梅花の香を焚き染めた十二単よし。
朝から腕によりをかけて作った食事よし。
お酒の準備よし。
髪の乱れのチェックよし。
紙燭の準備よし。
下がっている御簾の向こうには綺麗な月が既に姿を見せている。
これで雰囲気もバッチリ。
あかねは心の中でこれまでの準備の全てにチェックを入れて、一人「よし!」と小さくつぶやいていた。
外は風もなく、満点の星の真ん中に月が綺麗に輝いていて穏やかだ。
秋の夜にしては気温もさほど下がってはいない。
こんなふうにこの夜が穏やかにやってきたのも、その誕生を祝われる彼の人の普段の行いがいいからだと、あかねは一人微笑んでいた。
そう、本日は頼久の誕生日前夜。
祝われる当の本人頼久はまだ仕事から帰っていない。
明日から三日は藤姫のはからいで頼久は休みになる。
これはあかねが頼久の誕生日を祝いたいという希望から毎年恒例となっている行事なのだが…
すっかりその腕前も胆力も全ての評価が高くなってしまった頼久は仕事も忙しい。
つまり、三日の休みをとるためには先に片付けておかねばならない仕事も多く、連休前の帰宅は遅くなるのが常だった。
あかねはその、頼久の帰りを待つ時間を利用して、お祝いの準備を整えていたというわけだ。
御簾の向こうに見える冴えた月を見上げながら愛しい人を待つ時間は決して嫌なものではない。
嫌なものではないけれど…
それが長くなれば少しずつ胸の底に湧いてくる不安が気になり始める。
無理に仕事をして疲れて倒れてはいないだろうか?
もしや、三日の休みを取るために徹夜の仕事になっているのでは?
などなど…
あかねの胸の内に去来する心配は多々あれど、帰り道、強盗に襲われたりしているのでは?などという心配は欠片もない。
強盗相手に後れをとったりする人ではないことは、あかねが一番良く知っているからだ。
同じように、自分の体のことには気を配らないことも良く知っているから、あかねの心配は過労の方向へばかり向くのだった。
そしてそんなあかねの心配が最高潮に達した頃、その足音は聞こえてきた。
しっかりとしたけれど決して乱暴ではない、少し急いでいるような足音。
それは間違いない、あかねが帰りを待ち望んでいたその人の足音だった。
「頼久、ただいま戻りました。遅くなりまして申し訳ありません。」
御簾の向こうで感じた気配の次にあかねの耳に届いたのは頼久の低くて柔らかな良く響く声だった。
「どうぞ、入って下さい。」
「失礼致します。」
八葉だった頃と変わらない律義さにあかねがクスッと笑みを漏らしていると、頼久はそっと御簾を上げて中へと入ってきた。
帰って来てすぐここへ直行したとすぐにわかる頼久は朝外出した時と変わらぬ様子で、その左手には腰から抜いた太刀が握られていた。
「お帰りなさい、頼久さん。」
「……。」
「お仕事だったみたいですね?」
「……。」
「えっと…頼久さん?」
「はっ!」
どうやら反射で返事をしたらしい頼久はあかねの前に片膝をついて座ろうとした姿勢のまま凍り付いていた。
驚いていることがまるわかり。
そんな様子がとても頼久らしくて、あかねはにっこり微笑んだ。
「ちょっと早いんですけど、お誕生日おめでとうございます。」
「はぁ、有り難うございます……ですが、その、誕生日、は明日では?」
「明日だと準備しているのが頼久さんにわかっちゃうから…その…今日のうちにみんな準備してみました。あ、座ってください。楽にしてくださいね。ご飯もすぐ持ってきてくれることになってますから。」
「はい。」
あかねに視線は釘付けのまま、頼久はそっとその場に腰を落ち着かせると太刀を脇に置いて更にまじまじとあかねを見つめた。
「あ、あの……そんなにみられると……変、ですか?」
「は?」
「頼久さんずっと見てるから、どこか変なのかと…。」
「違います!その…とてもお美しく…つい見惚れて……。」
「あ、有り難うございます…。」
二人でたどたどしく会話して二人で顔を赤くしていると、そこへちょうど食事が運ばれてきた。
いつもはあかねが贅沢を好まないので質素で普通の食事だが、今日ばかりは運ばれてきた善は三つ。
その全てにこれでもかというほど料理が載っていた。
「これはまた…。」
「あ、先に着替えてきた方が…。」
「いえ、せっかくの心づくしです、このまま先に。」
「じゃあ、多かったら残してくださいね。あれもこれもってよくばっちゃったので…。」
「あかねが作って下さったのですか?」
「あ、はい、でも、おいしくなかったらちゃんと残してくださいね。」
「頂きます。」
残してくださいね、には返事をせずに、頼久は箸を手に取った。
頼久のことでは当然のごとく、あかねの手料理をどんな味であったとしても残すなどという選択肢は用意されていない。
そもそもあかねの料理した物が口に合わなかったためしもないのだが…
あかねが少しばかり心配そうに、けれど幸せな笑みを浮かべて見守る中、頼久はパクパクと次々に料理を口へと運んだ。
一つ一つの料理に感想を述べないのはまずいからではなく、言葉の苦手な頼久は全てについておいしいという感想になってしまうからだ。
そうとわかっているあかねも、特に感想を聞くようなことはしない。
ただ、箸が動く速度を見ていれば、どれほど頼久がおいしく料理を食べてくれているかはすぐにわかった。
「ごちそうさまでした。」
「おそまつさまでした。」
ほぼ何の会話も交わすことなく食事が終わったのは、それだけ料理がおいしかったという証拠。
頼久がおいしく全ての料理を綺麗に食べてくれたことが嬉しくてあかねがニコニコと微笑んでいると、その前で頼久は姿勢をただし、深々と頭を下げた。
「頼久さん?!」
「どれも全ておいしく頂きました。有り難うございました。」
「そ、そんなに恐縮しないでください…本当にただお料理しただけですから。」
下げていた頭を上げた頼久の顔に幸せな笑みを見て、あかねは顔を真っ赤にしてうつむいた。
ちょっと手料理を振る舞っただけでこんなふうに喜んでくれるのは、この京では身分の高い女性は決して料理などしないからだとわかってはいる。
わかってはいても、やはり感動されれば嬉しいのが人情というものだ。
しかも頼久は、器用にお世辞など言えるタイプではないとあかねはよくわかっている。
つまり、目の前で幸せそうに喜んでいる頼久は本当に本気で心から喜んでいるのだ。
「これまで、生まれてきてよかったと思ったことはあまりなかったのですが、今は生まれてきてよかったと、心から思います。」
「頼久さん…。」
「友雅殿がわざわざ武士溜まりまでおいでになって、今日は私が心から喜ぶ贈り物が贈られるだろうなどとおっしゃっていたのですが…。」
「友雅さんが……。」
「はい。本当にこのようにして頂けるとは、この頼久、感極まっております。」
「え?」
「は?」
「えっと……その……友雅さんが言ったのはたぶんこの料理のことじゃないと思います…。」
「そう、なのですか?」
「はい。その……私、今年は頼久さんに誕生日の贈り物、何を贈ろうかって悩んでいたんですけど…。」
そう、それは秋のはじめのこと。
あかねはそのことばかりを悩んでずいぶんと頼久に心配をかけたのだ。
そして元気づけようと頼久があかねに会わせた元八葉。
その中の一人、友雅があかねの悩みを解決していた。
今日のあかねの行動は友雅の助言によるものなのだ。
「そのようなこともありました…。」
「それで、友雅さんにその悩みは解決してもらったんです。」
「そのようなこともありました…。」
同じことを二度言った頼久だったが、一度目よりは二度目の方がよりとげとげとした物言いだ。
もちろん、友雅の様子を思い出せば平静でいられないのがモテる妻を持った夫としては当然の反応だろう。
当のあかねはというと、頼久の様子に苦笑してから、すすっと頼久の隣へとその身を移した。
「あのですね。」
「はい。」
「友雅さんが言うには頼久さんが欲しいものは……その……私だけじゃないかって……。」
「確かに。」
首まで赤くなって話すあかねにあっさりと肯定を示して、頼久は小首を傾げた。
まるでそんな当たり前のことをどうして今更言うのだと言わんばかりだ。
「そそそ、それで、その、私をもらってください、だけじゃ芸がないかな、と思って…それでお料理とかして見たんです。」
「そうでしたか……は?」
料理のくだりを先に理解して納得した頼久は、改めて話の前半を思い起こして固まった。
私をもらってくださいだけじゃ、と言ったのか?
と一度心の中で反復してみても、どうにも聞き違いのような気がして、頼久はあかねの赤い顔を覗き込んだ。
「お、お嫁さんにもらってもらってるので、その、今更もらってくださいもないんですけど…これからお休みの間はずーっと頼久さんの言うこと、なんでも聞きますから!」
「は?」
「だから、私、頼久さんの言うことなんでも聞きますから、なんでもわがまま言って下さい。私は頼久さんのものっていうつもりなんですけど…。」
「なんでも、ですか?」
「はい!なんでもです!」
顔を赤くしながらも張り切るあかねの脳裏に描かれているのは…
たとえば頼久の肩たたきをする自分。
たとえば頼久のために琴を奏でる自分。
たとえば頼久に膝枕をする自分。
などなど…
だが、頼久は深く考え込んでなかなか何をしてほしいのかは言ってくれない。
あかねが何もないのかと問いかけようとしたその刹那、頼久は小さく一つうなずいた。
「なるほど、友雅殿のおっしゃるとおりでした。あかねを頂けるとは。」
「へ…。」
「では失礼して。」
「はい?」
あかねが目を白黒させているうちにその小さな体はふわりと宙に浮いた。
もとい、その体は頼久によって抱き上げられていた。
あかねを抱き上げて立ち上がった頼久はといえば、そのままスタスタと歩き出す。
あかねは間近に見える頼久の幸せそうな微笑を浮かべた端整な横顔をじっと見つめた。
「あの…頼久さん?」
「なんでも、と、おっしゃいましたので。」
「言いましたけど…その、どこへ向かってるんですか?」
「湯殿です。」
「へ…。」
「なんでも、とおっしゃいましたので、これより三日間は片時も離れず、お側にお仕えさせて頂きます。」
「いえ…お仕えって……えっ、湯殿もですか?」
「はい。」
にっこり。
満面の笑みで共に風呂に入れと暗に言われている。
そうとわかってもあかねには断ることなどできなくて、顔を真っ赤にしてうつむくばかりだ。
「お嫌なら…。」
「嫌じゃないです!は、恥ずかしいだけで…でも、頼久さんがそうしたいならいいです。お誕生日、だし…。」
再び首まで赤くなるあかねにフッと笑みを漏らして、頼久は歩みを早めた。
「お背中をお流しします。」
「逆ですから!私が流しますから!」
相変わらず予想外のことを言い放つ頼久に慌てながらも、あかねの顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。
それは、すぐそこにある愛しい人の顔もまた幸せそうに微笑んでいたから。
楽しげな声をあげるあかねと、そのあかねを大切そうに抱える頼久。
二人が湯殿へと消えて行くのを月明かりが優しく照らしていた。