
頼久は濡れ縁に座ってじっと空を見上げていた。
正確には空ではなく、青空を背に咲き誇っている庭の桜を眺めている。
ただ、そのうつろな目が映しているのは桜の花というよりは花の間から見えている青い空だと言った方がいいだろう。
何故、頼久がそんなうつろな目で花を見上げているのか?
これには当然、理由がある。
それは3日ほど前の出来事だった。
桜が咲き始めて、ちょうどあかねと二人で喜んでいたところへ一通の文が舞い込んだ。
その文は土御門邸、つまり藤姫のもとからもたらされた文だった。
ただし、藤姫本人からの文ではない。
藤姫の世話をしている女房からの文で、めったにない人からの便りにあかねも頼久も嫌な予感を感じた。
そしてその予感は見事に的中した。
藤姫からの文ではないのは藤姫が病に倒れていたから。
心配させてはいけないからとあかねへ連絡するのを禁じられていながら、それでも女房があかねに知らせてくれたその文には、藤姫が熱にうなされながらあかねを呼んでいると書いてあった。
こんなことを知らされてあかねが黙っていられるわけがない。
あかねは身支度もそこそこに頼久に伴われて土御門邸へ駆け込んだ。
藤姫は熱を出して寝ていたが、泰明が見立てたところはどうやらただの風邪のようだった。
不治の病ではないとはいえ、この京では風邪も命を落としかねない病気の一つだとあかねはもうとっくに学習している。
だから、せめて藤姫の熱が下がるまでは自分が看病すると宣言して、あかねは藤姫につきっきりになった。
そうなると供をしてきた頼久はもうすることがない。
することがないというよりは居場所さえないと言っても良かった。
男の頼久には藤姫の側に寄ることはもちろんできなかったし、藤姫の側にいるあかねの側に寄ることも当然のことながら不可能だ。
そうなると仕事をするか家に帰って寝るかしかすることもなく、この3日を頼久はひたすら武士溜まりとこのあかねの屋敷を往復して過ごしていた。
毎日土御門邸の武士溜まりへ出勤しているわけだから、藤姫やあかねの様子は確認できる。
藤姫の容態は回復に向かっているらしいが、熱はまだすっかり下がる様子ではない。
となれば、あかねはまだしばらく帰ってこないということになるだろう。
そんな中、本日、頼久は休日に突入してしまった。
あかねのいない屋敷はやけにだだっ広く感じ、やけに静かでもある。
二人で見るはずだった桜も綺麗に咲いて、それは華やかな姿をしているはずなのに頼久の目にはどことなく寂しげにさえ見えた。
屋敷にあかねがいないとなると自分には何もすることがないのだと、頼久は桜を見上げながら改めて実感していた。
この屋敷で暮らしているのはひとえにあかねがこの屋敷にいるからなのだ。
かといって土御門邸へ出かけて行ってもあかねの邪魔になるだけ。
藤姫の熱がまだ下がっていない以上、あかねを呼び戻すこともかなわない。
今の頼久にできることはただひたすら、うつろな目で桜を見上げながらあかねに想いを馳せることだけだった。
桜の向こうに霞むあかねの姿が頼久の脳裏をよぎる。
桜吹雪の中に立つあかねはそれはそれは美しくて毎年見惚れているのだ。
ごく当たり前に毎年見られるものだと思っていたその美しい姿が今年は見られないとは…
頼久は自分でも気づかぬうちに今まで生きてきた中で最も深い溜め息をついていた。
頼久が屋敷で溜め息をついていた頃。
あかねはというと藤姫と談笑していた。
というのも、昨日の夜、なんとか食事をとることができた藤姫が、今朝目を覚ました時にはだいぶ調子がよさそうだったからだ。
朝餉を二人で向かい合って食べる二人はまるで本物の姉妹のようだった。
「本当によかった。泰明さんは大丈夫だって言ってくれたけど、やっぱり心配で。」
「神子様にはご迷惑をおかけしてしまいましたけれど、でも、わたくし、とても幸せですわ。」
「全然迷惑なんかなじゃないよ。気にしないで。私が看病したかったんだし、私が病気になったら藤姫だって看病してくれるでしょう?」
「もちろんですわ!」
「おや、藤姫はまだ起き上がれないと聞いていたんだけどね。」
にこやかに食事をする二人の前に姿を現したのは友雅だった。
なんの断りもなく御簾の内側に入ってくるのは相変わらずだ。
あかねは苦笑しながら友雅を迎え入れ、藤姫はあかねとは対照的に不機嫌そうな顔で友雅を睨み付けた。
「友雅殿、断りもなしに入ってこないでくださいませと何度も…。」
「寝ていては申し訳ないと思ってね。それより、藤姫の容態はずいぶんと良さそうだね。」
「あ、はい、今朝起きられるようになったんです。昨日からご飯は食べてますから、きっとすぐ良くなりますよ。」
「それは何よりだ。」
あかねの説明を聞きながら、不機嫌そうな藤姫は無視して友雅はあかねの隣へと腰を下ろした。
「で、神子殿はまだ帰らないのかな?」
「へ…あ、はい、藤姫がすっかり良くなるまでいようかと…。」
「その役目は私が引き受けよう。」
「はい?」
「神子殿は屋敷に帰った方がいいと思うが…。」
「え、屋敷で何か起こったんですか?」
「まだ起こってはいないけれどね。いつ起こってもおかしくはないというところかな。」
クスクスと楽しそうに笑いながら話す友雅にあかねは小首を傾げた。
何が問題が起こったら間違いなく頼久からすぐ知らせが来るはずだ。
緊急にあかねが帰らなくてはならないなら、必ず頼久が迎えに来る。
そのどちらもないのに友雅は帰った方がいいと言うその理由が、あかねには見当たらなかった。
「あの…友雅さん?」
「藤姫以上に神子殿が側にいないとこの世が終わったようになってしまう人間がいるのではないかい?屋敷には。」
「はい?…………それってもしかして頼久さんのことですか?」
「御名答。」
「頼久さんは大丈夫ですよ。私よりずっと大人だし、なんでも一人でできちゃうし。」
あかねがニコニコ微笑みながらそう言うと、今度は藤姫が友雅と顔を見合わせた。
今まで友雅を非難していたその態度はどこへやら、藤姫は小さく溜め息をついて箸を置いた。
「神子様、友雅殿のおっしゃる通りですわ。」
「藤姫まで…。」
「もう十分に看病はして頂きました。もう屋敷へ戻ってゆっくりお休みくださいませ。」
「そんな…。」
「頼久のことですからきっと、食事も喉を通らずに一人で魂が抜けたようになっているに違いありません。」
「そ、そんなことはないと思うけど…。」
「いいえ、きっとそうなっております。わたくしも神子様が元いた世界へ戻られていたらそうなっていましたもの。」
「藤姫…うん、わかった。たぶん大丈夫だとは思うけど、じゃあ、帰るね。」
そう言ってあかねは一度、藤姫をギュッと抱きしめた。
伝わる体温はもう平常通りで、あかねはほっと一安心とばかりに微笑を浮かべて見せるとさっと立ち上がって友雅を見下ろした。
「じゃあ、友雅さん、後のことお願いします。」
「ああ、任せておいで。」
「藤姫は無理しないで休んでね。用事はみんな友雅さんにお願いして。」
「はい。」
「またすぐ来るから。」
そう言ってひらひらと手を振ると、あかねは素早く御簾の向こうへと駆けて行った。
藤姫の看病をするのだとはりきったあかねは水干を身に着けていて、龍神の神子として駆け回っていたあの頃の俊敏さをすっかり取り戻したようだった。
「これでやっと頼久が使い物になるかな。」
「使い物?」
「ああ、武士団の連中が頼久がやたらと稽古に力を入れたかと思えば、次の瞬間には考え事をしていたりで使い物にならないと嘆いているのを聞いてね。」
「まぁ、そんなことに…。」
「特効薬は今送り出したから、これで武士団は安泰だろう。藤姫もちゃんと食事をして休まないといけないよ。」
「当然ですわ。これ以上神子様にご迷惑をおかけすることなんてできませんもの。」
藤姫はいざ!と言わんばかりの勢いで食事を再開した。
そんな藤姫の様子を友雅は優しく見守っていた。
頼久は既に何度目かわからない溜め息を深くついて相も変わらず桜を見上げていた。
いつの間にか陽の光も強く射し込むようになっていて、それだけ時が過ぎたということなのだが、頼久はそのことにさえ気づいていなかった。
ただひたすら思い浮かべるのはあかねの笑顔。
耳に残っているのはあかねの愛らしい声。
自分に衣を差し出す白くて細いあかねの手。
自分を正面から見つめてくれるあかねのきらきらとした大きな瞳。
それらが次々と頼久の中に浮かんでは消えて行った。
頼久はただひたすら自分の魂があかねを欲しているのを感じていた。
だが、今自分にできることは藤姫の看病を終えたあかねが帰ってくるのを待つことだけだ。
少なくともあかねは元の世界へ帰ったわけではない。
数日すれば会うことはできるのだと自分に必死に言い聞かせながら、頼久はじっと桜を見つめ続けた。
そうすると再び脳裏に浮かぶのはあかねの笑顔ばかりだ。
呆けたような顔で桜を見上げ続ける頼久は、緩やかな春風が吹くのと共に愛しい人の気配を感じた気がして溜め息をついた。
とうとうないはずの気配まで感じたような気になるとは…
と自嘲したその時…
「頼久さん。」
待ちわびたその声に頼久の体は自然と反応していた。
気配のした方、声の聞こえる方へと意識せずとも体は自然と回転した。
全てはあかねを恋い慕う自分の心が見せる幻だろうと思っていたその姿は消えることなくどんどん頼久に近づいてきて…
「いっぱい留守にしちゃってすみませんでした。藤姫の熱が下がったから帰ってきちゃいました。」
「神子、殿……。」
「はい……。」
「神子殿…。」
「はい……あの……もしかしてご飯食べてなかったりしますか?」
明らかに様子のおかしい頼久の様子を見て、あかねの耳に今、藤姫の言葉がよみがえっていた。
『食事も喉を通らずに一人で魂が抜けたようになっているに違いありません。』
まさかそんなことはあるまいと思っていたのに、頼久の表情はうつろで、少しやつれた様な気もする。
「その………多少食べずとも問題はありませんので……。」
おそらくは「食べました」と言おうとして、あかねに嘘をつくことなどできないとあきらめたらしい頼久はひしとあかねを見上げた。
その視線はまるで捨てられた仔犬のようで、あかねはドキリと心臓が強く鼓動するのを感じた。
そう、あかねは頼久のこの目に弱い。
「だ、駄目ですよ、ちゃんと食べないと……。」
「申し訳ありません…。」
まるで取り返しのつかない大失態の後のようにそう謝罪した頼久は、いつの間にかあかねの前に片膝をついて頭を深く垂れていた。
これではまるで龍神の神子と従者に戻ったようだ。
あかねがそんなことを思って苦笑していると、その視界に一枚の花弁が舞い込んだ。
優しい春風に乗って飛んできた薄紅の花弁。
それを見て、あかねはパンっと手を叩いた。
「神子殿?」
「綺麗に桜も咲いてますから、今からここで一緒にご飯食べませんか?」
「ここで、ですか。」
「二人っきりでお花見です。」
にっこり笑うあかねに見惚れてから頼久は嬉しそうに「御意」と答えた。
さっきまで広々として寂しかった屋敷には幸せが詰め込まれたような気さえする。
桜の花までが喜んで咲いているように見えるのだから現金なものだ。
その花をあかねが共に楽しんでくれると言う。
頼久に反対する理由は一つもなかった。
「じゃあ、せっかくだから腕によりをかけて料理を…。」
腕まくりさえしそうな勢いであかねが頼久に背を向けて歩き出そうとすると、その背はあっという間に頼久にとらえられてしまった。
一瞬で顔を赤くしたあかねはそれでもどうしたのかと後ろから抱きしめるその人を振り返ってみた。
すると、頼久はどこか懇願するような目があかねの視線を受け止めた。
「頼久さん?」
「料理でしたら後で私もお手伝い致します。ですので、今しばらくこのまま……。」
「て、手伝うってそんな……。」
頼久は武士だ。
しかも以前、男所帯で育ったと言っていた。
おそらく生まれてから今までまともに料理をしたことなどないはずだ。
その人が、料理を手伝うとまで言っている。
これはもうとんでもなく切羽詰まっているのだと気付いて、あかねは慌てて頼久に抱きついた。
「神子殿…。」
「また私が元の世界に戻っちゃったら、とか考えてたんじゃないですよね?」
「いえ、そのようなことは決して。数日すれば神子殿は戻っていらっしゃるとわかってはいるのですが、それでも離れているのは……。」
そこまで苦しそうに言って言葉を飲んだ頼久にあかねは優しい笑みを浮かべて見せた。
疑われていたわけではないようだ。
それでもこんなにつらそうにしてくれるということは、ただ純粋にたとえ同じ世界にいるのだとしても離れているだけでつらいと思ってくれたということ。
そうとわかったから、あかねは頼久に優しく抱きついてその胸にすり寄った。
「わかりました。じゃあ、料理は女房さん達に作ってもらいますね。」
「よろしいのですか?」
「はい。私も頼久さんと一緒にゆっくりしたいです。」
そう言ってあかねが微笑めば、頼久はギュッときつくあかねを抱きしめて、それからさっと抱き上げると、一番桜が綺麗に見える場所へと下ろした。
「すっかり満開ですね。」
「はい。」
嬉しそうに桜を見上げるあかねの隣に腰を下ろして、頼久の視線は花よりもあかねに釘付けだった。
龍神の神子として駆け回っていた頃と同じ水干姿のあかねの髪は今ではずいぶんと長く伸びている。
その髪の長さが明らかに昔とは違うのだと教えてくれた。
だから、頼久はそっとあかねの肩を抱き寄せると、花よりもなお綺麗に咲いたあかねの笑顔に酔いしれた。
管理人のひとりごと
はい、桜企画遙か1京バージョンでした!
花の下で唯一人、あかねちゃんを想ってたたずむ頼久さんを書きたくて始めたんですが…
なんか、途中で……花の下で抜け殻になってる頼久さんになった(’’)
頼久さんの中はあかねちゃんでいっぱいになっているのでなくなると抜け殻が残るようです(^^;
今回は久々に友雅さんと藤姫にご登場願いました。
泰明さんとかも考えたんですが、やっぱりここは友雅さんが適任だろうと。
何気に藤姫に優しくする友雅さんも好きだったりします(^^)
ブラウザを閉じてお戻りください