ひとりね
 頼久は仕事を終えて赤く染まった空の下をあかねの屋敷へ向かって歩いていた。

 あかねの屋敷で共に暮らすようになってからもうずいぶんと時が流れて、やっと自分の屋敷のように感じることができるようになった。

 それもこれも、心優しく、常に自分のことを考えてくれている妻のおかげと愛らしい妻の笑顔を思い起こせば自然と頼久の頬もゆるんだ。

 朝早くから仕事に追われて、時には命を危険にさらすような任務につくことがあっても、全て終わって家路につく時にはなんともいえない穏やかな心持になっている。

 妻のことを思えば自然と優しい気持ちになれるのだ。

 自分がそんな心境になることができるとは、今でも信じられないような気がすることもある。

 そんなときはやはり妻のことを思うのだ。

 自分の妻はこの京を鬼の手から救った尊き龍神の神子だ。

 この京をも救った女性ならば、自分を救うことなどおそらくいともたやすいことなのだ。

 そう思えばやはり一刻も早く妻の顔を見たくなって、頼久の家へと向かう足どりは速くなった。

「ただ今戻りました。」

 息を切らせて頼久が屋敷へ駆け込むと、奥からにっこりと微笑を浮かべたあかねが顔を出した。

 ところが、嬉しそうな笑みを浮かべていたあかねは頼久の姿を見ると表情を一変させた。

「神子殿?どうかなさいましたか?」

「どうかなさいましたか?じゃありません、頼久さんこそそんなに慌ててどうしたんですか?何かありました?」

「いえ、これはその…一刻も早く帰宅したかったもので…。」

「何か急ぎの用でもあったんですか?うちに。」

「いえ、用ということでは…。」

 何がなんだかわからないといった様子であかねは小首を傾げた。

 源武士団の若棟梁でもあり、武人としても腕の立つ頼久がちょっとやそっとのことで慌てたりしないことをあかねはよく知っている。

 だから、頼久が息を切らせて走って帰ってくるとは、きっと何かとても大変なことが起こったのだと、そう思ってしまったのだ。

 ところが頼久はというと困ったような顔で一つ溜め息をついた。

「その、急いで戻りましたのは…一刻も早く神子殿のお顔をこの目にしたかったからで…。」

「よ、頼久さんはまたそんな…。」

 頼久の言葉を聞いてあかねは顔を真っ赤にしてうつむいた。

 何か一大事が起こったのではと心配したのに、頼久が焦っていた答えが自分に会いたかったから。

 とんでもない不意打ちであかねはすっかり動揺してしまった。

「おおげさですよ…帰ってきたら私はいつもここにいるんだし、それに毎日会ってるじゃないですか…。」

「それはそうなのですが…その…たとえ仕事で殺伐とした場に身を置こうとも、神子殿のことを思えば心安らかになれるのです。どんなに疲れていようとも神子殿のお顔を見れば、おのずと疲れも癒えます。ですからその…一刻も早くお会いしたかったのです。」

「お仕事、大変だったんですか?」

 今度は急に心配そうなあかねに覗き込まれて頼久は困ったように苦笑した。

「いえ、特にそういうわけではないのですが…神子殿が私のような者の妻になって下さった幸せを思わぬ日はないということです。」

「ま、また頼久さんはそういうことを!」

 あまり恥ずかしいことをさらっと言わないでほしいとお願いしようとしたあかねは、すっとのびてきた頼久の長い腕にかき抱かれて何も言えなくなってしまった。

 広い胸に優しく閉じ込められてあかねはしばらく黙ってそのままになっていた。

 それで頼久が幸せな気分になってくれるならそれでかまわないから。

 何しろあかね自身もそれでとても幸せな気持ちになれるのだ。

 何も言わずにそのままでいることしばし、頼久がゆっくりあかねを解放するとあかねは頼久の顔を見上げてにっこり微笑んだ。

「夕餉にしましょう、おなか空いたでしょう?」

「はい。」

 あかねが頼久の腕を取って歩き出せば微笑を浮かべた頼久はされるがまま、食事の支度がされてある局へと移動する。

 なんと幸せな一時かと心の底から幸せを感じながら席について、妻と向かい合わせて二人で食事を始めて、頼久の顔からは笑みが消えることはない。

 野菜が多く饗されている膳は全て頼久の体を気遣ったあかねの想いが詰まった料理ばかりだ。

 それらを半分ほど口にしたところであかねが何気なく口を開いた。

「頼久さん。」

「はい。」

「お願いがあるんですけど。」

 お願いだなどとなんと他人行儀なと頼久が苦笑しながらあかねを見れば、あかねはなんだか苦しそうな表情で自分を見つめているではないか。

 頼久は慌てて箸を置いた。

「どうかなさいましたか?お願いだなどと、何かお望みのことがおありでしたらご命令頂ければ…。」

「頼久さん!もう、すぐそういうこと言うの気をつけてください。もう私は頼久さんの主じゃないし、命令なんてしません。これは妻から夫へのお願いなんです。」

「は、はぁ…。」

 あかねにそう断言してもらうと頼久としては嬉し恥ずかしな複雑な心境なわけで…

 あかねの言葉に照れたように苦笑している頼久をあかねは上目遣いで申し訳なさそうに見つめた。

「神子殿?」

「その…お願いなんですけど…。」

「はい、なんなりと。」

「最近すごく暑くて…。」

「はぁ。」

 京の夏はとても暑い。

 あかねのいた世界にはクーラーなるものが存在していて、それがなんと建物の中の空気を全て冷たくしてしまうというのだ。

 そんな便利なもののある世界からやってきたあかねがこの京の暑さに辟易していることは頼久も百も承知だ。

 だから頼久は姿勢をただしてあかねのお願いを聞くことにした。

 これはなんとしても妻の願いを叶えなくては。

「よく眠れないんです。」

「!」

 このあかねの一言に頼久はかなり驚いた。

 何故かというと、いつも朝目が覚めるとあかねが自分の腕の中で気持ちよさそうに眠っているのを目にしていたからだ。

 毎朝、頼久はそんなあかねを起こさないように気遣って先に朝の鍛錬へ出かけるのだから、あかねが睡眠不足に陥っているとは思っても見なかった。

 寝付くときはいつも一緒か、仕事で遅くなる頼久よりも先にあかねが眠っている。

 それで何故あかねが寝不足になるのか。

 いやいや、今はそんなことを考えている場合ではないと頼久は軽く頭を横に振ってあかねを見つめ直した。

「暑くて眠れないので、今夜からしばらく、涼しくなるまで寝所を別にしてもらえませんか?」

「……は?」

「だから、暑くて眠れないので今夜から涼しくなるまで寝所を別々にして下さい。」

 一瞬、頼久の頭の中は真っ白になった。

 寝所を別にするということは当然褥も別になるということだ。

 ということは、当然のことながらあかねとは別の褥、しかも別の部屋で眠るということになる。

 そんなことは婚儀を済ませてこの方一度もない。

「その……あぁ、その…涼しいへ局に二人で移動して眠る、ではいけないのでしょうか?」

「ダメです。それじゃ根本的な解決にならないんです。」

「……その…何故解決できないのかお教え頂けますか?」

 真っ青な顔で頼久がそう尋ねれば、あかねは深い溜め息をついた。

「原因が頼久さんにあるから、頼久さんと離れないと解決しないんです。」

「わ、私ですか?」

 今度は顔色を白くして頼久が訪ねればあかねは深くうなずいて見せた。

「あの…私が神子殿の眠りを妨げる何を…いや、今、神子殿は暑くて眠れないとおっしゃいませんでしたか?」

「そうです。頼久さんが原因で暑くて眠れないんです。」

「は?」

「頼久さんって私をこうギュッてして寝るじゃないですか?」

 今度は話しているあかねの顔が赤くなる。

 が、頼久はそれどころではない。

 いつもどうやって眠っているかを必死に思い起こしてみる。

 確かに眠りにつくときはいつも愛しい妻を抱きしめて眠っていたような…

「で、ですが、昨夜は暑いからとおっしゃって確か神子殿は褥を別に用意してそちらへ…。」

 そこまで言って頼久は今朝の有様を思い出した。

 そう、あかねが暑くて眠れないからというので褥を別にして眠りについた。

 はずだったのだが、朝になってみると何故か頼久は無意識のうちにあかねを抱きしめてしまっていたようで、あかねはいつものように頼久の腕の中ですやすやと眠っていたのだ。

 気持ちよさそうに眠っていたから問題ないと思っていたのだが…

「思い出しました?頼久さんって夜中のうちに寝返りをうったのか目が覚めてなのか寝ぼけてなのかしりませんけど、いつの間にかやっぱりギュッてしてるんですよ。で、私、昨日も暑くて夜中に目が覚めちゃって…でもギュッてされてるから離れられなくてしばらく眠れなかったんです…。」

「そ、それは…。」

 では、朝気持ちよさそうに眠っているのは夜中眠れずに寝不足だったためかと気付いて頼久は頭を抱えた。

 これは忌々しき事態だ。

 妻の眠りを守るべき自分がよもや妻の睡眠の邪魔をしていたとは…

「なので、今夜からしばらく寝所を別にしてほしいんです。さすがに局が違えば夜中のうちにギュッてことはないと思うんです。」

「はぁ、確かに…。」

 だが、そうなると今度は確実に自分の方が眠れない。

 頼久はそう自信を持って断言できた。

 しかし、自分の眠りと妻の眠りを天秤にかければ妻の眠りが優先することは間違いない。

「ダメ、ですか?」

「いえ!承知致しました、では今夜より暑さが一段落するまで寝所を別にするということで。」

「有難うございます!はぁ、これでやっと寝れる…。」

 心底安堵しているらしい妻の様子を苦笑しながら見つめて、頼久は密かに溜め息をついた。

 これからやってくる一人寝の夜の憂鬱なことといったらない。

 だが、それで妻が幸せになってくれるのならどれほどのこととて耐えて見せようと一人心の中で誓う頼久だった。





 褥の中でしっかりと目を開いてどれくらいの時間がたっただろうか。

 頼久はもう何度目かわからない寝返りをうってから上半身を勢いよく起こした。

 辺りを見回しても当然のことながら寝所を別にしてもいいと許可してしまった妻の姿はない。

 まるで兄を失い、一人で闇の中をさまようように生きていたあの頃に戻ったような錯覚さえ起こしそうだ。

 いや、自分は今までとても幸せな夢を見ていただけで、本当はあかねは元の世界へ一人で戻ってしまい、今自分はたった一人、この京で眠ろうとしているのではないだろうか?

 そこまで考えて頼久は頭を激しく横に振った。

 そんなことがあろうはずがないのだ。

 あかねは自分のもとに確かに残り、夕餉もさっき一緒にとったではないか。

 またあかねがいなくなるのではなどと心配すれば、それこそそのあかねに心配をかけることになる。

 これではいかんと立ち上がってみてもやることがあるわけでもない。

 闇の中で膨らむ不安をどうすることもできなくて、頼久はそのまま外へ出た。

 すると、綺麗に整えられた庭が月に照らし出されているのが目に入った。

 だが、いつもなら綺麗だと思うその庭さえも今はすっかり魅力を失ってしまっている。

 そう、それは妻が隣にいないから。

 頼久は深い溜め息をついて静かに歩き出した。

 隣の局であかねが眠っているはずなのだ。

 もちろん夜這いをかけようというのではない。

 いや、妻に夜這いをかけて悪いことはないのだが、そんなことをすればまたあかねが暑くて眠れなくなってしまうだろうし、今度こそ愛想を尽かされかねない。

 だが、頼久には他にどうすることもできないのだ。

 少しでもあかねの近くに。

 思ったのはそれだけのこと。

 頼久はあかねが眠っているはずの局の前の縁に座って庭を眺めた。

 背後に妻がいると思うだけで少しは落ち着くことができるようだ。

 それでも眠れるかといわれるとどうも難しい。

 頼久は苦笑しながら柱にもたれかかって月を見上げた。

 このままあかねの眠っている気配を感じながら一夜を明かすのもいいだろう。

 他に自分にはどうすることもできないのだ。

 頼久が徹夜の覚悟を決めたその時、背後の半蔀の開く気配がした。

 何事かと振り返るとそこにはキョトンとしているあかねの姿が。

「頼久、さん?」

「はぁ…。」

「何やってるんですか?そんなところで。」

「それがその…。」

 八葉として側に控えていた頃は警護ですと言えばすむことだった。

 だが、今は違う。

 ここで警護をしていたなどと言えばまた妻はもう夫なのにそんなことをしなくてもいいと言って怒るだろう。

 だいたい、頼久は夜着のままで太刀も携えていない。

 これは本当のことを白状するしかないかと覚悟を決めたその時、あかねが頼久の隣にすとんと腰を下ろして自分の膝を抱いた。

「警護、とか言いませんよね?」

「はい…違います…その…情けない話ですが、神子殿のお姿がないと思うと眠れず…少しでも神子殿のお側にと…。」

 大の男がなんと情けないことを言っているかと自分で情けなくなりながら頼久は溜め息をついた。

 妻には笑われるのかあきれられるのか愛想をつかされるのか予想もつかない。

 だが、あかねはそのどれとも違う反応を見せた。

「よかった。」

「は?」

「頼久さんがぐっすり眠っちゃってたらどうしようかと思ってたから。」

「はい?」

「夕餉の時はあんなこと言っておいて、その…恥ずかしいんですけど…私も一人じゃなんか寂しくて全然眠れなくて…。」

「神子殿…。」

「最近ずっと、夜中に目が覚めてもすぐ側に頼久さんがいて安心だったから…なんか誰もいない部屋で一人で寝るの寂しくなっちゃって…それで、もし頼久さんが起きてたら寝所に入れてもらおうかなと思って…。」

「出ていらっしゃったのですね。」

 あかねが恥ずかしそうにこくりとうなずくのを見て頼久はやっと微笑を浮かべた。

「ここなら少しは涼しいでしょう。側でお守りしますので、今日はここで眠りにつかれてはいかがですか?」

「ここで、ですか?」

「はい、神子殿が眠りにつかれたら私が褥へお運びします。」

「えっと、そこからは朝まで一緒に寝てくれます?」

「はい。なるべく抱きしめたりはしないよう、努力します。」

 そう言って苦笑する頼久にくすっと笑って見せたあかねは、自分の膝を抱いていた腕を解いて頼久にぴったりと寄り添うと静かに目を閉じた。

 風はないけれど、局の中で眠るよりは確かに涼しいようだ。

 こんなところで眠っても、夫が見守ってくれていると思えば何も不安なことはない。

 あかねはあっという間に眠りに落ち、頼久はしばらく妻の愛らしい寝顔を堪能してから優しくその体を抱き上げた。

 そして妻を起こしたりしないよう、慎重に優しく、ゆっくりと局の内へと運び込む。

 褥に寝かせてちゃんと眠っていることを確認して、頼久はあかねの褥の側に横になった。

 自分の褥をとりに行くために妻の側を離れることさえ今は苦痛だったから、このまま眠ってしまうことにする。

 そこがどこであろうと、どんな状況であろうと、妻の姿さえ見ることができれば頼久はぐっすり眠ることができるのだった。





 翌日、目覚めた頼久は意識がはっきりするのと同時に嘆息した。

 いつの間にかあかねが自分の腕の中にいたからだ。

 どうやら夜中のうちにやはり頼久はあかねを抱き寄せてしまったらしい。

 だが、やがて目覚めたあかねは嬉しそうにニコリと微笑んで見せた。

 その笑顔を見て、頼久はほっと安堵の溜め息をついたのだった。








管理人のひとりごと

多少艶っぽい雰囲気になり…ませんね(’’)
頼久さん、どうやら無意識の内にあかねちゃんをギュッとしちゃう癖は抜けないようです(笑)
「源氏物語」なんかを読むとわかりますが、平安時代、涼をとるのはたいへんなことでした。
カキ氷なんかもあるにはあったようですが、山から切り出して運んでくるとかもう凄い作業が必要だったようです。
源氏は食べてたみたいですが庶民には無理ですね(^^;
もちろん武家の頼久さんとその妻にも無理だと思うのですが…この二人が暑い理由は他にありそうなのでそっちを追求する方向で(’’)





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