水も滴る
 あかねが鍵を開けて中へ入ると、背後で急に雨の音がし始めた。

 リビングへ入って窓から外を眺めてみればかなり雨足は強いようで、地面にぶつかってははねる雨粒が見て取れた。

「うわぁ、凄い。」

 思わず一人でそうつぶやいて、しばらく窓から外を眺めていたあかねは「はぁ」と小さく溜め息をついた。

 ここは勝手知ったる頼久の家。

 夏休み前のテストラッシュが一段落して、たまたま時間のあいた週末を頼久と過ごそうとやってきたのだけれど、どうやら家の主は留守のようで、あかねは持っている合鍵で中へ入ったのだった。

 当然のことながら住人が一人しかいない家の中は主のいない今、しんと静まり返っていて少し寂しい。

 それならここへ来ることをちゃんと電話かメールで知らせておけばよかったのだけれど、家にこもりがちな頼久がまさかいないとも思わなかったから連絡をせずにきてしまった。

 ちょっとだけ驚く頼久を見たかったというのもある。

 結果、あかねは一人でこの家にたたずむことになってしまったのだけれど…

 この家の庭にはあかねが好きだというだけで色々な花が植えられているから、それを眺めているのも悪くない。

 今なら雨に煙る紫陽花もとても綺麗なのだけれど、それも一人で見るとなんだか味気ない。

 この家の中はどこを見ても大好きな人の気配でいっぱいで、それがいっそうあかねに寂しさを感じさせた。

「あー、もう、ダメダメ。」

 一人でそんなふうに声を出して、あかねは脱衣所へ入ると棚から大きなタオルを取り出した。

 そして次に台所でお湯を沸かす。

 どこかへ出かけたのなら、頼久が雨に濡れて帰って来ることもあるかもしれない。

 だいたい、あかねがこの家に入るまでは雨なんて降りそうもなかったのだ。

 あかねがこの家に傘を持たずにやってきたように、頼久も傘を持たずに出かけたということも考えられる。

 だとしたら、自分の仕事はただ一つ。

 頼久が濡れて帰ってきても大丈夫なように準備をしておくこと。

 そう考えて、あかねは風呂にも湯を溜めた。

 これで芯まで冷えて帰ってきても大丈夫。

 そう思ってあかねが一つうなずいて、ヤカンにお湯が沸いたのでガスを止めたところで、玄関でカチャリと音がした。

 それは明らかにこの家の主が帰ってきたことを知らせる音だ。

 あかねはその顔に嬉しそうな笑みを浮かべると、パタパタと玄関へ駆け込んだ。

「頼久さん!お帰りなさい!」

「神子、殿?」

 玄関へ飛び出したあかねを認めて、頼久の体が固まった。

 その顔は驚きで目が見開かれている。

 しかも、あかねの予想は決して外れていなかったようで、カバンを手に提げている頼久は全身ずぶ濡れだ。

 長い髪からは雫が滴っている。

「頼久さん!早く入って拭いてください!」

「神子殿なのですか?」

「はい?」

「いえ、とうとう私は幻を見たのかと…。」

「幻じゃないですよ。テストが一段落してちょっと時間ができたから、今日は頼久さんと一緒に過ごしたいなぁと思って…驚かせようと思って突然きちゃったんですけど…。」

「申し訳ありません、お待たせしてしまい…。」

「あああ、謝らないで下さい。私が突然来たのが悪いんだしって、そんなことより、ほら、頼久さん、早く入ってください。頭とか拭かないと。」

「はい。」

 あかねは頼久からカバンを取り上げるとスタスタとリビングへ戻ってそのカバンをテーブルの上に置き、用意しておいた大きなタオルを頼久に渡した。

「有難うございます。」

「あー、でも、全身ずぶ濡れですねぇ。これはもうお風呂入った方がいいかなぁ。」

 あかねが頼久の顔をのぞきこみながらそう言うと、頼久は幸せそうな笑みを浮かべた。

「では、風呂の湯を…。」

「それはもう溜めてありますから大丈夫です。すぐ入っちゃってください。ちょっともったいないですけど、風邪ひいたら大変。」

「もったいない、ですか?」

「あ、えっと…その……頼久さんはその…濡れると水も滴るいい男になるんだなぁと思ったから……。」

 真っ赤な顔でそんなふうに言われて、頼久の顔の笑みが深くなる。

 あかねと二人、こうして思いもかけず同じ時を過ごせるだけでも幸せだというのに、その上こんなふうに嬉しい言葉を贈られて頼久にとっては至福の瞬間だ。

「有難うございます。ではしばしこのまま……。」

「だ、ダメですっ!もう、ほら、お風呂入ってきてください!」

「ですが…。」

「お風呂上りの頼久さんもきっとステキですから、ね。」

 そう言って頬が赤いままの顔で見上げられて、頼久は頭を拭いていたタオルをあかねに手渡した。

「承知しました、では、失礼して。」

 そう言って頼久がさっと浴室へ消えるのを見送って、あかねは台所へ向かった。

 だいぶ頼久の操縦方法を心得てきたあかねだ。

 天真辺りがこの場に居合わせたらそのことを指摘しただろうが、残念ながらここにはその天真がいないのであかねはそんな自分に気付くことなく、台所で紅茶をいれ始めた。

 部屋の中は暑いくらいだからアイスティでもいいのだけれど、やっぱり雨に濡れて帰ってきた人にはホットの方がいいだろうと熱いお湯をティーポットに注いだ。

 あっという間に部屋中に心地いい紅茶の香りが広がる。

 あかねはティセットをリビングのテーブルへ並べて一人満足そうにうなずいた。

 なんだかこんなことをしていると奥さんみたい?

 一人で胸の中でそんなことを思って顔を赤くしていると、頼久が浴室から脱衣所へと出てくる音がした。

 出てくるのがずいぶんと早いけどちゃんとあったまってくれたのかな?

 とあかねは小首を傾げて、それからある事実に気付いて慌てた。

 そういえば、濡れた頼久を風呂へ入れることに必死だったあかねは頼久に着替えを持たせなかった。

 つまり、今頼久は脱衣所で着る服がなくて慌てているはずで…

「ど、どうしよう…。」

 濡れた服をもう一度着て出てくるはずはないし、頼久に限って全裸であかねの前を歩くわけもない。

 ということは、自分が着替えを持っていくしかない?

 そんな結論に行き着いてあかねは顔を真っ赤に染めた。

 この家の中の家具の配置は全て心得ているから、頼久の着替えを用意することはなんら問題ないのだけれど…

 普段から気を使ってくれているのか頼久はあかねに自分の下着を洗濯させたり乾いたそれをたたませたりということはこれまで一度もなく…

「し、下着は無理!」

 真っ赤な顔であかねがそんなことをつぶやきながら右往左往していると、カタリと脱衣所の扉が開いた。

 まさか脱衣所に着替えがそもそも用意してあったのかと小首を傾げながらあかねがそちらへ視線を向けると、そこにはバスタオル一枚の頼久が立っていた。

 それは腰から下にバスタオルを巻いている状態で、頼久が男性である以上特に問題のない格好ではあったのだが、あかねにはそれでも十分に衝撃的な光景だ。

「よ、頼久さんっ!」

「はい?」

「服着てください!」

 顔を真っ赤にして視線をそらすあかね。

 頼久は髪から滴る雫を小さなタオルで拭いながら自分の様を確認して苦笑して、すぐに寝室へのドアを開けた。

「すぐに着替えてまいりますので。」

「そ、そうしてください!」

 あかねは真っ赤な顔のままそう叫んでキッチンへ駆け込んだ。

 プールに行けば天真の上半身を見るわけだし、京にいた頃は傷を負った頼久の上半身を見てもいるのだけれど…

 天真は友達だし、京にいた頃は色々と事情が違っていた。

 でも、今、この状況で綺麗に均整の取れた頼久の裸の上半身はかなり見慣れないもののような気がして、あかねはどうしても直視できなかった。

 それは恋人として「男の人」を意識したからかもしれない。

 あかねは深い溜め息をついて、少しだけこんなことで動揺してしまう自分にうんざりして、とぼとぼとリビングへ戻るとソファへ座った。

 いつも自分は子供だなと思ってうんざりするけれど、こんなふうにちょっとしたことで右往左往してしまう自分は本当に子供だと思う。

 きっと頼久さんもあきれたはず。

 そう思えば溜め息は尽きない。

 すると、あかねがすっかり落ち込んだところへ頼久が戻ってきた。

 紅茶でも飲みながらちゃんと話をしようとティーポットへ手をのばしかけたあかねは、戻ってきた頼久のかっこうを見て硬直した。

「神子殿?」

「……頼久さん……なんで上半身裸なんですか?」

 頭の中が白くなりそうになりながらやっとあかねがそう尋ねると、頼久はキョトンとした顔であかねを正面から見つめた。

「髪が乾くまでは雫が落ちますので…問題がありましたか?」

 問題があるかといわれれば、確かに頼久はジーンズを身に着けてきてくれたわけで問題はない。

 ないのだけれど、濡れた髪をタオルで拭きながら上半身裸の頼久はかなり艶っぽくて、あかねは頭の中がショートしそうだ。

「問題は……たぶん、ないんですけど……なんていうか……その……。」

 首まで真っ赤になりながら上半身をフラフラさせ始めたあかねに驚いて、頼久はあかねの隣に座るとその顔をじっとのぞきこんだ。

「神子殿?大丈夫ですか?どこかお具合でも…。」

「ぐ、具合は悪くないんです、悪くないんですけどなんていうか……その…頼久さんがそういうかっこうしていると緊張するというか…目のやり場に困るというか…。」

 再びキョトンとした頼久は数秒後に何かに納得したように苦笑して立ち上がった。

 やっといつもとは違う様子の頼久が離れてくれたのであかねが安堵の溜め息をついて視線を外す。

「ドライヤーで乾かしてまいります。」

「はい?」

「それから上も何かはおりますので少々お待ちを。」

 苦笑しながらそう言って頼久は寝室へ消えた頼久はすぐに上着を手に寝室を出ると、今度は脱衣所へと駆け込んだ。

 脱衣所の向こうでドライヤーの音がして、しばらくすると髪が生乾きの頼久がちゃんとシャツを着て出てきた。

 ただ呆然とそれを待っているしかなかったあかねは、いつもと同じ姿になった頼久にほっと安堵の溜め息をついて、それから悲しそうにうつむいた。

「神子殿?まだ何か問題がありましたか?」

 心配そうにそう尋ねながら頼久があかねの隣に改めて座ると、あかねはふるふると首を横に振った。

「ごめんなさい。なんか私のせいでバタバタさせちゃって…。」

「いえ、気がつかぬ私がいけませんでした。」

「あきれちゃいますよね…。」

「何が、でしょうか?」

「上半身裸なんて男の人なら普通なのに、そんなことでこんなに慌てたり、私ってやっぱり子供だなぁって。」

「そうは思いませんでしたが…。」

「そうですか?あきれませんでした?」

「はい、どちらかといえば嬉しかったのですが…。」

「はい?どうしてですか?」

「神子殿が私を男だと思ってくださっているということですから。」

 そう言ってにっこり笑う頼久を間近で見て、あかねは急激に顔を赤くした。

 それは確かに頼久の言うとおりで、頼久を男と意識したからこそ右往左往していたのだが、改めてそれを指摘されるとこれがまた照れくさい。

 顔を真っ赤にしてあわあわしているあかねにクスッと笑みを漏らすと、頼久はテーブルの上にあったティーポットからティーカップへ紅茶を注いだ。

「あ、ご、ごめんなさい、やらせちゃって…。」

「いえ、ご用意頂いただけでも有り難く。」

 二人分の紅茶を手際よくいれた頼久は一つをあかねに手渡して、自分のティーカップへ口をつけた。

 ふわりと薫る紅茶の香りはとても心地良くて、飲み込んだ紅茶は雨に打たれた体にしみた。

「もう、寒くないですか?」

「はい、神子殿が色々と準備しておいて下さったおかげで風邪もひかずにすみそうです。それに…。」

「それに?」

「夏休みまではもうあまりお会いできないと思っておりましたので、このように思いがけずお顔を拝見できただけでも胸の内は温かくなりました。」

「……。」

 頼久の言葉を聞いたあかねはまた悲しげにうつむいてしまった。

 これは自分が何事かまたあかねの気に障ることを言ってしまったのかと頼久が慌てれば、あかねの口からは小さな溜め息が漏れた。

「ごめんなさい…。」

「謝らないで下さい。いつでもお側にいられるというのも良いものですが、なかなか会えなかった時間の後にこうして思いがけずお会いできることも幸せですので。」

 どこか浮かれているような頼久の声に驚いてあかねが振り返ろうとしたその時、あかねの小さな体はすっぽりと頼久に抱きしめられていた。

 まだボディソープの香りがする頼久の体はなんだかホカホカとしていて、あかねは顔を赤くしながらも抵抗することなく頼久によりかかった。

 久々に会えたという思いはあかねも同じ。

 こうして甘えられたらと思ってここへ来たのだ。

 あかねが黙って甘えていると頼久はあかねの髪を優しくなでてくれた。

「京には京のよい所がありました。ですが、こちらの世界にも良いところはたくさんあります。」

「たとえば?」

「そうですね、ドライヤーがあればすぐに髪が乾きます。」

 冗談めかした頼久の言葉にあかねはクスッと笑みを漏らして腕の中から頼久の顔を見上げた。

 自分を見上げるあかねの笑顔はいつもの輝くあの笑顔に戻っていて、頼久も自然と口元をほころばせる。

「紅茶もおいしいですし、多少離れていても車を使えばすぐに神子殿にお会いすることができます。京で神子殿のお側にて警護をさせて頂く時間も私にとっては至福の時ではございましたが、あの頃は神子殿はあまりに遠くにおいででした。」

「頼久さんはずっと従者!っていう姿勢崩してくれないんですもん。」

「それが京にあった頃の私ですから。こちらの世界ではこのように神子殿に触れることもできます。」

 そういった頼久の顔はあっという間にあかねの方へと近づいて…

 少しだけ紅茶で温められた唇であかねの唇をふさいだ。

 紅茶の香りのするキスを贈られた後であかねが目を開ければ、そこにはまだ髪が乾ききっていない頼久の顔があった。

「神子殿?」

「こっちの世界じゃないと頼久さんのこんなステキなかっこうも見られないし、うん、こっちの世界にもいいことはいっぱいありますね。」

 そう言ってにっこり微笑むあかねをまた腕の中に閉じ込めて、頼久は掠れた声で「はい」とだけ返事をした。

 あかねがこうして自分をステキだと褒めてくれて、その小さな体が腕の中にある。

 今はそれだけで頼久にとっては言葉にできないほどの幸せだ。

 この後、また受験生に戻るあかねとはしばらく会えない日が続くかもしれないけれど、その先にまた新しい日々が待っていると思えば会えない日もそうつらいものではないかもしれない。

 あかねを思う存分抱きしめて、頼久はうっとりとそう考えていた。








管理人のひとりごと

突発的梅雨企画、遙か1現代バージョンでございます♪
これで梅雨企画がやっと終了(っдT)
水も滴るいい男、そりゃもう頼久さんは絶対そうなりますよ。
コミックでもありましたね、頭から水かぶってるシーンが、管理人は舞い上がりましたね(’’)
雨の中に立つ頼久さんもかっこいいだろうなぁと思いましたが、どうやったら雨の中に立ち尽くすことになるのよというところでつまずきました(TT)
絵描きさんで誰か書いてくれないかな、雨の中に立ち尽くす頼久さん(マテ







ブラウザを閉じてお戻りください