熱
 あかねは額に冷たいものを感じて重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。

 ぼやけていた視界にやがて見えてきたのは…

「頼久、さん?」

 まだ朦朧としている意識がやっと認識したのは心配そうにしている恋人の顔だった。

「起こしてしまいましたか?」

「大丈夫です……冷たくて気持ちいいから。」

 そう言ったのは本当で、額に乗せられている濡れたタオルが熱を発している額にとても心地がいい。

「何か欲しいものはありませんか?」

「今は大丈夫です。」

 そう言ってあかねは微笑んだ。

 二日ほど前から熱を出して寝込んでしまって、今もまだ体はだるいし頭も少しぼーっとしている。

 自分の体が熱を発しているのがわかるほどの高熱で、これは間違いなくインフルエンザだと自覚して午前中には病院にも行った。

 点滴を打ってもらって少し楽になっておかゆを食べて眠ったところまでは記憶にある。

 けれど、ベッドサイドで心配そうにしている恋人がいつ訪ねてきたのかは全くわからなくて…

 あかねはじっと頼久の顔を見つめて小首を傾げた。

「私、頼久さんが来ても寝てたんですね…。」

「いえ、私が起こさぬようにそっと入りましたので。」

「ごめんなさい、わざわざお見舞いに来てもらって…。」

「そのようなこと、神子殿は気になさらず。」

「でも、せっかくのバレンタインに何もできなくなっちゃったし…。」

 あかねが一番落ち込んでいるポイントはそこだ。

 今年は何を作ろうかともう一月も前からワクワクと考えていたのに、その直前にインフルエンザにかかって寝込んでしまった。

 急いで治そうとしても治ってくれるわけはなくて、結局、バレンタインデー当日である今日はこうしてベッドの中だ。

「それもお気になさらず。」

「私が楽しみにしてたんです。それで、何を作ろうか考えながらデパートでチョコレート眺めたりとかしてたら風邪をもらっちゃったみたいで…情けないです…。」

 人混みで風邪をもらってくるのはよくあることで、それがたまたまバレンタインだったというだけのことなのだけれど…

 あかねにとってはとても楽しみにしていた行事なだけに落ち込み方はひとしおだった。

「何を用意して下さるのか楽しみにしておりますので、神子殿さえよろしければ風邪が良くなってからお作り頂けませんか?」

「凄く遅くなっちゃいそうですけど、いいですか?」

「もちろんです、楽しみにしております。」

 頼久はそう言いながら笑顔を見せた。

 頼久にしてみればバレンタインの贈り物はもちろん楽しみではあったけれど、そんなものよりもあかねが健康で微笑んでいてくれることの方が何倍も大切だ。

 あかねが元気でいてくれるなら、バレンタインのチョコレートがいつ渡されることになってもかまわない。

「でも、やっぱり今日、頼久さんに何かあげたかったなぁ…。」

 頼久の胸の内はともかく、あかねにはあかねの想いがある。

 恋する乙女としてはバレンタインという特別な日だからこそプレゼントを渡したいという気持ちは強いのだ。

 けれど、どんなに気持ちが強いとしてもそれができないのは自業自得で…

 あかねがベッドに横になったまま熱い息を深く吐き出すと、頼久がすっと顔を寄せた。

「頼久さん?」

「神子殿。」

「はい?」

「神子殿さえよろしければ、今ここで頂きたいものがあるのですが。」

「へ?今、ですか?起き上がれるかなぁ。」

「いえ、このままで。」

 あかねは起き上がろうとした肩をそっと頼久に押さえられて、けだるい体をベッドへと戻した。

 ずれた額のタオルを戻してくれる頼久を見つめながら考える。

 この状態のまま何か渡せるものがあっただろうか?机の上は綺麗に片付けてあるはずだし、部屋の中には頼久が欲しがるようなものは何もなかったはずだ。

 あかねがそんなことをつらつらと考えているうちに、頼久は微笑を浮かべながら更に顔を近づける。

 いつもよりもずっと近いその距離に、あかねは熱のせいだけではない赤みを頬に浮かべて恋人の端整な顔に見惚れた。

「一度だけ口づけを頂けますか?」

「い、今、ですか?」

「はい。」

「でもそんなことしたら頼久さんに風邪がうつっちゃうんじゃ…。」

 キスが嫌かどうかよりも頼久に風邪がうつるのではという心配を先にするあかねに頼久は笑みを深めた。

 いつだって自分のことを何よりも大切に思ってくれる優しい人。

 そんな優しい恋人が口づけ一つ嫌がるわけもなかろうと頼久は「うーん」と考え込んでいるあかねに問答無用で口づけた。

 いつもよりもほんのり熱いその唇が大切な人が病にかかっているのだという事実を明確に伝えてくる。

 頼久はいつもよりも長く、そして深く口づけて…

 そしてそっと離れた。

「よ、頼久さん、本当にうつっちゃいますから!」

「はい。」

「はいって……。」

「人にうつすと早く治ると申しますから。」

「へ?」

「今ここで頂きたかったのは神子殿の風邪です。」

「……。」

「ご心配なく、これしきの風邪をもらったところで倒れるようなやわな体はしておりません。」

「そ、そういう問題じゃ…。」

 目の前でニコニコ微笑んでいる恋人がどれほど頑丈な人なのかはあかねが一番良く知っている。

 二日や三日寝なくても普通に生活できてしまう人なのだ。

 しかも、眠っていない夜の間は敵を警戒して警護なんていうものをしていてもへっちゃらだ。

 その強さに守られてきたあかねだから、本当にこの人が強いということは良く知っている。

 知っているけれど、だからといって風邪をうつしていいということにはならない。

「頼久さんが私のこと心配してくれるのは嬉しいですけど、私のせいで頼久さんが病気になっちゃうのは嫌です…。」

「神子殿…。」

 熱のせいもあって涙目になるあかねの髪を頼久は優しく撫でながら、できるだけやわらかい微笑を浮かべた。

「ご心配なく。神子殿から風邪を頂いても私が病に倒れるようなことはありません。倒れる前に治してしまいましょう。」

「頼久さん、めちゃくちゃ言ってます…。」

「神子殿のためならそれくらいのことはいくらでも。」

 むちゃくちゃなことを言っているけれどきっとこの人はその通りにしてしまう。

 そんな気もしていて、あかねはふっと溜め息をつくと苦笑を浮かべた。

 本当にこの人は、京にいた頃からどんな時だって一番頼りになる人だった。

 こんなふうに病気だったり気落ちしていたり、気が弱くなっている時には特にそうだった。

 京にいた頃をそんなふうに思い出して…

 あかねはある事実に気付いた。

 どうして頼久は今、ここにいるのか?

「あの、頼久さん、どうしてここにいるんですか?私、すぐに熱で倒れちゃってメールする余裕もなくて知らせてなかったような気が…。」

「はい、メールを出しても返事をいただけなかったので何かあったのかと心配になりまして、失礼ながら母君に連絡を取らせていただきました。」

「お母さんに?」

「はい、すると、母君は買い物に出たいと仰せでしたので、僭越ながら留守居をさせて頂くことになりまして、神子殿が高熱で休んでおられるとのことでしたので是非看病をと。」

 駆けつけたわけだ。

「……ごめんなさい。メール返信しなかったから心配かけちゃいましたよね…。」

 先にメールで連絡をしておくのだったと後悔してみてももう遅い。

 熱で頭がぼーっとして、メールをしたいと思っても体が言うことをきいてくれなかった。

 病院に行く時には携帯を部屋に忘れてしまって、帰ってきて薬を飲んだら眠くなってそのままだ。

 この恋人がどれほど心配してくれただろうかと想像すると申し訳なくてしかたがなくて、あかねはまたその目に涙を浮かべた。

「心配は致しましたが…こうして神子殿のお側にいることができるのならもう大丈夫です。今日はここで泊りがけで看病できるよう、母君にお願いしておきました。」

「はい?」

「食事のお世話もさせていただきますので。」

「だ、大丈夫ですから!」

「させて下さい。こんなに高い熱を出しておいでの神子殿から離れては、どうせ心配で何一つ手にはつきませんから。」

 そう言われてしまうとあかねにはもう反論の余地はない。

「ごめんなさい…。」

「この頼久に悪いとお思いなら、早く元気になってください。それが私にとっては何よりの幸福ですので。」

「はい、頑張ります。」

 気合で治す!

 と、あかねは布団の下で両手を握り締めた。

 大切な恋人に心配ばかりさせるわけにはいかない。

 そうとなれば眠るのが一番だ。

「頼久さん、私…。」

「はい、ゆっくりお休みください。」

 あかねが何をしようとしているのかに気付いて、頼久はうなずいた。

 その優しい顔に笑みを見せてあかねはゆっくり目を閉じた。

 きっと次に目を開けた時にはこの笑顔をまた見ることができる。

 そう思えば眠りにつくことさえ幸せに思えて…

 病と闘って疲れている体に薬がきいているからか、頼久の存在が安心を与えたからか、あかねの意識はあとっと言う間に眠りへと引き込まれていった。





 頼久に看病された日から二日後。

 あかねは医者も驚くほどの勢いで風邪を治してしまった。

 そして、ここからはリベンジとばかりに大量のチョコレートと果物を買い込んで頼久の家を訪ねた。

「ようこそ、どうぞ中へ。」

 いつものようにあかねが玄関に立っただけで姿を見せた頼久は元気そのもの。

 鼻声でさえなかった。

 宣言通りあかねの風邪を持っていった上に体の中で撃退してしまったらしい頼久にあかねは満面の笑みで「こんにちわ」と挨拶をすると、台所へ駆け込んで腕まくりをした。

 数十分後、甘い香りで満たされたリビングで、頼久はチョコレートにコーティングされた数々の果物を愛しい人と二人、幸せに頬張るのだった。







管理人のひとりごと

バレンタイン企画、頼久さん現代版バージョンでした!
こちらは当日には何もプレゼントできなかったお話にしてみました。
現代版ってバレンタインが常識になっちゃってるし、チョコレートあげ放題だし、普通にあげてもつまんないなと(’’)
あげられない場合の方が面白そうという管理人の安易な発想でこうなりました(゚д゚lll)
まぁ、頼久さんはちょっとやそっとじゃ風邪もひかんということはマンガでも明らかになってましたね!
一晩、水を浴び続けるとかしないと風邪ひかないんですよ(’’)
ので、あかねちゃんの風邪なんかもらった上に撃退です(笑)










ブラウザを閉じてお戻りください