
「ただ今戻りました。」
「お帰りなさい。」
左大臣の警護が思ったよりも早く終わり、頼久はそれこそ飛ぶような勢いであかねの屋敷へ帰ってきた。
陽が落ちる前に帰ってくることができれば夕餉の前に少しでも愛しい妻の話を聞く時間ができるからだ。
だから頼久は、後輩達の指導もそこそこにこうして今、妻の前に立っていた。
「お仕事お疲れ様でした。」
あかねはそういいながら頼久がくつろいだ姿になるのを手伝って、そして頼久を縁に座らせると自分もその隣へ座った。
その顔には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
武士団の若棟梁として忙しい夫とゆっくりできる時間はなかなかなくて、こうして二人でいる時間はあかねにとっても大切で幸せな一時だった。
「今日は危ない目にあったりしませんでしたか?」
「はい、今日は特にこれといって事件もなく。」
「よかったぁ。」
そう言って隣で微笑む妻が頼久には愛しくてしかたない。
夕日に照らされてその笑みはそれこそ天女のごとく美しく頼久の目には映っているのだ。
夕暮れ時、何することもなく、何不安になることもなくこうしてただ妻と在ることのなんという幸せか。
「頼久さん?何かありました?なんか凄く楽しそう。」
「いえ、こうして神子殿とたたずんでいられることが幸福であると。」
「また頼久さんはそんなこと言って…。」
そう言ってうつむいたあかねの顔が赤いのは決して夕日に照らされているからというだけではない。
夫婦になって共に暮らし始めてもう半年以上の時が経っているが、それでもまだあかねは時折頼久の言葉にこうして照れるのだ。
頼久には妻のそんなところも愛らしくてならない。
「うわぁ、夕日に照らされたお庭、キレイですねぇ。」
妻に言われて頼久もみてみれば、庭の花々は夕日に照らされて綺麗に赤く染まっている。
風のない穏やかな夕暮れだ。
「たまにはいいですねぇ、こうして二人で何もしないでゆっくりお庭を眺めているのも。」
「申し訳ありません。」
「はい?」
「いえ、私がもう少し屋敷にいられるといいのですが…。」
「そ、そういう意味で言ったんじゃありません!頼久さんは一生懸命お仕事してるんですからそんなふうに思いませんから。」
「はい。」
「だいたい、こっちの男の人って女の人のところに通うんでしょう?」
「たいていはそうなります。」
「頼久さんはちゃんとここで一緒に暮らしてくれてるじゃないですか。貴族の女の人ってみんな旦那様がいつ来てくれるかって毎日毎日待ってないといけなんでしょう?私は頼久さんが毎日ちゃんとここに帰ってきてくれるだけで幸せです。」
「……。」
頼久を安心させようとあかねがにっこり微笑んでみても、頼久の方はどうやら何か考え込んでいるようで、眉間にシワを寄せている。
いつもなら笑顔を見せればつられたように微笑んでくれる人なのにとあかねは小首を傾げた。
「頼久さん?」
「神子殿の世界では…。」
「はい?」
「神子殿の世界では夫が妻の暮す屋敷へ戻ってくるのは普通のこととうかがいました。」
「まぁ、そうですね。仕事の事情とかで別々に暮らしてる人とかはいますけど、普通は一緒に暮らしますね。」
「では、こうして二人で暮らしているのは神子殿にとっては普通のことでしょう。」
「…そういわれてみれば、そうかも?」
「ならば、私はなるべく毎日きちんと早くこの屋敷に戻りたいと、そう思ってはいるのですが…。」
「そんなこと!気にしないで下さい!そりゃ、頼久さんの帰りが遅いと心配だし、ちょっと寂しいかなって思うことはありますけど、でも頼久さんはちゃんと帰ってきてくれるわけだし、大丈夫です!」
「できうることならば、一瞬たりともお側を離れず、こうして神子殿をお守りしていたいと思うのですが…。」
「い、一瞬たりともって……そ、それは私のもといた世界でも無理ですから…。」
そう言ってまた真っ赤になってうつむくあかねを見て、頼久はようやく笑顔を取り戻した。
何事もこの大切な人の望みのままにと思ってはいても、なかなかそうはいかない。
だが、そのことで焦ったり悩んだりすればこの優しい妻はそれこそ本気で心配したり怒ったりする。
ならば自分はこの妻のためにこそ笑顔を絶やさぬべきなのだと、最近はそう思うことにしたのだ。
「では、本日、私がお側にいなかった間に何があったかお話し頂けますか?」
「へ?」
「そうすれば、私もお側にいたかのように思えますので。」
「あぁ!そうですね、そうしましょう!」
ポンと可愛らしく手を打って、あかねは楽しそうにうなずいた。
「えっとですね、今日は、頼久さんを送り出してからすぐに薬草の勉強をして、それから、藤姫ちゃんに手紙を書いたんです。でもちょっと時間がかかっちゃったんですよ。紙を選ぶのに凄く悩んじゃって…あと、筆の調子が悪くてなかなか上手に書けなくて…。」
そんな話をしながらあかねは笑ったり落ち込んだりと一人で百面相を始めた。
「文字を書くのって本当に難しいですよね。頼久さんがくれる手紙はいつも読みやすくて助かります。あ、藤姫ちゃんも字は読みやすいかなぁ。そうそう、手紙を出した後は香をあわせてました。また失敗しちゃいましたけど…。」
あかねがそう言ってがっくりするのを頼久はただ優しく微笑みながら見守った。
もともと怨霊と戦っていた頃からあかねはおしゃべりで、どう返事していいかわからない頼久にも何かと話しかけてくれたものだ。
その頃からこの妻の愛らしさは変わっていない。
いや、変わっていないどころか愛らしさは増したほどだ。
と、頼久が心の中で一人あかねを賞賛していると、目の前のそのあかねが不機嫌そうな顔で自分を見上げているのに気づいた。
「頼久さん?」
「はい。」
「ちゃんと聞いてますか?」
「は?」
「頼久さんが話をしてって言ったんですよ?さっきからずっとニコニコしてるだけだし、ちゃんと聞いてくれてますか?これでも私、頼久さんに一緒にいたみたいな気持ちになってもらいたいから一生懸命お話してるんですけど?」
ちょっと怒ったような口調でそういわれて、頼久は一瞬キョトンとしてからすぐに微笑んだ。
「もちろん、聞いております。ただ、そのように神子殿に懸命に想って頂いているというこの身の幸せに浸っておりました。」
「ままま、また頼久さんはそういうことを言って!」
「いけませんでしたか?」
「い、いけなくはないんですけど…恥ずかしいですってば…。」
こういって妻はよく照れるのだが、頼久にはどうして妻が顔を赤くしてこんなにも照れるのかまだよくわからないことがある。
自分では本心を語っただけで、あかねが恥ずかしくなるようなことを言っているつもりはない。
「そ、そうだ!」
「は?」
「頼久さんもお話してください!」
「はい?」
「今日、私と一緒にいない間は何をしていたのか話してくれれば、私も頼久さんと一緒にいたような気分になるかも!」
「はぁ…。」
と、返事はしたものの、頼久は今度こそ眉間にシワを寄せてうつむいた。
あかねはとても話をするのがうまい。
とにかく素早く話をするし、たくさんの言葉を使って詳しく伝えてくれる。
その伝達能力には頼久も舌を巻くほどだ。
だが、頼久自身はというと、話をするのは苦手中の苦手だ。
この妻のおかげで多少は話をすることに慣れてきたし、妻が相手なら多少はまともな話ができるようにもなってきたが、だからといって今日一日何をしていたのか話せと言うのは頼久にとってはかなり難しい任務だ。
賊を100人斬ってこいといわれるより難しい。
「頼久さん?無理ならいいですよ?」
心配そうに覗き込む妻の顔。
あかねはもとより頼久が話をすることを苦手としていることを知っているから、自分が恥ずかしさに任せてとんでもなく迷惑なお願いを下のではないかと心配になったらしい。
だが、頼久はというとそれどころではなく、目を見開いて妻の顔をまじまじと見つめていた。
少し髪がのびて大人びてきたのにその顔にはまだまだ幼さも残っているあかねの顔はとても美しくて愛らしくて、その顔にうっとりと見惚れて、それから頼久は表情をきりりと引き締めた。
「いえ、神子殿のお望みとあればこれしきのこと。」
そう前置きして居住まいをただし、頼久は大きく息を吸い込んだ。
「本日は神子殿にお見送りいただき、左大臣様の警護につきました。」
「……。」
「……。」
沈黙。
「……。」
「……。」
いくら待っても沈黙。
これはひょっとして終わり?
と、あかねが頼久を見つめてみると、どうやらこれではまずいのかと疑っているらしい頼久が心細げな顔で自分を見つめている。
これは間違いなく、今ので終わりだ…
「えっと……今日は左大臣さんの警護しかしてないってことですか?」
「他にも些事はありましたが…。」
「さじ?」
「どうということのない細かい仕事です。」
「……それはどんな…。」
「他の任務についている者の報告を聞いたり、後輩の指導をしましたが、ご報告するほどのことでは…。」
「ご、ご報告って…。」
「した方が宜しかったでしょうか?」
「はぁ…。」
あかねは深い溜め息をついてがっくりとうなだれた。
どうしてこの人は、夫婦の楽しい会話の最中にご報告をしてしまうのだろう。
「頼久さん、私は別にもう頼久さんの主じゃないですしね、戦果を報告しろ!とか言ってるわけじゃないんです。」
「承知しております…。」
「今日楽しかったこととか、怒ったこととか、なんていうかそういう何気ないことを楽しくお話ししたいって言うだけのことなんですけど…。」
「はい…。」
「まぁ、頼久さん苦手ですもんね、そういうの。」
「申し訳ありません…。」
「じゃぁ、こうしましょう!」
「は?」
「私が質問しますから答えてください!」
「はぁ…。」
「今日、一番大変だったことってなんですか?」
優しく妻に問われて頼久は一日の記憶をたどる。
大変だと思うようなことは何一つなかったが、そう答えてはきっとこの妻をまたがっかりさせてしまうだろう。
頼久は必死に考えて慎重に口を開いた。
「苦慮したのは左大臣様を無事に内裏へお送りし、無事にお屋敷までお届けすることでしたが、本日は賊も出ず、滞りなく。」
賊の10や50に襲われておいたほうが良かったのだがと頼久は思わず考えてしまった。
そうすれば妻に大変だったこととやらを力説できたのだが…
ところがこの返答では不満ではと思っていた妻はというと、何やら満足げにうなずいていた。
「よかったです。危ないことがなくて。」
「はい。」
心優しい妻の言葉に癒されて頼久もその顔に笑みを浮かべる。
「じゃぁ、今日一番楽しかったことはなんですか?」
「楽しかったこと、ですか…。」
仕事は嫌いではない、が、楽しくはない。
武士溜まりで仲間達と鍛錬を続けるのも嫌いではない、だが、楽しいというほどのものでもない。
では何が楽しかったかと言われれば…
「今、ここでこうしていることでしょうか…。」
「はい?」
「神子殿とこうしてここに在るこの一時が一番楽しいかと。」
「はぅっ。」
本当に楽しそうにニコニコと微笑む頼久の顔を見てしまってはもう何もいえなくて、あかねはまた真っ赤になってうつむいた。
しばらくそうして楽しそうな夫に見守られることしばし、あかねは深呼吸をして立ち直ると再び口を開いた。
「じゃぁ、頼久さんが今日一番幸せだなって思ったのはどんなときでしたか?」
妻の問いに答えようと頼久の脳は再びフル回転した。
幸せだと思ったとき。
左大臣を無事に屋敷に送り届けた時は幸せというよりは安堵が先にたった。
仲間達と過ごしている間は幸せというよりは義務感が先に立つ。
屋敷から武士溜まりへ向かう間は妻としばしわかれなくてはならないことのつらさにうなだれている。
では、この屋敷へ帰ってくる間かと言われると、それは妻に会いたい一心でどこか焦っているような気がした。
となると、自分が一番幸せだと思った時は…
「今こうして神子殿の傍らにあることでしょうか。」
「へ?」
「神子殿のお側近くに在る時が最も幸福かと。」
「はぅっ。」
「ああ、そういえば…。」
「ほ、他に幸せだなって思うことありました?」
「はい、朝、神子殿が安らかに眠っておいでの寝顔を拝見するときもこの上なく幸福です。」
「はぅぅっ。」
あかねはそれこそ本当に首から上を真っ赤にしてうつむいた。
だが、頼久はというと心の底から幸せそうに微笑んでいる。
そんな夫の顔を見てしまってはもう恥ずかしいから言わないでくれということさえできなくて…
あかねは自分の肩に優しく回された夫の腕にさからうことなく抱き寄せられたまま、夕餉の支度が整うまで夫に抱きしめられてしまうのだった。
管理人のひとりごと
久々の京版です♪
頼久さん、おしゃべりが苦手なので報告しちゃってます(’’)
あかねちゃんはお年頃なのでおしゃべり大好きですから、頼久さんも大変です。
もちろんあかねちゃんは黙って二人で並んでるのも嫌いじゃないんですけどね(^^)
だいぶ夫婦らしくなってきたようなそうでもないような二人ですが(’’)
そのうちきっともっと自然に仲良く…たぶん…なります、よね(’’?←聞くな
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