あかねは図書館の椅子に座って本を眺めていた。
ちゃんとページを開いて視線はそこに注がれているけれど、それはただながめているだけだった。
読んでいるわけではない。
何故なら、いくら文字を目で追っても全く内容が頭に入ってこなかったから。
ゴールデンウィークをなんとか一日中大学の図書館に入り浸ることでやり過ごしたのはいいけれど、生活が日常に戻っても週末はやってくる。
週末になると恋人とデートだと浮かれる人が周りには大勢いた。
大学生になったら彼氏を作るが目標の女の子は少なくない。
ゴールデンウィークを境にカップルが増えたようで、あかねの周りでもそういった話が絶えず聞こえた。
そんな話を聞くたびに、幸せそうにデートに繰り出す女の子を見るたび、あかねは泣きそうになるのを我慢して図書館へ駆け込んだ。
少なくてもそこにはデートだと浮かれている女の子はいなかったし、二日に一度は頼定がやってきて色々と本を紹介してくれた。
頼定の声は本当に頼久の声によく似ていて、その声で勉強の手伝いをしてもらえるのはあかねにとってありがたい時間だった。
だから、ここ数日は頼定のおかげであかねはなんとか頑張って勉強を続けていられたといってもいい。
けれど、そんな無理はいつまでも続くはずがない。
とうとう、今日、あかねは目の前の頼定が進めてくれた本を眺めることしかできなくなっていた。
「何かありましたか?」
「はい?」
頼定が頼久に似ているところは声だけじゃない。
顔や体格は似ていないけれど、カンの鋭いところや性格の一部もよく似ている。
「いえ、あまりページが進んでいないようなので。」
「……すみません。」
どちらかと言えば頼定はあかねの勉強に付き合てくれているというのが今の状況だ。
それなのに、肝心の自分が上の空であったことに気付いて、あかねは心から謝罪していた。
「謝ってもらうようなことじゃないですよ。」
「でも…せっかく頼定さんが付き合ってくれてるのに私が上の空じゃ…。」
「上の空になるような何かがありましたか?」
「……。」
何かがあったかと問われれば答えは、あった、だ。
けれど、それを頼定に話していいかどうかわからず、あかねは思わず黙り込んだ。
そもそも、頼定は好意で勉強を手伝ってくれているだけで、人生相談をするような相手ではないはずだった。
それでもあかねが口を開こうとしてしまうのは、頼定の声が一番頼りにしている人、海の向こうにいる恋人に似ているからに違いなかった。
「俺に話してもしかたないことだとは思いますが…。」
「そ、そういうわけじゃ…その…これ以上、頼定さんに迷惑をかけるのも…。」
「迷惑じゃないですよ。俺はそもそも俺のやりたいようにやってるだけですから。元宮さんに話してほしいというのも俺が聞きたいと思ったからなんですから。」
優しく恋人と同じ声でそう言われて、慈愛に満ちた笑顔を見せられて…
あかねは小さくため息をつくと、開いていた本を閉じてうつむいた。
「その…頼久さんは中国にいるんですが…昨日、テレビですごく綺麗な中国人の女の人を見かけて…。」
頼久さんはこんなに綺麗な人に囲まれているのかと思ってしまった。
テレビ画面に映し出されていたその女性は大人っぽくて美しくて、とても賢そうな人だった。
たとえば頼久が今そばにいたとしても、目の前をその女性が歩いていたら心が動いてしまってもしかたがないと思ってしまうほどの美女。
あかねはその映像を目にしてすっかり眠れなくなり、泣いたり泣き止んだりを繰り返して朝を迎えていた。
そんな状態で本の内容が頭に入るはずもない。
「遊びに行きましょうか。」
「はい?」
それは突然の頼定からの誘いだった。
何を言われたのかわからないくらい突然で、あかねが目を白黒させている間に頼定はさっさと荷物を片づけ始めている。
「あの…。」
「遊園地、行きましょう。そういう時は気晴らしするのが一番ですよ。」
にっこり微笑む頼定に促されて、あかねはのろのろと荷物を片づけると、頼定と二人で図書館を後にした。
とりあえずアイスクリームを食べてみた。
それからメリーゴーランドに乗ってみた。
意外とこれがハードだったのでジュースを片手にベンチで休憩。
それからジェットコースターに乗って疲れ果てた。
これ以上騒ぐのは無理とあかねがギブアップして昼食。
昼食を食べ終わって店から外へ出てもアトラクションを楽しむ気にはなれなくて、あかねは頼定と共にベンチに並んで座った。
周りには楽しそうにはしゃぐ同年代の女の子やカップル、小さな子供を連れた家族連れ。
週末ということで遊園地は込み合っている。
こんなふうに楽しそうにしている人がたくさんいる場所は立っているだけでつらくて避けて通っていた。
でも、今のあかねはそんなにつらくはなくて…
これも連れ出してくれた人のおかげと、隣に座るその人を見つめて微笑んだ。
「何か?」
すぐ視線に気づいた頼定があかねを見つめ返して微笑む。
「ありがとうございました、今日、ここへ連れてきてくださって。」
「まあ、俺もレポートが煮詰まっていたので気分転換ですよ。元宮さんも煮詰まっていたようですし。」
「はい……すみません、気を遣わせてしまって。」
「それほどでもないですが、気分転換になったのなら何よりです。」
「それはもう。久しぶりです、学校以外の場所にこんなに出かけたの。」
あかねはそういうとにっこり微笑んで空を見上げた。
もうすぐ夏がやってくることを予感させる青空が自分を包んでいることを意識して、あかねは突然視線を落とした。
ほんのり浮かれた気分は一瞬にして消えてしまって、あかねの胸の内に鉛でできた霧が降りてくる。
この青い空の果てには愛しい人がいる。
今は会えない人がいる。
そのことを思い出してしまえば、ほんの少しの幸せな出来事など真夏の雪のように一瞬で溶けてなくなった。
「元宮さん?」
さんざん恋人と離れていることを意識してしまってから耳に届いたのは、そんな恋人と寸分たがわぬ優しい声。
けれど、呼び方は違っていて、そのことがあかねの胸を追い討ちする。
「あかねって名前で呼んでもらえませんか?」
それは頼定に言うべきことではなかった。
あかねもそんなことはわかっている。
わかっていても言わずにはいられなかった。
本当はここにはいない恋人に言いたい一言だった。
それを頼定に要求することがどれだけ失礼なことなのかも承知した上で、あかねは言わずにはいられなかった。
そんなあかねを優しく見つめる頼定は怒りも苛立ちもせず、ただ静かに呼吸して、それから口を開いた。
「それは、恋人に言ってください。俺の役目じゃありませんから。」
ハッとあかねが視線を上げて隣を見ると、頼定は優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
それは恋人を見つめる顔では当然なくて、兄が妹を見るような、父が娘を見るような、そんな温かな表情だとあかねは思った。
「ごめん、なさい…。」
こんなに優しい人に自分はなんて失礼なことを言ったのか。
改めて思い知らされてあかねの顔が赤くなる。
けれど、頼定はすっと立ち上がるとあかねの方へ手を差し出した。
「謝る必要はありませんよ。元宮さんが今どんな気持ちなのか、俺にはわかるので。」
「頼定さん…。」
「家まで送ります。今日は家に帰ってゆっくり休んで、それから、恋人に俺に今言ったことを言ってください。」
「…はい……そうします。」
あかねは意を決したようにそうつぶやいて頼定の手をとった。
ふわりと手が引かれてあかねがベンチから立ち上がる。
賑やかな声のする人ごみの中をあかねは頼定に手を取られて歩き出した。
自分の気持ちがわかると言ってくれた頼定のその言葉に何かが含まれているような気はしたけれど、今のあかねに頼定を気遣っている余裕はなかった。
もしここに頼久がいて、あかねがいつもの状態だったら、頼定の目がどこか遠くを見ているようだったことに気付いたかもしれない。
けれど今、あかねの頭の中はただ自分の家に帰り、頼久と話をすることでいっぱいだった。
頼久が中国へ取材に行ってから、あかねの方からの電話はこれが初めてだった。
だらかだろう、電話に出た時の頼久の声は少しだけうわずっていた。
内心、何が起こったのかと思っているに違いない。
いつものように挨拶を交わして、無言の時が訪れる。
震えさえしないものの、明らかにいつもと違う恋人の様子を電話の向こうの気配で察しながら、あかねは携帯を手に深呼吸をした。
『神子殿、何かあったのですか?』
京では敵なしといってもいいほど強かった武士である恋人が、恐る恐る訪ねてくるその声にあかねは苦笑を漏らす。
こんなにも心細い声を出させているのは自分。
命のやり取りをする時さえ冷静な人がこうまで動揺してくれるのは自分を大切に思ってくれているから。
そう思えば嬉しくもある。
けれど、そんなに動揺させてしまっている原因が自分だと思えば悲しい。
あかねは複雑な思いで小さく息を吸い込んだ。
「頼久さん。」
『はい。』
「あかねって名前を呼んでもらえませんか?」
電話の向こうで息が詰まる気配がした。
今までだって名前で呼ばれたことがなかったわけじゃない。
特に人前では『神子殿』と呼ぶのは不自然だからと何度か名前で呼んでもらったこともある。
けれど、いまだに頼久にとってあかねをその名で呼ぶことには抵抗があるらしく…
それでも、電話の向こうで一つ深く深呼吸をした頼久は、あかねの望みをかなえた。
『あかね、何かあったのですか?』
ちゃんと名前で呼んではくれたけれど、やっぱりその口調は敬語のまま。
そんなところが妙に頼久さんらしいなぁなどと心の中でつぶやいて、あかねは目に涙を浮かべた。
「大丈夫です、頼久さんが名前を呼んでくれたから。ありがとうございました。」
こんなふうに言って何も説明しないのは少し卑怯な気がする。
けれど、今、全てを話してしまう気にはとてもなれなくて、あかねはなんとか涙をこらえて、相手には見えていないとわかっているのに微笑を浮かべた。
『神子殿…。』
何かあったのか?ともう一度問うことも、自分には話せないようなことなのか?と詰問するようなことも頼久にはできなかった。
できたのはいつものようにただ呼ぶことだけ。
それでは何もかもが足りない。
何一つ伝わりはしない。
そうとわかっているのに頼久の口はそれ以上の言葉を紡ぐことを拒絶した。
そして、頼久が自分の中に焦りとも苛立ちとも自責ともとれる複雑な思いが渦巻くのを感じているうちにあかねが口を開いた。
「何もないなんて言いません。頼久さん、嘘だってわかっちゃうでしょう?」
そう言い終えたあかねはなんとか泣き声にならずに済んだと、小さく安堵の息を吐いた。
これなら、きっと今の正直な想いを伝えることができる。
あかねは少しだけ無理をして微笑んで、再び口を開いた。
「頼久さんに会えないのがすごく寂しいです。すごく会いたいです。会いたくて会いたくていつもの自分じゃないみたいになっちゃう時もあります…。」
『それは…。』
「でも大丈夫ですから。私、頑張れますから。」
やっとの思いであかねはその一言を言い放った。
電話の向こうで頼久が深いため息をついたのが聞こえた。
あかねが今口にしたことは嘘じゃない。
頼久に会えないのは寂しいし、会いたいと切実に思う。
そんな思いが強すぎて頼定というそっくり同じ声の人にとてもたくさん助けてもらうことになってしまった。
けれど、それでも、こうして本人の本物の声で名を呼んでもらえるなら頑張れる。
それはあかねの偽らざる本音だ。
『わかりました。では、本日はこれにて。』
「へ、あ、はい、おやすみなさい…。」
正直なところ、あかねは粘られると思った。
少なくても頼久のため息を電話越しに聞いた時には自分には何があったのか話せないのかくらいのことは言われると思った。
ところが頼久はあかねの予想に反して何も言わなかった。
それどころか、挨拶をするとすぐに電話を切ってしまった。
さっきまで自分を案じてくれていたのがまるで芝居だったとでもいうような、一瞬の豹変だった。
だから、あかねは携帯を握ったまましばらく動けなくなってしまった。
何かが確実に変化している気がした。
それが頼久の気持ちだったら…
そう考えると体が震える。
大丈夫と言った矢先にこれだ。
あかねは自分の弱さにため息をついて携帯を置いた。
物音一つしない夜。
自分の部屋にいるのに少しも落ち着かない。
静けさが逆に耳に痛いのは最後に聞いた愛しい人の声が冷たく聞こえたせい。
あかねは震える自分の膝を抱えて目を閉じた。
明日は朝から講義があるとわかっていても到底眠れそうにない。
不安と寂しさと悲しさと…
あかねは時も空間も感じられなくなる静寂の中で、自分の中で渦巻く初めての暗い感情の渦にただ身を任せることしかできなかった。
一日の講義が全て終わったのはもう夕方。
何もすることがないからと家に直行すれば、きっと昨夜の頼久との会話のことがまた気になってしまうに決まっている。
だから、あかねはもうすぐ閉館になるとわかっているのに図書館へと足を向けた。
新しい資料本なんか探して、見つかったらそれを借りて…
そういうことをしていれば少しは気がまぎれる。
それに、図書館に行けば声を聞けるかもしれないという可能性も考えなかったわけじゃなかった。
今は直接聞くことができない声とそっくり同じ声を持つ人ははたして、あかねの予想通り図書館にいた。
いや、予想通りというのは少し違う。
あかねの予想に反して頼定は図書館の前に立って、笑顔であかねを迎えたのだ。
驚いて目を丸くして、あかねは慌てて頼定に駆け寄った。
「頼定さん!もしかして待っていてくださったんですか?」
「ええ、少し話したいことがあったので。」
「ああ、すみません、そういえば、メールアドレスとか電話番号とか全然お知らせしてませんでしたね…。」
「それはわざと聞かなかったので気にしないでください。」
「はい?」
「そういうの聞くと、下心ありそうじゃないですか。」
「そ、そうですか?」
キョトンとしているあかねに頼定は困った人だと言わんばかりの苦笑を浮かべて見せた。
そして何か言おうと口を開いて、すぐにその口を一度閉じてしまった。
あかねには何が起こっているのかがわからない。
頼定はどうやらあかねの後ろを見て何かに驚いたように目を見開いて一度口を閉じたようだ。
どうしたのか不思議に思ったあかねが口を開こうとした刹那、頼定はにっこり微笑んで再び口を開いた。
「色々、俺も楽しかったですよ。後悔していたこともあったんですが、少し楽になれたかな。」
「はい?」
「覚えておいてください。それがたとえ大切な人のためだったとしても、心が死んでしまうほど無理をしては取り返しがつかなくなります。」
「頼定、さん?」
「あかね!」
どこか遠くに感じられるような笑みを浮かべている頼定にあかねが小首をかしげた瞬間、あかねは背後から聞きたいと思い続けていた声にその名を呼ばれた。
次の瞬間には左腕をつかまれていて、振り返るとそこにはここにいるはずのない人が立っていた。