あかねはそっと目を開ける。
目の前に広がるのは美しく整えられた庭。
「神子様…。」
心配そうに投げかけられた言葉に振り返るとそこには藤姫の姿があった。
「藤姫、ちゃん?」
「神子様…。」
ただあかねを呼ぶことしかできないらしい藤姫。
悲しそうに曇る藤姫の顔。
その目にはうっすらと涙さえ浮かんでいる。
そうだ、ここは藤姫のいる土御門の屋敷。
自分は龍神の神子で怨霊と戦っていて…
そこまで考えてあかねははっと目を見開いた。
つい先日の記憶が走馬灯のように甦る。
襲い来る怨霊、その魔の手から自分を守ってくれた広い背中。
そして…その背中は血に染まって…
地面に倒れ、その血で辺りを紅に染めたその姿は最愛の人、頼久のもの。
そうだ、昨日、自分をかばってくれた彼の人はそのまま命を落として今はもうこの世にはいないのだ。
「いやーーー。」
地に倒れる最愛の人の姿を脳裏に甦らせてあかねは大声をげていた。
「いやーーー。」
あかねは叫び声をあげながら飛び起きた。
全身がじっとりと嫌な汗で濡れている。
浅い呼吸を何度も繰り返して胸に手を当てる。
自分の鼓動がいやというほど早くなっているのを感じながらあかねは慌てて辺りを見回した。
半身を起こしたのは自分のベッド。
ゆっくり手を伸ばしてベッドサイドのライトを灯すとすぐにわかる、ここは間違いなく自分の部屋。
時計を見ると時刻は午前三時。
あかねはここが自分が元いた世界の自分の部屋であることを何度も確認してから自分の肩をぎゅっと抱いた。
夢だった。
そうわかっても体の震えが止まらない。
こんな夢を見たのは初めてだった。
頼久が死んでしまう夢。
もう二度と会えないと覚悟をしたこともあったけれど、死んでしまうなんて夢を見たことはなかった。
当然のことながらどこを見ても頼久の姿はなくて、一番安心できる自分の部屋にいるはずなのに早くなった鼓動が収まる気配はなくて。
あかねは泣きそうな自分の肩を抱いてぎゅっと目を閉じたがそれは逆効果だったらしく、その頬にとうとう涙が伝った。
そしてはっとあることに気付いて顔を上げる。
死んでしまうのは夢だったかもしれない、だが、先日の頼久との再会もそれからの幸せな数日ももしかしたら夢だったのかもしれない。
そう思い始めるともう頼久を失う恐怖は増すばかりで…
あかねは自分の肩を抱いていた腕を解いて暖かな光を放っているライトの方へと目を向けた。
頼久は携帯が鳴った音で目が覚めた。
すぐに起き上がって時計を見ると午前三時。
まだ夜が明けるまでにはかなり時間がある。
だが、こんな時間に?とは思わなかった。
何故かはわからない、あるいは元武士のカンかもしれないが、とにかく頼久は携帯を通して自分を呼んでいるのが最愛の女性であることを確信して何を考えるまでもなく携帯を手にしていた。
「はい、神子殿ですか?」
ここは京とは違う、夜でも家の中にさえいれば危険なことはまずない。
そうわかっていても頼久の中にはやはり不安があった。
午前三時にあかねが電話をかけてくるなど何かあったとしか思えない。
『頼久、さん?』
「はい。どうかなさいましたか?」
『よかった……。』
「神子殿?泣いていらっしゃるのですか?」
電話の向こうのあかねの様子がおかしいことに頼久はすぐに気付いた。
やはり何かあったのだ。
『こんな時間なのにコール2回で出ちゃうなんて、すごいですね、頼久さん。』
そう言うあかねの声は少し明るさを取り戻していて、とりあえず頼久は安堵のため息をつく。
『こんな時間にごめんなさい、寝てました、よね?』
「私のことはお気遣いなく。それよりもどうかなさったのですか?お声がいつもと違っているように思いますが。」
『…えと…ちょっと恐い夢を見ちゃって……。』
「どのような夢ですか?」
『……ダメ、話したら現実になっちゃいそうで恐いから…。』
「ですが…先ほど泣いていらっしゃいました…。」
それしか言えずに頼久は唇を噛んだ。
こういう時に気のきいたことが言えないのはどうやらこちらの世界の記憶を持つ自分も同じようで、言いたいことが口からついて出ない自分がもどかしい。
重苦しい沈黙を破ったのはあかねの方だった。
『頼久さん、そこにいますよね?』
「はい、ベッドの中におりますが?」
『ならいいんです、どうしてもそこにいるんだって確認したくて…。』
「神子殿?」
『声が聞きたくて…それだけだから大丈夫、です。』
「……。」
まだまだあかねの声がかすかに震えているのがわかる。
こんな時、あかねのことをよく知る天真ならどんな言葉をかけるのだろうか?女性の扱いに長けた友雅だったら?
そんなことを考えてみても頼久の口からあかねの心をほぐしてやるような言葉がついて出るはずもなくて、頼久は自分に苛立ちながらかたく目を閉じた。
『頼久さん。』
「はい。」
『いなくなったりしません、よね?』
頼久ははっと目を開いた。
あかねは何を恐れているというのだろう。
ただ彼女の側にいるためだけにこの世界へやってきた自分がいなくなるなどということを彼女はまだ恐れているのか?
そのようなことはありえない、そうあかねに告げようと頼久が口を開いた瞬間、携帯の向こうであかねが再び口を開いた。
『夢を見たんです。京にいた頃の……私は龍神の神子で、怨霊と戦っていて………。』
そこまで言ってあかねがふっと息を詰めたのが頼久に伝わった。
ここで口は挟まぬ方がいい。
そう直感した頼久は京にいた頃の寡黙さを取り戻したかのように口を閉ざし、辛抱強くあかねの次の言葉を待った。
『……怨霊に襲われた私を頼久さんがかばってくれて……それで…そのせいで…頼久さんが………死んじゃう夢で…。』
そこまで語ってあかねはうっと言葉をつまらせた。
頼久にはその後聞こえてきた嗚咽であかねがとうとう泣き出したのだとわかった。
なんと言って慰めればいいだろう?
考えても答えは出なくて、言葉は無理だと一人で決断して頼久は口元に笑みを浮かべた。
「神子殿、これからそちらへ参ります。」
『はい?』
今まで泣いていたあかねが驚きで思わず声をあげる。
「私はそう簡単には死にませんし、いなくなりも致しません。神子殿のお側にあるためにこの世界へ渡って参りました。何故神子殿の前から消えたりできましょうか。そのことを証明するためにこれからそちらへ参ります。」
『証明って…。』
「もちろん中へ入れて頂くわけには参りませんので、窓からこの姿をご覧下さい。」
『窓からって…え?はい?どういうことですか?』
「ですから、これからそちらへ参りますので、窓から私の姿をご覧下さいと…。」
『だ、ダメです!こんな時間に!』
「ですが…。」
『ダメって言ったらダメです!外けっこう寒いし、風邪ひいちゃいます!それにちゃんと寝ないと…。』
「私はその…どのような言葉で神子殿をお慰めすればいいのかわかりませんので…。」
『じゃぁ、声、聞かせてください。』
「声、ですか?」
『はい、私、頼久さんの声も大好きです。頼久さんの声聞きながら眠ったらきっと幸せです。だから。』
「はぁ…。」
声を聞かせてくれといわれても、慰める言葉がみつからないから姿を見せに行こうと思い立ったわけで、頼久には何を話していいのか全くわからない。
眉間にシワを寄せて頼久が真剣に考え込むこと数十秒、携帯の向こうからはあかねのくすくすという笑い声が聞こえてきた。
『頼久さん、今、何を話そうかって眉間にシワを寄せて真剣に考えてたでしょう?』
「はぁ、よくおわかりで…。」
『そりゃわかりますよ、頼久さん急に黙り込むんですもん。そんな難しく考えないで下さい。話すのがだめなら歌でもいいし。』
「歌はあまり得意では…。」
そこまで言った頼久の脳裏を天真の顔がよぎった。
「神子殿は物理はお得意ですか?」
『はい?いえ、得意じゃないですけど…。』
「では、物理に関係する単語の説明を読み上げましょうか?」
『はい?!なんでそうなるんですか?!』
「以前天真が物理の授業は何がなんだかわからなくて眠くなるが、物理というものは教科書を見るだけでも眠くなると言っていましたので…。」
あかねも物理が苦手なら物理の話を聞いているだけで眠くなるのではないか?というのが頼久の発想だ。
一瞬驚いたらしいあかねは携帯の向こうですぐにくすっと笑った。
『天真君らしい、天真君本当に物理嫌いだから。でも私は別に物理の教科書見ても寝ませんよ。それに物理の単語を説明してる頼久さんを想像したらおかしくて寝れません、絶対。』
なにやら楽しそうにクスクス笑うあかねに対して、さて困ったと苦笑しながら視線を上げた頼久の目に書棚が映った.
そこにはありとあらゆる本がたっぷりつまっている。
ベッドから抜け出し、書棚へ歩み寄った頼久は片手で一冊の本を取り出すとパラパラと器用にめくった。
『頼久さん?何やってるんですか?』
「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって。」
『へ?』
「詩です。」
『詩?ですか?』
「はい。寝室の書棚にちょうど詩集がありました。中原中也の『一つのメルヘン』という詩です。詩を読むくらいは私にもできますし、物理について語るよりは眠くなるのではないかと。」
『なるほど!もう一回聞かせてもらえます?さっきの。』
「はい。秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらと、さらさらと射しているのでいるのでありました。」
『綺麗な詩ですね…。』
一節だけ読んだところで聞こえてきたあかねの声はどこかうっとりとしていた。
「眠れそうですか?」
『はい。』
聞こえてきたのは幸せそうなあかねの声。
頼久は自然と笑みを浮かべて詩の続きを朗読し始めた。
片手に携帯、片手に詩集を持ったままベッドに腰掛けて、なるべく低い声でゆっくりと優しく、今のあかねが安心できるように想いをこめて。
携帯の向こうから聞こえてくる頼久の声は低くて艶やかで優しくて、あかねは携帯を耳に当てたまま布団にもぐりこんだ。
読んでもらっている詩は言葉遣いが古かったり、使われている単語が難しかったりして意味がわからないところもあったけれど、そのつむがれる言葉が綺麗な響きを持っていることだけは感じられて…
あかねはいつの間にか微笑を浮かべて眠りに落ちていった。
管理人のひとりごと
作中に出てくる詩は頼久さんが言ってるように中原中原中也の一つのメルヘンです。管理人が好きな詩のうちの一つです。
「秋の夜は、はるかの彼方に、 小石ばかりの、河原があって、それに陽は、さらさらと さらさらと射しているのでありました。 陽といっても、まるで硅石か何かのやうで、 非常な固体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音をたててもいるのでした。 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、 淡い、それでいてくっきりとした 影を落としているのでした。 やがてその蝶が見えなくなると、いつのまにか、 今迄流れてもいなかった川床に、水は さらさらと、さらさらと流れているのでありました…」(角川文庫 「中原中也詩集」より抜粋)
三木さんがこういう詩の朗読CD出してくれたら管理人は即買いです(爆)
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