頼久はある屋敷の前で、一人落ち着かなげに立っていた。
時刻は夕暮れ。
辺りはもう沈みゆく陽の光に染められて赤くなっている。
その赤い世界で一人、頼久は立ち尽くしていた。
普段は武士団の仕事で忙しくしている頼久が、こんな所でひたすら立っているのにはもちろん訳がある。
久々の休みで浮かれていた頼久は朝、機嫌よく目を覚ました。
愛しい妻がまだ眠っているその寝顔を堪能してから、庭で軽く体を動かしたまではよかった。
その後、朝餉の時点で頼久は満面の笑顔を曇らせることになった。
いつものように頼久の食事の支度を自らの手で行ったのはあかねだ。
そしていつものように二人そろって食事をしようとした。
ところが、あかねはほとんど食べ物に手をつけなかったのだ。
暑さのせいか最近食欲があまりないという話を頼久はこの時、初めて耳にした。
京の夏はとにかく暑い。
普段から体を鍛えている頼久には夏の暑さもたいしたことではないが、あかねは違う。
もともと京の人間ではなかったあかねは暑さに弱い。
だから、今までも少しばかり食欲が落ちたり、体がだるいといって動けなくなることはあった。
けれど、今回は事情が違っていた。
朝のうちはただ食欲がないと言うだけだったのだが、それが夕餉まで続いたのだ。
しかも、夕餉はほぼ一口も食べ物を口に入れなかった。
あまりに様子がおかしいので頼久が心配して色々と尋ねてみれば、ここ数日はほとんど食べていないだけでなく、食べた物を吐いたこともあると言う。
この時点で頼久は顔色を真っ青にした。
いくら夏が苦手なあかねでも食べた物を吐くというのは尋常ではない。
それに、もう夏は終わりに近く、秋の気配が感じられる日が続くようになってきてもいる。
体が弱るほどの暑さはだいぶおさまっているのだ。
頼久はこれは藤姫や藤姫の父である左大臣に話を通し、あかねの健康を取り戻すべく、でき得る限りの手をうつべきだと即決した。
あかねの身に万が一のことがあっては一人おめおめと生きているつもりなどない頼久だ。
決断は早かった。
ところが、それを止めたのはあかねだった。
たいしたことはない、大丈夫とあかねは言い張った。
しかし、そのあかねの苦笑があまりにも儚く見えて、頼久は放っておくなどとんでもないと珍しく声を荒げてしまった。
その様子に苦笑を深くしたあかねは、ならば泰明を呼んで来てほしいと頼久に頼んだのだ。
事を大きくする必要はないけれど、そんなに心配なら泰明一人に看てもらおうというのがあかねの考えだった。
泰明ならば陰陽師としてあかねの体調を看るその腕前を頼久も信用している。
あかねが事を大きくしたくないと言うのならしかたがない、とりあえずは泰明を呼ぶことになり、頼久は自ら屋敷を飛び出してきたのだ。
つまり、今、頼久の背後にあるのはその泰明の屋敷だった。
使いを出すのももどかしく、自ら泰明の屋敷を訪れた頼久はだが、不思議な気配の若者に泰明の不在を告げられた。
迎えに行こうと頼久が行き先を尋ねてみれば、もうすぐ戻ってくるから待っていた方が良いと言われてしまった。
それならばと頼久は屋敷の前で泰明の帰りを待つことにしたのだった。
紅の世界に一人立ち、腕を組んで人を待つその時間は、頼久には永遠にも感じられた。
脳裏によぎるのは弱々しく苦笑するあかねの顔ばかりだ。
そのあかねが万が一にも失われるようなことがあるのではないかと想像するだけで頼久の背には冷たい汗が伝った。
このまま待っていることなど到底できない。
もう一度屋敷の者に泰明の行き先を聞いて泰明を迎えに行こうと頼久が決意を新たにしたその時、頼久の鋭敏な感覚が人の気配をとらえた。
辺りに視線を巡らせてみれば、こちらへと歩み来る人影が見えた。
夕陽を背負って歩いているために容貌は確認できないが、頼久は一糸乱れぬその歩調から人影は背にしている屋敷の主だと確信して駆け出した。
「泰明殿!」
「頼久?」
頼久が駆け寄れば、しっかりと泰明の姿を見せた人影が訝しげに目を細めた。
常に表情を動かすことのない泰明にしては珍しいことだ。
「こんなところで何をしている?」
「泰明殿にすぐに屋敷においで頂きたく、迎えに参りました。」
「……。」
まるで敵を前にしてでもいるかのように鋭く光る頼久の視線を受けながら、泰明は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「泰明殿?」
「そのようなこと、使いを寄越せば済むだろう。」
「至急おいで頂きたいのです。」
「神子に何かあったか?」
泰明の眉間の皺が更に深くなった。
あかねのこととなると平静ではいられなくなるのは頼久に劣らない泰明だ。
「ここ数日、体調を崩していたようなのですが…事を大きくしたくはないので泰明殿に看て頂きたいと……。」
「神子がそう言ったのか?」
「はい。」
泰明にはそれだけで説明は十分だったようで、屋敷を目指して進められていた歩みがすぐに方向を変えた。
もちろん、方向を変えた足の向かう先はあかねの屋敷だ。
頼久はすぐに泰明に並んた。
「ここ数日、食欲がなく、何度か吐き戻したこともあると。」
「それはただの暑気中りではないな。」
「はい、そう思いまして泰明殿にと。」
「承知した。急ぐぞ。」
「はい。」
男二人の会話はそこで途切れた。
どうやら全てを察したらしい泰明にはもう言葉は必要ないらしく、いつの間にか歩いていた二人の男の足は速度を速め、駆け足になっていた。
頼久は一人、簀子に座ってじっとしていた。
庭に向けられている視線は宙を見つめてはいるが、定まってはいない。
あかねの指示で綺麗に整えられている庭にはゆっくりと夜の帳が降りようとしていた。
いつもなら隣に座って愛らしい笑顔を見せてくれているはずの頼久の妻、あかねは今、奥の局で泰明の診察を受けているはずだった。
あかねの体調不良を知って、いてもたってもいられなくなった頼久が泰明を伴って戻ってから、まだ実は30分たったかどうかというところだ。
けれど、頼久にはその30分がどんな戦の前よりも苦痛な時間となっていた。
もし、不治の病であったら。
もうあと数日しか生きられぬなどと言われたら。
そう考え始めると、頼久の顔はみるみるうちに青ざめ、額には脂汗が浮かんだ。
あかねを救う術があるならば、頼久にはどんなことでも成す覚悟がある。
対価に命が必要だというのなら喜んで差し出すだろう。
だがもし、頼久には何一つできることがないとしたら?
ただあかねの死を待つことしかできないとしたら?
想像しただけで頼久は気が遠くなりそうだった。
もちろん、あかねがその命を落とすようなことがあれば、頼久はすぐにも後を追って黄泉への供をつとめる覚悟ではある。
あかねを助けるためにできることが何一つないとすれば、あとはもう黄泉路の供くらいしか自分にできることはあるまい。
と、そこまで思いつめた頼久だった。
だから、奥から出てきた泰明とあかねに頼久が気配で気付くことができなかったとしてもそれは無理からぬことだった。
「頼久さん?」
いつもとはかなり様子が違っていることにすぐに気付いたあかねが名を呼んでみれば、頼久はゆっくりと蒼白な顔をあかねに向けた。
その顔色の悪さにあかねが声をあげようとするのを遮るように、頼久の視線はあかねからすぐに泰明へと移された。
自分ではなく、共に局から出た泰明へと頼久の視線が向けられたことにもあかねは驚いた。
いつもの頼久なら、何よりもまずあかねに駆け寄り、体の具合はどうだと尋ねてくるからだ。
ここでようやく、あかねは頼久があかねが予想しているよりずっと“異常”であることに気付いた。
「泰明殿。」
「なんだ?」
あかねがどうしていいかわからずにいるうちに、頼久の必死の想いを乗せた呼びかけに泰明はいつも通りの無愛想さで返事をしていた。
頼久はすっくと立ち上がると泰明の前に立ち、真剣な眼差しで常と変わらず表情の動かない泰明の顔を正面から見つめた。
「私は何をすれば…。」
必死の嘆願と呼ぶのがふさわしい表情と声でそう言う頼久に泰明は一瞬だけその表情を訝しげに崩した。
そして次の瞬間にはバカバカしいと言いたそうに一つ溜め息をついた。
「男に、特に武士にできるようなことなど何もない。せいぜいが屋敷の警護くらいのものだ。」
「警護などいくらでも致します!他には!他には何か…。」
「ないと言っている。」
「なんでも致します!どのような労苦も厭いませぬ!」
「できることなど何もないと言っているだろう。」
必死の頼久に対して泰明はあくまでも冷静だ。
そしてそんな二人を見比べているあかねはと言えば、どうしたものかとわたわたするばかりだ。
「神子、加持祈祷の準備は任せておけ。あと、藤姫へもこちらから知らせておく。藤姫ならば万事滞りなく備えてくれよう。」
これ以上何を言っていいかもわからないらしい頼久を一瞥して、泰明はあかねへと向き直った。
仕上げとばかりに次の行動の説明をする泰明にあかねもはっと我に返った。
「あ、はい、よろしくお願いします。」
「師にも知らせなくてはならぬからな、私は屋敷へ戻る。」
「わざわざ来てもらって有り難うございました。」
丁寧に頭を下げるあかねに泰明はうっすらと笑みを浮かべて見せると、あかねと頼久に背を向けて歩き出した。
その泰明の後ろ姿が見えなくなっても頼久は両手を固く握りしめ、歯を食いしばるようにしてうつむいたまま微動もしない。
あかねはそっと頼久の前に歩み寄ると、蒼白になっている端整な顔を見上げた。
「頼久さん?大丈夫ですか?具合が悪いとか?」
「いえ……神子殿。」
「はい?」
絞り出すような低い声にあかねの顔には不安の色が浮かんでいた。
そんなあかねの肩に頼久はそっと手を置いた。
「この頼久は神子殿の夫、でございます。」
「は、はい、そうですよ?」
「では、包み隠さず真実をおっしゃって下さい。」
今までに見たこともないほど真剣な眼差しにあかねは一瞬顔を赤くして、それから小さく息を吐くと一つうなずいた。
真剣なだけではない、悲壮感さえ漂う頼久のその真摯な姿勢に応えなくてはと思ったからだ。
あかねが頼久のまっすぐな視線を受け止めること数秒、頼久が思い切ったように口を開いた。
「あと、どれほどでしょうか?」
「どれほど、ですか……えっと…泰明さんの見立てでは三か月くらいってことでしたから、ざっと計算してあと七か月くらいでしょうか?」
「七か月というのは確か………次の初夏辺りまでということですか!」
「はい。たぶん、ですけど…。」
あかねの肩の上にある頼久の大きな手に力がこもった。
その手がかすかに震えているのに気付いて、あかねははっと顔色を変えた。
これまでの泰明と頼久の会話、そして自分と頼久の会話をじっくりと思い出してたどってみれば、そこに見えた答えは…
「頼久さん!」
「はい!泰明殿のお話しでは私にできることは警護くらいのものとのこと。であれば、明日より出仕を控え、始終神子殿のお側にて警護をさせて頂きます。そして、その時が来ましたなら、どうかこの頼久を黄泉路のお供に。」
「はぁ、やっぱり…頼久さん、勘違いしてます。」
あかねは自分の肩に置かれている頼久の手の上に自分の手をそっと重ねて苦笑した。
頼久が耳にしていた情報はあかねの食欲がないだの食べた物を吐き出しただのというものだけ。
その情報から頼久が現状をどのように導いたのか、少し考えてみればわかることだった。
本来なら泰明が頼久の勘違いを訂正するのが普通の流れかもしれないが、相手があの泰明だ。
頼久の思考回路をたどってみるなどということをするはずもない。
だからこそ、頼久は盛大な勘違いをそのままに、泰明はその勘違い自体に気付きもせずにここまで来てしまったというわけだ。
普通ではあまり考えられない勘違いだけれど、それがまっすぐで誠実な頼久の性格故のものだと思えば、あかねの顔には自然と笑みが浮かんでいた。
「頼久さん、私、来年の夏に死んじゃったりしませんよ?」
「違う、のですか?」
「全然違います。むしろ来年の夏になると家族が一人増える予定です。」
「病では、ない、のですか?」
「はい、病じゃなくて、えっと、懐妊?です。」
「病では、ない……。」
そうつぶやいた頼久の手からすっと力が抜けた。
深く息を吸って、その息をゆっくりと吐き出すと頼久の顔色があっという間に元に戻った。
あかねは肩の上に乗っている頼久の冷たかった手が、しだいに温もりを取り戻していくことに安堵していた。
いつもの大きな温かい手に頼久の手が戻っていくことがなんだかとても嬉しい。
そんなふうに思いながらあかねが微笑を深めていると、今度は安堵でうなだれた頼久の視線がさっと上がった。
「頼久さん?」
「今、なんとおっしゃいましたか?」
「へ、今、ですか?」
「はい。」
「来年の夏に死んだりしませんよ?」
「その後です。」
「夏には家族が一人増える予定です?」
「家族が増えるとは…。」
「その、だから、えっと……。」
改めて聞き直されるとなんだか口にする事実が突然恥ずかしくなって、あかねは顔を赤くしたままさっきまではさらっと口にしていた事実が言葉にならなくなってしまった。
その間にもあかねの肩に置かれている頼久の手にはだんだん力がこもって…
「……子が、できたとおっしゃったのですか?」
言葉にすることが恐ろしいという様子でやっとそう言った頼久にあかねはこくこくとうなずいて見せた。
そういえば頼久が子供好きかどうかなんて聞いたことがなかった。
二人の間に子供ができたという事実をこの人は喜んでくれるのだろうか?とあかねの脳裏を一抹の不安がよぎった刹那、頼久はつかんでいたあかねの肩をすっと抱き寄せた。
あっという間にあかねの視界が真っ暗になり、小さな体は力強い腕に優しく抱きしめられた。
「頼久さん?」
「産んで、頂けるのですね?」
「もちろんです!」
「有り難うございます。」
あかねの耳元で囁くように告げられたその感謝の言葉で、あかねは全てを悟った。
頼久は間違いなく心の底から喜んでくれていた。
きっと胸の内では神に感謝を捧げていることだろう。
それほどたった一言の「有り難うございます。」は、喜びと感謝と感動と愛に満ちていた。
「本当はなんとなくそうかなって思ってはいたんですけど、頼久さんに話してからもし私の勘違いってことになったらがっかりさせちゃうかもしれないなと思って先に泰明さんに看てもらったんです。そのせいで頼久さんに変な勘違いさせちゃいました。ごめんなさい。」
あかねが小さな声でそう謝罪すれば、頼久は一度あかねの体を離して、まだ頬を赤く染めているあかねに優しく首を横に振って見せた。
「それは私が勝手に早合点しただけのことですので、お気になさらず。そんなことよりも、これからはより一層、お体を大事にして頂かねばなりません。まずは休みを…。」
「それは駄目です!」
「ですが…。」
「別に病気じゃないんですから、安静にしてる必要もないし、少しは動かないと体に悪いんですよ?」
「そう、なのですか?」
「はい。泰明さんが定期的に看に来てくれるって言ってましたし、大丈夫ですから、お仕事はちゃんとしてください。」
「……承知致しました…。」
明らかに納得がいっていない様子の頼久ではあるが、それでもあかねの言うことを聞かないという選択肢は頼久にはない。
渋々承知する頼久にあかねはにっこり微笑みかけた。
「でも、準備は色々一緒にしてくださいね。」
「もちろんです!」
「じゃあ、頼久さんには名前、考えてもらわないと。」
「名前、ですか。」
「はい。男の子の分と女の子の分、両方考えておいてくださいね。」
「承知致しました。」
そう言って神妙に子供の名付役を拝命した頼久は一瞬真剣に考え込んでからはっと我に返ると、苦笑してあかねを抱きしめた。
「頼久さん?」
「名前を決めなくてはならないのはまだ少々先のことのようですので。」
「そう、ですね…。」
「今しばらくはこうして…。」
耳元に響く優しい声に顔を赤くして、あかねは小さくうなずくと頼久の胸に頬を寄せた。
やっと訪れた幸福をお互いの体と共に抱きしめ合う二人を昇ったばかりの月が照らしていた。