
頼久は夜空の下に立っていた。
背には一本の電信柱。
頭上には満点の星空が広がっている。
もうすぐ冬を迎える夜の空気はピリリとした寒さを含んでいたが、今の頼久にとってそんなものはたいした問題ではない。
頼久には寒空の下であっても、あかねを待つ時間は幸せそのものだ。
だいたい、寒い夜に一人で立っていることなど、京にいた頃を思えば警護以外の何ものでもない。
頼久にしてみればそれは日常茶飯事、普通の行動だったのだ。
あかねと同じ世界へやってきて、こちらの世界で生きてきた記憶を与えられた今でもその感覚は変わらない。
今、頼久の目の前には「元宮」という表札がかかっている玄関が見えていて、その上には灯りのついているあかねの部屋の窓がある。
つまり、頼久は深夜、あかねの部屋の前に立っているのだ。
これこそ京にいた頃の警護そのものではないか。
そう思えば、頼久の顔には自然と笑みが浮かんだ。
こうして立っていると今も京にいた頃、八葉の一人として、また武士として神子であったあかねの眠りを守っていたあの日々を思い出す。
あの頃はただひたすらに守ることに必死で、かなわぬと決め付けた想いに苦しんだものだった。
それを思えば、今のこの時間など幸福なことこの上ない。
とはいえ、こんな冬直前の深夜に頼久がこんなところに立っているのにはちょっとしたわけがある。
天真辺りがここに居合わせれば、とうとうストーカーになったかと言われそうだが、もちろんそんなつもりで頼久はあかねの家の前に立っているわけではない。
事の起こりは昨日の電話だった。
あかねが設定してくれたメロディが携帯から流れて、頼久は慌ててそれを手に取った。
「神子殿ですか?」
開口一番そう尋ねたのは、最近忙しくて会えない恋人のことをちょうど考えていたからだ。
もしかして自分の空耳だったかと疑っていた頼久の耳に携帯の向こうから聞こえてきたのは紛れもないあかねの声だった。
『あ、はい、今少し、いいですか?』
「はい、何が御用でしょうか?」
『御用、というか…お願いというか…。』
申し訳なさそうに小さくなっていくあかねの声に頼久は苦笑した。
お願いなどと愛らしい。
自分には過ぎた恋人のためならどんなお願いだってきいて見せるというのに、あかねはいまだに頼久に何か頼む時、とても申し訳なさそうにするのだ。
それがたとえ頼久にとって至福の時を与えてくれるあかねの小さなわがままである時もそうだ。
「なんなりとおっしゃってください。」
『頼久さん、お仕事とか忙しくないですか?』
「いつもと変わりありません。」
『風邪ひいてたりしませんよね?』
「はい、いたって健康です。」
あかねの質問に答えながら頼久の顔には優しい笑みが浮かぶ。
全て返答は真実だが、たとえ仕事が忙しかろうと風邪で高熱を出していようとあかねのお願いをきかないなどという選択肢は頼久にはもとよりない。
そんな頼久を理解しているだけに慎重に質問してくるあかねの優しさが愛しくて、頼久の顔には笑みが絶えないのだ。
『実は、明日の夜中というか明後日の早朝というか…。』
「はい…。」
『頼久さんと一緒に見たいものがあるんです。』
「見たいもの、ですか…。」
『しし座流星群が見れるって今日、学校で聞いて…できたら頼久さんと一緒に見たいなと思ったんですけど…。』
そんなお願いならかなえるのは簡単だ。
頼久の顔に浮かぶ笑みが深くなった。
「私はかまいませんが、早朝、なのですか?」
『はい、その時間が一番たくさん流れるみたいなんです。朝の5時くらいに頼久さんの家に行けば二人で見れると思うんですけど…。』
「朝5時…。」
『そんな時間に起こされるの嫌ですか?』
突然悲しそうにあかねの声が曇ったので、頼久は思わず慌てて携帯を取り落としそうになってしまった。
「嫌だなどとそのようなことは決して!」
『よかったぁ。じゃぁ、明後日の朝5時に行きますね。』
「いえ、その時間であれば…。」
『あ、ごめんなさい、お母さんが呼んでる。明後日の朝5時に行きますから!』
「神子殿…。」
頼久が言葉を発する前にぷちっという音がして通話が切れてしまった。
電話の向こうであかねの母が何度もあかねを呼ぶ声が聞こえていたから、よほど急いでいたのだろう。
早朝5時といえばこの時期はまだまだ空は暗い。
星を見ようというのだから暗いのは当たり前なのだが、そんな夜道をあかね一人で歩かせるなどもってのほか。
当然のことながら自分が迎えに行くと言おうとした頼久だったが、その間を与えてもらえなかったのだ。
あかねの都合が悪くて切られた電話をすぐかけ直すのもはばかられて、頼久は携帯をテーブルの上に置くと考え込んだ。
しばらく時間がたってからかけ直して迎えに行くと告げてもいいのだが、そうなると迎えに来てもらうのは申し訳ないからとあかねが気を遣うに違いないことは明白だ。
ならば黙って迎えに行ってしまえばいい。
頼久はそう一人心に決めて笑みを浮かべた。
そして、頼久は今あかねの家の前に立っている。
頼久は頭上を見上げ、綺麗に晴れ渡った夜空を見て満足げに微笑んだ。
雲一つない空はきっとあかねが見たいといっていた流星群を綺麗に見せてくれるだろう。
流れ星を見つけた時のあかねの表情を思うだけで頼久の胸は踊った。
「頼久、さん?」
静かにドアを開けて出てきたあかねは家の前に立つ頼久の姿を認めて目を丸くした。
そんなあかねに頼久が静かに歩み寄る。
「どうして…。」
「こんな暗い中を神子殿お一人で歩かせるわけには参りませんので。」
「ご、ごめんなさい!こんな時間に…。」
「いえ、お気になさらず。よく晴れましたので星も綺麗です。」
そう言って頼久が頭上へと視線を移せばあかねの目も自然と夜空へ向いた。
「うわぁ、ほんと、綺麗ですねぇ。」
「外では寒いですので。」
「はい。」
幸せそうな笑顔の頼久が歩き出せば、あかねもまた嬉しそうに微笑んでその隣を歩く。
二人の家はゆっくり歩いてもせいぜい15分ほどしかかからない距離にある。
だから、綺麗な空を時折見上げながら二人はゆっくりと夜道を歩いた。
行き過ぎる人は誰もいない。
しんと静まり返った住宅街を二人はほとんど会話もなく歩いた。
ただ二人で並んでいるだけで心が満たされるのを感じるからだ。
受験生になってしまったあかねは毎日が忙しくて、以前のようには頼久のもとを訪れることはできなかったから、こうして二人きりになれる時間は二人にとってとても貴重なものだった。
「どうぞ。」
頼久の家に到着すると、すぐに玄関の扉が家主の手で開けられて、あかねはにっこり微笑んで中へと入った。
数週間ぶりの頼久の家は、一歩足を踏み入れただけであかねに幸せをくれる。
あかねがそんな幸せを感じながらリビングに足を進めると、テーブルの上には小さなランプが一つ優しい灯りを放っていた。
「頼久さん、これ…。」
「寝室のものを持ってきました。部屋の中が明るいと流星が見えぬかと思いましたので。今、何か飲み物でも…。」
「それは私がやります!」
「いえ、手元が暗いと危ないですので、私が。」
慌てるあかねを押しとどめて、頼久はキッチンへと急いだ。
頼久は夜目がきくから暗闇であってもたいていの作業に支障はないが、あかねはそうはいかない。
うっかり火傷などさせてはいけないと、頼久は手早く湯を沸かしてあかねの好きな紅茶をいれた。
頼久がティーカップを持ってリビングに戻ると、あかねは窓辺に立ってきらきらと輝く瞳を夜空に向けていた。
「見えますか?」
「さっき一つ流れましたよ。頼久さんもこっちで一緒に見ませんか?」
「はい、喜んで。」
頼久はくるりと振り返ったあかねの愛らしさに一瞬見とれながらも、その隣へと歩みを進めてティーカップをあかねに手渡した。
空をうかがうとそこには確かに綺麗な星が見える。
ただ、星が流れるのを待つのに立ったままではあかねが疲れてしまうのではないかと心配だ。
頼久はぐるりと周囲を見回してから寝室へ向かった。
「頼久さん?」
あかねが小首をかしげていると一枚の毛布を持ってきた頼久はそれを窓辺の床にふわりと置いた。
「立っていてはお疲れになるでしょう。お座りください。」
「有難うございます。」
驚きながらもあかねが毛布の上に座ると、その隣にそっと頼久が腰を下ろした。
「久しぶりですね。こんなふうに頼久さんと二人でゆっくりするの。」
「はい。」
「受験が終わったらいっぱいいっぱい遊びに来ますから!」
「お待ちしております。」
「はい。」
静かに答えてくれたその短い一言が嬉しくて、あかねはにっこり微笑んで、そしてすぐにその表情を曇らせてしまった。
「神子殿?」
当然のように心配して頼久があかねの顔をのぞきこむ。
「受験が終わるまでまだけっこう時間があって…それは勉強する時間がまだ残ってるっていうことでもあるんですけど…でもその間はずっと頼久さんとはあんまり会えないし……寂しいなって……。」
あかねは決して成績が悪い方ではないけれど、だからといって志望校に確実に合格できるというほどの優等生でもない。
だから勉強は欠かせない。
頼久は寂しそうにうつむいたあかねの肩をそっと抱き寄せた。
「神子殿が大学に合格されたら、毎日送り迎えをさせて頂きます。」
「はい?」
「大学は講義と講義の間があいたりも致しますから、その時間も共に過ごせるように私が時間になりましたら大学の方へうかがわせて頂きます。」
「は?」
「できれば昼食なども共にとって頂けると…。」
「頼久さん?」
「どれも楽しみです。」
「楽しみ?」
「はい。確かに今しばらくは神子殿にお会いできぬ日も続きますが、その後には今よりも幸せなことがたくさんあるでしょう。そう、今は思うことができます。」
「幸せなこと…そっか、そうですよね。」
「以前の私は将来のことなど考えもしませんでしたが、今は神子殿との幸せな未来を夢見ることができます。」
「頼久さん…。」
「ですから、美しい流星を見ることができいる今くらいは、星を眺めて息抜きをなさってもいいかと思います。」
「そう、ですよね。せっかくなんだし。そうだ、お願い事もしなくちゃ。」
あかねはさっと視線を夜空へ向けると、すぐに流れ星を見つけて目を閉じた。
そんな愛らしい様子を隣で見つめて頼久は微笑を浮かべる。
あかねに会えない日々は確かに寂しくて、会いたいと思う気持ちは絶対にあかねよりも強いと自負している頼久だ。
それでもあかねのために一人の時間を耐えていられるのは、その先にきっと二人一緒の幸福な時間が待っていると信じられるから。
頼久はそんなふうに自分を変えてくれたあかねをじっと愛しさをこめた視線で包み込んだ。
しばらくして目を開けたあかねはまた流れる星を見て、頼久へと視線を移した。
「頼久さんも願い事しました?」
「いえ、まだ…。」
「ちゃんとしておいた方がいいです。だって、こんなにたくさん流れるんですから。」
「そうですね、では、私も次の流れ星に何か願掛けを致します。」
「はい。」
嬉しそうに微笑んだあかねと一緒に空を見上げて、頼久は流れていく星に願いをこめた。
あかねが望む未来を手にすることができるように、ただ幸せでいつも微笑んでいられるように。
「頼久さんもちゃんとお願いしました?」
「はい。」
「私もたくさんお願いしちゃいました。まずは受験に合格しないと。」
「その願いはきっとかないます。神子殿はずいぶんと努力をしておいでですから。」
「だといいんですけど…頼久さんは何をお願いしたんですか?」
「それは…私の願いはいつも常にただ一つですので。」
そういって頼久が微笑すればあかねは不思議そうに小首を傾げる。
「神子殿が幸福でいてくだされば私はそれ以上何も望むことはありません。」
「そ、それは…頼久さんが側にいてくれれば絶対大丈夫です。」
顔を真っ赤にしてそう言って、あかねはまた星空を見上げた。
そこにはポツリポツリと美しい流れ星がまだまだ見える。
隣には大好きな人のぬくもり。
頭上には幻想的な星空。
あかねがゆったりとした幸せな時間に目を細めていると、その肩を抱いている頼久の手に力がこもった。
「頼久さん?」
「眠くはありませんか?」
「うっ、それは……ちょっと眠い、かも…。」
ずっとあかねの肩を抱いていた頼久にはその体がだんだん弛緩してきたのがわかったものらしい。
あかねは赤い顔で苦笑を浮かべた。
実際、朝5時に起きるというのはなかなか大変で、隣に頼久がいてくれるという安心感も手伝ってか少しばかり眠気を感じていたところだ。
「お休み頂いてかまいませんので、安心してどうぞ。」
「でも…迷惑じゃないですか?」
「まさか。そのようなお気遣いは無用です。」
「せっかく頼久さんも一緒にいてくれるのに寝ちゃうのはちょっと…。」
久々の二人きりの時間に眠ってしまうのが悔しくてあかねが苦悩していると、そっと頼久の大きな手があかねの顔を上向かせるとその唇がふわりと温かくなった。
あっという間のことであかねがキョトンとしている間に頼久の顔が離れて、あかねの目に幸せそうな頼久の笑顔が映った。
「私はこうして神子殿の隣に置いて頂けるだけで幸福です。お気遣いなく。」
「よ、頼久さん……。」
何をされたのかに気づいてあかねが顔を真っ赤にすると、頼久はあかねの細い肩を更に抱き寄せた。
するとあかねもすっかり体の力を抜いて、頼久にもたれかかりながら夜空を見上げた。
時折見える流れ星はとても綺麗で、そんな流れ星が見えるたびにあかねは頼久さんとずっと一緒にいられますようにと願わずにはいられない。
そうやって願いを胸の内で唱え続けていても、受験勉強で疲れている体は自然と休息を求めているようで、あかねのまぶたはだんだん重くなっていった。
「春になったら…きっと大学に合格して大学生になって……頼久さんにご飯作ってあげたり、お掃除してあげたりしますから…。」
「はい。」
だんだんと小さくなっていくあかねの声にそう頼久が答えると、次の瞬間、隣からは静かな寝息が聞こえ始めた。
そっとのぞいてみればあかねは安心しきった顔で眠っている。
頼久はあかねの肩を抱いたまま、しばらく夜空を見上げていた。
たとえ眠っていても、自分の腕の中にあかねがいてくれるだけでこんなにも幸福だ。
そんな幸せをじゅうぶんに噛み締めてから、頼久はそっとあかねを抱き上げた。
その静かな眠りを妨げないように静かにその小さな体を抱き上げた頼久は、そのまま寝室へと向かった。
床の上で眠らせるなどということができるはずもなく、今日は自分のベッドにあかねを寝かせようと考えたからだ。
もちろん、あかねが安らかに眠りについていることを確認したら、自分は寝室を出るつもりだ。
こんなふうに愛しい人の側にいられる幸せを、頼久はあかねが目を覚ますまで一人、窓辺で空を見上げながら噛み締めるつもりなのだった。
管理人のひとりごと
受験勉強でいっぱいいっぱいでなかなか二人きりになれない頼久さんとあかねちゃん。
久々に二人きりの夜というか深夜を満喫です(^^)
といっても疲れているあかねちゃんが起きていられるわけもなく…
寝込みを襲うような頼久さんでもないのでこんな感じ(’’)
早くあかねちゃんが大学生になっていつもいちゃいちゃしていられるようになるといいなぁ…
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