あかねは一人、簀子の上で庭を眺めていた。
庭は今、音もなく降る細かな雨に霞んでいて、それはそれで趣深い。
空を覆い隠し、あかねの頭上に垂れ込めた曇天はどこに陽があるのか簡単にはわからないから、時計というものがないこの京では時刻を知ることもままならない。
朝起きた時から変わらない明るさの庭を眺めながら、あかねは小さく溜め息をついた。
気が重いのは決して雨のせいだけではない。
何しろあかねは、他の人が嫌うほど雨を嫌ってはいないのだ。
適度な雨は畑に恵みをもたらしてくれる。
飲み水だって雨で確保している人がいるかもしれない。
日照りが続きすぎて飢饉が起こるよりは雨が降った方がいいとあかねが思うようになったのは、この京で過ごすことに慣れたからに違いなかった。
生まれ育った世界にそのまま生きていたら、こんなことを考えたかどうか…
もちろん、雨も降りすぎれば作物は腐ったり枯れたりするから、降りすぎても困るのだけれど…
そんなことをつらつらと考えて、それからなんの前触れもなく脳裏をよぎった光景にあかねは再び溜め息をついた。
あかねの脳裏によぎった光景、それは、にこやかに挨拶をするあかねから視線をそらす武士団の若い武士達の姿だった。
最近のあかねは頼久が仕事で屋敷へ帰ってこられない時などには、弁当を作って差し入れしたり、着替えを届けたりと武士溜まりに顔を出すことがたびたびあった。
武士溜まりは藤姫の屋敷の一画にあるわけで、頼久に届け物をした時は必ず藤姫とおしゃべりを楽しんで帰ってくる。
それはあかねの京での生活の楽しみの一つになっていた。
ところが、雨が多くなるこの季節に入って、頻繁に着替えを頼久のもとへ届けているうちに武士団の武士達の態度が変わったことに気付いたのだ。
最近ではあかねの方から挨拶をしても、今までは元気に挨拶を返してくれた若い武士達が小さな声で何かもごもごと返すだけでそそくさと立ち去って行ってしまうのだった。
視線を合わせてももらえないこともしばしばで、何かあったのかと古参の武士に尋ねてみても「いいえいいえ」と苦笑しながら言われるだけ。
武士団の武士と言えば若棟梁をつとめている頼久にとっては家族も同然の仲間達だ。
ということは、その頼久の妻でもあるあかねにとっても家族同然と思っていたわけで…
家族同然の仲間達に素気無くされてあかねが悩まないはずはなかった。
「はぁ…。」
もう何度目になるかわからない溜め息をついて、それからあかねは一つうなずくとすっくと立ち上がった。
一人で悩んで座り込んでいても何も解決はしない。
そう思い切ったあかねは行動が早い。
なんといってもこの京を救った龍神の神子なのだ。
怨霊どころかその身一つで龍神とだって渡り合ったあかねだけに、決意してしまえばあとは行動あるのみ。
あかねはすぐ着替えるために奥へと引っ込んだ。
「こんにちわ。」
鈴が鳴るようだと友雅が評するあかねの声が涼やかに武士溜まりの廊下に響いた。
「よ、ようこそ…。」
目の前に現れた若い武士はそれだけやっとのことで口にすると、すっとあかねから視線を外して駆け足で去って行った。
それこそあかねには呼び止める間もない。
自分はいったい、彼らに何をしたというのだろう?
聞きたくても聞かせてさえもらえずにあかねがその場に立ち尽くしていると、よくあかねを頼久の部屋まで案内してくれる古参の武士が現れた。
「神子様、ようこそおいでくださいました。若棟梁でしたら…。」
きっとさっき駆け去った若者が彼をよこしてくれたのだろうということはわかる。
けれど、何故逃げられたのだろうと考え始めると、好意を見せてくれる年配のこの武士のその好意さえなんだか悲しくて、あかねは苦笑しながらぺこりとお辞儀をした。
「み、神子様!」
古参の武士にしてみれば、自分のような身分の者にあかねのような高貴な女性が頭を下げることがもう信じられない事態だ。
口をぱくぱくさせて慌てる古参の武士にあかねは苦笑を深くした。
自分が今、京の常識では考えられないことをしたという自覚はある。
自覚はあるけれど、今のあかねにはそれを気遣っている余裕がなかった。
「有り難うございます。大丈夫、頼久さんの部屋ならわかりますから一人で行きますね。忙しいのに有り難うございました。」
急いで早口でそれだけ言うと、あかねは泣きそうになるのをこらえながら駆けだした。
胸には大きな布で包んである頼久の着替えを抱きしめて。
「神子様!」
呼び止めようとする古参の武士の低い声はあっという間に聞こえなくなり、ぱたぱたと足音を立てて走ったあかねは途中でその速度をゆるめた。
そのまま頼久の部屋に駆け込んだりしたら、きっと頼久が何事かと驚いてしまう。
だから、部屋の近くまで走ったあかねは一度足を止めて深呼吸をして、乱れた呼吸を整えた。
と、その時…
『手合せなどする気はないよ。』
『では、わざわざこのようなところにまで何をしにいらっしゃったのですか?』
『決まっているだろう?友の顔を見にだよ。』
あかねの耳に届いたのは友雅と頼久の声だった。
どうやら頼久の部屋を友雅が訪ねてきているものらしい。
さっき自分に声をかけてきた古参の武士は頼久は来客中だと知らせるつもりだったのかと気付いてももう遅い。
あかねがこのままそっと帰ろうか、それとも思い切って声をかけようかと思案しているうちに頼久が衝立の向こうから顔を出した。
「神子殿ですか?」
そう、頼久は怨霊と戦っていた頃、さんざんあかねの局の前で警護に立っていたせいか、その気配だけであかねを察知することができるという特技の持ち主だ。
友雅と言葉を交わしていてもその能力は発揮されるらしく、苦笑するあかねを見つけていつもは仏頂面と言われるその端整な顔にふわりと笑みが浮かんだ。
「着替えをお持ち下さったのですか?」
「あ、はい。雨が続いてるし、今日は帰って来るってわかってたんですけど…その…お仕事で濡れたりしたんじゃないかなと思って。」
「おやおや、神子殿のような妻を持って頼久は果報者だね。着替えを妻が自ら届けてくれるなんてね。」
頼久とは反対側から顔をのぞかせた友雅は、いつもは柔和なその目を一瞬きらりと輝かせたかと思うと、すぐにあかねに手招きして見せた。
「はい?」
「こちらへおいで。そんなところに立っていないで、ね。」
「でも…友雅さん、何か頼久さんに用事があったんじゃ…。」
「ないよ、そんなものは。」
朗らかに言ってのける友雅に溜め息をついて立ち上がった頼久は、すぐに戸惑うあかねに歩み寄ると、小さな手から大きな包みを受け取った。
「友雅殿もああおっしゃっていますし、中へどうぞ。」
「お邪魔じゃないですか?」
「いえ、私もちょうど友雅殿がおいでなので、仕事を中断したところでしたので。」
「それではまるで私が邪魔したみたいだね。」
「……。」
友雅の言葉には無言の肯定を示して、頼久はあかねの肩をそっと抱きながら室内へと招き入れた。
友雅の向かいに腰を下ろした頼久の隣にちょこんとあかねが座ると、友雅が微笑みながらも何かを窺うような目であかねの顔を覗き込んだ。
「それで、神子殿はどんなことを相談しに来たのかな?」
余裕のある低い声で友雅に問われたあかねは、一瞬で目を大きく見開いた。
もともと大きな目がこぼれ落ちてしまいそうなほど見開かれるのを見て、次には隣に座る頼久までが驚きを隠せなかった。
「相談しに来たっていうわけじゃ…。」
「だが、悩みがあるという顔をしているよ?私が相手では相談できない内容かな?これでも私は頼久よりも年はくっているしね、相談相手としては悪くないと思うが。」
「そういうわけじゃ…。」
「何か、お悩みがあったのですか?」
余裕で扇子を弄び始めた友雅とは逆に、頼久の顔は一瞬で蒼白になっていた。
この京での生活がそもそもあかねにとっては負担であろうといつも思っている頼久だ。
朴念仁なりにと気を使っているつもりではあっても、あかねに無理をさせた上に更に我慢もさせていたのかと青くなるのも無理はない。
顔色を青くした上に腰まで浮かせた頼久にクスッと笑みを漏らして、友雅はまあまあというように扇を振って見せた。
「なんなら頼久に外してもらおうか?頼久がいて話しにくいことなら、だが。」
「そんなことありません!」
頼久が更に腰を浮かせそうになったところであかねが怒ったように大声を出した。
こうして友雅が自分達をからかっているということはあかねにはお見通しだ。
もちろん、動揺しきっている頼久はそれを察する様子はないが、友雅はそれさえお見通しとばかりに楽しそうに微笑んでいた。
「では、私がいない方がいいのかな?」
「そういうことでも……。」
「それなら話してごらん。きっとすぐに解決するよ。」
柔らかく微笑む友雅から隣へとあかねが視線を移すと、そこには必死と言ってもいいほどの形相で深くうなずく頼久がいた。
頼久の表情にここで相談してもらえなければ腹切って見せようくらいの覚悟を見て、あかねは苦笑しながら口を開いた。
「たいしたことじゃないんです。私の勘違いかもしれないんですけど…最近、武士団のみんなが私を避けてるような気がして…。」
「は!?部下達が神子殿をですか?」
そう言って驚いた次の瞬間、頼久はもう片膝を立てていた。
つまりは立ち上がろうとしていたわけで…
「待ってください!」
あかねは慌てて頼久の腕をつかんで次の行動を止めた。
この流れだと間違いなく、頼久はここを飛び出して部下達のもとへ駆け込んだあげく、説教を始めるに違いないのだ。
「私の勘違いかもしれませんから!」
「勘違い、ではないだろうねぇ。」
必死なあかねとそのあかねをどうやってそっと振りほどこうかと苦心していた頼久は、同時に声の主を見つめた。
声の主、友雅は扇を開いたり閉じたりしながら、二人にニヤリと笑って見せた。
存在する周囲の空間さえかぐわしい香りが漂っているのではないかと思うほど妖艶なその笑みに、あかねと頼久が思わず見とれた次の瞬間、友雅は扇を口元にあててクスクスと笑いだした。
「友雅殿?」
「いや、すまない。二人とも、あまり唖然としたものだからね。」
「それは友雅さんが美男子だからですよ。見惚れてただけです。」
「神子殿に見惚れて頂くのは嬉しいが、頼久に見惚れられてもねぇ…。」
「……。」
見惚れてなどいないと言えばいいだけのことなのに、どうしてもここで気のきいた嘘の一つもつけない頼久は、憮然とした表情で出した片膝をひっこめるしかなかった。
とりあえずはほっとしたあかねが友雅を非難するように睨むと、友雅はまたぱちりと扇を閉じた。
「たぶん、避けられているのだと思うよ、私は。」
「まさか!神子殿に限って!」
「違う違う。神子殿が何かしたから避けられているんじゃない。」
『は?』
夫婦二人の声が綺麗に重なったことさえ面白そうに笑って、友雅は扇で頼久を指し示した。
「頼久だよ。」
「私、ですか?」
「そう。頼久が原因で神子殿が避けられているのだよ。」
「……。」
言われて頼久は頭の中をフル回転させた。
今まで自分がいったい、部下達に何をしたのだというのだ?
しかもあかねに関することで、部下達に影響が出るようなことをした覚えなど一つもない。
どんなに記憶をたどろうとしても、何一つそれらしいものを見つけられずに、頼久は眉間に深い皺を刻んだ。
「まぁ、頼久は気付かないだろうが…。」
「私が気付かぬうちに何かをしでかしたと?」
「しでかしたというほどのことじゃないがね。たとえば、神子殿がこうして時折、ここを訪れる。」
「はぁ…。」
「ここの若い連中のうち、たまたま通りかかった者が案内をしたとしよう。当然、神子殿の姿を近くで拝見できた若者は浮かれるだろうね。」
「そうでしょう。」
「そんなことは…。」
即答の頼久とまさかという顔のあかねは無視して、友雅はじっと頼久を見つめた。
まるで眼力で押し倒そうというように。
「それを見た頼久は、神子殿が帰った後、非常に不機嫌なのだそうだよ。」
「へ……。」
「……。」
ぽかんとするあかねに対し、当時の状況を思い出したせいなのか頼久は不機嫌そうな顔で黙り込んだ。
その様子がおかしくてたまらないというように笑いをこらえたらしい友雅は、更に言葉をたたみかけた。
「神子殿のお姿を拝見して浮かれているだけならまだしも、頼久への差し入れのついでにと菓子などを頂けた者が浮かれていると頼久はそれこそ鬼神のような顔で何も言わずにその者を睨むそうだ。」
「そうだって…。」
「ん?最近、武士団の若い連中から聞いた話だよ。神子殿に接した者は皆、頼久に鬼神のような形相を向けられて生きた心地がしないのだとね。」
「まさか…。」
「……。」
そんなことはありませんよねと言おうとしたあかねの目に、面目ないと書いてある頼久の顔が映った。
うつむき加減で黙している頼久にはどうやら思い当たる節がありすぎるようで微動だにしない。
「えっと、つまり……。」
「神子殿とお近づきになると若棟梁に妬かれて生きた心地もしないので、みんな神子殿を避けているというわけだ。現に、古参の者は避けていないだろう?」
「そういえば…。」
「自分の父親ほどの年齢の男が相手なら、さすがの頼久も妬かないというわけだね。」
「本当にそういうこと、なんですか?」
「……申し訳、ございません……。」
あかねが止める間もなく、くるりと体をあかねの方へ向けた頼久はあっという間にあかねに向かって土下座をしていた。
両手を床について深々と頭を下げる頼久に、あかねは驚いて口を大きく開けてしまい、次の瞬間にはクスクス笑っている友雅に気付いて慌てて頼久の上半身を起こしていた。
「やめて下さい!そんなふうに謝ってもらうようなことじゃありませんから!」
「しかし、神子殿に不愉快な思いを…。」
「げ、原因が分かったんですから、これからはそうならないように気をつければいいだけですから。」
これで解決とばかりにあかねが微笑んで見せても、何故か頼久の顔にはまだ苦悶の表情が浮かんでいた。
もう一度土下座をされるんじゃないかとハラハラしていたあかねはしかし、友雅の扇子を閉じる音で我に返った。
「安心しなさい、神子殿。頼久は、ちょっと困っているだけだからね。」
「困ってる?」
「ああ、原因はわかったが、ではそれを取り除けるかというとそれができないから困っているのさ。若い男が神子殿に優しくされているのを見ては妬かずにはいられないのだろう。」
「まさか…。」
そんなことありませんよねと言おうとしてあかねはその言葉を口に出せなかった。
何故なら隣の頼久が痛いところを突かれたとばかりにはを食いしばっていたから。
どうやら友朝の言葉は全て真実を語っているらしい。
「まぁ、仲睦まじくていいことじゃないか。神子殿が他の男に気移りしていないなら、だが。」
「してません!」
間髪入れずに大声をあげたあかねにうなずいて見せると、友雅は衣擦れの音も優雅に立ち上がった。
「友雅さん?」
「私は藤姫のところに用があるのでね、頼久をからかって楽しむのはこれくらいにしておくよ。」
「からかわないでください!」
「はいはい。以後気をつけよう。あとは二人で話し合うといい。」
そう言い残して去って行く友雅の背に、あかねはハッと気付いて頭を下げた。
あとは二人で話し合うといい。
それは気を使って友雅が席を外してくれたということ。
相変わらずの気遣いにあかねは自然と口元が微笑を浮かべるのを感じた。
「その……まことに申し訳なく……。」
「頼久さん。」
「はい。」
もう一度頭を下げようとした頼久は、突然愛しい声に名を呼ばれて反射的に声のした方へと視線を上げた。
次の瞬間。
唇に温もりを感じて目を見開くと、すぐに離れたあかねが頼久の視界いっぱいで顔を真っ赤にしていた。
あかねが口づけてくれたのだとわかったのはもう数瞬後のこと。
突然のことに頼久が凍り付いていると、あかねはすっと立ち上がり、友雅が去って行った方へと歩き出した。
「み、神子殿!」
去って行ってしまうらしいと気付いて頼久が呼び止めれば、あかねは足を止めてゆっくりと振り向いた。
赤い顔には幸せそうな笑みが浮かんでいて、頼久はとりあえず安堵の息を吐いた。
「今みたいなのは、その…頼久さんにしかしませんから。」
「は?」
「頼久さんは私にとって本当に特別で大切な人ですから、妬いたりする必要ないですから。」
「神子殿…。」
「じゃあ、お屋敷に帰って夕餉を作って待ってますね。」
一方的にそうとだけ言ってあかねは走り出した。
その背を呆然と見送って、足音が聞こえなくなって初めて頼久は我に返った。
特別で大切。
京を救った尊き神子にそう言ってもらえるのが己一人だと思えば頼久の体を歓喜が駆け抜けた。
一瞬で自分をこの世で最も幸福な男にしてくれる愛しい妻に、自分はいったい何ができるだろう。
友雅のように気のきいたことなどできようはずもないが、そんな自分を特別だと言ってくれる人だから。
この雨が止んだら、せめて妻の好きな自然の美しい場所にでも連れて行こう。
頼久がそう心に決めた時、辺りを陽の光が照らした。
ついさきほどまで降っていた雨はいつの間にか止んで、曇天の切れ目からは陽の光が射し込んでいる。
きっと明日は晴れるに違いない。
そう予感した頼久は、先ほどの決意を現実のものとするべく立ち上がった。
頼久の申し出に喜んで藤姫が休みを与えたのはこのすぐ後のことだった。