
頼久は朝陽を浴びて一つ深呼吸をした。
昨夜から徹夜で仕事をこなしてやっと迎えた朝だ。
仕事といっても頼久は今回、指示を出し続けていただけなのだが、それでも責任は重大で疲労はどんよりと体の奥に淀んでいるような気がした。
青空に昇ったばかりの朝陽がまぶしくて目を細めて、そして脳裏にちらりとその陽の光のような人のことを思い起こした。
この時間ならまだ眠っているだろう愛しい妻の姿だ。
頼久にとっては世界を照らす陽の光と変わらない存在の妻と共にいられなかった昨夜は、本当に落ち着かなかった。
仕事はなんとか無事に終えたが、常にその脳裏には妻の姿があった。
もう少ししたら後始末を部下に任せて帰宅できるだろう。
そうすれば輝かんばかりのあの笑顔を見ることができる。
そう思えばこの一晩の仕事も苦ではなかったと思えるから不思議だ。
「若棟梁。」
朝陽を一身に浴びて疲れを振り払っていた頼久は、傍らの部下に呼ばれて我に返った。
振り返ってみれば、こちらも疲労を隠せない顔の若い部下が真剣な眼差しで自分を見上げていた。
「どうした?何かあったか?」
「藤姫様がお呼びです。」
「私を?」
「はい。」
「わかった、すぐに行く。」
何事かと一瞬小首を傾げた頼久だったが、おそらくは妻の様子でも聞きたいのだろうと一人で納得した。
藤姫はいまだにあかねを自分の姉とも慕っていて、頼久にも何かと気遣いをするようにいつも助言を与えてくれるのだ。
おそらく今回もそういう話だろうと頼久はすぐに身支度を始めた。
一晩中仕事をしていたから髪も乱れているし、衣服も変える必要があるだろう。
何しろ藤姫は頼久の主筋の姫君なのだ。
妻のためにもみっともない格好で訪ねるわけにはいかない。
頼久は一通りの衣服を着替えて髪も結い直すと、太刀を手に自室を後にした。
廊下を歩いていると、あちこちで疲れた顔の部下達が頭を下げてくる。
一晩かけて土御門邸全体を盛大に警護した後だから、部下達にも疲労の色が濃かった。
今をときめく左大臣が宴を催したその警護だったのだから神経をすり減らしても無理はない。
頼久は気を使うなというように軽く手を振って部下達をなだめながら歩みを進めた。
彼らにもきっと家族があるのだろう。
そう思えば、早く解散して家に帰し、家族に会わせてやりたいと思う。
自分がそんなふうに思えるようになったのも妻のおかげと思い起こせば、頼久もまた早くあの愛らしい妻のいる屋敷へ帰りたくなるのだった。
だが、まだ仕事は全て終わったわけではない。
しかも、今は主筋に当たる藤姫に呼ばれている最中だ。
帰宅までにはまだしばらく時間がかかるだろうと、頼久は一つ溜め息をついてから藤姫の局の前に立った。
「藤姫様、源頼久、お呼びとうかがい、参上致しました。」
「ご苦労でした。もう今日は帰ってお休みなさい。」
御簾の向こうから聞こえてきたのは機嫌のよさそうな少女の声だった。
その声音は幾分か大人びてきてはいるが、まだまだ少女の気配が濃い。
頼久は下げていた頭を上げて御簾を見つめながら口を開いた。
「お心遣い有り難く存じますが、まだ後片付けが残っておりますので、それを終えてからと…。」
「いえ、今すぐお帰りなさい。」
「はぁ…。」
いきなりどうしたのかと頼久が首を傾げていると、まだ幼さの残る姫は御簾の向こうで深い溜め息をついた。
「頼久がそのようなことでは神子様がきっと寂しい思いをなさっておいでです。」
「それは…。」
確かにそうかもしれないと頼久はうつむいた。
それは以前から頼久も気にしていたことだ。
「頼久は昨日から神子様のもとへ帰らずに働きづめだったのでしょう。先日、神子様がいらっしゃった世界では夫というものは毎日きちんと妻のもとへ帰って来るものとお聞きしました。例外はあるとおっしゃってはいましたが…それでも頼久のように家に帰らぬ夫ではきっと神子様が寂しい思いをしておいでです。神子様は気丈なお方ですから決して頼久にそれを見せはしないでしょうが、そこは頼久が気遣って差し上げなくてはいけません。」
「はい…。」
「ですから、今日はもう帰りなさい。それから、お父様にお話して明日はお休みを頂きましたから、一日神子様のお側にいて差し上げなさい。」
「はっ、お心遣い、有り難く。」
頼久は遙かに年下の少女に対して深々と一礼した。
藤姫は主筋の少女だというだけでなく、頼久よりは遙かに年下でありながら頼久よりも数段気配りのできる人物だ。
その点、頼久はたとえ藤姫が主筋の少女ではなかったとしても気遣いという点ではおそらく頭が上がらなかっただろう。
にこにこと満足そうに微笑んでいるであろう御簾の向こうの藤姫に急かされるように、頼久は土御門邸を後にした。
藤姫が語っていたことはもっともだと頼久も思っている。
あかねからはもといた世界の話をよく聞かせてもらっているが、それはそれは便利な世界で、夫と妻はたいていが仲睦まじく、なるべく同じ時を過ごすようにするのだという。
しかも、二人きりの時を増やすために二人そろって旅に出ることが一生に一度や二度ではないらしい。
もちろん、貧しい家でそれはかなわないが、あかねのいた世界ではそれほどまでに貧しい人間の数はこの京から見れば格段に少ないということだった。
おそらくはあかねもこの京に残るようなことがなければ、元いた世界で夫と睦まじく寂しい思いをせずに過ごせていたのかもしれない。
そう思えば、あかねの屋敷へと向かう頼久の足の動きは早くなる一方だった。
ほぼ駆け足の状態で門をくぐり、いつものように庭を横切ってあかねの局の前へと出た頼久は、そこで思いもしなかった光景を目にした。
いつもは下げられている御簾が上がっていて、庭からはあかねの局がよく見えた。
そしてそこには…
脇息に持たれて眠っているあかねの姿があった。
出会った頃は短く切りそろえられていた髪がいつしかのびて背中にまで流れている。
頬にかすかにかかる髪の間から見える寝顔は愛らしくも美しくて頼久の目にはまぶしいほどだ。
この屋敷は泰明の結界や式神で守られている上に武士団の武士や女房達もあかねが龍神の神子ということもあって厳重に守りをかためている。
だから御簾が上げてあっても特に問題はないのだが、それでも最近京の女性の常識を身に着けようと努力しているあかねがわざわざ御簾を上げていたのは頼久の帰りを待っていたからだろう。
やはり寂しい思いをさせていたかと頼久が溜め息をついて濡れ縁へと上がると、そこで頼久は目を大きく見開いた。
あかねは十二単を身に着けて脇息にもたれて眠っている。
唇にはうっすら紅がひかれていて、髪は以前より長い。
よくよく見ればそれは京の貴族の女性達の姿そのもので、頼久は濡れ縁に立ったまま、そこから一歩もあかねに近づくことができなくなってしまった。
今目の前にいるのがたとえば藤姫のような高貴な女性であったら、頼久はこんなところに立つことも、直接姿を見ることさえ許されない身分なのだ。
毎日自分は妻なのだ、身分など自分には関係ないのだと説いてくれるあかねのおかげで最近は身分の差を過度に気にしなくなりつつあった頼久だったが、それでもこうして美しく着飾って脇息にもたれているあかねはどう見ても高貴な女性だ。
とうてい自分が触れていいような女性ではないのだと改めて実感して、頼久はその場に凍りついた。
そう、あかねは龍神の神子、現在は左大臣の養女でもある。
実際、一介の武士である頼久にはとうてい手の届かない存在。
たまたまあかねという女性が身分のない世界からやってきて、たまたま自分という無骨な男に想いを寄せてくれた。
それは奇跡のような偶然だ。
そう、奇跡なのだ。
頼久が、自分がいかにありえないような奇跡的幸運の上に立っているのかを改めて自覚したその時、あかねの目がゆっくりと開いた。
あかねは上半身を起こして眠そうに目をこすって、それからやっと濡れ縁で立ち尽くしている頼久に気づいた。
「頼久さん!帰ってたんですね、ごめんなさい、私せっかく早く起きたのに寝ちゃって…。」
慌てて立ち上がって頼久へと駆け寄って、あかねは十二単の重さにつんのめった。
素早くその体を頼久が受け止めると、あかねが顔を赤くして苦笑を見せた。
「ごめんなさい、帰ってきたばかりの頼久さんに……十二単着てたの忘れてました…。」
頼久の腕につかまりながらそう言って衣の裾を気にするあかね。
その小さな体を腕一本で受け止めながら、頼久は何も言えずにいた。
この世で最も尊いといってもいい女性をこうして自分一人の腕で抱いていていいものなのだろうかと、改めて不安になる。
頼久はあかねをしっかり立たせると自分の腕をあかねから離した。
「頼久さんが帰って来るのが待ち遠しくて御簾を上げてもらってたから、頼久さん以外の人が来たら奥に入らないとと思って凄く気にして起きてたんですけど、昨日寝るのも遅くってそれでお天気もよくてつい眠くなっちゃって…。」
「……。」
「頼久、さん?」
あかねはじっと長身の夫の顔を見上げた。
もともと体力自慢な人でもあるから、一晩の徹夜仕事くらいでは顔色一つ変えないはずなのに、今の夫はどこか力なげではかなくて、あっという間にあかねの顔には心配そうな表情が浮かんだ。
「体調でも悪いんですか?徹夜でお仕事で疲れました?すぐ寝ます?それともご飯にしましょうか?」
「いえ…。」
「でも、顔色よくないし、なんか元気ないです。ごめんなさい、私が静かにお迎えしてすぐ食事の用意をして寝てもらわないといけないのに…。」
そう言って大きな目に涙を浮かべるあかねの顔を見て、頼久は大きく息を吐いた。
「神子殿はすっかりこの京の女性になられたのだなと、そう思っていただけですので。」
「そう、ですか?」
「はい、十二単もよくお似合いですし、髪ものびて……。」
「髪はずいぶんのびましたよね。ちょっと嬉しいです。早く藤姫くらいにならないかなって思ってるんですけど……これくらいならもう頼久さんが恥をかいたりしませんか?」
「は?」
「前みたいに髪が短くて水干で外を歩いてたりしたら私ってどこの童だって聞かれることがよくあったし、頼久さんみたいに武士団の若棟梁っていうちゃんとした地位の人の妻がそんな変な外見の女の子ってきっと恥ずかしいんだろうなと思ってて…。」
「そのようなことは決してありません!」
急に聞こえた大声にあかねが目を丸くした。
頼久は確かに武人で無骨なところはあるけれど、めったに慌てたり声を荒げたりすることがない。
特に相手があかねとなれば声が大きくなることはまず皆無と言ってもよかった。
その頼久が急に大声をあげたものだからあかねはすっかりキョトンとしてしまった。
「神子殿のことを私が恥じるなど、ありえません。」
「でも…。」
「今も、脇息にもたれておいでの神子殿は、本来であれば私のような一介の武士にはお姿すら拝見することがかなわないお方なのだと実感していたところです。」
低い声でそう語る頼久にまた一瞬キョトンとしたあかねは、すぐにその顔に怒りを見せた。
「また頼久さんはそんなこと言って!」
「神子殿はそうおっしゃいますが、実際に龍神の神子であり左大臣様の養女であられる神子殿は私にとって崇めるお方ではあってもこのようになれなれしくすることが許される方ではありません。ご自身が生まれ育った世界を捨ててまで私の側にとおっしゃって下さる神子殿のお言葉が奇跡だと…。」
「奇跡なんかじゃありませんからっ!」
「いいえ、奇跡です。私には夢見ることさえ許されないような奇跡だというのに、私は神子殿を寂しがらせるばかりで何一つお望みの通りにはできず…。」
「寂しがらせるって、それはお仕事なんだから気にしなくていいって言ってるじゃないですか!」
必死になってあかねが力説しても頼久は暗く沈んだ瞳であかねを見つめるばかりで、少しも元気を取り戻してはくれない。
いつもは必死に説明すればわかってくれるのに、今回はどうやら重症らしいと悟ってあかねは一つ溜め息をつくと、何かを決意したようにきりっとした顔で頼久を見上げた。
その顔が怨霊と戦っていた頃の勇ましい龍神の神子のものに戻っていて、頼久の目が大きく見開かれる。
そうだ、この人はただの京の貴族とは違うのだ。
世界が終わるという未曾有の危機から全てを救って見せたこの世に二人といない稀有な人なのだったと頼久が気づいた瞬間、あかねの体がふわりと浮き上がったように見えて、頼久の唇が優しいぬくもりでふさがれた。
首に回された腕で前かがみにされて、力いっぱい背伸びしたあかねに口づけられたのだと気づいたのは数瞬後のこと。
唇を離して真っ赤な顔で頼久の首を解放したあかねは、それでもまだ不機嫌そうな上目遣いで頼久をじっと見つめていた。
「頼久さんはいつもそんなふうに言いますけど、私からしたら頼久さんが私を妻にしてくれた事の方が奇跡的なんですから。」
「そのようなことは…。」
「だって、私は京の同じ年頃の女の子から見たら全然子供だし、京の常識で知らないこともたくさんあるし、それに頼久さんは凄くステキでたくさんの女の人に好かれてそうだし…。」
「そのようなこともありませんが…。」
「あります!それでも側にいていいって言ってもらえたから、私もできる限りのことを頑張ろうと思って努力してるつもりですけど、でもなかなかうまくいかなくて迷惑もいっぱいかけてるのに……。」
「神子殿…。」
「頼久さんにそんなふうに言われると、側にいちゃいけないって言われてるようなそんな気がして、不安、です…。」
「そのようなことはっ!」
「私は頼久さんが大好きです。だから側にいたいです。」
「それは、私も同じです。」
「本当に?」
「本当です。」
「じゃぁ、もう身分のこととか気にしないでください。」
「身分ということではなく……。」
「はい?」
「まこと神子殿は斎の姫なのだとよくわかりました。」
「斎の姫?」
「神に仕える女性のことです。」
「それはまぁ、龍神の神子だから、そう、かも?でも、今はもう違いますよ。今は源頼久の妻ですから。」
「神子殿…。」
神に仕える尊き存在よりも自分の妻であることを誇ってくれるのかと思えば、頼久の顔にやっと微笑が浮かんだ。
そのことが嬉しくてあかねもやっと微笑んだ。
「さ、頼久さんお腹すいてますよね、すぐ朝餉の支度しますね。それとも一度横になりますか?」
ここからは妻の仕事とばかりにあかねが張り切ると、頼久は微笑を浮かべながら首を横に振ってあかねをそっと抱き寄せた。
両腕でしっかり小さな妻の体を囲って、首まで赤くなる愛しい人の髪に口づける。
「頼久さん、疲れてるんですから休まないと。」
「疲れなど、神子殿のお言葉で吹き飛びました。」
「そんなこと…。」
「本日はお言葉のみならず口づけも頂きましたし。」
艶やかな声でそう囁かれて、あかねははっと視線を上げた。
そこには嬉しそうな頼久の端整な笑顔が。
「そ、それは頼久さんが説明してもわかってくれなかったからっ!」
顔を真っ赤にして慌てるあかねの髪をそっとなでて、頼久はその唇に掠めるような口づけを落とす。
それは先ほど自分へ贈られた口づけのお返し。
そして自分の想いを伝える唯一の術だ。
あかねは真っ赤な顔のまま、それでも幸せそうに目を細めて頼久に抱きついた。
「もうちょっとだけですよ。もうちょっとだけこうしてからちゃんと朝餉食べましょうね。」
「御意。」
もうちょっとだけ、あかねはそう言ったのだけれど、けっきょく頼久とあかねが朝餉を口にしたのはもう陽が天頂へと昇りきってからのことだった。
それまでの時間をあかねは頼久の腕の中、膝の上で静かに過ごしたのだった。
管理人のひとりごと
斎姫(斎王)っていうのは伊勢神宮や賀茂神社に奉仕した未婚の内親王、または女王のことです。(by広辞苑)
まぁ、神にお仕えする女性という意味ではあかねちゃんも似たようなもんです(’’)(マテ
基本的には天皇と血のつながっているお姫様しかなれませんでした。
つまり高貴なお方ってことね。
頼久さんはあかねちゃんが寝ている姿を見て、そういう高貴なお方をイメージしたんですな。
実際には自分から旦那様に口づけしちゃうような大胆な奥様でしたというお話(コラ
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