
あかねは頼久の家のリビングでぼーっと窓の外を眺めていた。
もちろん、家主がいてそんなことはありえない。
今は仕事に必要な紙を買いに出ている頼久の帰りを待っているところだ。
どうして家に帰らずに待っているのかといえば、それは今日が特別な日だから。
本当はここで待ち合わせていたのだけれど、どうしても今日中に必要になる紙を頼久が買いに出なくてはならなかったため、家主のいないこの家に合鍵を渡されているあかねが先にやってきたというわけだ。
普段は楽しくて、暖かくて、とても穏やかな場所なのに、ただ一人、この家の主がいないというだけでこんなにも寂しく感じるものだろうかとあかねは一つ溜め息をついた。
窓の外は夕暮れ。
もうすぐ夜になってしまう。
今日は夕食を一緒に食べようと約束をしてこの時間に待ち合わせたのだから、外が夕暮れなのは当然のこと。
それでも頼久がいないというだけでなんだか心細くて、あかねは窓の外を眺めたまま溜め息をつき続ける。
テレビなんてつける気にもならない。
何故なら、テレビをつければそれはもうあちこちで幸せそうな人たちを映し出していること間違いなしだから。
今日は2月14日。
そう、バレンタインデーだ。
つまり、テレビなどつけようものなら、恋人に渡すチョコレートを選ぶ女性達が映っているに決まっている。
今そんなものを見せられたら泣いてしまいそうだ。
そう思うとあかねはテレビもつけられない。
ソファの上で自分の膝を抱いて、あかねはまた溜め息をついた。
もうすぐ恋人は帰ってくるとわかっているのに、こんなふうに会いたくても会えない時は一瞬でもつらくて…
ただ溜め息をつくことしかできない。
そんなあかねの瞳の中で窓の向こうが暗くなり始めた頃、玄関で扉の開く音がした。
飛び跳ねるようにソファから立ち上がってあかねは玄関へと駆けつける。
するとそこには顔中に申し訳なさを浮かべている頼久がちょうど靴を脱いで立っていた。
「神子殿お待たせい…。」
「お帰りなさい!」
待たせてしまったことを詫びようとした頼久に、あかねが思い切り抱きついた。
だから、頼久は謝罪の言葉を飲み込んで、代わりにあかねの体をしっかりと抱きとめる。
いつもよりも力強く自分の体を抱きしめてくるあかねの腕に頼久はどれほどあかねがここで自分を恋焦がれてくれていたのかを悟った。
「お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。」
「お買い物、終わりました?」
「はい。これで今夜中に仕事が片付きます。」
「よかったぁ。」
体を離して恋人の顔を見上げて、あかねはふわりと微笑んだ。
間近で見る愛しい人の笑顔に頼久が目を見開く。
「頼久さん?どうかしました?」
「いえ…その…神子殿があまりにも美しく…。」
「はい?や、やだなぁ、いつもと一緒ですよ。別にお化粧とかしてないし…頼久さんは、私を見る時に何かフィルターがかかってるんですよ絶対。」
「そのようなことは…。」
「もぅ、そんなことより、ご飯にしましょう。」
このまま放っておくと頼久はあかねがいかに美しいかを切々と語り始めるので、あかねはそれを封じるべく頼久の腕を取り、リビングへと足を踏み入れた。
頼久にしてみれば本当のことを言っているだけなのだが、それがあかねにとっては恥ずかしいことこの上ない。
リビングで頼久を解放したあかねはすぐにキッチンに向かい、頼久は買ってきた紙を置くべく書斎へと移動した。
頼久の書斎は部屋中があかねの写真で飾られている。
それはあかね自身がくれた写真であったり、天真が気を利かせて学校で撮ってきてくれた写真であったりするのだが、どれも愛らしいあかねの魅力的な写真ばかりだ。
それらの写真をじっと見つめて口元を緩めてから頼久は紙を机の上に置いてリビングへ戻った。
今はあかね本人が来てくれているのだから、何も写真を見つめている必要はないのだ。
「温めたらすぐ食べられますから。」
「申し訳ありません、お手伝いしようと思っていたのですが…。」
「そんな!気にしないで下さい。私がしたくてしてるんですから。」
お玉を手にくるりと振り返ったあかねを見つめて、頼久はまた目を見開いた。
ついさきほど書斎であかねの写真を見ていた。
その写真と目の前のあかね本人とはなんだかずいぶんと違っている気がして…
「頼久さん?さっきから何か変ですよ?」
エプロン姿のあかねが小首をかしげる。
その姿を見て、頼久は何か納得したような笑みを浮かべた。
「いえ、さきほど書斎の写真を見たのですが、神子殿はずいぶんと大人びて美しくなられました。」
「はぃ?」
「御自分ではお気付きにならないのかもしれませんが…。」
「な、なってないですよ、大人になんて…もうすぐ高校卒業だからってそんな……すぐ大人になんかなりませんよ……。」
そういって真っ赤な顔でくるりと頼久に背を向けて、あかねは何やら鍋の中をぐるぐるとかき混ぜ始めた。
そんな後ろ姿さえも頼久の目にはなんだか少しばかり大人びて見える。
もうすぐあかねは高校を卒業、そして大学生になる。
その気持ちの余裕があかねの雰囲気を変えたのか、頼久はそんなあかねの穏やかな背中を見つめながら椅子に座った。
テーブルの上にはサラダなど温める必要のないものは全て並んでいる。
ずいぶんと早くから来てあかねが準備していてくれたのだと思うと、2月14日という日の存在そのものに感謝したいほどだ。
「はい、頼久さんの分です。」
あかねから手渡されたのは皿いっぱいのビーフシチューだ。
頼久は礼を言いながら皿を受け取り、おいしそうなその香りを吸い込んだだけで幸せな気分になった。
テーブルの上には他にもどうやらあかねの手作りらしいハンバーグものっていて、かなり豪華な夕食だ。
二人同時に『いただきます』と手を合わせてから楽しい夕食の時間が始まった。
頼久にとっては至福の一時だ。
目の前に座っているあかねも絶えずその顔には笑みを浮かべていて、幸せそうに見える。
穏やかな微笑み、細い指先の整っている小さな白い手。
その手の動きもいつもより落ち着いて優雅に見えて、頼久は料理を口にしながらその視線をちらりちらりとあかねに向けずにはいられなかった。
「よ、頼久さん…。」
「はい?」
「そんなに見られると恥ずかしいです…。」
「申し訳ありません。やはり神子殿はずいぶんと大人になられたと…。」
「なってませんってば……それより!今日はバレンタインデーですから、ちゃんとデザートも用意してあるんです。」
食事もそろそろ終了という頃になって、あかねは冷蔵庫へ向かった。
そして…
「はい、今年のバレンタインデーのプレゼントです。」
あかねが冷蔵庫から取り出して頼久の前に置いたのは、綺麗に飾り付けられたチョコレートケーキだった。
「これはもしや…。」
「はい、今年は張り切って全部自分で作ってみました。」
「受験が終わったばかりでお疲れのところを…。」
「終わったからですよ!だからもうやりたいことめいっぱいやってみました。スポンジからちゃんと作ったの久しぶりで、ちょっと心配だったりもするんですけど…。」
赤い顔であかねはそう言うが、どこから見てもそれは立派なチョコレートケーキで頼久は目を丸くしたほどだ。
店のショーウィンドウに飾られているケーキにもひけはとらないだろう。
「見事なできばえで切り分けるのがもったいないほどです。」
「切らないと食べられないですよ。」
そう言って苦笑してあかねはあっさりケーキに包丁を入れた。
綺麗に切り分けたチョコレートケーキの一片をおしゃれな小皿に乗せて頼久の前に置く。
頼久は残っていたビーフシチューをすぐに平らげて、スプーンをフォークに持ち替えた。
あかねはすぐに自分の分のケーキを皿に乗せて紅茶をいれる。
「いただきます。」
「はい、どうぞ。」
あかねの朗らかな返事を聞いてから頼久はケーキのひとかけを口に入れた。
ほのかに香る洋酒の薫り、チョコレートのほろ苦さ、スポンジの柔らかさ、どれをとっても文句なしにおいしい。
「神子殿は、本当になんでもうまくお作りになります。」
「本当においしいですか?」
「それはもう、これほどのケーキは初めて食べます。」
「お、大げさですよ、それは…。」
顔を真っ赤にしながらあかねはいれたての紅茶を頼久のケーキの横に置いて、自分もケーキを口に入れた。
何も言わないが、あかねの顔にはすぐに笑みが広がったからおそらく予想以上の出来だったのだろう。
そう予想して頼久の顔にも笑みが浮かんだ。
おいしい手料理に手作りのチョコレートケーキ、それに何より最愛の人の笑顔が目の前にある。
頼久にとってそれ以上の幸福はない。
あっという間にぺろりとケーキを平らげた頼久は、じっとあかねがおいしそうにケーキを食べる様子を見つめた。
すると、あかねは突然テーブルの上をキョロキョロと見回して、ケーキを食べていたフォークを置いた。
頼久が不思議に思ってその顔をよくよく見れば、あかねは何やら悲しそうな顔をしている。
「神子殿?」
「ごめんなさい…。」
「は?何が、でしょうか?」
頼久は慌てて辺りを見回した。
これまでの流れであかねが謝るべき何かがあっただろうか?
テーブルの上にはほぼ中身が完食された食器の数々と、半分ほど残っているチョコレートケーキがあるばかりだ。
「私、全然考えてなくて…頼久さんが食べたいものは何かな?とかそれしか気にしてなくて…。」
「はい、神子殿にご尽力頂いたおかげで私は大変美味な食事とチョコレートを頂きました。」
「でも……全然かわいくなかったです…。」
「は?」
「だって、テーブルの上、凄く…茶色……。」
「はぁ…。」
言われて頼久がよくよく見れば、確かにビーフシチューにハンバーグにチョコレートケーキは茶色い。
だが、そのどこに問題があるのかが頼久にはわからない。
「その、茶色ではいけないのですか?」
「せっかく年に一度のバレンタインなのに、全然かわいくないしおしゃれじゃないし…頼久さんがっかりしたでしょう?」
「は?」
悲しそうに見つめられて頼久は一瞬キョトンとしてから安堵の溜め息をついた。
つまりはテーブルの上がかわいらしく飾られていないために頼久ががっかりしたのではないか?というのがあかねの心配事。
ということは頼久が今、がっかりしているどころか感動していると言ってもいいほどに喜んでいる以上、あかねの心配事はすぐにも消えてなくなるに決まっているのだ。
「神子殿。」
「はい…。」
「私は無骨者ですのでそのようなお心遣いを頂いても気付けますかどうか。」
「き、気付きますよ…。」
「それより何より、神子殿の手料理に手作りのケーキ、そして神子殿のお美しい笑顔、私にとってこれ以上のものはございません。ですから、どうかその笑顔を曇らせたりはなさらないで下さい。」
頼久がゆっくりと優しくそう言えば、あかねは驚いたような顔をして、それから首まで真っ赤になって目を伏せた。
「頼久さんはやっぱり恥ずかしいことさらっと言いすぎです。」
「そう、でしょうか…。」
言われて初めて自分の口から出た言葉を確認してみる頼久だが、どうしてもどこが恥ずかしいのかはわからない。
「全て真実なのですが…。」
「だからもっと恥ずかしいんです……。」
「……。」
これはどうしたものかと頼久が悩み始めたその時…
「でも、嬉しいです。」
聞こえるか聞こえないかというギリギリの声であかねがつぶやくのを頼久の耳はしっかりととらえた。
恥ずかしそうにうつむいているあかねも愛らしくて、頼久は眉間にシワが寄りそうだった顔に笑みを浮かべた。
「今年もまたこの日は大変幸せな一日にして頂きました。天真にはよく私はこの世界でも相当の幸せ者だと言われておりますが、本当にそう思います。」
「そ、そんなには…。」
「いえ、ですから、来月の14日は私のためにあけておいて頂けますか?無骨者の私ではどれほどのことができるかはわかりませんが…。」
「そんなっ!頼久さんと一緒に過ごしたいからもちろんあけておきますけど、そんなに気を使わないで下さい。私は頼久さんと一緒に過ごせるだけですっごく幸せなんですから。」
「それは私も同じです。神子殿と一緒に過ごせることが何よりの幸せです。」
「……やっぱり頼久さんは恥ずかしいことをさらっと言うんですね……。」
そう言って恥ずかしがりながらも嫌がっているわけではなさそうなあかねに頼久は優しい笑みを浮かべると、すっと立ち上がった。
何事かとあかねが慌てて視線を上げる。
すると頼久はあいている皿を次々に重ねると、それをキッチンへと運び始めた。
「頼久さん!片付けは私がやりますから!」
「いえ、私もお手伝い致します。その方が早く終わりますので。」
「それはそうですけど……。」
「片づけが終わりましたら、あちらで少しゆっくりして頂けますか?」
頼久の視線の先にはリビングのソファがある。
つまりは並んで座ってゆっくりしようと誘っているのだ。
あかねはそれに気付いてせっかく元に戻った顔をまた赤く染めると、すぐに空の皿を持って立ち上がった。
「頼久さんが隣に座って、優しくしてくれるならいいですよ。」
「お任せください。」
間髪入れないその返事にあかねははにかんだ笑みを浮かべると、腕まくりをして皿洗いを開始した。
片づけが全て終わればそこからはきっと暖かくて幸せで、少しだけ恥ずかしいようなステキな時間になるから。
そして頼久は、幸せそうに皿洗いを続けるあかねを手伝いながら己の身の幸福を想っていた。
今年もまたこうして特別な日を幸せに過ごせたことに感謝しながら、来年も、その次の年も同じように幸せに過ごせるようにと祈らずにはいられなかった。
管理人のひとりごと
1にしてはちょっと短めですが、バレンタイン短編でございます♪
あかねちゃんは女の子なので、お祝い事はかわいく飾り付けたいんですね。
でも、頼久さんにおいしく食べてもらうことを考えていたら全くかわいくなくなったと(笑)
もちろん頼久さんはそんなこと気にしません♪
ので、結局は二人でただいちゃいちゃしてるだけってなことに…
いつものことか(’’)
今回はケーキまで手作りだったんで、ホワイトデーの頼久さんも張り切りそうです(^^)
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