
頼久はあかねの局の隅の柱に背を預けて座している。
いまだに許婚の部屋に二人で共に在ることに慣れることができず、常に局の隅に座ってしまうのだが、それでも最近はくつろいだかっこうで座ることができるようになってきた。
心優しい頼久の許婚はというとそれでも不満らしく、数日に一度は「もう少し近くに座ってください」などと嬉しいことを言ってくれるのだが、武士として主に仕えていた感覚を体が覚えている頼久にしてみればそれはなかなかに難しいことだった。
それでも愛しい人が望むのだからと努力はしているのだが…
「頼久さん。」
「はい。」
愛しい許婚に名を呼ばれて、頼久は微笑を浮かべる。
「えっと、ずっと習っていた曲が一曲、弾けるようになったんですよ。あ、琴なんですけど。」
「それは、おめでとうございます。」
おめでとうございますはないんじゃないかな?と思いつつも、あかねは気を取り直して傍らに置いてあった琴を目の前に引き寄せた。
「それで、今から聞いてもらいたいんですけど…。」
「はい、喜んで。」
にっこり微笑んだ許婚の即答にあかねはきりりと厳しい表情を浮かべた。
何か答えが間違っていたかと頼久が慌てる。
「頼久さん。」
「はい?」
「正直に感想言って下さいね。」
「はぁ…。」
「神子殿だから褒めなくちゃ、とかなしですよ?」
「はぁ…。」
「じゃぁ、いきます!」
妙に気合を入れたあかねは一度深呼吸をして弦に手を乗せた。
ほろりと最初の音が響くと頼久は目を大きく見開いた。
武士である頼久は音楽というものに親しむことはあまりない。
良い楽の音を聞き分ける耳があるかと言われればかなり疑わしい。
だが、今、頼久の耳に届いた琴の音色は澄み切っていて美しく、それでいてどこか儚げで。
聞いたのは一音だけだというのに頼久の胸は高鳴った。
ほろり、はらり。
ゆっくりとした琴の音が音律を紡いでいく。
腕前としては拙いのかもしれない。
間違えることはなくてもその音律が紡がれる速度はひどくゆっくりしていたし、音色から緊張も読み取れた。
それでも、その一音一音が美しいことには変わりがなくて。
頼久はいつの間にか目を閉じると、あかねが奏でる琴の音色にうっとりと聞き惚れた。
「どう、でした?」
そうあかねに声をかけられるまで頼久は演奏が終了したことに気付かなかった。
琴の音の残響にうっとりとしていたからだ。
あかねの声で我に返った頼久は、ゆっくり目を開けると穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「技巧の良し悪しはその……私のような無骨者にはわからぬのですが……。」
「もう、下手だったら下手ってはっきり言っちゃって下さいっ!」
思い切ってそう言って悲しそうな顔をしながらも頼久をまっすぐ見つめるあかね。
そんなあかねに頼久は困ったような苦笑を浮かべて見せた。
「それがその、うまいか下手かということはよくわからぬのですが……美しい音色でした。」
「そ、そうかな?」
「はい。音の一つ一つが私には澄み切って聞こえました。神子殿の琴の音は聞いているだけで心地良くなる音色でございました。」
「ほ、本当に?」
「はい。」
まだ疑わしいらしいあかねに頼久は優しく微笑んで見せた。
もともとが従者、臣下と思っている頼久がお世辞で言ってくれてるのではないか?と疑っていたあかねも、この笑顔を見てやっと頼久
が本心から言っているのだと信じることができたらしく、ほっと溜め息をついた。
「よかったぁ。弾ける事は弾けるんですけど、まだぎこちないっていうか、全然上手にならなくて…。」
「そのようなことはないよ。楽の音というものはただ技巧に優れていればいいというものではないからね。」
そう言いながら姿を現したのは友雅だ。
音楽を奏でることに関しては定評のある人物の登場に、あかねはさっと顔を赤くした。
「友雅さん!聞いてたんですか?」
「ああ、あまり心地いい音色だったのでね、向こうでゆっくり聞かせて頂いたよ、神子殿。」
そう言いながらも友雅は局の隅で姿勢を正し、深く一礼する頼久を手で制することを忘れない。
そもそも世の中の全てにあまり重きを置いていない友雅は、共に京を救うため戦った仲間を身分で見下したりは決してしないのだが、生真面目な頼久はいまだに八葉の仲間にも身分をわきまえた礼を忘れないのだ。
だが、そんな頼久をそれこそ臣下扱いなどしたら目の前の神子殿が不機嫌になることは間違いない。
だから友雅はいつもあまり相手をせずに手で制して終わらせることにしている。
「もぅ、恥ずかしいなぁ…。」
「恥ずかしがることなどないさ。どこぞの姫君のうぬぼれた音色よりもよほど美しく心地いい音色だったよ。」
「うぬぼれた音色、ですか?」
「そう。」
言いながら友雅はあかねの向かいにすっと座る。
「自分は琴の上手だと思っている姫君などはね、それは技巧は優れていても音色がうぬぼれていてあまり美しくはないものだよ。」
「そんなもの、ですか?」
「楽の音というのはそういうものさ。だから、神子殿のように懸命に一心に奏でる音ほど心地いいものはないね。その点で言えば、私の楽の音もふらふらとしていてあまり良いものではないだろうね。」
「そんなことないですっ!友雅さんが弾く琴も笛も琵琶も、私大好きですっ!」
「神子殿にそう言って頂けるとは光栄だね。」
本当に嬉しそうに微笑む友雅の笑顔を見てあかねは思わず顔を赤くしてしまった。
京の女性全てが憧れるとさえ言われる橘少将の本気の笑顔を見せられてしまったのだからしかたがない。
しかたがない、のだが、その様子を見て心穏やかでない人物がいることもまた確かで…
「そうだ、神子殿、せっかくの楽の音だからね、私や頼久以外の者にも聞かせてやってはどうだろうね?」
「はい?」
「そう、たとえば、永泉様とか、鷹通とかね。」
「はいぃ?」
永泉といえばその笛の音は友雅の楽の音と同じほど高い評価を受けている人物だ。
八葉として共に戦った仲間だからそれは聞きに来てほしいといえばすぐにでもきてくれるだろうが、音楽に通じた永泉に聞かせるなどそんな恐れを知らないまねがあかねにできるはずがない。
慌ててぶんぶんと首を横に振るあかねを見て友雅はくすっと笑った。
「永泉様は確かに良い笛の腕をお持ちだがね、それ以上に楽の音を解する方だよ。きっと神子殿の琴の音を楽しんで下さると思うがね。」
「で、でも…。」
「なら、こうしないかい?」
「はい?」
「元八葉の一同と藤姫の前で演奏して見せるというのはどうだい?」
「う〜ん……。」
「藤姫もきっと喜ぶと思うがね。」
「うっ…わ、わかりました、それなら……。」
喜ぶ藤姫の顔を思い浮かべてしまったあかねは渋々承知してしまい、友雅は満足そうにうなずくと何故かあかねの隣へとその身を移した。
「友雅さん?」
「皆の前で演奏するとなれば、神子殿も少しは腕を上げておきたいだろう?」
「そ、それはまぁ…。」
「少しばかり私が指南して差し上げよう。今日はもう予定がないのでね。」
そう言うと友雅は少しだけあかねが練習していた曲を爪弾いて聞かせる。
その一節が今まで自分が奏でていたのと同じ曲とは思えないほど美しくて、あかねは真剣に友雅に教えてもらう気になってしまった。
友雅に言われるがまま、同じ一節を弾いて見せても、やはり友雅のように上手く弾くことはできない。
そのうち友雅はあかねの手をとって教え始めた。
もう練習に夢中なあかねがされるがままになっていると、ふっと局の片隅の気配が動いて御簾の向こうへと消えた。
「あ、頼久さん。」
「神子殿。」
御簾の外へ出て行った許婚を追いかけようとしたあかねの手を友雅は優しく捕まえる。
「離してください。」
「妬かせておきなさい。恋の駆け引きとはそういうものだよ。」
あかねは艶な笑みを浮かべて見せる友雅の腕を振り払うと、少し怒ったような目でその顔を見上げた。
「友雅さんはそういうのがいいのかもしれませんけど、頼久さんは違うんですっ!だいたい、私は駆け引きなんてしませんから!」
力強くそう言ったあかねはすぐに御簾の向こうへと愛しい人を追いかける。
後に残された友雅がどことなく悲しげな顔で苦笑しているのにも気付かずに…
慌てて飛び出したあかねはすぐ近くの階に座っている頼久をみつけることができた。
そのいつもは広くて頼りになる背中がどこか寂しげに見えて、あかねは急いでその隣へ腰を下ろした。
「神子殿…。」
「ごめんなさい頼久さん。つい練習に夢中になっちゃって…。」
「いえ、お気になさらず。どうぞ修行をお続け下さい。」
「ううん、もういいんです。」
「本当に私のことはお気になさらずに。」
「頼久さんが側にいてくれないといやだから、もういいんです。」
「神子殿…。」
「練習はまた一人でやります。藤姫ちゃんも教えてくれるし大丈夫です。だから、こうして隣に座っててもいいですか?」
「もちろんです。」
嬉しそうに微笑む頼久の笑顔が嬉しくてあかねも幸せそうな笑顔を浮かべる。
そこへ御簾を上げて友雅が出てきた。
「神子殿、どうやら私はもう指南役としては呼んでもらえそうにないから、帰るとするよ。」
「あ、友雅さん、ごめんなさい。」
「いや、かまわないよ。その代わり、神子殿にお教えできるよう、藤姫に指南しておくとするから。では、神子殿の開かれる琴の宴、楽しみにしているよ。」
そう言って友雅は軽く手を振ると優雅な身のこなしで去っていった。
あかねは手を振って、頼久は去り行く背中に軽く一礼して友雅を見送った。
琴の音がゆったりと響いて心地いい。
琴を奏でているのはあかね。
その周りにはあかねの望みでそれぞれくつろいだ感じで座っている八葉の面々と藤姫。
うっかり友雅が藤姫にあかねの琴の一件を話してしまったものだから、宴は意外と早く実現された。
もう少し上手になってからと思っていたあかねだったが、幼姫の張り切りように押し切られる形で今、こうして琴を奏でている。
相変わらず腕前は拙いが、それでも音色が美しいというのは頼久や友雅の言うとおりで、招待された全員がその音色に聞き惚れた。
「いや、本当に神子殿の音色はいいね。」
演奏が終わって少し間を置いてから友雅がそうつぶやくように言うと、やっと場の空気が緩んだ。
「また友雅さんたら、お世辞ばっかり。」
「いやいや、本心で言っているよ、神子殿。皆もそう思うだろう?」
友雅が話を振ると八葉の一同はいっせいに微笑を浮かべた。
「ほんとに凄かったぜ、あかね。」
「ええ、お見事でした。」
そう友雅に同意したのはイノリと鷹通だ。
「音楽はよくわからぬが、神子が琴を奏でると辺りの気の流れが穏やかになったのはわかった。」
と、これは泰明だ。
「龍神に愛でられし神子様が奏でられたのですから当然ですわ。」
これは何故か誇らしげな藤姫。
琴の演奏が終わるのと同時に場は飲み会へと変化し始めて、一同は料理と酒を口に運びながら思い思いにくつろいでいる。
だが、どうしてもと言い張って宴を開いた藤姫はというといつもよりもなんだか誇らしげに胸を張ってひたすらうなずいているのだ。
神子様が宴を催されるのなら是非我が屋敷でといってきかなかった藤姫は、客人に饗する料理や酒にも手を抜かなかったようで、一同は豪勢な料理とうまい酒に満足げだ。
「永泉さん、どうでしたか?」
一同が楽しそうに食事を始めたところであかねはやっと一番気になっていた人の評価を尋ねた。
この場の面々ではおそらく最も音楽に詳しい人、永泉。
友雅は女性に対してお世辞抜きのコメントをするはずがないし、この永泉の評価が一番正確なはずとあかねは息を詰める。
尋ねられた永泉はというと今まで食事を口に運んでいた箸を置いてふっと軽く息を吐くと、何故か恥ずかしげな微笑を浮かべてこころなしか頬を赤くした。
「その…なんと申しましょうか…。」
「もう、正直に感想言っちゃって下さい!」
「はい、では正直に……あの、神子の奏でられる琴は、清らかな音色で、どのような者の心もとらえずにはおかないと、そう思いました。」
「ほ、本当ですか?だって、あんまり上手じゃないし…。」
「技巧という意味では確かに上達の余地があるかと思いますが、音色そのものの美しさを思えば技巧が多少拙いことは気になりません。楽の音はその音色が大切ですから。」
そう言って永泉はにっこり微笑む。
「私も楽の音には詳しくありませんが、とても澄み切った美しい音色だと思いました。神子殿はもう少し自信を持たれた方がよろしいかと。」
そう続けたのは鷹通だ。
二人の男性に微笑みかけられてあかねは頬を赤くしてうつむいてしまった。
「そ、そう言ってもらえると…。」
「技巧は修練で上達することもできますが、音色の美しさは奏でる者の心を映すものですからそう簡単に人を引き込む音色を奏でることはできないものです。神子はもうそれを奏でることができるのですから、あとは少しずつ技巧をみがかれればよいのですよ。」
そう言ってやわらかく微笑む永泉に見惚れてからあかねは「はい」と可愛らしく返事をした。
そんないつまでも愛らしい神子と久々に長々と同席することを許された一同は、豪華な料理と酒に舌鼓を打ちつつ、思い思いの雑談を交わしながら夜更けまで宴を楽しんだ。
その間、友雅が琵琶を永泉が笛を奏でたり、あかねの琴に友雅や永泉がところどころそれぞれの楽器を合わせて奏でてみたりと宴の間中音楽が途絶えることはなかった。
そして夜も更けて、空には月が昇る頃。
「こんな風に琴が弾けるようになるなんて思わなかったなぁ……天真君や詩紋君や蘭が聞いたらびっくりするだろうなぁ。」
月を見上げながらついそうつぶやいたあかねの一言で、あかねと頼久以外の全員が凍りついた。
自分の世界を懐かしむあかねは一同が最も恐れているものだ。
この場の誰もがしばらく何も言えずに黙り込んでいるのにあかねは気付かなかった。
「あ、でも向こうの世界だと琴ってそう簡単には弾けないなぁ。」
まだまだ自分が元いた世界に思いを馳せているらしいあかねを見つめて、頼久以外の八葉はそそくさと帰り支度を始めた。
「さて、私は逢瀬の約束があったのだった。そろそろ失礼するよ。」
最初にそう言って頼久に意味ありげな視線を投げながら立ち上がったのは友雅だ。
「私も少し調べ物が…。」
「俺、明日は朝から師匠に鍛えられるんだ、じゃぁな!」
「私も師匠の調べ物を手伝うてはずになっている。」
「あ、あのぉ……わ、わたくしも明日のお勤めがありますので…。」
口々にそんなことを言って去っていく八葉の面々を藤姫が悲しげな視線で見送る。
「あ、皆さん忙しいのに有難うございました。」
と律儀に礼をするあかねに一同は苦笑を浮かべて去っていった。
「神子様、わたくしも今日はもう遅くなりましたので部屋で休ませていただきますわ。お疲れでしたら西の対を空けてありますので、そちらでお休みくださいませね。」
「有難う、藤姫ちゃん。でも、今日は屋敷に帰るね。」
「そうですか。では、頼久、神子様を頼みます。」
「承知致しました。」
いつものように一礼する頼久にうなずいて見せ、あかねに一礼すると藤姫は奥へと下がっていった。
「では、神子殿、お屋敷までお送り致します。」
「はい、お願いします。」
嬉しそうに返事をしてあかねは頼久と共に土御門邸を後にした。
一人で歩く夜道は心もとないが、頼久と一緒なら恐ろしくも寂しくもない。
やっと隣を歩いてくれるようになった許婚と並んで歩きながらあかねは上機嫌だ。
「みんな用事があって忙しかったのに無理してくれたんですねぇ。悪いことしちゃったかな。」
「は?」
「だってみんななんだかとても急いでるみたいだったから…。」
「あぁ……あれはおそらく、急いでいるわけではないかと……。」
「そうですか?」
「はい。神子殿が元の世界の話をなさったので懐かしんで悲しまれておいでなのを見兼ねたのかと。」
「はい?私別に悲しんでなんかいません!」
「承知しております。」
慌てるあかねに頼久は微笑を浮かべて見せる。
「よ、よかった…頼久さんはわかってくれてたんですね…。」
「はい。神子殿はいつもそうして否定して下さいますから。ですが、友雅殿の物言いたげな視線といい、皆の慌てたそぶりといい、おそらく皆神子殿のつらそうなお顔を見ていたくないと思ったのではないかと。」
「友雅さんの視線?」
「はい、後は任せたとでもいうような視線を投げられました。」
そう言って困ったように苦笑する頼久を見てあかねはくすっと笑うと、愛しい人の左腕に抱きついた。
昼間は絶対にできないこと。
でも今は夜道だからきっと大丈夫。
「み、神子殿!」
「大丈夫、誰も見てませんから。」
楽しそうにこう言われてしまっては頼久も逆らうことができない。
確かに誰が見ているわけでもないので、しかたなく頼久は顔を赤くしながらもあかねに腕を抱かれたまま歩くことにした。
「頼久さんだけでもわかってくれててよかったぁ。こんなんじゃ私、天真君達を思い出すこともできないですもん。明日、みんなにお手紙でちゃんと説明しなくちゃ。それともみんなのところへ説明しに行った方がいいかなぁ。」
「お出かけでしたら、お供致します。」
「あ、だったらみんなのところに出かけちゃいます。お迎え待ってますね。」
「承知致しました。」
楽しげなあかねに腕を引かれて、頼久は歩き続ける。
二人を綺麗な月が見下ろしていた。
管理人のひとりごと
どうしても書きたかった音楽のお話です。
友雅さんや永泉様の音楽に対する姿勢は管理人の姿勢そのまんまです(爆)
まぁ、心が映るほどの演奏をするためにはそれなりの技巧が必要だとは思います(’’)
平安時代、音楽は重要な娯楽の一つでしたから、是非あかねちゃんにもできるようになってほしかったんですねぇ。
すると、どうしても目立ったのが友雅さんでした。
女性に指南とくれば少将様だから(爆)
もうちょっと永泉様に出てきてもらってもよかったかな?と反省中です(汗)
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