
あかねは深い溜め息をついて月を見上げた。
ここ数日、こんな調子だ。
何故かといえば毎日夫の帰りが遅い上に様子がおかしいから。
様子がおかしいのはおかしいのだが、いつもはすぐに何があったか話してくれる頼久が何も話してはくれないので、あかねは様子がおかしい理由をなんとなく尋ねられずにいた。
頼久と婚儀を済ませてからもうずいぶんと時間がたった。
少しは前より頼久のことをわかるようになったと思うし、頼久も自分のことをわかってくれていると思う。
だから、よけいなことをよけいに聞いてはいけない気がして…
あかねは縁に座って欄干にもたれて、昇ってきたばかりの月を眺めながらここ数日のことを思い起こした。
三日前。
頼久が帰ってきたのをあかねが迎えに出ると、すぐに頼久は嬉しそうな笑みを浮かべて見せた。
だが、あかねは屋敷に入ってきた瞬間の頼久の顔を見逃さなかった。
いつもなら一時でも早くあかねに会いたいと必死になって帰って来るか、あかねに会えることを楽しみに口元をほころばせて帰って来る頼久が、この日は何やら難しそうな顔をして帰ってきたのだ。
その顔はあかねの姿を見たとたんに変わったのだが、あかねはその変化を見逃さなかった。
きっとお仕事で何か難しいことがあって考え込んでいたんだ。
あかねはそう思ってその理由を深く追求はしないことにした。
頼久の仕事に口を出すことは出すぎているように思ったし、口を出しても自分にはどうしようもないことに違いなかったから。
だから帰ってきた頼久に飛び切りの笑顔を浮かべて見せて、優しく微笑んでくれる夫に夕餉を勧めた。
これが始まり。
二日前。
あかねは沈んでいく夕陽を眺めながら頼久を待った。
いつもなら夕餉の時間の前には帰って来る頼久が帰って来る気配がない。
もちろん、頼久の仕事柄、帰りが遅くなることや帰ってこられなくなることもたびたびあったが、そういう時は必ず文で事情を知らせてくれるのが頼久だ。
もしや、仕事の間に頼久の身に何かあったのではとあかねが心配し始めた頃、頼久はふらりと帰ってきた。
それも、前日と同じ、何やら難しそうな顔をして。
すっかり陽が落ちて夕餉の時刻も過ぎてしまっていたけれど、あかねはその顔に努力して笑顔を浮かべて頼久を迎えた。
何か考え込んでいたらしい頼久は一瞬驚いてからあかねに微笑んで見せて、遅くなった旨を詫びた。
そして一緒に夕餉をとすすめるあかねに目を丸くして驚いて、共に夕餉を取りながら言ったのだ、明日からもっと遅くなるから先に夕餉を済ませていてほしいと。
ただ、何故遅くなるのかは教えてくれなかった。
昨日。
頼久はやはりいつもの時間には帰ってきてくれなかった。
もちろん、遅くなると言われていたからあかねも頼久の身に何かあったのでは?と心配したりはしなかった。
それでも遅くなる理由を教えてもらえないことは不安で、やはり夕餉を取らずに待っていた。
頼久のことだから、自分を心配させまいと何か危なくてたいへんな仕事をしていることを伏せているのだろうか?
それとも、自分には話せない何かをしているのだろうか…
一人で考えれば考えるほど悪い方向へ物事を考えてしまって、あかねは目に涙を浮かべた。
先に夕餉をとって先に寝ていてほしいと言われていたけれど、そんなことできるはずもなくてあかねは一人で縁に座って欄干に持たれてひたすら月を見上げていた。
こういう時、怨霊と戦っていた頃とは違って本当に自分には何の力もないのだと実感する。
怨霊と戦っていた時だって八葉のみんなに助けられてばかりだったけれど、ふつうの女の子としてお嫁さんになった今は龍神の神子をやっていた時よりずっと無力な気がする。
だからきっと夫も何も話してくれないのだ。
そう思ってあかねは思わず涙をこぼした。
こんなに夫に頼りきりでいては万が一夫に他に恋人なんかできたら自分はどうなるんだろう?
もしかしたらもう恋人がいてその人に会うために帰りが遅くなっているんじゃ?
だから自分には遅くなる理由が話せないんじゃないだろうか?
そんなことまで考えてしまって、あかねはぽろぽろと涙をこぼして泣き始めてしまった。
他の八葉がここにいてあかねの話を聞いたなら「天地がさかさになってもそれはない」と断言してくれただろうが、残念ながらここには誰もいない。
ひとしきり泣いて夜も更けて、あかねがなんとか涙をおさめた頃、縁の向こうに人の気配がした。
あかねは慌てて涙を完全にぬぐって立ち上がって、姿を現した予想通りの夫の体に思い切り抱きついた。
寝ているとばかり思っていた妻の突然の行動に驚きながらもあかねを優しく抱きとめた頼久は、夕餉もとっていないという妻の話に驚いた。
慌てて女房が用意してあった夕餉をとるあかねを側で守って、それから一緒に寝所に入ったのはもう夜明けも近くなってからだった。
あかねによけいな心配をかけて申し訳なかったとしきりに謝った頼久はだが、翌日もきっと帰りが遅くなるから必ず先に休んでいてほしいと言っただけでそれが何故なのかは話さなかった。
そして、現在。
昨日の予言どおりに帰りが遅い夫をあかねはやはり縁で待っていた。
帰りが遅いのはいいのだ。
それは仕事であればしかたのないことだとわかっている。
それに、頼久の武士という仕事上、帰ってこられないことだって時々ある。
だから頼久の帰りが遅いということに関しては寂しいのは寂しいが、我慢できるようになってきたと思う。
でも、ここ数日、頼久が帰って来るときの様子や帰ってきた後の態度がどうもおかしい。
それが気になってならなかった。
自分に隠し事などしたことがない夫が何も話してくれないことが心配でならない。
もしこのまま、この屋敷に二度と帰ってきてくれなかったら…
そんなことまで考えてしまう。
この京では土御門邸が自分の実家ということになるから、夫に万が一捨てられた場合、自分は土御門邸に戻ることになるのだろうか?
それとも通い婚が常識のこの世界では頼久がここから出て行くだけで自分は残ることになるのだろうか?
夫がいなくなったこの屋敷に一人で暮らすことなどとうていできない。
土御門邸へ戻ったらきっと藤姫は歓迎してくれるんだろうな。
などなど。
とりとめもなくそんなことを考えてまたあかねがその瞳に涙を浮かべたその時、庭に人影が現れた。
「神子殿…。」
縁に座っているあかねを見つけて驚いて、それから溜め息をついた頼久が自分の方へゆっくり歩いてくるのを見て、あかねはとうとうぽろぽろと涙をこぼしながら泣き始めてしまった。
「み、神子殿!」
慌てて頼久が駆け寄るとあかねは頼久にしがみついて泣き出した。
「どうなさったのです、今日は遅くなると申し上げました。先に休んで頂いて……。」
「頼久さん。」
「はい?」
「頼久さん…。」
ただ自分の名前を呼ぶだけで泣き続けるあかねを頼久は優しく抱きしめた。
どうやら今は話ができる状態ではないらしいと悟ったから。
ただきつく抱きついて泣きじゃくるあかねの背を頼久はしばらくの間、優しくさすり続けた。
「おさまりましたか?」
「はい……ごめんなさい…。」
「いえ。」
あかねが泣きやんだのは頼久が帰ってきてからだいぶたってのことだ。
すっかり夜は更けきって二人は縁に並んで座っている。
「ここ数日は帰りも遅く、神子殿のお相手も全くできませんでした、大変申し訳なく…。」
「そ、そんなのお仕事だからしかたないです、謝らないで下さい。」
そうあかねが言ってみても、今までやっと帰ってきた夫に抱きついて泣いていたのだから説得力は皆無だ。
いつもなら言葉は苦手な頼久が優しく抱き寄せてなだめてくれるところなのだが、あかねが頼久の顔をうかがうとその顔には苦しそうな表情が浮かんでいて…
あかねは一度おさめた涙がまた溢れそうになるのをぐっとこらえて浅く深呼吸をしてから口を開いた。
「頼久さん、お仕事で遅くなるのはしかたないって思ってます、我慢もします。でも、最近の頼久さんはなんだか様子がおかしくて、それが心配で……。」
「は?」
「帰ってくる時、すごくつらそうな顔をしているし、帰って来るのが遅くなる理由も教えてくれないし…お仕事のことで話せないのかもしれないですけど、そう思って理由は聞きませんでしたけど、でも、あんなふうにつらそうな顔してる頼久さんを見たらもう……。」
「神子殿、お気づきだったのですね、御心配をおかけして申し訳ありません。」
隣に座る頼久はあかねに向かって深々と頭を下げた。
この青年武士はいまだに妻に対しての礼は忘れない。
だが、あかねはというとそんな頼久を見てとうとうまたその大きな瞳から涙をこぼしてしまった。
「み、神子殿…。」
顔を上げた頼久が驚いて目を見開くと、あかねは流れる涙を袿の袖でぬぐって必死に涙をこらえて口を開いた。
もうこれ以上、黙って我慢するなんてできそうにない。
「頼久さん、お願いがあるんです。」
「はい!なんなりと!」
「……私、なるべく、ずっと頼久さんと仲良くしていたいです。だから、その…たまにでいいですからここにも帰ってきてほしいんです……。」
「……。」
言いづらそうにうつむいたままそういうあかねの言葉に頼久は目を見開いて凍りついた。
あかねが何を言いたいのかがわからないのだ。
最近は寂しい思いもさせていたからあかねの望みならどんなことでもかなえようと意気込んでいただけに、頼久の思いはすっかり空回りだ。
「本当はここには帰ってきたくないのに毎日ここに帰ってきたらどんどん私のこと嫌になっちゃうでしょう?そうなったらもう二度と顔も見たくないって思うかもしれないし…そんなことになるくらいなら私……頼久さんに全然会えなくなっちゃうくらいなら、たまにでいいです……。」
「……。」
「月に1度とかでもいいですから、ずっと頼久さんと会いたいです……。」
「……。」
泣きそうになりながらようやく話を終えても頼久からの返事は聞けなくて…
しばらく頼久の答えをうつむいたままで待っていたあかねは、あまりに頼久が黙り込んだままなのが不安になって恐る恐る視線を上げてみた。
するとそこには目を見開いて青白い顔をして凍りついたままの頼久の姿が……
「頼久さん?だ、大丈夫ですか?なんか顔色が……。」
「……神子殿、その、今の話の内容が、その…よくわからないのですが……。」
どうやら思考回路がオーバーヒートを起こしているらしい頼久に、あかねは申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい、私おかしなこと言ってるのかな……。」
「いえ……今のお話ですと、私はこの屋敷に月に1度より帰ってこない方が宜しいということでしょうか?」
それこそこちらも血を吐くような声でやっとそういった頼久にあかねははっと視線を戻した。
目の前にいる大の大人は今にも泣きそうな顔をしている。
「よ、頼久さん?そういう意味じゃないですよ?そうじゃなくてその…。」
「……毎日帰りが遅く、神子殿に心配ばかりおかけし、あげく、何一つ神子殿のお望みどおりにできぬこの身はとうとう見限られたのでしょうか?」
「はい?え?はい?」
「神子殿のような尊いお方の夫になどとうていふさわしいとは思っておりませんでしたが…こうも早くお側にいられぬ日がこようとは……もうこの命にも何の価値も……。」
「待って!待ってください!話が全然違ってます!」
今にも自害すると言い出しそうな雰囲気の頼久にあかねは慌てた。
どうにも話がかみ合っていない。
「帰って来るなって言ってるんじゃなくて、帰ってきたくないんじゃないかなと……。」
「は?誰が、どこに…。」
「だから、頼久さんがここに。」
「………は?」
再び頼久の思考回路が煙を上げた。
何がどうしてそんな話になっているのかが理解できない。
ここは自分が帰って来る唯一の場所であり、この世で最も愛しく、最も大切な、最も尊い女性のいる場所だ。
どうして帰ってきたくはないと一瞬でも思ったりするだろう。
「えっと、頼久さん、最近、帰ってくる時なんだか深刻そうな顔をしているし、帰りもずっと夜中だし…理由も言ってくれないし…もしかしたら、その…他に、か、通うっていうか、そういう人ができたりとかして、私のことを気にしてそれを言えなくて、でもここには来たくないとか、そんなこともあるかなって……。」
「……。」
完全に頼久が凍りついた。
その様子を見て、あかねが慌てて頼久の方へにじり寄ると、呆けている頼久の顔をのぞきこむ。
「よ、頼久さん?頼久さ〜ん?」
意識が吹っ飛んでいるらしい頼久の名をあかねが必死になって呼べば、やっと頼久の目に生気が戻って…
次の瞬間、あかねの体は頼久に抱きしめられていた。
「よ、頼久さん?」
「申し訳ありませんでした。」
喉から搾り出すようなその声に、あかねの体がびくりと震えた。
やはりそういうことだったのかとあかねの目に涙が滲む。
やはり、この人には自分よりも想いを寄せた人がいて、そのことで苦しんでいたのだ。
と、あかねはそう思ったのだが…
「神子殿にそのような心配をさせていたとは…この頼久、一生の不覚。」
「頼久さん…。」
あかねが複雑な思いで夫の名を呼べば、頼久はそのあかねを抱く腕を緩めてしっかり正面からまっすぐあかねの顔を見つめた。
あかねは頼久の顔があまりにも真剣で、これから言われることが恐ろしくて悲しくて、それでも目をそむけることができずに少しばかり涙で潤んだ瞳で頼久を見上げた。
「神子殿、実はここ数日、左大臣様の警護についておりまして……。」
「へ、夜遅かったのってそのせいなんですか?」
「はい。」
「……なんだ、ならそう言ってくれれば……いつもと一緒じゃないですか……って、ごめんなさい、私が勝手に早とちりしたんですね……。」
「いえ、帰宅が遅い理由を申し上げなかった私が悪いのです。実は、明日明後日は左大臣様の警護を夜通ししなくてはならず…。」
「そうなんですか?だったら今夜、こんなに遅くまでおきてちゃダメじゃないですか!ごめんなさい、私が変なこと考えて頼久さんを困らせたせいで…。」
「あ、いえ、明日は夜までは休みを頂きましたので大丈夫です。その……本来は明日の夜から10日ほど連続での警護ということになっていたのですが…。」
「えええええっ!」
「神子殿のお側をそんなに長いこと離れていることなどこの身には耐えられませんので、武士団の他の者達と色々と調整を致しまして、ここ数日の警護を私が集中的にこなして、その分を他の者に代わってもらうことにしました。それでも明日明後日の警護は外れることができず…。」
「ってことは、頼久さんは私と一緒にいる時間を作るために頑張ってくれてたってことですか?」
「いえ、私が神子殿のお側を離れたくはないからです。」
そう言ってにっこり微笑む頼久にあかねは目を丸くした。
「だったら、そう言ってくれたらよかったのに。」
「いえ、もし先に事情をお話して、調整がうまくいかずにここへ帰ることができなくなってはより神子殿に不安な思いをおさせすることになるかと思いましたので、全てが決定してからお伝えしようかと。」
「そっか、そうですよね……ごめんなさい、私変なことばっかり考えて…。」
「いえ……努力は致しましたが、結局、明日明後日は夜通しお側にいることはできません…申し訳なく…。」
「も、申し訳なくなんかないです!頼久さんが一生懸命やってくれたことはよくわかりますし。お仕事なんですから気にしないで下さい!
そ、それは、寂しいのは寂しいですけど、明後日の朝帰ってきてくれるんですよね?」
「それはもちろん。」
「なら、我慢します!大丈夫です!」
今まで落ち込んでいたあかねはどこへやら。
あかねは頼久をきりりとした表情で見上げた。
それは、あの頃の、龍神の神子として戦っていた頃のあかねの顔。
頼久はそんなあかねをそっと抱き寄せると眉間にシワを寄せた。
あかねにまるで怨霊と戦う時のような顔をさせてしまう、そのことが心苦しい。
「頼久さん?」
「神子殿には色々とご心痛をおかけして申し訳ございません。」
「そ、そんなこと…私が勝手に色々変な想像したりして…ごめんなさい…。」
「いえ……。」
頼久はあかねをギュッと強く抱きしめてそれからその小さな体を膝の上に乗せた。
「神子殿、明日はずっとこちらにおりますので。」
「はい。ずっと一緒にいましょうね。」
「はい。そして、明後日はなるべく、できるだけ早くこちらへ戻ります。」
「はい。待ってます。」
「それから…。」
「はい?」
「これから先も、どんなことがあっても私はここへ、神子殿の元へ戻って参りますので、迎え入れて頂けますでしょうか?」
「も、もちろんです!私もずっとここで待ってますから。」
「有難うございます。」
幸せそうにそう言って頼久は膝の上に抱え上げた小さな妻の体を抱きしめた。
そして…
「よ、頼久さん?」
「今日はもう遅いですから。」
「いえ、夜は遅くても歩けるんですけど…。」
急にあかねを横抱きに抱き上げて歩き出した頼久に、あかねは顔を真っ赤にしてうつむいた。
それでも頼久は楽しげだ。
「私があなたを離したくないのです。どうか、寝所までこのままおはこびさせてください。」
耳元で囁くようなその声には答えずに、あかねは頼久の胸にその身を預けた。
もうすぐ空は白々と明けそうだ。
それでも、夜が明けても一日は一緒にいられる。
そう思えばあかねも今までの不安は吹き飛んで…
頼久に運ばれるに任せてあかねはゆっくり目を閉じた。
管理人のひとりごと
なんだか突発的に悲しむあかねちゃんが書きたくなったというだけの理由でこんなことに(’’)
言葉が苦手な頼久さんは話が飛躍すると脳内がオーバーヒートする模様です(マテ
そういう不器用な頼久さんは久しぶりに書いたような気がします…
どちらかというともっと武人っぽい頼久さんのかっこよさを書きたいんですが、そうなると事件が発生するので(’’)
あかねちゃんの思い込みが激しいのは頼久さんへの想いが強いから♪
他の八葉、たとえば友雅さん辺りが悩むあかねちゃんを見つけてくれたら笑い飛ばされちゃったんだろうなぁと思います(w
あの頼久さんが浮気、するはずないということを一番よく心得ているお方ですから(’’)
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