
明るく輝く丸い月の下を頼久はゆっくりと歩いていた。
夏の夜。
頬を撫でる夜風も生暖かい中、月に照らし出される頼久の顔は少しばかり翳りを見せていた。
何故なら、ここ三日の間、愛しい妻の待つ屋敷に戻ることができなかったからだ。
最初は急に部下が病を発したため、人手が足りなくなって頼久がその穴を埋めるために宿直に入った。
それが終われば本来は屋敷へ戻って休みを満喫できるはずだった。
ところが、左大臣である藤姫の父が突然、主上の元へ参上することになり、更に主上のお側に宿直することになってしまった。
頼久は現在、この左大臣に最も見込まれている武士の一人だ。
当然のように供につき、警護に当たった。
おかげで丸三日の間、愛しい妻の顔を見ることさえできなかった。
もちろん、文は一日に何度も送った。
そのたびに帰宅できない旨を記し、頼久が使い得る数少ない言葉の全てを動員して謝罪した。
もともと言葉が得手ではない頼久だから、文などではとても謝罪が足りず、悶々としながら任務をこなして今に至るというわけだ。
謝罪の文を送るたびにあかねからは気にせず仕事に専念してほしいという文が返ってきた。
それでもやはり心細い思いをさせているのではないか?という想いが頼久の胸から離れず、その想いが頼久の表情を曇らせていた。
しっかりとした足取りであかねの屋敷へと戻ってきた頼久は、屋敷へ入るとすぐにあかねの局へと向かった。
夜はもうすっかり更けているから、屋敷の中はひっそりと静まり返っている。
本来なら頼久もすぐに着替えて眠りにつくところだ。
けれど、今はただ一瞬でも早くあかねの顔が見たかった。
それがたとえ寝顔でも構わない。
そう思いながら頼久が歩を進めれば、その耳に思いがけない声が聞こえた。
「頼久さん、ですか?」
しっかりと下ろされている御簾の向こうから聞こえたのはもちろんあかねの声だ。
頼久は濡れ縁を早足で歩いてあかねの局の前までやってくると、そっと御簾を上げて中を覗き見た。
「神子殿?起きておいでなのですか?」
「あ、やっぱり頼久さんだ。お帰りなさい。」
うっすらと闇の中、月明かりに照らし出されて浮き上がるあかねの優しい微笑に頼久ははっと片膝をつくと深々と一礼した。
「頼久さん?」
「このような時刻に戻りましたこと……いえ、幾日も戻ることができなかったことを幾重にも……。」
「そんな、お仕事なんですから気にしないでください。それより、疲れてますよね。すぐ着替えてゆっくりしてください。」
「はぁ…。」
優しいあかねの言葉はいつもと同じ。
けれど、頼久はどうしてもすぐ着替えに行く気にはなれなかった。
何故なら、こんな時刻にどうしてあかねが起きていたのか、それが気になってしかたがない。
何か、もしくは誰かを待っていたのだろうか?
誰か、だとすればそれはおそらく自分のことであり、自分を待ってこんな時間まで起きていてくれたとなれば頼久は嬉しいながらも申し訳なさもひとしおだ。
「その…。」
「はい?」
「神子殿はこのような時刻まで何故、起きておいでだったのでしょうか?」
「それは、月が綺麗だったので。」
「月、ですか。」
「はい。」
即答して微笑むあかねの視線にいざなわれて頼久が視線を巡らせれば、御簾の向こうには確かに丸い月が美しく輝いていた。
「灯りを消すと月が綺麗に見えて見惚れちゃって、つい夜更かししちゃいました。」
「そうでしたか。」
「……頼久さん、まさか、私が誰か他の人を待ってたんじゃ?とか疑いました?」
「いえっ!そうではなく……その、私の帰りをお待たせしていたのであれば更に申し訳がないと…。」
「今か今かと待ってたのはそうですけど…でも、今日は本当に月が綺麗だったから起きてただけです。向こうの世界じゃ夜、こんなに綺麗に月が見えないから。」
「そう、なのですか?」
「はい。夜も辺りを明るく照らすものが向こうの世界にはいっぱいあって、夜空もこんなに暗くないんです。だから、逆に月は見づらくなっちゃうんですよね。星なんて見えなくなっちゃうし。こっちの夜は月が明るいのと星がたくさん見えるのにびっくりしました。だいぶ慣れたんですけど、今日の月は凄く綺麗に見えたからつい。」
照れたように微笑むあかねにつられて頼久の口元もほころんだ。
「あ、頼久さんは着替えて楽にしてください。何か食べますか?それとももう寝た方がいいですか?」
慌てて月から視線を外したあかねはじっと頼久を見上げた。
「着替えて参ります。腹は空いていませんのでお気づかいなく。」
「はい、わかりました。」
頼久の言葉に愛らしくうなずいて、あかねは視線を月へと戻した。
愛しい妻の顔を見た後なら頼久にもわかる。
確かに今夜の月は美しかった。
だから、早々に着替えて戻って妻と二人、ゆっくり月見でもと考えた頼久は着替えのために奥へ入ろうとして突然その動きを止めた。
月明かりに照らされて夜の中に浮かび上がるあかねの後姿。
それが目に焼き付いてしまって離れない。
すっかり長く伸びた髪が月明かりを受けてかすかに輝いていて、髪が伸びてしまうと本当に京にいる高貴な姫君達と大差がなくて…
頼久は思わず一歩足を踏み出すともう止められず、背後からあかねを抱きしめていた。
「あれ、頼久さん?着替え…。」
不思議がりながらも嫌がるわけではないあかねの小さな体を頼久はひょいっと自分の膝の上へ乗せてしまった。
目を丸くしたのはあかねだ。
「あの、着替えは…。」
「後に致します。」
「えっと…着替えてからくつろいだ方が楽なんじゃ…。」
「……。」
黙り込んだ頼久の腕があかねの体をきつく抱きしめた。
「頼久さん?大丈夫、ですか?」
自分を抱く頼久の腕の力にただならぬものを感じてあかねはそっと声をかけてみた。
そしてその小さな手を頼久の腕の上に優しく置く。
するとあかねの耳元で頼久が小さくため息をつくのが聞こえた。
「大丈夫です。ですが、もう少々このままでいて頂けますか?」
「それはいいですけど…頼久さんも疲れてるんじゃ…。」
言いかけてあかねは続く言葉を静かに飲み込んだ。
背に感じる愛しい人のぬくもりは熱い夏の夜の熱気の中でも決して不快なものではなかったし、どうやらこのままでいた方が頼久は落ち着くらしいことに気付いたからだ。
あかねはその口元に優しい微笑をともすと、自分の体に回されている頼久の腕をそっと撫でた。
「あ、いい風…。」
頼久の腕を撫でながら思わずあかねがそうつぶやいたのは御簾の向こうからゆるやかに流れてきた夜風が心地良かったからだった。
京の夏は相変わらず暑い。
頼久はもちろんのこと藤姫も他の八葉の面々も夏には色々と暑さをしのぐためのものを用意してくれるが、それでも限界はある。
京の夏のおそろしいところは夜までも暑さが引かないことがあるというところで、今も昼の暑さをじっとりと引きずった熱気が夜の闇を満たしていた。
だから、思わずふわりと吹き込んだ夜風が無意識に声を出してしまうほどに心地よかったのだろう。
ところが、そんな心地良い時間は急に途切れてしまった。
何故なら、今まであかねを優しく抱きかかえていた頼久が慌てたようにその身を離してしまったから。
あかねがすぐに小首を傾げながら振り返ると、そこには眉間に深々とシワを寄せた頼久の苦悶の表情があった。
「頼久さん?どうかしましたか?」
「……常日頃より、この季節は暑いと神子殿がおっしゃっていたにもかかわらず不躾な振る舞い、お許しください。」
「へ…。」
あかねが予想だにしなかった言葉を口にした頼久はその場に手をついてゆっくりと頭を下げた。
大切な旦那様にそんなことをされて焦ったのはあかねの方だった。
慌てて頼久の方へいざり寄ったあかねはすぐに頼久の頭を上げさせて心配そうにその顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?頼久さん。」
「いえ…この季節は夜でさえも暑いと神子殿は平生からおっしゃっておりましたものを無思慮にも抱きかかえるなど…。」
つまりは抱きしめていたことが暑苦しかっただろうと言っているのだとようやく気付いたあかねはその顔に苦笑を浮かべた。
確かに暑いものは暑い。
二人でくっついていればそれだけ暑さが増すというのも間違いはない。
間違いはないけれど、あかねはそれを不快に思ったことはなかった。
暑いには違いないけれど、その暑さは決して不愉快なものではないから。
それを伝えたくてあかねは一つ深呼吸をすると、まっすぐ正面から頼久を見つめて口を開いた。
「あのですね、確かに夜も暑いですけど…でも、私は頼久さんと一緒にというか…寄り添ってというか……つまりその……くっついているの、嫌いじゃないですよ?」
「しかし、それでなくても暑いものを二つの熱が合わされば暑さは増すばかりでは…。」
「確かにそうなんですけど…なんていうか、その熱は別に嫌な熱じゃないってことです。し、幸せな熱だっていうことです。」
「神子殿…。」
「な、なので、頼久さんは別に私にくっついててもいいんです。」
あかねは頼久の夜目がきかなくてもわかるのではないかと自分でも思われるほど顔を赤くしながらもっともらしくうなずいた。
これで大切な旦那様が謝るようなことはもうなくなったはず。
そう思ってあかねがじっと月明かりに浮かび上がる頼久の顔色をうかがってみれば、頼久は柔らかな微笑を浮かべていた。
「有り難うございます。」
「お礼を言われるようなことじゃないです…。」
「では、私も着替えてなるべく暑苦しくない姿となることにします。」
「そうですね、その方がくつろげるし、はい、行ってらっしゃい。私はここで待ってますね。一緒にお月見しましょう。」
「はい、神子殿になるだけ暑くなく、この膝をご堪能頂けるよう準備してまいります。」
「はい?」
膝?堪能?
とあかねが内心、右往左往している間に頼久は微笑をその闇に刻んで奥へと姿を消した。
ついさっき、やっと引いた顔の熱がまた戻ってきて、あかねは両手で自分の頬をおさえた。
こんな真夜中に二人きり、どうやらしばらく密着して過ごすことになりそうだ。
そんな時間を想うと恥ずかしくも幸せでもあって、あかねは一人もじもじとしながら頼久が戻ってくるのを待つのだった。
「朝からの雨で助かりました。」
「そ、そうですね、少し涼しいですもんね…。」
「はい。」
あかねの言葉にすこぶる機嫌の良さそうな声で答える頼久の顔には笑みが絶えない。
そんな頼久の膝の上には寝巻の上に小袿一枚羽織っただけのあかねがちょこんと座っていた。
目の前に下がっている御簾の向こうからは激しい雨音が聞こえてくる。
昼にも関わらず辺りが薄暗いのは空に垂れ込めた厚い雨雲のせいだった。
そんな薄暗い局の中であかねは頼久の膝に抱き上げられて、今も後ろから優しく抱きしめられ続けている状態だった。
どうしてそんなことになっているのかといえば…
頼久が本日は一日休みであったというのが最も大きな理由。
その他にも外が雨で出かけることができないという至極まっとうな理由も存在するが…
なんといってもあかねが身動きできないというのが一番大きな理由だった。
「神子殿、お体は…その……。」
「だ、大丈夫です。立って歩けないだけで…。」
「…申し訳ありません……。」
朝から何度かこの問答が繰り返されている。
というのも、昨夜、頼久にとっては嬉しいことに夏の暑い夜でも抱きしめていて構わないという許可が妻から出たので、調子に乗ってぎゅうぎゅうと抱きしめ続けた結果、更に調子に乗ってあかねを押し倒してしまい…
朝になるとかすかに声もかすれているあかねは自力で起き上がれないという事態に陥ったからだった。
「朝よりはずいぶん良くなりましたからそんなに謝らないでください。今日は雨でお客さんも来ないでしょうから、は、恥ずかしい想いもしなくて済むと思いますし…。」
あかねにしてみればそれが一番問題だった。
夫婦仲がよすぎるのも困りものだなどと友雅辺りがやってくるとからかわれかねない。
体が動かないことよりもあかねにとってはそちらの方が大問題だった。
「本日はこの頼久、誠心誠意、神子殿の御ために尽くさせて頂きますので。」
「い、いつも尽くしてもらってますから!」
「いえ、いつもよりももっとです。」
一応は謝罪を繰り返す頼久なのだが、こうやって会話の最後は満面の笑みでああかねを抱きしめていた。
これも朝から何度も繰り返されたやり取りだ。
暑い暑いと思っていたその気温は激しい雨のおかげで少し下がったようで、ここ数日の中では一番過ごしやすい。
あかねが自由に動けない状態でもあり、その原因が頼久だということもあって、頼久は張り切ってあかねの看病を買って出たのだ。
頼久にとってはたまの休み、雨の垣根で覆われた屋敷の中で愛しい妻と二人きり。
しかも身動き取れない妻の面倒を何から何まで自分がみられるとなれば、それはもう幸せ以外の何物でもない。
朝からずっとそんな頼久に抱きかかえられているあかねは、頼久の満面の笑みを見るたびに自分も思わず微笑を浮かべてしまっていた。
本当はそんなにしてくれなくても大丈夫だと言わなくてはならない。
そう思ってはいるのに、そんな想いの裏側にはこうしてずっと抱きかかえていてほしいという想いもあって…
結局、あかねは抱きかかえていてほしいという想いに身をゆだねることにして頼久の肩へとその頭をもたげた。
「神子殿、お疲れでしたら眠って頂いても。」
「はい。」
優しい夫の声を耳元に聞いてあかねは目を閉じる。
雨音に包まれた局の中での大好きな人との一時は、これほどかと思うほど幸福で…
そんな幸福に浸っているあかねの唇にはいつの間にか大好きな人の口づけが降ってきた。
うっとりとそれを受け入れて、何もかもをこの世で一番頼りになる人にゆだねて……
そうしてあかねはゆっくりとその意識を手放した。
管理人のひとりごと
夏の暑さで一本!
ってことで、暑くてもいちゃつく熱は別物!って言うお話でした。
ぎ、ぎりぎり残暑時期ですよね?まだ(’’;
うん、管理人の生息地がまだ暑いんだから大丈夫だ!
ということで、すべり込んだ今年の夏でした(^^;;;
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