琴の音が聞こえる。

 武士団での雑務を早々に片付けてあかねの元へとやってきた頼久は、屋敷の外まで聞こえる聞き慣れない音に首を傾げながら屋敷へは入らずに音がする庭の方へと回った。

 その音は間違いなく琴の音で、あかねはもちろん琴など弾けるはずもなく…ということは屋敷に誰か客がきているということだ。

 案の定、庭へ足を踏み入れた頼久の目に映ったのは琴をかき鳴らす永泉の姿だった。

 その永泉の隣には琴を並べたあかねが真剣な面持ちで座っている。

 琴をかき鳴らす永泉はどこか神秘的で近寄りがたく、頼久は遠巻きに二人を見つめる位置まで進んでそこに立ち尽くした。

「このような感じです。」

「こんな感じっていわれても…全然できそうにないですよ〜。」

 短い一節を弾き終えた永泉の笑顔にあかねは深いため息をついた。

 それは本当に簡単な短い一節だったが、永泉が弾くとそんな一節さえすばらしく聞こえる。

 あかねはとうていそんな風に弾けるようにはなれない気がしてため息をつきながらも腕まくりをして琴の上に手を置いた。

「ゆっくりおちついて、優しくかき鳴らしてみてください。」

「はい。」

 あかねの細い指がゆっくりと琴の上を滑って…

 頼久はあかねの指が生み出す琴の音に聞き入った。

 それはもちろん永泉が紡ぎ出す音色にはとうてい届かないつたない音だったが、それでも頼久には優しく清らかな音に聞こえて心地いい。

「あー、やっぱり全然ダメです。綺麗に聞こえないし、間違えちゃうし。」

「そのようなことはありません。神子は筋がよろしいです。音自体はさほど悪くありませんし、指使いは練習しだいですから。そうですね、ここを奏でるときにもう少し力を抜いて。」

 永泉はそういいながら琴の上にあるあかねの手に己の手を乗せて、弦のはじき方を教えていく。

 そしてそれを見つめていた頼久は、永泉があかねの手に己の手を乗せた瞬間、胸のうちに何かが刺さるような感覚に襲われて顔をしかめた。

 あかねは琴を習っている最中なのだ、そして永泉は懸命にあかねに琴を教えようとしている。

 それはわかる。

 わかっているのにどうしようもなく頼久の中で何かが痛んだ。

「ん〜、やっぱり難しいですね。」

「…わたくしには楽の音しかありませんでしたのでそのように思ったことはありません。楽とは奥が深く、いかようにも追い求めることのできるもの、とお思い下さい。」

「奥が深い、かぁ。」

「はい。いつまでも己の思う音を求めることができるもの、わたくしはそう思っております。」

「たくさん練習したら、私でも少しはましになると思います?」

「少しなどと…神子ならわたくし以上の弾き手になりましょう。」

 そう言って微笑む永泉は高貴さが漂っていて、永泉に見つめられたあかねの笑顔がまぶしくて、頼久は見ていられずに視線をそらした。

 自分の手の届かないところにあかねがいるような気がして、そしてそこには自分よりもあかねにふさわしい高貴な男がいるような気がして…

「あ、頼久さん!」

 そんな頼久に気付いたのはやはりあかねだった。

 名を呼ばれては頼久も反応しないわけにはいかず、やっとの思いでその顔にかたい笑みを浮かべるとゆっくり二人の方へと歩み寄る。

「おはようございます、頼久さん。」

「おはようございます、神子殿、永泉様。」

「あ、おはようございます…。」

 何故か小さな声でそういった永泉は戸惑いがちな表情でうつむいてしまった。

 そんな永泉には気づかずにあかねは満面の笑みを頼久へ向ける。

「今ね、永泉さんに琴を習ってたんです。でも凄く難しくて…。」

「いえ、さきほどの音色を聞かせて頂きましたが、美しい音色でございました。」

「ええ!頼久さん聞いてたんですかっ!?恥ずかしいなぁもぅ。」

 顔を真っ赤に染めあげてあかねはもじもじし始める。

 そんなあかねが可愛らしくて頼久は今度こそ心の底からの微笑を浮かべた。

「あ、あの、神子、わたくしはそろそろ失礼致します。御勤めもありますので…。」

「あ、はい、あの、有難うございました。」

 寂しげな微笑を浮かべて去ってゆく永泉を見送りながら、頼久はなんだか勝ち誇った気分になっている自分に気付いていた。

 これは、この想いは…

「頼久さん、もうちょっとだけ今日永泉さんに教えてもらったところ、練習してもいいですか?」

「どうぞ、神子殿のお気のすむまで。」

 にっこり微笑んだあかねはこれから二刻ほど練習に励むのだった。





 翌日、頼久が再び武士団での雑務を終えてあかねの屋敷を訪れると、今度は何やら人の声が聞こえてきた。

 また庭の方へ回ってみると、今度はあかねが机の上の書物と格闘している。

 その隣には鷹通がやわらかな笑みを浮かべて座っていた。

「う〜、やっぱり筆って難しい…。」

「ですが、文字自体は神子殿がいらっしゃた世界とさほど変わらぬようですから、少しばかり練習なさればすぐに流暢に書けるようになりますよ。」

 どうやらあかねは鷹通に習いながら何か書物を紙に書き写して文字の練習をしているようだ。

 真剣に筆と格闘するあかねの隣で微笑む鷹通があまりに幸せそうに見えて、頼久はまたもや声をかけそびれてしまった。

「そうかなぁ…うわ、また変な風になっちゃった…。」

「力を入れすぎですね。もっとこう、書くというよりは滑らせるという感じがよいかと。」

「す、滑らせるって……でも書いてるわけだし…。」

 あかねはあくまでも必死の形相だが、鷹通はすっかり保護者の立場で優しく微笑んでいる。

 そんな風に並んで手習いしている二人があまりにも自然で、見守る頼久の顔にはいつの間にか不機嫌そうにゆがんでいた。

「うわっ、またやっちゃった…。」

「ですから、力を抜いてください。そんなに緊張なさらずに。そうですね、少し筆を浮かせるような感じでもいいかもしれません。」

「浮かせるって言われても…。」

「しかたないですね、失礼します。」

 何度やってもうまくいかないらしいあかねを気遣って、とうとう鷹通はあかねの手に自分の手を添えてゆっくりと筆遣いを教え始めた。

 すらすらと滑らかに流れていく筆先に感心することしきりのあかねはじっと紙の上の筆先に集中している。

 そんな様子を見ていた頼久は先日の永泉の時と同じように、胸にうちに何かが刺さるような痛みを覚えた。

「凄い、本当にちょっと筆を置くっていう感じで書けちゃうんですね。」

「はい。力を入れる必要は全くありませんので。」

「有難う、鷹通さん、コツがわかったような気がします。」

「それは何よりです。あぁ、もう少し複雑な文字も練習しておきますか?」

 そう言って鷹通が一度離した手を再びあかねの手に重ねようとしたその時、頼久は思わず足早に庭を横切り、階の前へと歩み出ていた。

「あ、頼久さん、おはようございます。」

「おはようございます、神子殿、鷹通殿。」

「おはよう、頼久。」

 いつものように満面の笑みで頼久を迎えるあかね。

 あかねは全く気付いていないようだが、頼久の顔に浮かんでいる笑顔はかなりかたい表情で、それに気付いた鷹通は苦笑しながらあかねへと伸ばした手を自分の方へ引き戻した。

「今日は鷹通さんに文字の書き方を教えてもらってるんです。でもなかなか難しくて。」

「いえ、神子殿は筋がよろしいですよ。少し練習すればすぐに上手に書けるようになるでしょう。今までは怨霊の封印やそれにまつわる事件が色々とあって練習できませんでしたから。」

「そうだといいんですけど…。」

「まぁ、自分でうまく書けるようになるまで、必要な時には女房に代筆させればよろしいのですからあせらずに。」

「代筆なんてしてもらっていいんですか?」

「はい。神子殿以外にも文字が苦手な姫君というのはけっこういらっしゃるのですよ。そういう方は皆、字のうまい女房が代筆をするのです。ですから、神子殿も今のところは女房に代筆させればよろしいのですよ。ご自身が上達しようと思われる、そのお志に私などは感心しておりますから。」

 二人がそんな会話を交わしている間も頼久は黙り込んだまま会話に入れずにいる。

 もともと何気ない話は苦手な頼久だが、二人にこうも親しげにされると入る隙さえ見出せない。

 そんな自分に苛立ち、その苛立ちはどうやら自然と頼久の顔に出てしまっているようで…

「頼久さん?どこか具合でも悪いんですか?」

「い、いえ、特には…。」

 今度はあかねがそんな頼久の異変に先に気付いた。

 心配そうに覗き込むあかねになんとか苦笑を浮かべて見せはしたが、頼久の心中は穏やかではない。

 あかねに心配してもらっている今この瞬間でさえ、頼久の胸の辺りは何かに刺されたようにちくちくと痛んでいるのだ。

「神子殿、あまり一度に色々と練習しても身につくものではありませんので、今日はこの辺に致しましょう。」

「あ、はい。」

「私も家に戻って少し勉強することに致します。これからは神子殿に鋭い質問をされそうですから。」

「うっ、鋭い質問なんてできるようになるかどうか…。」

「すぐになりますよ。神子殿は向上心がおありですから。頼久も武士として一通りの手習いはしているでしょうから、文字の書き方も何かわからなければ頼久にたずねても良いでしょう。もしかすると頼久の字の方が多少神子殿の世界の文字に近いかもしれませんし。」

「あ、そうかも!」

「では、私はこれで。」

「はい、有難うございました。」

 微笑を残して去っていく鷹通を礼で送りながら頼久はやっと安堵している自分に気付いていた。

「頼久さん。」

「はい。」

「本当に具合、悪くないですか?」

 今度は席を立って自分の方へ歩み寄ってから声をかけたくれたあかねに、頼久はちゃんとした笑顔を返すことができた。

「いえ、全く問題はありません。」

「ならいいんですけど、無理はしないでくださいね。具合が悪かったらちゃんと休んでくださいね?」

「はい、承知致しました。神子殿のご命令とあらば。」

「命令じゃないですってば、お願いです。」

「はい。」

 少しだけ不機嫌そうになったあかねさえ愛しくて、頼久の顔には穏やかな笑みが広がった。

「そうだ、頼久さん、鷹通さんがくれた本と巻物、読むの手伝ってくれるって約束でしたよね?今手伝ってもらってもいいですか?」

「はい、喜んで。」

 嬉しそうに微笑むあかねに手を引かれて頼久は階を上る。

 さきほど鷹通が座っていたところに腰を下ろし、隣であかねが巻物を広げ始める頃にはもう頼久はさきほど胸のうちに宿った痛みを忘れていた。





 翌日、頼久があかねの屋敷を訪れると、いつもあかねが座っている縁には人影がなく、声をかけてもあかねの姿はどこにもなく、女房に聞いてみるとあかねは既に外出した後だった。

 もちろん一人で外出したわけではない。

 迎えに来たのはイノリだと女房はそう言った。

 どこへ行くとは聞いていないという。

 まがりなりにもイノリは八葉の一人でもあるし、怨霊はもうこの京にはいない。

 心配はないだろうと思いはしたが、頼久の足は自然と屋敷の外へ向いた。



 頼久がまず向かったのは神泉苑だった。

 神子が自分の前から姿を消す時、それは元の世界へ戻る時と無意識のうちに思っていたからかもしれない。

 もし、あかねがこの神泉苑から元の世界へ戻ってしまったら…

 そう思って背筋に寒気が走るのを感じながら頼久は首を横に振った。

 昨日もあんなに楽しそうにしていたあかねが、いきなり頼久になんの話もなく元の世界へ帰るわけがない。

 そう思い直しながら辺りを見回すとやはりそこに愛しい人の姿はなく、頼久はすぐに次の地へ向かった。

 将軍塚、音羽の滝などなど、近場をあたってみてもあかねの姿はなく、頼久はここでようやくゆっくりとあかねの行方について考えてみた。

 むやみに歩き回ってもみつかるはずがないとやっと気付いたのだ。

 あかねは昨日までとても楽しそうだった。

 そして同行しているのはイノリだ。

 目的はわからないがイノリが共にいた方が都合がいい場所に向かったに違いない。

 そう考えてみるとおそらく庶民の生活に欠かせない場所であろうと予想がつく。

 頼久は一つうなずくと今市が立っているであろう場所へと歩き出した。

 あかねはもともとにぎやかな場所が嫌いではないし、イノリはそういう場所に詳しいはずだ。

 そんなことを考えながら頼久は大勢の人でにぎわう市をゆっくりと回り始めた。

 市には人があふれており、とてもではないがここから一人の少女を見つけるなど不可能にさえ思える。

 だが、頼久は辺りを注意深く見回しながらゆっくりと歩いた。

 愛しい彼の人の可憐な姿を見逃すはずがない。

 そうして歩き回ること数刻、もう昼も近いという時刻になった頃、頼久は市の一角でやっとあかねとイノリの姿を見つけることができた。

 二人は楽しそうに何やら市で売られているものを眺めている。

「イノリ君、これかわいい!」

「女ってみんなそういうもの好きだよなぁ。」

 そんな話をしながら二人は楽しそうに笑っている。

 普段なら頼久も微笑ましいとさえ思っただろう光景だったが、あかねの手元を見て頼久の表情は一気に翳りを見せた。

 あかねの右手はイノリの衣の袖をしっかり握っていたのだ。

 おそらくは人込みの中、はぐれて迷ったりはしないようにというイノリの配慮なのだろう。

 そうとわかっていても頼久の胸はちくちくと痛んだ。

 あかねが自分以外の誰かを頼っていることに頼久の胸のうちには自分が思っている以上の感情がわいたらしい。

 しかもイノリの袖を握ったあかねの笑顔はきらきらと輝いていてとても幸せそうだ。

 思えばあかねの年齢は頼久よりもずっとイノリの方が近い。

 もしかすると、同じ世界からやってきた天真と詩紋がいない今、あかねと最も話が合うのはイノリかもしれない。

 そう思うと頼久の胸の痛みは増すばかりだ。

 身分の差、年の差、そして生まれ育った世界の違い、どれをとっても頼久にとってあかねは遠い存在に思えて…

 いつの間にか頼久はあかねとイノリを追うことをやめ、自らの屋敷への道をたどっていた。

 その視線は常に下を向き、その瞳には明らかな憂いの色が宿っていた。





 一日あかねと言葉を交わさなかった。

 そのことがつらくて、翌日、頼久は朝早くからいつもよりも多めに鍛錬の時間をとった。

 一心に剣を振ることで己の内にある心の揺らぎを正そうとしたのだがうまくはいかず、結局いつもよりは少し遅い時間に憂いを胸に抱いたままあかねの屋敷を訪れた。

 昨日と同じように屋敷の中は静かだが、人の気配はちゃんとする。

 頼久はほっとため息をついてあかねの局へ向かった。

 そしてそこで目にしたのは…

「泰明殿…。」

 局の前の縁の柱にもたれてうたたねをしているあかねと、そのすぐ側であかねを見守っている泰明の姿だった。

 鬼と戦っている時は無表情なことこの上なく顔に呪いを施していた希代の陰陽師はその顔に優しい笑みを浮かべて、自分に心を与えてくれた神子を見守っていた。

 そして、頼久の声を聞いた刹那、その色の違う二つの瞳はきりっと鋭い光を宿し、振り向きざま頼久を射抜いた。

「何故ここに…。」

「静かにして気を整えろ、神子が起きる。」

「……。」

 気を整えろと言われて初めて頼久は自分が動揺していたことに気付いた。

 泰明の目は明らかに怒気を含んでいて、その視線が痛い。

 頼久は己を落ち着かせるべく、一つ深呼吸をした。

「神子の気が激しく乱れていたので整えに来たのだ。」

「神子殿の気が…。」

「だが、こちらについて早々、神子が陰陽の理について知りたいと言うので少しばかり説明をしたが、疲れているようだったから寝かせた。」

「……。」

「頼久。」

「はい。」

「何をしている?」

「は?」

 何を言われているのか頼久にはとっさに理解できず、泰明に問いかけの視線を向けると泰明は不機嫌そうに頼久を睨み返した。

「何をしているのかと聞いている。」

「何を、と申されますと?」

「神子にはお前がついている、だから私の出る幕はないとお師匠に言われていた。だが、こうも神子の気が乱れては放ってもおけぬ。これほど神子の気を乱しておいてお前は何をしているのかと聞いているのだ。」

「私が、乱したのですか?神子殿の気を。」

「他に誰がいる。」

「……。」

 います、他にいくらでも。

 そう言いそうになって頼久は口をつぐんだ。

 自分はいったい何を考えているのか。

 心の中で己を戒める。

「神子は他ならぬお前を選んだ。故に私は神子の選択に従った。だが、神子の気をこれ以上乱し、神子が不幸になるようなら私も黙ってはいない。」

「泰明殿…。」

「ん〜。」

 少しばかり大きく鋭くなった泰明の声に反応したのか、あかねがゆっくりと目を開けた。

 しまったとばかりに泰明が顔をしかめた時にはもう、開かれたあかねの目には泰明の姿が映っていた。

「……泰明さん?」

 寝ぼけているらしいあかねは泰明の方を見てからすぐに両手で目をこすり、もう一度しっかりと泰明を見て、それから視線を頼久の方へと向けた。

「頼久さん!」

 やっとはっきりしてきた意識で頼久の姿をとらえたあかねはその顔に満面の笑みを浮かべた。

 その明るい笑顔を見た泰明はほっとため息をつきながらどことなく寂しげだ。

「よかった、来てくれたんですね!」

「はぁ。」

「昨日、朝来てすぐにいなくなったって聞いて、私、勝手に出かけちゃったから怒ってるのかなって思って…。」

 そう言ってうつむくあかね。

 頼久はやっと泰明が何を言っていたのかに気付いた。

 つまり、あかねは昨日頼久が一日会いにこなかったので怒っているのかと心配して気を乱していた、ということらしい。

「怒るなどと…そのようなことは有り得ませんのでご心配なく。昨日はその……武士団の方で少々ありまして…。」

 元来が口下手な頼久なだけに言い訳がましい物言いではあるが、あかねにはそれで十分だったらしく、その顔には嬉しそうな笑顔が宿った。

「そうだったんですか。私、てっきり怒らせちゃったのかと思って…よかったぁ。」

「気の乱れは整ったな。私は仕事に戻る。」

「あ、泰明さん、わざわざ有難うございました。」

「問題ない。」

 そう言って泰明はひらりと庭へ降りると、頼久へ一瞥を投げてから去っていった。

 その最後の泰明の行動が理解できずに小首をかしげたあかねだったが、すぐにぱっと明るい笑顔で頼久を見上げた。

「昨日はイノリ君と市に行ってたんです。ごめんなさい。本当は頼久さんにちゃんとお話ししてから出かければよかったんですけど、イノリ君にせかされちゃって…。」

「何か御用がおありだったのですか?」

 答えながら頼久はあかねの向かいに座る。

「いいえ、ここで暮らしていくって決めたし、色々、京の町のこととか、みんながどんな生活をしてるのかとか知っておこうと思って。藤姫ちゃんとか鷹通さんとか友雅さんだと貴族の生活しかわからないし、永泉さんだとお坊さんの生活だし、頼久さんは武士の生活でしょ、泰明さんはもっと普通じゃないし…普通の人の普通の生活ってイノリ君が一番詳しいかなって思って、それで色々教えてってお願いしたら急に市に行こうって言われて、で、昨日はイノリ君が市を案内してくれたんです。」

「そうでしたか。」

「色々な物があって楽しかったですよ、たとえば…。」

 あかねは楽しそうに昨日市で見たものについて頼久に語って聞かせた。

 そんなあかねの様子はまるで昨日会えなかった分を埋めようとしているようで、必死に自分と共にいなかった時間のことを語って聞かせてくれるあかねの気持ちが嬉しくて、頼久は自然とその顔に穏やかな笑みを浮かべた。

 うまい受け答えはできないが、ただうなずいて聞いているだけであかねは楽しそうに語ってくれる。

 ただそれだけのことで、頼久の昨日から今朝にかけての鬱々とした気分は一瞬のうちに晴れやかになっていくのだった。





 昨日、まる一日ひとしきりあかねと話をした、というかあかねの話を聞くことができて頼久は上機嫌だった。

 泰明にも神子の気の乱れには気を配れというようなことを言われもしたし、たまには神子殿に贈り物をなどをと考えて頼久は少しばかり寄り道をしてあるものを買い求めてからあかねの屋敷へ向かった。

 ところが、屋敷へつくとすぐに頼久の表情は激しく陰りを見せた。

 屋敷の中から薫る香の薫りが鼻を突いたからだ。

 それは頼久が一番警戒する人物がよく身にまとっている薫りで、そっと庭へ回った頼久は案の定その薫りの主の姿を見つけて眉間にシワを寄せた。

 左近衛府少将橘友雅、この世の全ての女性が憧れると噂される男は今、あかねの前で扇を鳴らしながら艶な笑みを浮かべて座っていた。

「まぁ、これが私の一番好きな侍従の香だね。」

「侍従もいい匂いですよね。」

「ここからが本題だよ、神子殿。香というものは合わせ方でいくらでも薫りが変わっていく。無限にね。」

「無限、ですか。」

「そうだよ。同じ侍従でもね、ほんの少し材料の量が違ったり、季節によっても薫りは微妙に変わるのだよ。まぁ、慣れてくればすぐにわかるようになるけれどね。」

「う〜、侍従と黒方の違いくらいならわかるんですけど、そんな微妙な差が私にわかるかなぁ…。」

「大丈夫、神子殿は筋がいいよ。すぐにわかるようになるさ。」

 あかねはどうやら今日は香と格闘しているらしく、友雅が講師をつとめているようだ。

「神子殿の世界ではどうだかわからないけどね、この京では恋の駆け引きに香は欠かせないものなのだよ。」

「恋の駆け引き、ですか。」

「そう。だからね、神子殿も香については学んでおいた方がいい。」

「ん〜、私は恋の駆け引きはたぶんしないんで、好きな薫りのお香が作れるようになれればそれでいいんですけど…。」

 そう言って苦笑するあかねに優雅な身のこなしで身を寄せた友雅は、あかねが思わず顔を赤くするような至近距離で妖艶に微笑んで見せた。

「例えば、同じ侍従の薫りでも微妙な違いがわかるとね、夫が侍従の薫りをまとって出かけて、同じ侍従の薫りを好む女性のもとへ通ったとしても見破ることができたりするのだよ、神子殿。」

「はぁ…。」

「そのような知識は必要ない、と思っているのかな?神子殿は。」

「思ってます。」

「ふむ、まぁ、神子殿らしいけれどね、私は必要になると思うね。」

 癖のある自分の長い髪を指先でもてあそぶ友雅を見てあかねは更に苦笑する。

 そういう恋の遊戯を楽しむ友雅なら必要だろうが、自分が恋の駆け引きを楽しむ姿など想像がつかないのだ。

「神子殿はまだまだわかっていないね。」

「はぁ…。」

「神子殿は頼久は絶対に他の女人のもとに通ったりはしないから必要ないと思っているのだろうが、私は必要になると思うよ。頼久が他の女人に通わず一生神子殿一人ということはまぁ、ありそうな話だが、神子殿が他の男を好きになることだってあるかもしれない。何しろ神子殿はまだ十六、人生はまだまだ先が長いからねぇ。そうなると想い人の残り香を消す術を身につけておいた方がいい。そうは思わないか?頼久。」

「へ?」

 急に愛しい人の名が出てあかねは辺りをきょろきょろと見回した。

 だが、屋敷の中にもすぐそこの庭にもその姿はない。

「ふん、神子殿を妻にすると公言したはいいものの、いまだに己のものにもできずに悋気など起こしている男ではそのうち愛想をつかされるぞ、頼久。そうなったら私も黙ってはいないよ、神子殿。」

 そう言って友雅はぐいっとあかねににじり寄るとその頬に軽く口付けた。

 その動作にはあまりにも無駄がなくて、その身のこなしはあまりにも優雅で自然で、あかねは全く警戒していなかったせいであっさりとキスされてしまい、急に真っ赤になってざざーっと局の奥へ転がり込んだ。

「と、友雅さん!」

「友雅殿!」

 あかねが叫ぶのと頼久が叫びながら庭を横切って駆け寄ってくるのとは同時だった。

 愉快そうに笑っている友雅はぱちりと扇を鳴らす。

「友雅殿、お戯れがすぎます!」

「おお、これは本気で怒らせたかな?」

 今にも剣を抜きそうな勢いの頼久にもこの風流な男がひるむことはない。

 こう見えて武官の友雅は八葉の中でも頼久と武術で渡り合えるだろう実力の持ち主だ。

 しかもその高貴な身分は頼久がおいそれと切りかかれるようなものではない。

「永泉様、鷹通、イノリ、泰明殿、そして私、八葉は皆、神子殿を慕っているということを忘れぬことだ。うかうかしていると横からさらわれてしまうぞ。」

「……。」

「悋気にまかせて神子殿にあたりちらさなかったことだけは褒めてやるが、そんなに神子殿を独り占めにしてしまいたいのなら早く婚儀を済ませて、いや、婚儀など後でもいいから共寝の一つもしてしまうことだ。」

「友雅殿!」

「トモネ?」

 突然聞きなれない言葉が出てきて小首をかしげるあかねに友雅は意味深な笑みを浮かべて見せて、扇をぱちんと鳴らすとすっと立ち上がった。

「そろそろお暇しようか、これ以上頼久をからかうと本当に斬られてしまいそうだからね。」

「だったらからかったりしないで下さい!」

「これはこれは、神子殿まで本気で怒らせたようだ。早々に退散するとしよう。」

 斬られるなどとは露ほども思っていない風の友雅は階を降りると立ち尽くしている頼久の耳元に顔を寄せた。

「他の者はともかく私は本気だ。しっかり神子殿をつかまえておくのだな。」

 あかねには聞こえないように小さな声でそう言った友雅は頼久に反論する間を与えず、軽く片手を上げて見せると優雅だが素早い足取りで去って行った。

 その後ろ姿を睨みつけるように見送った頼久は、しばらくその場から動けなかった。

「あの、頼久さん?怒って、ます?」

 いつの間にか縁まで出てきたあかねにそう声をかけられて初めて我に返った頼久は、慌てて首を横に振った。

「怒ってなどおりません、もし怒っているとすれば友雅殿に対してです。」

「友雅さんはああいう人だから、ちょっとからかってるだけですよ。」

 そう言って無邪気に笑うあかねだが、頼久の耳からは先ほど耳元で囁かれた友雅の言葉が離れない。

 そう、口下手で無骨なことこの上なく、女性の扱いなど全く心得ない不器用な自分が神子殿に選ばれたこと自体が奇跡なのだ。

 いつ愛想をつかされても不思議ではない。

 そう思い始めると不安はつのるばかりで…

「あのぉ、頼久さん?」

「も、申し訳ありません…考え事をしておりました…。」

「あぁ、いえ、そうじゃなくて…その……。」

 何か言おうとしているらしいが言えずにいるあかねがうつむくその姿も愛しくて、頼久は思わず階半ばまで上ってあかねに近づくとその顔を下から覗き込んだ。

「神子殿。」

「は、はい?」

「実は本日は神子殿にお受け取り頂きたいものがあるのです。」

 なぁに?という風に小首をかしげるあかねに頼久は懐から取り出した小さな包みを手渡した。

「昨日、神子殿にご心配をおかけ致しましたのでお詫びにこれを。」

「そんな、気にしなくていいのに…。」

 そう言いながらも許婚からの初めての贈り物を受け取ったあかねはとても嬉しそうだ。

「開けていいですか?」

「どうぞ。」

 あかねが丁寧に包みを開けると出てきたのは小さな陶製の器で、包みを開けたとたんにその器からいい香りが漂ってきた。

「これ、梅香ですね。」

 陶器の蓋を開けることなく言い当てたあかねはにっこり微笑む。

 それはあかねの大好きな薫りの香だ。

 そして頼久が好きな香でもある。

「はい、お好きだったと思いまして。」

「この薫り、大好きです。だって、頼久さんが好きな薫りだから。」

 さらりとそう言ったあかねは器に顔を近づけて深く息を吸い込む。

 その姿が愛らしくて、自分の好きな香りだから好きだとなんの恥じらいもなく心の底からさらりと言ってくれる許婚が愛しくてしかたなくて…

 頼久は思わずあかねの隣に座り、ふわりとその小さな体を抱き寄せた。

「頼久さん…」

「お嫌でしたか?」

「いえ、嬉しいです!って、そうじゃなくて…その…えっと…。」

 頼久の腕の中であかねは小さな陶器を抱きしめ、何かを伝えようと必死だ。

 だが、今の頼久はさきほど友雅に宣戦布告をされたこともあってあかねを解放してやるつもりは全くなかった。

 今はただ自分の腕の中で幸せそうにしてくれる愛しい人を抱きしめていたかった。

「あの、その…。」

 だが、あかねはどうやら頼久に何か言いたいらしく、さきほどからずっとその腕の中でうつむいたままぼそぼそとつぶやき続けている。

 頼久はしばらく愛しい人をかき抱いていたことで落ち着いて、少し腕を緩めてあかねの様子をうかがった。

「神子殿?」

「えっと…友雅さんにはもう絶対やめてもらいますから、ああいうこと。」

「はぁ。」

「でも…えっと、その……頼久さんはいいですよ?」

「はい?」

「だから……さっきの友雅さんがしたみたいなこと…頼久さんはしてもいいですよ?」

 それは…とあかねの言葉の意味を考えて一瞬頭の中が真っ白になった頼久はまじまじとあかねを見つめてしまい、その視線を感じるだけに恥ずかしくてしかたないあかねは顔を上げることができなくなってしまった。

 そしてあかねの言葉をじっくり考えつくしてその意味を十分に飲み込んだ頼久は、優しくあかねの顎に手を当てて自分の方を向けさせると、その唇に軽く口付けた。

 一瞬の口付けの後であまりにも近い距離にお互いの顔があることに動揺した二人は、ささっとその身を少し離してお互いに明後日の方を向くと顔を真っ赤にして黙り込む。

 そうしておきながら、どうしても気になって互いを見詰め合ったり、そうかと思うとまた照れくさそうに視線をはずしたりを繰り返す二人を庭の木の枝にとまる一羽の鳥が見守っていた。





「どうだい?泰明殿。」

「頼久が神子に口付けはした。その後は何やら二人とも赤い顔であっちを見たりこっちを見たりしている。」

 友雅の前でそう語る泰明はどこか不機嫌そうだ。

 ここは友雅の屋敷の一室。

 そろっているのは八葉の面々だ。

「これで神子のお悩みは解消されるのでしょうか…。」

 と、心配そうなのは永泉。

「どうだろうなぁ、頼久って切れると突っ走るとこあるけど、切れるまでが長いからなぁ。」

 と、こちらはイノリだ。

「神子殿が自信をなくされていたからとはいえ、このように焚きつけるようなまねをしてよかったのでしょうか…。」

 これは眼鏡をはずしてため息をつく鷹通。

 この京にいる姫君達と比べてあまりにも何もできない自分は、頼久に本当に妻に迎えてもらっていいのだろうか?とか妻に迎えてもらえるのだろうか?それどころかずっと好きでいてもらえるのだろうか?

 などと真剣に悩んだ挙句に、自分を磨く修行を始めようとしたあかねにその修行のための講師を依頼されてしまった四人と、頼まれてもいないのに神子の心配を四六時中している泰明という八葉の面々は大切な神子の悩みを解消すべく、今回、頼久をわざとたきつけるという友雅の作戦にしかたなく従ったのだった。

「あれだけ焚き付けて口付け一つとは、全く、頼久もだらしがないねぇ。押し倒すくらいのことはしてもらいたいものだよ。」

「友雅殿、どこかの誰かとは違うのですから…。」

 あきれた鷹通が深いため息をつく。

「友雅ならたきつけなくてもあっという間に押し倒してるって。」

「言うねぇ、イノリ…。」

「押し倒すなどと…そのようなふしだらな…昼間から……。」

 顔を真っ赤にして永泉はうつむいてしまう。

 そして一人ひどく不機嫌そうな泰明は一同を鋭い眼光で見回した。

「で、次はどうするのだ?」

「どうする、とは?」

 小首をかしげた友雅に泰明はとんでもないことを提案した。

「頼久が押し倒した方が神子が幸せなら、夢の中で更に焚きつける、術を使って頼久の体の自由を奪い神子を押し倒させる、式神を使って頼久を煽る、などいくらでも手はあるが?」

『……。』

 真剣な顔でなされた泰明からの提案に一同は一瞬凍りついた。

 友雅の悪戯のような頼久焚きつけ作戦などかわいいものだ。

 この神子に心を与えられた青年は神子の幸せのためなら犯罪さえ犯しかねない。

「永泉様。」

「は、はい。」

「泰明殿にそのようなことは絶対にしないように言い含めてもらえませんか?それと、何故やってはいけないのかも。」

「は、はい、あの…わたくしなどにうまく説明できるかわかりませんが、やってみます。」

「お願いします。」

 天地の玄武どうしと友雅が永泉を指名したおかげで泰明を止めるという難儀な仕事から逃げることができた他の面々は、そそくさと挨拶をしてその場を去っていってしまった。

 そして屋敷の主である友雅も逢瀬の約束があったのだとかなんとか言っていなくなってしまい…

「永泉、どの手段がよいのだ?」

「ああ、あの、泰明殿、いけません、それは絶対にどれもいけません!」

 慌てて止める永泉の泰明への説得は夕刻まで続けられたのだった。






管理人のひとりごと

一度はやりたかった八葉総登場です(笑)
総登場といっても状況からして京にいるチームだけですが。
個人的には泰明さんの純粋さというか暴走ぶりが気に入ってます(爆)
みんな頑張ってますが、やはりこういうことをやらせて一番上手なのは少将様(笑)
で、この段階で二人はまだ結婚してません。
凄い時間かかってますが、それが何故かはまた違うお話で判明(笑)
時間かかっちゃって他の八葉が見守るにもじれったくて身悶えたっていうのが今回のお話(爆)
頼久さん相手だとキス一つさせるのももう大変、というのがうちのスタンスです(^^)(マテ




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五葉の彩り