蛍火夜話
「頼久さん、暑くないですか?」

 すぐ間近に聞こえる愛らしい声に頼久は微笑を浮かべると「いいえ」と小さく答えた。

 頼久がこの世の何よりも大切にしている妻の声が間近に聞こえるのは、その妻の小さな体が頼久の膝の上にあるからだ。

 そして妻を膝の上に抱いている頼久の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 頼久があかねを抱いて座っているのは屋敷の濡れ縁だ。

 そこから見える庭はゆっくりと降りる夜の帳のためにどこか異世界とのはざまのような不思議な雰囲気を漂わせていた。

 どうしてこんな時間に頼久があかねを濡れ縁で抱いているのかと言えば、それはあかねが強請ったからだった。

 実は頼久は十日ほど屋敷を空けていた。

 というのも、頼久の主筋にあたる左大臣が遠出をする際、頼久がその供に選ばれたからだ。

 十日もあかねと離れることは頼久にとってかなりつらいことだった。

 けれど、あかねにお仕事頑張ってくださいと送り出されては行かないと言うわけにもいかず、結局、頼久は十日ほど屋敷を空けたのだ。

 もちろん頼久は最速で帰宅した。

 部下たちは無事に帰ることができたことを祝って、左大臣から下された賜り物で宴の一つも開いているはずだ。

 頼久はその宴の誘いも断っての帰宅だった。

 そして、駆け足で帰ってきた頼久をあかねは満面の笑みで出迎えた。

 ほっと安堵する頼久に次の瞬間、あかねは飛び付いた。

 これはかなり珍しいことだった。

 あかねはどちらかというとあまりべたべたする性質ではなくて、いつもは頼久の方がこらえきれずに手を伸ばすのが常だ。

 それが、さすがに十日も離れていたとなると寂しかったようで、あかねは頼久に抱きつくと少しだけ涙を見せた。

 頼久は嬉しいような申し訳ないような複雑な思いであかねを抱きしめることしばし。

 すぐに立ち直ったあかねは頼久の着替えを手伝い、食事を共にした。

 その間、あかねは始終楽しそうに微笑んでいて、頼久は目の前の天女を妻にできた幸せを噛みしめた。

 食事が終わればあとはくつろぐだけ。

 二人が濡れ縁に出たのは御簾の内側では蒸し暑かったということもあるが、二人でゆっくり夏の夕暮れを楽しもうと考えたからだった。

 二人並んで座って眺める庭はそれは幸せに満ちていて、しばらくは会話もなく座っていただけだった。

 そうして座っているだけで頼久は幸せを更に噛みしめていたのだが…

 行動を起こしたのはあかねの方だった。

 ぴったりくっついて座ってもいいかと尋ねられた時、頼久は一瞬、頭の中が真っ白になった。

 いつも抱き寄せるのは自分の方で、あかねの方からそんなふうに近づいてくることはめったになかったからだ。

 だから、真っ赤な顔で恥ずかしそうに尋ねるあかねを頼久が満面の笑みで抱き寄せたのは当然のことだった。

 ついでに膝の上に乗せて抱きしめてしまったのもこれまた当然のこと。

 あかねはといえば、初めこそ驚いた様子だったけれど、すぐに嬉しそうに赤い顔で微笑んだ。

 そうして現在に至る。

「あの…頼久さん、重くないですか?」

 まだ顔を赤くしたままのあかねに頼久は再び「いいえ」と静かな声で答えた。

「えっと……そうだ!おいしい瓜をもらって冷やしてあるんです!食べませんか?」

 そう頼久に尋ねたあかねの顔には笑みが浮かんでいるものの、さすがにここで頼久は小首を傾げた。

 さっきからあかねの様子はどうにもおかしい。

「さきほど食事をしたばかりですので、私は後でかまいませんが…神子殿は小腹でも空きましたか?」

「そ、そうですよね…私もお腹いっぱいです…。」

 そう言ってあかねはしゅんとうつむいた。

 これは間違いなく何かあると頼久は小さく息を吐き、そっとあかねの体を抱く腕に力を込めた。

「神子殿、私の留守中に何かありましたか?」

「へ、いえ、別に何もないですよ?」

「ですが、先程から何やら様子が…。」

「あ、ああ、えっと…その…久々に二人きりで緊張すると言うか…恥ずかしいと言うか…。」

「離れた方が良いのでしょうか?」

「違います!一緒にいたいんですけど、いると緊張すると言うか…その、こうしているのが嫌なわけじゃないんです。」

「なら、良いのですが…。」

「ごめんなさい、頼久さん、疲れてるのに。」

「いえ、私はこうして神子殿に触れていれば疲れなどすぐに吹き飛びますので。」

「よ、頼久さんはまたそんなことを……。」

「事実ですので。」

 少々低い声でそう断言して、頼久は微笑を浮かべた。

 腕の中で見上げるあかねの目が一瞬見開かれて、それからすぐにあかねが顔を真っ赤にする。

「頼久さんのいない間は八葉のみんなが訪ねてきてくれたりして、寂しいって思う暇もなかったんですけど、やっぱり寂しかったのかな。」

「そう、なのですか?」

「だから、こうして二人でいると緊張するのかなって…。」

「いえ…その…皆が集っていたのですか?ここに。」

「へ……いえ、入れ代わり立ち代わり様子を見に来てくれたんです。」

「ああ、なるほど。」

 頼久はほっと安堵の溜め息をついている自分に苦笑した。

 自分一人があかねから遠く離れていた間に残る八葉があかねのもとに集っているという様子は想像するだけであまり気分のいいものではない。

「あ、冷やしてある瓜も友雅さんが持ってきてくれたんです。最近特に暑いからって。」

「友雅殿が…。」

 あかねの口から出たその名を口にすると頼久の脳裏に過去の一場面が呼び起された。

 それはあかねがまだ龍神の神子で頼久はその従者である八葉として仕えていた頃のこと。

 頼久の脳裏には一瞬でまだ幼さを残していたあかねと、その前に立つ艶やかな貴公子の姿がよみがえっていた。







「暑いだろうと思ってね。」

 そう艶めいた声を発したのは友雅だった。

 怨霊退治を終えて帰ってきたあかねを待っていたのがこの友雅だった。

 歩き疲れて帰ってきたあかねに付き添っていたのは頼久だ。

 頼久は怨霊退治の供をした後もあかねを自室まで送り届けにきたのだが、庭先に立っていた友雅に軽く一礼しながらも警戒心を強めた。

 この京で口説かれて喜ばない女性はいないと言われる貴公子である友雅は何かとあかねに甘い。

 普段ならそんなものは従者に運ばせるだろう瓜が一つ、今、友雅の手にあるのもあかねに直に渡そうと思えばのことだろう。

 そう察してみれば、頼久の心中は穏やかではなかった。

 こうして眺めている今も、二人の様子は絵に描いたようにしっくりと頼久の視界におさまっている。

 あかねが友雅に向ける笑顔が少々うっとりして見えるような気もするのだ。

「これを神子殿に。」

「なんですか?これ……野菜?」

「京ではそう珍しくもない、瓜、なのだが…そうか、神子殿は初めて見るのかな?」

「あ、はい。」

「夏の風物詩といったところかな。暑い日に冷たい水でよく冷やして食べるといい。」

 そう言って差し出された瓜をあかねは不思議なものを見るように探るような目で眺めながらそっと受け取った。

「神子殿は暑い夏に慣れていないと聞いたのでね、せめてこらくらいはさせてもらいたいと思ってね。」

「有り難うございます。」

 ニコリと微笑んだその笑顔はいつもと同じ。

 おそらくは見たことのない食べ物をもらって喜んでいることは間違いない。

 けれど、見たこともない食べ物なだけに、そして普段は女房達がなんでも面倒を見ているだけに、今のあかねに手に乗せられた瓜をどうしていいかはおそらくわからないだろう。

 そうと察して頼久は警護のためと立っていた庭の隅から一歩を踏み出した。

「できれば神子殿のお供をしたかったのだけれどね、どうしても仕事から抜け出せなかったからせめてものお詫びだよ。」

「そんな、お仕事も大事ですから、気にしないでください。」

 にこやかにそう言いながらも手にした瓜をどうしていいかわからないらしいあかねに頼久はそっと近づいた。

 普通の京の女性ならここで女房を呼び出して処理するように渡してしまうのだろうが、あかねは人を使うということを思いつかないのだ。

 始めこそそこが扱いにくいと感じていた頼久だったが、今ではあかねのそういうところが好ましいとさえ思っていた。

「神子殿、その瓜は私がお預かり致しましょう。」

「へ…えっと…それって、これを冷やしてもらいに行ってくれるってことですか?」

「はい。」

 律儀で愛らしい『有り難うございます』という声が聞こえて、瓜は自分に手渡されるものだと頼久は思っていた。

 ところが、あかねはというと頼久の予想を裏切って何やら考え込んだ様子だ。

 瓜を見つめて考えること数秒。

 友雅が声をかけようとしたその時、あかねが視線を上げて頼久に微笑みかけた。

「頼久さん、それ、私も一緒に行ってもいいですか?」

「は?」

「ここって冷蔵庫もないし、どうやって冷やすのかなって、見てみたいんです。」

「はぁ、私はかまいませんが…。」

 かまわないどころではない。

 ここにあかねを残していくことを思えば、もちろん自分の側にいてもらった方が心落ち着く頼久だ。

 だが、目の前には苦笑を浮かべている友雅が立っている。

 このまま放って行くわけにはいかないだろうと頼久が気付くのと、あかねが友雅にぺこりとお辞儀するのとは同時だった。

「ということで、私、頼久さんと一緒に行きますね。お土産、有り難うございました。」

「神子殿に涼を贈れたのならよかった。では、私も帰るとしよう。」

「はい、気を付けて。」

 にこやかに送り出すあかねには軽く手を振って、そして去り際には頼久にニヤリと笑みを浮かべて見せて友雅は去って行った。

 最後に自分に送られた友雅の視線がやけに刺々しかったことに頼久が顔をしかめていると、あかねがひょこっとそんな頼久の顔を覗き込んだ。

「頼久さん?どうかしましたか?」

「いえ…よろしかったのですか?友雅殿は…。」

「用事があったわけじゃないみたいだから大丈夫ですよ。」

 そう言って微笑むあかねはおそらく本当に友雅が今日供ができなかった詫びに来ただけだと思っているのだろう。

 頼久には決してそうは見えなかったのだが。

 友雅ほどの身分の者なら従者に運ばせればいいだろう瓜をわざわざ自分の手で運んできたのは間違いなく、友雅があかねと言葉を交わしたかったからこそだ。

 その事実にあかねはどうやら全く気付いていないらしい。

 そういう無垢なところが魅力的なのだと思いはするが、何故か頼久は溜め息をつかずにはいられなかった。

「頼久さん?あ、ごめんなさい、疲れてますよね。」

「いえ、そのようなことはございません。瓜を冷やしに参りましょう。」

「大丈夫ですか?教えてもらえれば一人でも…。」

「いえ、普段から鍛えておりますのでご心配には及びません。」

 頼久は有無を言わさぬように歩き出した。

 普段より少しばかり速さを落として歩けば、あかねが隣を並んで楽しそうに歩いてくれる。

 これまでの頼久なら考えられなかった距離にある優しい気配に、ほんの少しだけ口元を弛ませながら頼久はゆっくり井戸へ向かって歩き続けた。







「頼久さん?」

 思い出に浸っていた頼久は耳に届いたあかねの剣呑な声で我に返った。

 膝の上に座っているあかねはというと、上目づかいに軽く頼久を睨んでいる。

 何故睨まれているのかわからずに頼久が目を丸くすれば、あかねは不機嫌そうに口を開いた。

「また友雅さんのことを気にしてませんでしたか?」

 頼久は一瞬目を丸くして、それから首を横に振って微笑んだ。

 今は、疑わしいというように目を細めているあかねのその顔さえ愛おしい。

「気にしていたというわけでは……ただ、昔のことを思い出しておりました。」

「昔のこと、ですか?」

「はい、以前にも友雅殿が神子殿にと瓜を持っておいでになったことがあったなと。」

「ああ!ありましたね、そんなこと。」

「覚えておいででしたか。」

 頼久は少なからず驚いた。

 何故ならそれは、きっとあかねにとっては些細なことだっただろうと思っていたからだ。

 それとも、自分が思っているよりもあかねは初めての瓜に感動していたのだろうかと頼久が思案しているうちに、あかねの頬がほんのり桜色に染まった。

「覚えてますよ。あの時は、その……頼久さん疲れてるってわかってたんですけど、でもどうしてももうちょっとだけ二人でいたくて、無理して一緒に瓜を冷やしに連れて行ってもらいましたから。」

「は?」

「あ、頼久さんはそんなこと覚えてないですよね。」

「いえ、あれはてっきり瓜を冷やすところをご覧になったことがないのでご覧になりたかったものと……。」

「まさか!さすがに瓜を水で冷やすっていうのは想像できます。」

 あかねがそう言って苦笑するのを頼久は体の奥から湧き上がる喜びと共に見つめていた。

 まさかあかねがあの時、そんなことを考えていたとは夢にも思わなかったからだ。

「私も…。」

「はい?」

「私もあの時は友雅殿のもとへ神子殿を置いて行かなくて済んだこと、ほっとしておりました。」

「本当ですか?」

「はい、それに、神子殿と二人になれたことも嬉しく思っておりました。」

 頼久が囁くようにそう言えば、あかねは少しだけ驚いた顔をした後で嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔が愛しくて、頼久はあかねの体をそっと抱きしめた。

 するとあかねも嬉しそうな笑みのままうっとりと目を閉じて…

 そうして二人が濡れ縁で仲睦まじくしていると、いつの間にか薄暗くなった庭に小さな光が一つふらふらと舞い込んだ。

 その光にさえ気づかずに、頼久とあかねは二人、幸せそうに抱き合っている。

 二人の間にあるのは想い通じる前の切ない記憶。

 当時は切なかったその思い出も今となっては幸せな記憶だ。

 そんな温かな思い出に浸る二人を思わぬところへ入り込んでしまった一匹の蛍が放つ柔らかな光が小さくてそっと照らしていた。








管理人のひとりごと

暑い夏の夜を頼久さんと幸せに過ごしましょうと思いまして一本です。
思い出してみれば、どちらもお互いの気持ちがわかってなかったのねっていうね。
それもこれも、こうして幸せになってみれば、幸せが増えただけだったっていうね(’’)
幸せな時ってそんなもんです!
そしてこの二人はいつもそんな幸せな時です(’’♪








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