう。」
自分の凄いところを話すと長くなるのかと一瞬嬉しさに舞い上がりそうになった自分を制して、頼久はあかねが人形を取り出している間に骨組みの組み立てを始めた。
七段飾りはスチールでできている骨組みの組み立てをしないと人形を飾ることができない。
そしてその骨組みはたいそう頑丈な代物で、とてもあかね一人で組み立てることはできなかっただろう。
ともすると怪我をしそうな部品もあるので、頼久は決してあかねに骨組みの組み立てを手伝わせたことはなかった。
「うん、大丈夫、どのお人形も壊れたりしてないですね。」
「それは何よりです。」
答えながら骨組みを組み立て終わった頼久は緋毛氈を上から丁寧にかぶせていく。
この緋毛氈の上に人形を並べるところからがあかねの仕事だ。
人形の無事を確認したあかねは作業に没頭する頼久の後ろ姿を優しい目で見つめていた。
頼久は器用に緋毛氈をピンでとめて、シワを綺麗にのばしている。
シワ一つよっていることを許さない辺りが几帳面な頼久らしかった。
「いつも思うんですけど、これ、私一人じゃ飾れなかったと思うんですよね。頼久さんと一緒でよかった。」
「私でなくとも誰か一人いれば良い話だとはおもいますが…お一人で暮らされていたなら御両親がこれをあかねに託すことはなかったのではないでしょうか?」
「あ、それもそうですね。実家でお母さんが飾ってたのかも。」
そう、この雛人形はあかねの嫁入り道具の一つだった。
だからきっと一人暮らしをするために家を出る時に持たせることはなかったはずだ。
「できました。」
緋毛氈の準備が終わった頼久の声を聞いてあかねはすぐに立ち上がった。
ここから先は自分の仕事だと言わんばかりだ。
「人形を置く前のこの台を見ると子供の頃、これが階段に見えて上ろうとしてよく怒られたのを思い出します。あ、頼久さん、お内裏様からお願いします。」
「承知しました。」
頼久はハッと思い出の世界から戻ってきたらしいあかねに言われたとおりの人形を渡す。
渡された人形をあかねは丁寧に段の上に並べていった。
人形だけではなく、飾り物も多い七段飾りは飾り終えるまでに結構な時間がかかる。
それでも二人はその時間さえも年に一度の楽しみとしていた。
「できました。」
「はい。」
全ての飾りつけを終えて雛飾りの正面に立ったあかねはとても満足気だ。
その隣に立つ頼久はといえば、人形ではなくあかねの横顔を見つめて満足気だった。
「この人形達を飾り終わると必ずお母さんのことを思い出すんですよね。」
「そう、なのですか?」
一瞬頼久がひるんだのは、母を思い出すということはあかねが実家を恋しく思っているということか?と勘繰ってしまったからだ。
幸運なことにあかねにそんな勘繰りは気付かれなかったようで、その横顔は楽しそうに微笑んだままだった。
「ほら、お雛様って片付けるのが遅れるとお嫁に行くのも遅れるっていう言い伝えがあるじゃないですか?」
「はい。」
その言い伝えならこの世界で初めての雛祭りを祝った時に頼久も聞いた。
「お母さん、凄くそれを気にして、毎年3日の夜に必ず慌ててこの人形を片付けていたんですよ。そのおかげで私、すぐに頼久さんにもらってもらえたのかなって、毎年思います。」
振り向いて幸せそうに微笑むあかねの笑顔に頼久の心臓がドキリと一つ鼓動をうった。
頼久にしてみれば自分のわがままのせいであかねをあまりにも早く娶りすぎたのではないかとさえ思っていたのだ。
そんな想いをこんな形で否定してもらえるとは。
「では、我々も3日のうちにきちんとこの人形を片付けるように心がけましょう。」
一瞬だけ逡巡して出てきた頼久の言葉がそれだった。
端整な口元には笑みが浮かんでいる。
「そうですね……へ?私もうお嫁に来てますよ?」
「はい、我々がこの人形をきちんと片づけるのは、近い将来我々のもとへやってきて、近い未来に嫁に出さねばならぬであろう我々の娘のために、です。」
「ああ、なるほ…ど……。」
途中で何を言われたのかに気付いてあかねが顔を真っ赤にしてうつむくと、頼久はもうそれだけで何故か嬉しくて、そっとあかねを抱きしめた。
頼久にしてみれば、こうしてあかねの隣で雛人形などを眺めていられるだけで無上の喜びだ。
京に残ってあかねがこの世界へ帰ってくるのを見送ることになっていた確率の方がよほど高かったのだから。
こちらに共に来てみても、あかねの両親に結婚を認めてもらえない可能性だってあった。
あかねがこちらの世界の男性に心を移すこともあり得たはずだ。
その全てが現実のものとはならず、こうして自分が愛しい天女を抱くことを許されている。
頼久はいつもその幸運と幸せを思っていた。
そんな頼久ではあるが、京で武士をしていた時の鋭敏な感覚は衰えてはいない。
その感覚がとらえた気配が頼久の顔に苦笑を浮かべさせた。
「どうやら近い将来やってくる娘よりも先に腹を満たしてやらねばならぬ奴が来たようです。」
あかねの耳元でそう囁いて頼久はそっとあかねの体から離れた。
「はい?」
「お、今年もやってんな!」
あかねが小首を傾げているうちに和室へと姿を現したのは天真だ。
彼が予告もなしにこの家に入って来るのはいつものことで、それがわかっているから頼久もベランダの窓に鍵をかけずに置いている。
特に今日は雛祭り。
こういった行事は人数が多い方が楽しいものだ。
だから今日も頼久はベランダの鍵を開けてあった。
「天真君、招待してないよね?」
「冷てぇな、いいだろ、どうせ鍋なんだし。」
「どうして今日は鍋だって知ってるの!」
「そこの朴念仁が昨日買い物に行っただろ?俺が付き合った。」
「いつの間に…。」
「どうせ誘わずとも来るのだろうと思いましたので、ならばいっそのこと天真の好物も入れてやろうと思いましたので。」
「頼久さん…。」
「ハイハイ、お前が頼久に惚れ直したのはわかったから飯を食わせてくれ。ほれ、今年は気を使ってこれにしてやったからな。」
そう言って天真が持ち上げたのは白酒の瓶だった。
「雛祭りと言えばこれだろ?」
そう言ってニヤリと笑って見せる天真に溜め息をついて頼久は台所へ向かって歩き出した。
「そう仏頂面すんな、あかねには雛あられ買ってきてやったから。」
「うむ。」
どうやら機嫌を直したらしい頼久の後を天真が追うと、あかねは二人の広い背中を見て微笑んで、もう一度雛人形を見つめた。
いつか、本当にいつかこの雛飾りを娘に託すことになるのだろうか?
そんなことを考えて、もう一度頬を赤く染めて…
そしてあかねは二人の男後を追った。