
夜気の中、左から感じた殺気に反応して頼久は右へ振り下ろしたばかりの太刀を左へと返した。
そのまま殺気を裂くように上へと刃を振り上げれば、確かな手ごたえと共に呻き声が聞こえ、次に敵が数歩後ろへ下がる足音が聞こえた。
すかさず左へ踏み込んで刃を返し、ひるんだ敵へと峰打ちを入れた。
手ごたえと共に呻き声と敵が崩れる音。
次の瞬間には殺気の消えた静寂が頼久の全身を包んだ。
月明かりに照らされた敵の姿がピクリとも動かないことを確認してから、ふっと詰めていた息を吐いて、頼久は改めて辺りの気配を探った。
耳に届くのはかなり離れた場所で叫んでいる部下の声だけだ。
辺りにはもう殺気もない。
叫んでいる部下達はその言葉の内容から察するに事後処理をしているに違いない。
どうやら頼久の足元に倒れているのが最後の賊だったようだ。
抜き身の太刀を手にしたまま、頼久の脳裏をよぎったのは一人の若い武士だった。
目の前に倒れている賊の刃を受けて負傷し、頼久の判断ですぐに後方へ下げた。
急所を突かれた感じではなかったから、おそらく死ぬようなことはないだろうが、本日が初任務というまだ幼さの残る武士だっただけに頼久の胸には一抹の心配が残っていた。
自分の初陣を思ってみても、初陣で傷を負ったとなれば相当な恐怖だっただろう。
そう思いを馳せて、そして頼久は頭上を見上げた。
そこには望月よりも少しだけ欠けた大きな月。
その月を眺めながら頼久は以前の自分ならきっと、負傷した若者のことをここまで心配したりはしなかっただろうと己を振り返った。
もちろん、傷の具合を案じるくらいはしただろう。
大事な部下の身のことだ。
だが、その胸の内までこんなに細やかに案じるようになったのは、月を見ればその明るさに思い出す、大切な妻の影響に違いない。
「若棟梁。」
声をかけてきたのは頼久よりも年上の古参の武士だった。
月明かりに浮かび上がるその顔に緊張感がないことから、頼久は賊を討ちはたし、味方に死者がいないことを悟った。
「済んだか?」
「はい、負傷者が三名ほど出ましたが、どれも軽傷です。」
「今日が初任務の者がいたであろう?怯えてはいなかったか?」
「ああ、はい、怯えるも何も、傷を受けたことを恥じてはおりますが。」
「そうか、それは良かった。」
頼久がそう言って一つうなずくと、古参の武士はじっと頼久の表情をうかがうように見つめているのに気が付いた。
「私が新入りの心持を案ずるのがそんなに珍しいか?」
「は?ああいえ、そういうことでは。若棟梁は昔から我らの心持をよく心配して下さっていますから。」
「そう、だったか?」
「はい、まだお若い頃からそれはもう。」
思わぬ返事に一瞬きょとんとした頼久は、気を取り直すために軽く一つ咳払いをした。
「いえ、私が若棟梁のお顔を見ていたのはなるほどと感心していたからで。」
「感心?」
「あの若い新入り、敵に後れを取ったと恥じ入った後で、自分を助けに入って賊を追って行った若棟梁がどれほど凛々しく頼もしかったかを熱弁しておりましたので、今のお顔を拝見して、なるほどと。」
「………。」
「以前より腕はお立ちになりましたが、最近は本当に貫禄がお出になりました。」
「そんなことはないと思うが…。」
「そのようなことを意識しなくなったところが貫禄と申しますか、余裕、なのかもしれませんな。若棟梁はそれを身につけられたのでしょう。棟梁も鼻が高いことでしょう。」
勝手にそんなことを言って強くうなずく古参の武士に頼久は思わず苦笑を浮かべた。
「自分ではわからんものだが、もし本当に余裕が出てきたのなら、それは我が妻のおかげであろう。」
「なるほど、神子様、なるほど…。」
何がなるほどなのか勝手に納得している部下を連れて、頼久は歩き出した。
数歩も歩かぬうちに血のにじんだ腕を押さえながら駆けてくる若い武士に熱烈歓迎されて辟易したが、その背後に立つ汗まみれの部下達の顔にも笑みが浮かんでいるのを見れば、頼久の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
月明かりを頼りに夜道を歩き、頼久がようやく愛しの妻が眠っているはずの屋敷へ戻ったのはもう夜明けも近い時刻だった。
だから、静かに寝所へ入った時、起きていた妻に迎えられて驚いた。
妻、あかねは御簾を上げて静かに庭の外を眺めていた。
単を肩から掛けたその背が、頼久が寝所に入った瞬間、振り返り、頼久は満面の笑みで迎えられたのだった。
「お帰りなさい、お疲れ様です。」
「起きておいでだったのですか。」
「はい、なんだか眠れなくて。」
「御心配をおかけしまして…。」
「頼久さんが強いのは私が一番よく知ってますから、頼久さんのことはそんなに心配してないんですけど…。」
「はぁ…では、何を…。」
「武士団のみんなは大丈夫かなって…ああ、みんなが弱いって思ってるわけじゃないんですけど…。」
頼久はあかねの隣へ座って、太刀を側へと置いた。
そうしながらあかねの言葉に思わず笑みを漏らした。
龍神の神子であった頃からずっと、あかねのこの仲間を思いやる心根は変わらない。
「御心配には及びません。怪我人は数人出ましたが、皆、軽傷です。」
「よかった。でも、怪我してる人がいるなら、看病のお手伝いに行こうかな…。」
こういうところも変わらない。
そう思って頼久は苦笑した。
京の女性らしくしようと、いつもは気を使って屋敷でおとなしくしてくれているあかねだが、相手が武士団の仲間となれば話は別だ。
頼久もあかねに自分らしさを失ってほしいわけではないから、部下達のもとを訪れることには口出ししなかった。
部下を信用しているからだが、さすがにこうも無邪気に看病などと言われると胸の隅が痛むのを無視できない自分が情けなかった。
「頼久さん。」
「はい?」
「いやですか?私が武士団へ行くの。」
心配そうに小首を傾げるあかねを見てしまっては、信頼に足る部下にさえ嫉妬している自分が更に情けなくなる。
頼久は小さく深呼吸をして首を横に振った。
「武士団へいらっしゃることは特には。ですが、看病は…。」
「あ、そうですよね、男の人が寝ているところに私が行くのはまずいですよね。」
「まずいと申しますか…。」
私が妬けるのです。
そう頼久が言おうとした刹那、あかねは輝かんばかりの笑みを頼久に向けた。
「でも、バレンタインのお菓子を届けるのはいいですよね?」
「……本日は、如月の十四日でしたか…。」
「はい。」
あかねが育った世界の主な行事は頼久ももう把握している。
バレンタインは二月十四日で、想いを寄せる男性へ女性が甘いものを贈る日だと記憶している。
仕事に追われているうちにもうそんな季節だったかと頼久が愕然としているうちに、あかねはにっこり微笑んで頼久の手に自分の手を重ねていた。
「ハッピーバレンタイン、頼久さん。もちろん頼久さんの分のお菓子もありますけど、今日はもうこんな時間ですし、明日、プレゼントしますね。」
「お気遣い頂き、有り難うございます。」
「今年は武士団のみんなの分も作ったんです。あ、本命じゃないですよ、これは義理チョコって言って…って、チョコじゃないんですけど…。」
「承知しております。先日、お話しいただきました。確か、想いを寄せる者だけではなく、世話になった相手にも恩返しの意味を込めて贈ることがあると。」
「そう!それです!武士団のみんなにはこのお屋敷を守ってもらったりもしてますから、お礼に作ってみたんです。だから、明日それを武士団に届けたいんですけど、それならいいですか?」
「もちろんです、ただし…」
「ただし?」
「私がお供させて頂きます。」
「はい!宜しくお願いします!」
思わず大きな声を出してから慌てて自分の口を押えるしぐさがあまりに愛らしくて、頼久はそっと妻の体を抱き寄せた。
これくらいは許されるはずだ。
明日、部下達が憧れの眼差しを妻へ向けるのを見守ることになるのだから。
きっと自分はその光景を湧き上がる嫉妬を押さえつけて見つめながら、じっと立ち尽くすことになるのだから。
管理人のひとりごと
気付いたらバレンタインだった(゚Д゚|||)
ということで、慌てて一本。
それも出遅れてるけど(ノД`)
去年の夏に我が家に新たにやってきたワンコに散歩の躾をしているうちに毎日が終わっていきます(^_^;)
次はひな祭り!
で、できればですよ(’’;
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