
頼久は武士溜まりから表へ出てため息を一つついた。
頭上にはのしかかってくるように重々しい曇天。
そして目の前の景色は小雨のために煙って見えた。
ここのところ、頼久の主筋に当たる左大臣の外出が多く、そのたびに警護に駆り出されたために頼久は満足に屋敷に居つくことができなかった。
大切な妻の待つ屋敷へは寝るために戻るだけというような状況が続いて、やっと解放された時にはこの雨だった。
まだ雨足は弱いものの、頭上の雲の厚さを見ればこれから雨が激しくなることは間違いない。
頼久は再び深いため息をついてからゆっくりと歩き出した。
普段であればさすがの頼久も多少忙しいくらいでこんなに落ち込んだりはしない。
問題は時期だった。
あかねはことのほか桜が好きだ。
その理由が頼久との大切な思い出の花であること、なので頼久もあかねの桜好きを嬉しく思っている。
だから、毎年のように花の時期にはあかねと共にあちこち花見に出かけていた。
ところが今年はこのありさま。
ちょうど桜が満開の季節に仕事が立て続けに入ってゆっくり花見もできなかった。
散り際が一番美しいのだからと我慢して仕事をこなしていけば、その散り際には雨が降り出した。
今年は墨染へさえもまだ行っていないというのに、この雨では花はきっと散ってしまうだろう。
どれほどあかねが落胆しているかと思うと、頼久の足は足元の泥にとらわれているかのようにその動きが鈍った。
愛しい妻の顔は早く見たい、けれど、落胆している顔は見たくない。
そんな想いの間で苦悩しながら頼久は本日三度目のため息をつきつつ、屋敷へ向かう足を動かし続けた。
あかねは御簾の内側からこっそり庭を覗いていた。
まだ音はしないけれど、さっきから雨が降ってきたようだった。
頼久はここ数日、満足に家で休息も取れないほど忙しかった。
だから帰ってきたらすぐに休んでもらえるように、寝所の用意も食事の支度も準備万端整えてある。
昨晩は宿直で帰ってこなかったから、頼久はもうすぐ帰ってくるはずだった。
宿直の場合は翌日の午前中に帰ってくるのが常だから間違いない。
頼久の話では明日は休みとなっているはずで、あかねは久々の休みを夫にゆっくり休んでもらうべく、色々と支度をして待ち構えているのだった。
それにしてもと御簾の外へ目を向けて、あかねは小さくため息をついた。
せっかく久々の休みで大切な人が帰ってくるというのに雨が降るなんて…
きっと頼久のことだから濡れて帰ってくるに違いない。
疲れている体を冷やしたりしたら風邪をひきはしないだろうか?
あかねはそんなことさえ心配になって、奥から濡れた頼久をぬぐうための布まで用意した。
その布を握りしめながら外を眺めれば、雨はだんだん強くなる気配だ。
本降りになる前に帰ってきてほしい。
あかねがそう祈るような気持ちで待っていると、そこへ足音が聞こえてきた。
「頼久さん!」
物音があまりしない京では人の足音はけっこう耳につく。
おかげであかねはすっかり頼久の足音を覚えてしまった。
だから、今日は少し力ないその足音に慌てて御簾の内から飛び出したのだった。
きっと疲れているんだ。
そう思って飛び出したあかねは予想通りずぶ濡れになっている頼久をみつけて駆け付けると、手にしていた布で頼久の濡れた顔をごしごしと拭き始めた。
「神子殿…。」
「お帰りなさい、頼久さん。やっぱりずぶ濡れですね。」
「その…あとは自分で…。」
「もう少しだけ…。」
あかねの手を煩わせまいと頼久が布に手をのばせば、あかねはその手を優しく払って真剣に頼久の髪を拭き始めた。
けれど、本格的に水を吸った髪はそう簡単に乾いてはくれない。
「神子殿、奥にて着替えて参ります。」
「あ、そうですね、こんなに濡れたなら着替えた方がいいかも。そのまま寝ちゃいます?宿直だったんですよね?」
「いえ、すぐに戻りますので。」
あかねから布を取り上げて頼久は奥へと姿を消した。
その背中を見送りながらあかねの表情は急に曇ってしまった。
やっぱりいつもより元気がない。
そう思い始めるともう心配で、あかねは居ても立ってもいられない。
それでも着替えを覗くわけにもいかなくて、あかねはその場に立ち尽くしてしまった。
京での生活に慣れたとはいえ、幼い頃からこの世界で育てられたわけではないあかねにはこういう時、どうしたらいいのかがわからない。
自分が生まれ育った世界だったら、市販の風邪薬を用意したり病院を調べたりできただろう。
けれど、この世界ではそれは無理。
この京でできること。
それを思ってあかねは濡れ縁に座り込むと、庭をぼーっと眺めながら考え込んだ。
火鉢を用意すればいいだろうか?それとも白湯でも持ってきた方がいい?
もしかしたら温めたお酒なんかがいいのかもしれない。
なんといっても頼久という人は友雅も驚くほどの酒豪なのだ。
いや、風邪だったとしたら酒など飲ませて大丈夫なのだろうか?
あかねの思考回路がどこへ行きつくともなくぐるぐる回り始めた頃、頼久がすっかり着替えて戻ってきた。
その気配に気づいて振り向いて、あかねは思わず目を丸くした。
一瞬、そこにいる人が誰だか分らなかったからだ。
頼久はくつろいだ単姿で、それだけでも寝所以外では見慣れないというのに今は髪を解いていたからすっかり別人に見えた。
「神子殿?」
「ああ、ごめんなさい。頼久さん髪を下ろしてたからびっくりして…。」
「お見苦しいようでしたら…。」
「見苦しくないです!全然ないです!」
慌てて否定するあかねに苦笑を浮かべて頼久はその隣へと腰を下ろした。
あかねはよく頼久の髪を長くてきれいだと褒める。
それは京では女性に贈る賛辞だったが、あかねの場合はその褒め言葉もまた自分の生まれた世界で使われていたのと同様に自分に向けられた賛辞なのだと今は頼久も理解していた。
「髪は上げてても下ろしてても頼久さんはステキです、大丈夫です。」
「はぁ…。」
「って、そうじゃなくて!頼久さん、体調悪いんですか?」
「は?」
愛しい妻の賛辞を受けて一瞬浮かれそうになった頼久は、その妻の心配そうな顔を見て小首を傾げた。
「だって、なんだか元気がないみたいだし…疲れているなら寝た方がいいと思いますけど、もし何か病気だったら…。」
「いえ、病ではありませんので。」
「じゃあ、やっぱり疲れてるんですね。お仕事忙しかったから…。」
「いえ、そういうわけでも…。」
歯切れの悪い頼久に今度はあかねが小首を傾げた。
まっすぐな視線で憂い顔の夫を見上げれば、その視線は庭の方へと向けられている。
自然とあかねがその視線を追っていけば、そこには雨に打たれている桜の木があった。
「頼久さん?」
「花散らしの雨になってしまいました。」
「ああ、そうですね。散り際だったからすっかり散っちゃいましたね。」
「申し訳なく…。」
「はい?」
「今年はどこへもお連れすることができず…。」
「え…まさかそのことを気にして…。」
「はぁ…。」
「そんなの全然気にしないでください!そんなことより頼久さんが疲れてるってことの方がずっと問題です!」
「いえ、疲れているわけでは…普段から鍛えておりますのでそこはご安心を。」
「じゃあ、お花見できなかったからがっかりしてただけ、ですか?」
「花見ができなかったというよりは…神子殿にお見せできなかったことの方が…。」
正直に想いを口にすれば、あかねが驚いたように目を見開いて、次の瞬間には頼久の腕にきゅっと抱きついていた。
「神子殿?」
「よかった。頼久さん、病気でもないし、疲れてて元気がなかったわけでもないんですね。」
「はい。」
「それならいいんです。桜はまた来年見ればいいじゃないですか。頼久さんが元気なら来年だって再来年だっていいんですから。」
「神子殿…。」
腕から伝わる温もりが優しくて幸せで、頼久は思わずあかねの小さな体を抱き寄せた。
ゆっくり堪能する前に花が散ってしまって、どれほど落胆しているだろうかと思った愛しい人は花のことよりもよほど自分のことを心配してくれていた。
そのことが嬉しくもあり、有り難くもある。
頼久は胸に溢れる想いを言葉にすることができなくて、抱き寄せた愛しい人に長い口づけを贈った。
想いの全てを込めて、優しく、優しく。
唇を離した時、あかねの顔は真っ赤に染まっていて、その様子が愛らしくてたまらなくて…
頼久はあかねの体を膝の上に抱え上げると、両腕でしっかりとその体を抱きしめた。
「来年は必ず桜の名所を回りましょう。」
「はい。」
「必ずお連れするとお約束いたします。」
「あ、でも、お仕事は優先ですよ?私と桜を見るためにお休みとかはとらないでくださいね。」
「御意。」
腕の中で妻らしく言うあかねに笑顔を見せながら頼久はあかねにはこう答えたものの、来年は休みを取ってでも花見に行こうと決めていた。
今年の分も必ずあかねを喜ばせてみせる。
今から頼久の決意は固い。
「今年も私一人ではけっこう眺めてたんです。天気のいい日もあって、温かかったし。」
「そうでしたか。今年の桜はいかがでしたか?」
「今年もキレイでしたよ。散り際もすごく。何回が友雅さんが来て、おいしいお菓子をもらっちゃいました。」
「友雅殿が…。」
「永泉さんからは手紙が来ました。笛を聞かせてくれる予定だったんですけど、法事が入ってしまって無理だったんです。」
「そうでしたか…。」
「その分も友雅さんが来てくれて…あ、手紙を持ってきてくれたのが友雅さんだったんです。」
「はぁ…。」
「それでお菓子をくれて、次に来た時には綺麗な桜色の袿をくれたんです。藤姫の見立てだって…あ、着ておけばよかった。」
次々にあかねの口から飛び出す予想だにしない話に頼久はため息をついた。
屋敷を空けていたという自覚はある。
あかねに寂しい想いをさせていたかもしれないと思ってもいた。
その間、元八葉の面々があかねのそばにいてくれたのならそれは感謝すべきことなのだろうとも思う。
思うけれど、思考と感情は別物で…
「今から着替えましょうか?凄くキレイな桜色なんです。」
慌てて立ち上がろうとするあかねを頼久は解放しなかった。
強く抱きしめてその体を自分の体に縫い付けると、頼久はもう一度、今度はあかねの耳元でため息をついた。
「頼久さん?」
「他には何かございましたか?」
「はい?」
「私の留守中に何かございましたか?」
「えーっと、泰明さんが様子を見に来てくれて、あと、鷹通さんが桜の歌の説明をしに来てくれて…あ、友雅さんが琴を弾いてくれた日もありましたけど…。」
「なるほど、それならば神子殿は寂しい想いをなさってはいなかったのですね。」
力ない頼久の言葉にあかねは何かを考え込むようにうつむいて、それからはっと視線を上げた。
「頼久さん、ひょっとしてやきもちやいてます?」
「……己の多忙のせいとわかってはおりますが、いい気分ではありません…。」
「みんな心配してくれたんです。毎年二人で墨染へ行ってるってみんな知ってたし、今年は行けないって話をしちゃったから…。」
その原因が自分だということがわかっているだけに頼久もあからさまに怒ることができない。
それでも歓迎すべきはずの仲間達の行動をどうしても手放しで喜ぶことはできなくて…
「だからみんなが来てくれて確かに楽しいのはそうだったんですけど…でも、寂しくなかったわけじゃないですよ?」
「は?」
「頼久さんがいないんですよ?いくらみんながいてくれたって寂しいに決まってるじゃないですか…。」
だんだんと声を小さくするあかねを頼久は強く強く抱きしめた。
「だから、花は散っちゃいましたけど、お休みはずっと一緒にいてくださいね?」
「御意。」
可愛らしいあかねの言葉に想いの全てを込めて頼久はその短い言葉を口にした。
そしてあかねの小さな体を横抱きにして立ち上がる。
「頼久さん?」
「今日も明日も、ずっとおそばにおります。」
「はい…。」
どうやらすっかり上機嫌になったらしい頼久は、あかねが小首を傾げている間に歩き出した。
向かう先に目をやって、あかねははっとその顔に朱を浮かべる。
あかねの視線の先、頼久の足の向かう先にはあかねがいつでも眠ることができるように準備を整えてある寝所があった。
「あの…頼久さん?」
「おそばにおります。」
「それはそうなんですけど…えっと、寝所で、そば、ですか?」
「お嫌ですか?」
耳元でかすれそうな声にそう問われて、あかねは首まで赤くなると首を小さく横に振った。
綺麗なあかねの髪が揺れるのを見た頼久の口元が幸せそうに緩む。
そんな顔が見れるならまあいいかとあかねもまた赤い顔に笑みを浮かべた。
だんだんと強くなる雨の音の中、二人は奥の寝所にこもりきり、これまで離れていた数日分の時間を埋めるのだった。
管理人のひとりごと
というわけで桜企画京バージョンでした(^^)
花見してませんがね…
ある意味、頼久さんだけは花見してるか(’’)
っていうかこの後、花愛でてるな(ノД`)
今年の管理人の花見はあまり天気というか気温に恵まれませんでした。
ので、たまにはこういうのもいいかなと。
来年は頼久さんと一緒に散り際の桜を見られるといいなと思います!
ブラウザを閉じてお戻りください