頼久は自らが呼吸する音にさえ気を使いながら視線を膝の上へと落していた。
ここは頼久の自宅。
縁側。
夕暮れ時、夏の陽射しが少し和らいで、生ぬるかった風に少しだけ涼やかさが混じってきた時刻。
ちょうど庭の木の影が差すその場所で、頼久は静かに己の膝の上を眺めていた。
何故なら、頼久の膝の上には今、安らかな寝顔があるからだ。
頼久がこれ以上はないというほど幸福な顔で見下ろしているその寝顔はもちろん、愛しい新妻、あかねのものだった。
何故あかねの寝顔が頼久の膝の上にあるのかと言えば、話は30分ほど前に遡る。
夏は決して苦手ではないというあかねは連日の暑さにも弱ることなく、元気に暮らしていたのだが…
さすがに今日は朝からの猛暑で疲れたのか、夕方になって陽射しが弱まり始めると、うとうとと縁側で居眠りを始めた。
ソファで新聞を読むふりをしながら愛しい人の姿を盗み見ていた頼久は、微笑ましいあかねの姿に微笑んで、それからそのまま昼寝をしてしまってはどうかと提案した。
この時間に寝てしまっては夜眠れなくなるからとあかねは苦笑したのだが…
暑いというだけで疲れを覚えている体から眠気を払うことはできないらしく、やはり縁側で船を漕いでしまい…
うとうとと眠るあかねも愛らしいには違いないが、それをだまって見ているわけにもいかず、頼久は半ば読んでさえいなかった新聞を置いてあかねの隣に座った。
もちろん、自分の膝を枕にと差し出すためだ。
当然のことながらそんなことはできないと驚くあかねに頼久は是非にと詰め寄った。
あかねにゆっくり横になってもらいたいというのは頼久の本心の一つに違いない。
だが、それ以上に、頼久はこの暑い中、あかねの体に触れる正当な機会をみつけたというのも真実の一つだった。
暑がるあかねにこれ以上暑苦しい思いをさせてはいけないと常日頃から気を使っている頼久だ。
こんなことでもなければ、暑い昼間のうちにあかねに触れることなどそうそうできはしない。
頼久が是非にといってもまだあかねは膝枕は普通、女性が男性にしてあげるもののはずだと言ってごねていたのだが、頼久の無言の訴えには勝てず、結局、頼久の膝を枕に横になったのだった。
横になってしまえば眠気が襲ってくるのはあっという間で…
すやすやと寝息をたてるまでにそう時間はかからなかった。
耳に届くかすかな寝息さえも愛しくてならないその人の寝顔が膝の上にあるとなれば、頼久が満面に幸福をたたえて見つめないわけがない。
というわけで、あかねが眠りについてから30分、頼久は飽きもせずただじっとあかねの寝顔を見つめながらその午睡を守っているのだった。
真の友である天真辺りがこの様子を見かけたら、きっと困ったような苦笑を浮かべて黙って去って行ったことだろう。
それほど頼久の姿は幸福に満ちていて、あかねは天使のように穏やかに眠っていた。
「ん〜。」
頼久は無意識のうちに息を止めた。
あかねが薄く開いた唇から小さな声を発して身じろぎしたからだ。
眠りを妨げてはいけないと反射的に息をつめた頼久だったが、次の瞬間にはあかねの目がゆっくりと開いていた。
もう少しゆっくりと眠っていてほしかったと思う一方で、頼久はゆっくり開いたあかねの大きくて美しい瞳を見られたことを喜んでもいた。
自分を映し出すあかねの愛らしい丸い瞳はいつも頼久に幸せを与えてくれるのだ。
「あ…。」
少し寝ぼけて、それからどうして自分がこんな状態なのかに思い至ったらしいあかねは恥ずかしそうに頬を赤く染めながら起き上った。
膝から今まで感じていたぬくもりが離れていくことを寂しいと感じる間もなく、頼久は愛らしくぺこりと頭を下げるあかねに微笑んでいた。
「おはようございます。」
「おはようございます。よくお休みになれましたか?」
「それはもう……でも、すみません。なんだか長い間、膝枕してもらったみたいで…。」
「長くはありません。せいぜい30分かそこらのことです。お気になさらず。」
「30分も!……ほんのちょっとのつもりだったのに…。」
「いえ、私としてはもう少しゆっくりお休み頂きたかったくらいです。」
「夜になっちゃいますよ。」
「夜通しでもかまいません。」
困ったように苦笑するあかねに対して頼久は至って真剣だ。
真剣だとわかっていればこそ、あかねの苦笑は深くなった。
「それじゃあ晩御飯も作れないじゃないですか。」
「今日も一日ひどい暑さでしたし、今も陽射しが和らいだとはいえ、暑いことに変わりはありません。夕飯は外で食べることにしては…。」
「ダメです!昨日もそう言ってお蕎麦食べに行っちゃったじゃないですか。毎日外食なんて贅沢だし、それに体にだって悪い気がします。」
「ですが、これから火を使って調理をするのではあかねがつらいでしょう。」
「つらいって言うほどのことじゃないです。それに、頼久さんに手料理食べてもらいたいし…。」
そう、ここは新婚家庭なのだ。
新妻のあかねとしてはせっかく旦那様になってくれた大切な人に外食ばかりさせたくはない。
そしてその旦那様はといえば、暑い中、暑いキッチンで火を使って新妻に料理などさせたくはない。
と、犬も食わないような意見の相違に、二人は顔を見合わせて瞬きを三度ほどして微笑んだ。
「では、調理はお手伝い致します。」
「有り難うございます。今日は冷やし中華を作ろうと思ってたんです。食べやすいですし、食べる時は暑くならないから。」
「承知しました。では、湯を沸かして麺を茹でるのは私にお任せを。」
そう言って立ち上がって、頼久はあかねへと手を差し出した。
その手を嬉しそうに微笑んだあかねがつかんで立ち上がる。
二人の姿はゆっくりと暗くなっていくキッチンに並んだ。
窓から差し込む夕陽に、並ぶ二人の影が長く伸びた。