
あかねは月明かりを御簾の内側から眺めながら、大切な旦那様の帰りを待っていた。
夫である頼久の帰りが夜遅くなることは少なくない。
武士団の若棟梁として毎日忙しく働いている頼久は、その剣の腕を左大臣に見込まれていることもあって警護の任につくことも多かった。
武士団の仕事のみならず、自らも警護に出て行く関係で妻であるあかねの元へ帰ってくる時間が夜中であったり早朝であったりするのは日常茶飯事だ。
だから、あかねは特に気にすることもなく、この夜も月を見上げながら頼久の帰りを待っていたのだ。
頼久はたいてい、あかねが先に眠った方がいいほど帰りが遅くなる場合は文を書いてくれる。
今日はその文が届かなかったから、あかねは遅くなってもずっと起きて待っているのだった。
それでも夜はとっくに更けていて、本の少しだけあかねの胸の内に不安が芽生え始めていた。
もしかしたら自分のことを忘れてしまうほど気になる女性ができたのではないか?
仕事で怪我をして動けなくなったのかもしれない。
あかねがそんなことを考え始めるのとほぼ同時に、庭の土を踏む足音が聞こえた。
思わずあかねが局の奥へとその身を滑らせる。
こんな夜中に庭から入ってくるような人物は夜這いをかけてくる不埒者かもしれないから充分に気をつけるようにと友雅に言われていたからだ。
頼久ならばこの時間は玄関を通って濡れ縁を歩いてくるのが常だったから、あかねがさては不埒者かと身構えたのも無理はなかった。
人を呼ぼうかと思案して、それからあかねは手近に置いてあった文箱を手に取った。
とりあえずはそれを投げつけて撃退しようというのだ。
あかねが思い切り文箱を投げつけようとそれを両手で頭上に持ち上げた刹那、御簾が静かに上がって、月明かりを背に大きな体が局の中へと滑り込んできた。
不意をうとうとあかねが声も出さずに文箱を投げつける。
ところが、その文箱は侵入者を撃退することなく、パシッと見事な音をたてて侵入者にキャッチされてしまった。
予想外の展開にあかねが目を丸くする。
そしてすぐに事態はとんでもない方向へ動き出したのだということに気付いた。
侵入者を自力で撃退できない以上、人を呼ばなくては。
そう気付いてあかねが息を吸い込むのと同時に、目の前の人影が声を発した。
「神子殿?起きておいでなのですか?」
「頼久、さん?」
あかねの耳に届いたその声は間違えようもない、大切な旦那様のものだった。
恐る恐るあかねが人影の方へ近付いてみれば、ほのかに梅香が薫って、次の瞬間には月明かりにほんのりとその端整な姿が照らされて見えた。
間違いない、源頼久、その人だ。
「びっくりしたぁ。いつもは夜、庭から帰ってくることなんてないじゃないですか。」
「ああ、それで私は賊と間違えられたのですね…。」
「ご、ごめんなさい…。」
「いえ、文も差し上げずに庭から入った私が悪いのです。お気になさらず。」
頼久は遠慮がちに自分の前へとやってきたあかねに文箱を手渡しながら苦笑した。
あかねは最近でこそこの京の女性らしくと御簾の内でおとなしくしていることが多くなったが、もとは龍神の神子として八葉と共に怨霊と戦っていた女傑なのだ。
文箱を投げつけられたくらいで済んだのは不幸中の幸いだったかもしれない。
頼久がそんなことを考えていると、あかねは頼久の前にちょこんと座って安堵の溜め息をついた。
「ダメですねぇ、私。もうちょっと警戒しなきゃ。今は頼久さんだったからよかったですけど…。」
「いえ、万が一にも賊であれば、ここまで入ってはこられません。屋敷の周りは武士団の者が警護しておりますし、泰明殿の式神も見えぬところから見守ってくれていましょう。」
「それはそうですけど…じゃなくて、お帰りなさい、頼久さん。」
そういえば、まだお帰りなさいも言っていなかったと、あかねは慌てて頼久にペコリと頭を下げた。
「はい、遅くなりましたが、ただいま戻りました。」
あかねが頭を下げればこちらも負けじと頼久が深々と一礼する。
そんな挨拶を交わした二人は、同時に顔を上げて月明かりに浮かぶ互いの姿を認めて微笑を浮かべた。
「本当に遅かったですねぇ。疲れたでしょう?もう寝ます?何か食べます?」
「あ、いえ、その…すぐに戻りますので。」
「へ?」
「実は文を差し上げられなかったのも、ここへ戻ることができるかできぬかがなかなか判明しなかったからなのです。」
「お仕事、何かあったんですか?」
「いえ、その…仕事で不都合があったわけではなく、実は武士団に流行り病で倒れる者が続出しておりまして…。」
「ええ!」
巷で病が流行っているという話は藤姫からの文であかねも知っていた。
藤姫からは万が一にも病の症状があった時には飲んで欲しいと、なにやら高そうな薬草が文と共に届けられたのだ。
けれど、まさか屈強な男達が集っている武士団で流行しているとは思いもしなかった。
「頼久さんは?頼久さんは大丈夫ですか?」
「はい、私はなんとも。ですが、何しろ次々に倒れる者が出たので、警護を代わりに誰がすればいいかなど、調整することも多く、家に戻れなかったのです。」
「そうだったんですか。」
「どうしても一目、神子殿のお姿を拝見したく、こうして戻ってまいりました。寝顔だけでも拝見してすぐに戻るつもりでしたので庭から…。」
「そんな!ちゃんと起こしてください!私だって頼久さんに会いたいです。」
きりりと抗議されて、頼久は苦笑しながらうなずいた。
「次からはそうさせて頂きます。」
夜中に眠っている妻を起こすことなど頼久にはできるはずもなかったが、妻が自分に会いたいといってくれることは嬉しくて、思わず頼久はうなずいていた。
「では、私はそろそろ。」
「あ、そうか、戻らないといけないんですよね。」
「はい、申し訳ありません。」
「謝らないで下さい。頼久さんが悪いわけじゃないんだし。それと、頼久さんもちゃんと休んでくださいね。頼久さんが流行り病になんかなったら私…。」
「それはご心配なく。日頃から鍛えておりますし、龍神のご加護もありましょうから。」
「そっか、じゃあ、私は龍神に祈ってますね。」
「よろしくお願い致します。」
この京を救った本物の神子が龍神に祈るというのだから、頼久にとってこれ以上心強いことはない。
心配そうに、けれどなんとか微笑を浮かべようとしているあかねに一礼して、頼久は立ち上がった。
きっとあかねが名残惜しそうに見送ってくれているだろうことがわかっていながら、頼久は振り返らずにその場を立ち去った。
振り返ってその顔を見てしまったら、きっともう武士団の仲間のもとへは戻れなくなると確信したからだ。
寂しそうに微笑するあかねの姿を見たら、小さなその体を抱きしめて離せなくなるに決まっている。
だから、頼久はあかねに一度背を向けると、そのまま早足で屋敷を後にしたのだった。
きりりと結い上げられた長い髪。
手には大きな布でくるんだ荷物が一つ。
いでたちは動きやすいように水干で。
お供には陰陽師、安倍泰明ただ一人。
これで準備万端文句なし。
あかねは一つうなずくと、屋敷の門を背に歩き出した。
もちろん、何も言わなくても泰明がその隣をついてくる。
どうしてこんな物々しいことになっているのかと言えば、その一番の原因はあかねが七日間も頼久の顔を見ていないから、だった。
武士団で流行した流行り病はどうやら猛威をふるったらしく、その武士団の若棟梁である頼久は病人の看病と仕事に追われて全く帰宅できなくなっていた。
頼久や武士団がどんな状態なのかは気を使った藤姫から逐一報告があったのであかねも現状がどんな状態なのかは良く心得ている。
だから、頼久に帰ってきて欲しいなどとは絶対に言わない。
けれど、あかねの性格からして黙って屋敷で頼久の帰りを待っているのも無理な相談だった。
結局、あかねは武士団のみんなは頼久にとって家族同然の仲間であり、頼久にとって家族同然のものは妻である自分にとっても家族同然だという結論に達した。
そして、当然のように言い出したのだ、自分も武士団の病人を看病しに行く、と。
以前から一人では出歩かないと頼久と約束していたあかねは、忙しいはずの武士団の武士達や頼久の手をわずらわせることなく外出するためにはどうしたらいいかを考えた。
そこで白羽の矢が立てられたのが泰明だった。
泰明なら陰陽師だから病気にもある程度の知識があるし、護衛としても文句なしだったからだ。
急いで文を出せば泰明はいつも変わらぬ落ち着いた表情ながら、あかねを待たせることなくすぐに駆けつけてくれた。
そして今に至る。
武士団の病人を看病しに行くというあかねを止めるでもなく、泰明は「問題ない」と一言つぶやいたきり、あかねに言われるがままこうして武士団へと向かうあかねの警護をしていた。
この京で知らぬものがないというほどの陰陽師である泰明を従えて、あかねは土御門邸へ乗り込み、そしてすぐに武士溜まりへと駆けつけた。
武士溜りはあかねが予想していたよりもずっと深刻な状況に見えた。
いつもなら頼久の仲間達がこぞって剣の腕を磨きあっている道場にはぎっしり褥が敷き詰められており、そこにいつもは元気に木刀をふるっている武士達が横たわっていた。
「みんな…。」
想像以上の有様に一瞬は面食らったあかねだったけれど、いつまでも呆然としているような元龍神の神子ではない。
あかねは持ってきた包みを開くと腕まくりをして猛烈に作業を始めた。
「泰明さん、熱を下げるための薬草ってこれでいいんですよね?」
「そうだ。煎じて飲ませれば良い。」
「了解です!」
張り切って作業を始めたあかねを目端で見守りながら、泰明はあちこちで呪を唱え始めた。
おそらくは邪気払いだろうと判断して、あかねは黙々と煎じ薬を作っては病人に飲ませる作業を開始する。
そうすること数十分。
部屋の中にいる病人の半分ほどに薬湯を飲ませた頃、あかねの背に懐かしい声がかけられた。
「神子殿?」
「あ、頼久さん。お帰りなさい。お仕事、お疲れ様です。」
額にうっすらと汗を浮かべながらあかねは笑みを浮かべて振り返った。
耳に届いた声は一週間ぶりに聞く大好きな声で、その声を聞いただけであかねの顔は自然と微笑を浮かべた。
「神子殿…何故ここに……。」
「ああ、一人じゃないですよ。ちゃんと泰明さんに一緒に来てもらいましたから安心してください。」
「いえ、そうではなく…泰明殿?」
事態を把握できない頼久は、くるりと辺りを見回して病人の様子を見ている泰明の姿を確認すると、すぐにその視線をあかねへと戻した。
あかねは今病人に薬湯を飲ませた器を持って、愛らしくとてとてと頼久の方へ歩み寄ってくるところだった。
「神子殿、これはいったい…。」
「武士団でみんな倒れちゃって大変だって聞いたから、私にも何かできることないかなと思って、薬草持ってきたんです。」
「神子殿…。」
「だって、頼久さんの仲間は私にとっても仲間だし、武士団のみんなには私もお世話になってるし…。」
明らかに目の前に立つ頼久の表情が曇ったので、あかねはしゅんとうつむいた。
どうやら自分は余計なことをしたらしいと気付いたから。
頼久はというと、一つ深い溜め息をついてあかねの手をとった。
「頼久さん?」
「泰明殿、しばらくここを頼みます。すぐに人をよこしますので。」
「問題ない。」
泰明とそう一言交わした頼久は、あかねの手をとって道場を出た。
向かう先は頼久の自室だ。
どうやら頼久が不機嫌らしいと悟ったあかねは、黙って頼久に手を引かれるままについていくしかなかった。
武士溜りの奥にある頼久の部屋は人の気配もなくて、そこに二人で足を踏み入れれば、すっかり外の世界と遮断されて二人きりになってしまった。
「あの…その…。」
これは謝ってしまう方がいいのだろうかとあかねがもじもじしていると、その視界がいきなり暗くなった。
頼久に抱きしめられたのだと気付いたのは数瞬後のことだ。
なにしろあかねはすっかり怒られるものと思っていたから。
「頼久さん?」
「神子殿のお心は嬉しく思いますが、万が一にも神子殿に病がうつるようなことがあっては…私は…。」
頭上から降ってきたのは苦しそうな声。
あかねははっと目を開いて頼久を見上げた。
「だ、大丈夫ですよ。私丈夫だし、それに、泰明さんがなんか護法をかけてくれましたし。」
「万が一ということがございます。」
耳元に聞こえた低い声は苦しそうに震えていて…
言葉と共にあかねの体を抱きしめる腕にはギュッと力が込められて…
「し、心配させちゃってごめんなさい…でも、何か私も役に立ちたくて…。」
「神子殿のお心はきっと皆にも届いたことでしょう。今日はこの辺で御帰宅頂けませんか?」
腕の力がゆるんで、あかねが顔をあげるとそこには頼久の懇願するような顔があった。
心の底からあかねの身を心配しているのだろうことはその顔を見れば明らかだ。
このままうなずいてしまえばまたしばらく頼久の顔は見られなくなってしまう。
けれど、こんなふうに懇願されてしまっては素直にうなずいて帰るしかないのかとあかねが覚悟を決めたその時、急に泰明の声が聞こえた。
「お前達はもう帰ってよい。」
「へ?泰明さん?」
「泰明殿?」
あかねと頼久が慌てて辺りを見回せば、ちょうど濡れ縁の辺りに一匹の小さなネズミがたたずんでいた。
あかねと頼久がその姿を見つけると、ネズミはちょこちょこと二人の前に進み出てじっと二人を見上げた。
「えっと…もしかして泰明さんの式神さんですか?」
「そうだ。こちらは私一人で手が足りる。これ以上広がるようならお師匠も行動を起こされるだろう。お前達が帰宅しても問題ない。」
「では、神子殿…。」
「頼久、お前も帰るのだ。」
そうと決まればと慌ててあかねを外へ出そうとした頼久にネズミは断固とした態度でそう言い放った。
姿は小さなネズミでも、迫力は泰明そのものだ。
「しかし、私にはまだ仕事が…。」
「なくなった。」
「は?」
「お前が七日も神子の屋敷に帰っていないと知った藤姫が激怒しているそうだ。」
「それは……。」
「神子と共に帰らない場合、今すぐ藤姫に報告に行くと友雅が言っているぞ。」
八葉の中では最も老獪ともいえる人物がどうやら武士団を訪れているようだと知って、頼久は眉間にシワを寄せた。
友雅が出てきた上にその背後に藤姫がいるとなれば、もう頼久に選択肢はない。
「承知致しました。では、神子殿、失礼いたします。」
「はい?」
何を失礼するというのだろう?とあかねが疑問に思った刹那、その体は頼久によって抱き上げられていた。
「よ、頼久さん?」
「牛車を回す間も惜しいので、お運びさせていただきます。」
「あ、歩けます!」
「急ぎますので。」
「神子、頼久のいうことを聞け。おとなしくすぐに戻るのだ。」
「泰明さんまで……わかりました。」
あかねが渋々うなずくのと同時に頼久の足は動き出した。
向かうはもちろんあかねの屋敷。
妻を大事そうに抱えて歩み去る頼久の後ろ姿を小さなネズミはその視界から消えるまで見送っていた。
「当然のことなのですが…。」
「はい?」
「静かです。」
「ああ、武士溜まりに比べたらそうですねぇ。」
泰明によって強制帰宅させられたあかねと頼久は、午後の一時をあかねの局で過ごしていた。
ここ一週間働きづめだった頼久にとっては驚くほど静かで穏やかな午後だった。
手を伸ばせばすぐそこには何よりも大切な妻の姿があって、御簾の向こうにはよく手入れされた庭がある。
女房達は気を利かせたのか気配さえ感じさせず、ただ、穏やかな時間が二人の間に流れていた。
「なんだか申し訳ないです。」
「何が、でしょうか?」
「だって、武士団のみんなは病気でつらい思いしているのに…。」
「いえ、泰明殿が自ら色々としてくださっているのです、すぐによくなるでしょう。」
「だといいですけど…泰明さんなら大丈夫ですよね?」
「はい、私などよりはよほど病についてはお詳しいでしょう。」
「ですよね。私よりもずっと詳しいし。やっぱり私、余計なことしちゃったなぁ…ごめんなさい。」
あかねが頼久の方へ手をついて深々と頭を下げれば、頼久が慌ててあかねの体を抱き寄せた。
「余計だなどと!そのように思ってはおりませんので。」
「でも…。」
「神子殿の御身にわずかでも危険が及ぶことを私が恐れたのです。神子殿のお心を台無しにしてしまい、申し訳なく…。」
「台無しになんてしてないです。それに、武士団のみんなのために何かしたいと思ったのは確かにそうなんですけど…。」
「神子殿?」
「頼久さんにどうしても会いたくなっちゃって、それで無理やり出て行ったっていうのもあって……ごめんなさい…。」
頼久にとっては嬉しいそんなことをうっすら涙さえ浮かべてつぶやくように言われては、もう頼久の口から言葉は出てこなかった。
ただ、あかねを抱き寄せたその手に力を込めて、想いが伝わるようにと抱きしめる。
あかねは逞しい腕から伝わるぬくもりに、うっとりと目を閉じた。
仲間を思い、休む間もなく働きながらなお自分のことを想っていてくれた人。
大好きなその人の想いは温かなぬくもりとなってあかねをやさしく包んでくれた。
管理人のひとりごと
あかねちゃん流行り病と闘うの巻でした(笑)
半分は頼久さんに会いたかったからですが、あかねちゃんは武士団のみんなも心配だったのですよ!
頼久さんは仲間もあかねちゃんもどっちも大事。
もちろん武士団には若棟梁としての責任もあるしね!
ということでどちらもとろうとして身動きできなくなります(’’)
そこで激怒する藤姫とその藤姫に派遣されてきたそろそろ藤姫の犬になりつつある友雅さん(爆)登場!
で、この二人には逆らえない頼久さんがここぞとばかりにあかねちゃん抱えてご帰宅でした♪
あ、流行り病はこのあと泰明さんがすっぱり治しましたのでご安心を(笑)
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