
年が明けてしばらくは行事という行事がつまっていて、あかねの周りはとてもざわついていた。
左大臣が帝と共に行事に出席するものだから、その警護にかりだされる頼久はなかなかあかねの元を訪れることができなかったし、藤姫も何かと忙しくてなかなか会えなかった。
僧籍とはいえ帝の弟である永泉や、もともとが官人の友雅や鷹通、陰陽寮の陰陽師たる泰明の忙しさはいうまでもない。
比較的暇なイノリさえ、市が活気付いてきて、売り物の包丁などを作るのに師匠の手伝いをしなくてはならないと言ってあかねに会いに来る日は減った。
それでもあかねはみんなそれぞれに立場とか生活があるからと我慢していたのだが、行事への参加を一切拒否した身としては暇と寂しさを持て余すことになってしまった。
そんな一月二月が過ぎて三月に入ってすぐ、陽射しもだんだんと暖かくなってあかねがやっと十二単を脱げるようになった頃、ようやく頼久が朝から顔を出した。
「頼久さん!おはようございます!」
「おはようございます。ここ数日ご無沙汰してしまい、申し訳ございません…。」
それこそ瞳をキラキラと輝かせてあかねが嬉しそうに迎えれば、頼久の方は自分が会いに来れなかったことであかねに不安な思いをさせたのではないかと申し訳なくなったらしい。
やってきて早々に苦しげな顔でうつむく許婚に、あかねは驚いて駆け寄った。
「大丈夫です!頼久さんはお仕事だったんだし、ちゃんと時間がある時は会いに来てくれてるじゃないですか。それは、ちょっとは寂しいですけど、でも大丈夫ですから。」
「神子殿…。」
そう、この方は強い女人であられた。
と、龍神の神子として活躍していた頃のあかねの強さを思い起こして、頼久はやっと微笑んだ。
「せっかく久しぶりに会うんですから、こっちでゆっくりお話させて下さい。」
あかねはそういいながら頼久の腕をつかむと、ぐいぐいと引っ張って縁に座らせてしまった。
もちろんすぐ隣に自分も座る。
一段下の階になど座らせるものかと言いたげだ。
許婚となったばかりの頃の頼久はなかなかあかねの隣にさえ座ろうとはしなかったが、さすがに今となっては隣に座ることもなんとか自然にできるようになってきた。
今でも御簾の向こうにあかねと二人きりでいることは苦手だが、それでもあかねが望めば時折二人きりで御簾の内で話をするようにもなった。
友雅辺りにはもうすぐ婚儀を控えている男がなにをしているかと言われるが、頼久にしてみれば大切な人だからこそ、きちんと婚儀が行われるまでは下手な噂が立つようなことを避けたいとも思うのだ。
それでも大切な許婚の機嫌を損ねてしまっては本末転倒なことになるので、あかねが望む時はなるべくその望みをかなえることにしていた。
「神子殿、実は今日は藤姫様より文をお預かりしてきたのですが…。」
「藤姫が私に?」
小首を傾げているあかねに頼久は懐から薄い藤色の紙を取り出して渡した。
実は頼久が今日こうしてあかねのもとを訪ねたのはこの藤姫からの手紙を渡すため、というのが第一目的だったのだ。
もちろんあかねの顔を見たいというのもあったのだが、忙しい合間を縫ってこうしてゆっくりと会うことができるのは藤姫の使いという役目もあったからだ。
あかねは頼久から受け取った藤色の紙をゆっくり丁寧に広げた。
中にはあかねが読みやすいようにと気遣って書かれている可愛らしいが、上品な文字が並んでいた。
「きょくすいえん?」
「それは、曲水宴(ごくすいのえん)、と読みます。」
「曲水宴…。」
あかねに届けられた藤姫からの手紙には、土御門邸でささやかな曲水宴を催すので是非あかねにも参加してほしいという藤姫からの誘いが記されていた。
もちろんあかねにはその宴が何なのかさっぱりわからない。
何よりも龍神の神子が大事な藤姫が誘ってくるのだから、おかしな行事でないことは確かなのだが…
「頼久さん、曲水宴ってなんですか?」
「庭の池に船など浮かべて、管弦の音を楽しみつつ歌を詠んだりなどする宴のことかと。」
「う、歌……。」
あかねは頼久の妻となるべく色々な勉強を必死にこなしているのだが、この歌を詠むということだけはどうしても得意になれなかった。
そうと知っている頼久はその顔に優しい微笑を浮かべて見せた。
「宴自体はそのようなものですが、神子殿が歌をお詠みになるようなことにはならないかと。」
「そうなんですか?」
「藤姫様がそのように取り計らってくださるかと。宴には友雅殿も招待されておいでのようですから、そのような華やかなことはおそらくは友雅殿が主役となられるでしょう。神子殿は御簾の内から外を楽しく眺めて下さればよろしいかと。」
「ん〜、だったら参加してみようかなぁ、せっかくの藤姫からのお誘いだし…。」
「是非に。藤姫様も神子殿のお顔を見たいと仰せでしたので。」
「そうですよねぇ、最近全然藤姫にも会ってないもんなぁ。うん、出席します。返事はお手紙がいいですか?」
「いえ、私が明日、口頭にて。」
「はい。お願いします。」
「しかと、承りました。」
「せっかくだから、友雅さんだけじゃなくて、八葉のみんなが一緒なら楽しいのに。」
「でしたら、藤姫様にそのようにお伝えしておきましょう。八葉全員を招待してみてはいかがかと。」
「あ、それいいですね!お願いします。」
嬉しそうに微笑むあかねの笑顔に見惚れながら、頼久もまた自然と微笑んでいた。
あかねが微笑んでいてくれることが何よりも嬉しい。
その微笑を自分が引き出しているのだと思えばなお嬉しい。
そう実感しながらしばらくはあかねと二人、並んで一時を過ごす頼久だった。
曲水宴当日。
土御門邸には八葉の面々とあかねが集合していた。
あかねと同じことを考えていたらしい藤姫は八葉全員を曲水宴に招待していたのだ。
そして御簾の内側であかねと藤姫は庭を眺めていた。
庭の大きな池には船が浮かべられて、その上に友雅と永泉が乗っている。
友雅は膝に琵琶を置き、永泉は手に笛を持っていた。
まずはこの二人が船の上で一曲披露しようというのだ。
鷹通、泰明、イノリの3人は近くに設けられた席でその様子を眺めていた。
他に客の姿はない。
頼久はというと皆と同じ席に着くことを拒んで、一人庭の片隅で警護がてら立っていた。
「頼久にも酒席につくように言いおいたのですけれど…。」
「頼久さんだから。」
不満げな藤姫にあかねはそう言って苦笑した。
出会ったばかりの頃から見ればそれでもずいぶんと改善されてきたが、それでも頼久が他人よりも一段下がったところに立とうとする姿勢はなかなか変えてもらえない。
生まれてからずっと人に仕える武士として生きてきたのだからしかたのないことなのだが、同じ八葉として命をかけて戦ってきた仲間とくらいもう少しうちとけてもいいとあかねは思っている。
そんなあかねの影響を受けて藤姫も最近は同じように考えるようになってきたのだが、肝心の頼久がそういった考えを受け入れないのだった。
そうこうしているうちに友雅と永泉の演奏が始まった。
いつものようにこの二人が奏でる音楽は雅で美しい。
御簾の内側からでも二人並んで船の上に座る姿が見えて、音楽だけでなく、それを奏でる二人が今日はいつもよりも着ている着物さえ少々豪華で外見も美しい。
身内の主催とはいえ正式な宴の席ということで今日は他の面々もきちんとした正装で参加していた。
ただ一人、鍛冶見習いのイノリだけは普通にこざっぱりしただけの服装だったが。
「やっぱり友雅さんと永泉さんの演奏はいつ聞いても素敵だねぇ。」
「本当に。」
あかねと藤姫は仲良く二人寄り添って庭から流れてくる音楽にうっとりした。
そのまま静かに音楽に耳を傾けることしばし、一曲奏で終わった二人が船から下りると、今度は鷹通と泰明が船に乗り込んだ。
「あれ、あの二人、何か楽器できたっけ?」
「いえ、次は歌を詠むのですわ。」
「う、歌…鷹通さんはともかく泰明さんが歌…。」
「泰明殿も陰陽師として基本の教養は身につけておいでですから、歌の一つや二つ、きっと簡単に詠んでおしまいですわ。今回は池の北側から友雅殿と永泉様が歌の上の句を詠んで流し、それを鷹通殿と泰明殿が受け取って下の句をつけるという形に致しましたの。」
「ふ〜ん、そんなことできるんだ、あの4人。難しそう。」
とつぶやいたあかねの予想した通り、何人かの女房が詠み手として4人が作った歌を声に出して読み上げたが、あかねにはさっぱり意味が理解できなかった。
難しそうな顔でうんうん唸っているあかねに隣で藤姫がいちいち歌の意味を説明するのだが、これがまた意味を言われてもどれもあまりぴんと来ない。
あかねは深い溜め息をついた。
「やっぱり私には全然わからないや。」
「しかたがありませんわ、神子様の世界ではなかった常識でございましょうから。」
「まぁ、歌自体はあったんだけどね…。」
そう言って悲しそうに苦笑するあかねを見て藤姫は何か思案すると、ポンとかわいらしく手を叩いて立ち上がった。
「藤姫?」
「少々お待ち下さいませ、今、神子様にも宴を楽しんで頂けるようにしてまいりますから。」
「へ?十分楽しんでるよ?」
あかねが小首を傾げている間に藤姫はさっさと局を出て行ってしまった。
どうやら藤姫はせっかくの宴を歌のせいであかねが楽しめていないと思ったようだ。
楽しめるようにというのなら、どうせ見知った仲間しかいないのだし、御簾を上げてみんなで楽しく騒いだらいいのにと思わないでもないが、とりあえずあかねはおとなしく藤姫の帰りを待った。
「神子殿。」
「は、はい?」
しばらくして聞こえてきたのは頼久の声だった。
「失礼致します。」
すっかり藤姫が帰ってきたのだとばかり思っていたあかねが裏返った声で返事をすると、頼久には珍しく、あかねの許可を求めずに御簾を上げて中へ入ってきた。
「あれ、珍しいですね、頼久さんが自分から入ってきてくれるなんて。」
「は?藤姫様が神子殿がお待ちなので疾く御簾の内へ入るようにと仰せだったのですが…。」
「はぅ。」
これはもう藤姫はしばらく戻ってこないということにあかねが気付いたのはこの瞬間だった。
10歳の少女はとんでもなく気を利かせて、あかねが今一番一緒にいたい人を送り込んできたのだ。
これなら歌の意味がわからなかろうが、宴自体がつまらなかろうがなんの問題もなくあかねが楽しいだろうと判断したらしい。
「神子殿、何か私に御用だったのでは?」
「いえ、その…別に用があるわけじゃないですけど…。」
「ですが、お召しとうかがいました。」
「えっと、お召しというかなんというか…。」
「何か手違いでもあったのでしょうか?」
「て、手違いじゃないんですけど…。」
「はぁ…。」
全く要領を得ないあかねの説明に頼久が困惑して眉間にシワを寄せ始めた。
あわてたのはあかねだ。
「あのですね、私、歌とか全然わからなくて、それで…。」
「はぁ。」
「音楽を聞いているうちはよかったんですけど歌はもうさっぱりで…その…私が退屈そうにしてるものだから藤姫が…。」
「はぁ。」
「たぶん…頼久さんと二人なら私が楽しいだろうなと気を利かせたんじゃないかと…思うんですけど……。」
「……。」
だんだんと声が小さくなっていくあかねの説明を聞いて、今度は頼久が顔を赤くしてうつむいた。
二人赤くなってうつむくことしばし、先に顔を上げたのはあかねの方だった。
「せっかくみんなで集まったんだし、他にお客さんとかいないみたいだし、御簾を上げてみんなでわいわいやりたいなぁって思ってたところなんですけど、ひょっとして今日はそんなふうにしちゃいけない宴なんですか?」
「いえ、ここには他に客人もないようですし、かまわないとは思いますが…せっかくの藤姫様のお気遣いですので…。」
「へ?」
あかねが不思議そうに小首を傾げている間に、頼久はすっとあかねの側に座るとあかねの体を軽々と抱き上げて自分の膝の上に乗せてしまった。
「ちょっ、よっ。」
「せっかくの藤姫様のお気遣いですので、しばしこのまま。」
「い、いくら御簾の内側だからって…頼久さんがこんなことするの、珍しいですね……。」
普段は手だって握ってくれないのにとあかねが心の中でやはり小首を傾げていると、頭上から深い溜め息が降ってきた。
「頼久さん?」
「…先程、友雅殿にもご忠告を頂きまして…。」
「友雅さんが忠告?頼久さんに?」
あかねはとてつもなく嫌な予感がしてうつむいた。
あの友雅がこの頼久に忠告することなんてろくなことはないような気がする。
「先程、皆と席を共にすることを断ったのですが…。」
「身分が違うから、ですか?」
「それもありますが、何時も警護をおこたるまいとも思いましたので…ですが…。」
「?」
「いつもそのように卑屈なことをしていると妻となる神子殿が恥ずかしい思いをすると友雅殿に…。」
「は、恥ずかしいなんてことないですっ!」
「それに、皆の前ではともかく、二人でいる時まで卑屈でいるとそのうち神子殿に愛想をつかされると…。」
「つかしません!もうっ、友雅さんは変なことばっかり頼久さんに吹き込んで!」
「友雅殿に忠告を頂いたのでこのようにしましたが、お嫌でしたら…。」
「嫌でもありませんっ!」
「はぁ…。」
驚く頼久の顔を見上げてあかねは急に顔を赤くしてうつむいた。
今、自分は何かとても恥ずかしいことを言ったような…
「では、神子殿がお嫌でなければこのまま。」
耳元でそう囁くように言った頼久はあかねの体をぎゅっと抱きしめて腕の中に閉じ込めてしまった。
これも友雅の忠告のせいなら、友雅のおせっかいを許そう。
あかねが真っ赤な顔でそんなことを考えていると、御簾の向こうに気配が近づいて、いち早く気付いた頼久が膝の上からあかねを下ろした。
「あかね〜、お前が閉じこもってたんじゃちっともおもしろくねーよ。頼久の相手ばっかしてねーで出てこいよ。そっちはそのうち毎日べったりできるかもしんねーけど、こっちはそうそう集まれねーんだぜ?」
「ちょっ、イノリ君!」
慌てて立ち上がったあかねは力いっぱい御簾を跳ね上げて向こうに座っているイノリをにらみつけた。
その様子を見て頼久も優しい微笑を浮かべながら立ち上がる。
「あのね!そういう言い方しないの!別に一緒に暮らしたってべったりなんかしないんだから!」
「だそうだよ、頼久。神子殿は婚儀の後もべったりはして下さらないそうだ、残念だったね。」
「と、友雅さん!」
くすくすと笑うイノリと友雅をあかねが赤い顔で睨みつけていると、いつもなら眉間にシワを寄せそうな頼久が余裕の笑顔であかねの隣に立った。
いつもとは様子の違う頼久に一同の視線が集中する。
「その時は友雅殿の忠告に従わさせていただくことにしますので。」
「ほぅ、言うようになったね、頼久。」
余裕の笑顔の頼久を眺めやって友雅も優しい笑みを浮かべる。
「なんの話だよ、二人とも。」
「い、イノリ君はいいのっ!」
「何を騒いでいる、曲水宴はまだ終了していないぞ?」
船に乗っていた泰明と鷹通がやってきて騒いでいる一同を見渡すと軽く溜め息をついた。
そう、今は曲水宴の真っ最中だ。
「宜しいではございませんか、お二人とも。ここで催したのは私的な宴、公的な宴ではございませんもの。皆様が楽しんで下さるのならば形式などたいしたことではございませんわ。」
奥から出てきた宴の主にそういわれては泰明と鷹通も黙るしかない。
幼姫はいつもとは違って余裕のある頼久と真っ赤な顔をしているあかねを目にして満足そうに微笑むと女房達に酒の用意をさせた。
「さ、皆様、本日は心行くまでお楽しみ下さいませね。」
「藤姫にかかっては私達はまるで子供のような扱いだね。」
「そうおっしゃる友雅殿が一番手がかかりますわ。」
「これはこれは手厳しい。」
そういいながらも楽しそうな友雅が藤姫の隣へと席を移すと、船から下りてきた泰明と鷹通も縁に座っていつものように宴会が始まった。
「あれ、あの船、もう使わないの?藤姫。」
「はい。あの船が何か?」
「えっと、乗ってみたい、かなぁ、なんて。」
そう言ってあかねは微笑んだが、この場にいた誰もが一斉に首を横に振った。
この尊い龍神の神子は相変わらずとんでもないことを言い出す。
そんな危ないことをさせるわけには行かないと言いたげだ。
だが、ただ一人、頼久だけはすっと立ち上がるとあかねに向かって手を差し出した。
「お供致します。」
「うわぁ、有難うございます!」
差し出された頼久の手に引かれてあかねは船へと歩き出す。
並んで歩く二人を八葉一同と藤姫は優しく見守っていた。
頼久がついているのならば危険はない。
誰もが自然とそう思った。
一介の武士と異世界からやってきた龍神の神子。
婚儀を挙げてもうまくやっていけるかと一抹の不安もあったのが事実だ。
だが、どうやらこの二人ならば何も問題なく幸せにやっていけそうだ。
だれもが二人の並んだ後ろ姿を見てそう思っていた。
管理人のひとりごと
前回のUPであかねちゃん独身最後のお話と宣言したのですが、これが最後になりました(’’)
今回は京の行事編です。
やっと頼久さんも自然体になってきました(^^)
私的なものとはいえ、正式な行事なのに結局みんなで大宴会。
まぁ、仲がいいってことです(^^)
今回も参考資料は「平安時代儀式年中行事事典」でした。
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