あの頃も
 あかねは一人、御簾の内側で琴をかき鳴らしていた。

 藤姫に新しい曲を教えてもらったのだ。

 それがとても美しい曲で、どうしても弾きこなせるようになりたくて、あかねは朝から懸命に我を忘れて練習中だ。

 その様子を頼久は御簾の外側で階に座ってうかがっていた。

 朝、挨拶だけは御簾から出てきて交わしてくれたあかねだったが、一言挨拶を交わしただけですぐに中へ引っ込んでしまい、それ以降、琴の音だけが聞こえ続けている。

 愛しい人の顔が見られないのは残念なのだが、懸命に練習している琴の、その拙い音色を聞いているのは心地良かった。

 ところどころつかえながら奏でられるその琴の音色はあかねの懸命さが伝わってくるだけでなく、一つ一つの音が澄んでいて美しい。

 神子殿のお心を映しているようだ。

 頼久は心の中でそう思いながら目を閉じる。

 曲としてはまだまだ拙いが、美しい音が耳に心地良くてついつい顔には笑みが浮かんだ。

 愛しい人に会いたいのは当然のことなのだが、自分がこうして側にいることはあかねの警護も兼ねているのだということをこの真面目な青年武士は珍しく失念しそうになっていた。

 それほどあかねの奏でる琴の音が心地良かったからだ。

 ところが、頼久がうっとりと聞き惚れていた琴の音は急に聞こえなくなってしまった。

 ならったところを思い起こしているのだろうか?と頼久が一人考えているところへ、御簾をゆっくりと上げてあかねが出てきた。

 その顔は暗く落ち込んでいるように見える。

 最近は寒いからと言って着込んでいる十二単も可愛らしくてならないのだが、そんな姿に見惚れる余裕もなく、頼久はどうやら何やら思い悩んでいるらしいあかねの顔をのぞきこんだ。

「神子殿、どうかなさいましたか?」

「全然上手にならないんです。」

「琴、でしょうか?」

 頼久の問いにあかねはこくりとうなずいた。

「藤姫ちゃんは凄く簡単そうに弾くのに、私は何度練習しても全然ダメなんです…。」

「そうでしょうか…。」

「はい?」

「私には神子殿の奏でられる琴の音はことのほか心地良く聞こえますが…。」

「それは…頼久さんの欲目です…。」

「はぁ…。」

 こう言われてしまうともう頼久にはどうしようもない。

 お上手ですといえるほど上手くないことはあかね自信が実感していることであるし、楽の良し悪しを語るほど頼久は音楽に通じてはいないのだ。

 いくら神子殿のために何かをしたいと思っても今の頼久には何もできることが見当たらない。

「ごめんなさい。」

「は?」

「せっかく頼久さんが会いにきてくれたのに、私ったらなんか愚痴ばっかり言ってて全然楽しくないですよね。」

「いえ、そのようなことは…。」

 頼久にしてみれば無理に強がられるよりはこうして本音を語ってくれる方がよほど嬉しいのだが、あかねはそうは思わないらしい。

「こんな……情けないことばっかり言ってたら頼久さんに嫌われちゃいますよね。」

 そう言って顔を上げて無理に苦笑するあかね。

 頼久は一瞬目を大きく見開いて、それから顔色をさっと青くした。

「と、とんでもありませんっ!私が神子殿を嫌うことなどありえませんっ!」

 慌ててそう叫んで、頼久は階を駆け上がるとあかねをその腕の中へと絡め取る。

 いつもなら少しばかりの抵抗を見せるあかねが、今回は黙って頼久に抱きしめられたままその胸に顔をうずめた。

「神子殿?」

「もう少しだけこのままでいてもらえますか?」

 それは頼久にとっては願ってもないあかねの望み。

「御意。」

 そう低い声でつぶやいて頼久はあかねが顔を上げられるようになるまでのしばしの間、その小さな体を優しく抱きしめ続けた。





 頼久がいつものように朝からあかねの屋敷を訪れると、いつもは縁で待っているあかねの姿が見えなかった。

 よほど体調が悪いといったような理由がない限り、あかねは必ず縁に出て頼久がやってくるのを待っているのだ。

 そのあかねの姿が見えないとはまさか重い病にでもかかられたのかと頼久が慌てて階を上ると、すぐに御簾の向こうからあかねの声が聞こえた。

「頼久さん?入っちゃダメです!」

「神子殿……。」

 入室を禁止された頼久は何があったのかと思いを巡らせる。

 お着替え中か?

 それにしては衣擦れの音がしない。

 ではお食事中か?

 それにしては食器の音がしない。

 では、やはりご病気かっ!

「失礼致します!」

 頼久はあかねが病で苦しむ姿を脳裏に思い浮かべて思わず御簾を跳ね上げていた。

「ダメですってばっ!」

 御簾の向こうへいざ足を踏み入れてみるとそこには、きちんと十二単を着たあかねがちょこんと座っており、どう見ても病気のようには見えない。

 ただ、香炉に香が焚かれているのがいつもとは違っているくらいだ。

「神子殿、お許しもなく申し訳ありません。よもや重い病にでもかかっておいでなのかと…。」

「病気じゃないです……。」

 そう言いながら頼久を見上げるあかねの目には涙が滲んでいて、頼久はさっと顔色を青くして怯んだ。

「臭くないですか?」

「は?」

「この局、変な匂いがしません?」

 か細い声でそう問われて、頼久はとりあえず思い切り息を吸ってみた。

 何やら香の薫りはするものの、特に変な匂いがするということはない。

「いえ、特には…香炉の香が薫ってはおりますが…。」

「それです。」

「は?」

「自分で作ったお香なんですけど…焚いてみたらなんか変な匂いになってて……。」

 そう言ってあかねは今にも泣き出しそうだ。

 頼久はもう一度香の薫りを吸い込んで小首を傾げた。

 あかねが言うほどおかしな匂いがするとは思えない。

 だいたい武士の身では細かい香りの区別などつくはずもないのだ。

「私はさほどおかしな薫りとは思いませんが…。」

「もっと甘くて優しい感じになるはずだったんです…こんな漢方薬みたいになるなんて…。」

「いえ、香は皆この程度のものかと…。」

「そんなことないです。この前、友雅さんが自分で合わせてみたからって送ってくれたのは凄くいい薫りでしたもん。」

 ここで友雅の名前を出されるともう頼久にはどうしようもない。

 こと雅な話になると友雅の右に出る者はいないからだ。

 しかも頼久は元来の無骨者、とうてい香だの楽だのという雅な話に詳しいはずがなかった。

「私はさほどおかしな薫りとは思いませんが、神子殿のお気にめさなかったのでしたらまた作り直されればよろしいかと。」

「そう、ですよね。また友雅さんに教えてもらってやり直してみます。」

 そう言ってあかねは力なく微笑んだ。

 口ではなんとか立ち直ったようなことを言ってもどうやらまだ傷心のままらしい。

 どうしたものかと頼久が眉間にシワを寄せて考え込み始めると、あかねは香炉の火を消すとすすっと頼久の前へと膝行り寄ってきた。

「変な話ばかりしてごめんなさい。さ、座って下さい。」

「は?」

「せっかく頼久さんが御簾のこっち側に入ってくれたんですもん、ゆっくりお話ししたいです。」

 そう言ってにっこり微笑むあかねの顔を見下ろして、頼久は今自分があかねの局の中にいることにやっと気付いた。

「せ、せっかくですが、神子殿がご病気でないのでしたら私は庭に控えておりますので!」

 大慌てでそう言うと頼久は御簾を跳ね上げて、物凄い勢いで外へ出た。

 驚いたのはあかねで、すぐに頼久の後を追いかける。

「頼久さん?」

「申し訳ありません、その…神子殿がご病気で苦しんでおられるのではと…さきほどはお許しも頂かず…。」

「えっと、さっきはお香が臭いから入ってほしくなかっただけで…別に頼久さんはいつ入ってきてくれてもいいんですけど…。」

「いえ、そいうわけには…。」

 この京では高貴な身分のお姫様は普通、他人にその顔さえ見せないと聞いてあかねはかなり驚いた。

 しかも、頼久がその身分とやらを持ち出して自分の部屋に入ってくれないどころか、顔を直接見ることもなるべく避けようなどと思っているらしいことを知った時には更に驚いた。

 そして驚いただけでなく、どうしてもそれは受け入れ難いとも思った。

 だから、いつもいつも気にしないで普通にしてほしいと言ってはいるのだが、この律儀な許婚はどうやら婚儀が済むまではあかねの望む普通な振る舞いに及ぶつもりはないらしいのだ。

 あかねは少しだけ「お願い」という目で頼久を見上げて、それから悲しげにうつむいた。

「その…私が御簾の内へ入ると、神子殿のお心は、少しは晴れるのでしょうか?」

「はい?」

 思いもよらない頼久の言葉にあかねがさっと視線を上げる。

 それは入ってくれるということなのだろうか?

「…神子殿はここ数日、その…ふさぎ込んでおいでのようにお見受け致しましたので、私が御簾の内へ入れて頂くことで多少なりとも気分を晴らして頂けるのでしたら…。」

「晴れますっ!すっごく晴れますっ!」

「では、その…少しだけ…。」

「どうぞどうぞ!」

 あかねは嬉しそうに頼久の手を引いて御簾を跳ね上げる。

 頼久は再び御簾の中に、しかも神子に手を引かれて入ることになってしまった。

 だが、それからずっとあかねが楽しそうに自分の前で語り続ける姿を見ては、頼久も今回ばかりは御簾の内へ入れて頂いてよかったと思わずにはいられないのだった。





 よく晴れた冬の朝。

 少しばかり冷え込みも厳しくなってきたが、空は青く澄み渡って美しく、頼久はどこか清々しい気持ちであかねの屋敷を訪れた。

 いつものように庭から回ってみれば、あかねもいつものように縁に十二単姿で座っていたのだが、その顔はどこか暗く沈んでいて、頼久の感じていた清々しさはあっという間に吹き飛んだ。

「神子殿…。」

「あ、おはようございます。」

「おはようございます…どうか、なさいましたか?」

「はい?別に何もありませんけど。」

 そう言ってあかねは苦笑する。

 その力ない表情から何もなかったなどというのが嘘だと頼久にはすぐにわかるというのに、それでもあかねは頼久に心配をかけまいと無理に笑って見せるのだ。

 頼久は深い溜め息をついてつつとあかねに歩み寄った。

「神子殿、私などに話しても詮無いことなのでしょうか?」

「そ、そんなことない、です……。」

 少しばかり口調をきつくして頼久が問いかけると、あかねはあっさり悲しそうにうつむいた。

 気丈に振舞っていてもやはり何か気になることがあるのだ。

「では、お話し頂けませんか?」

「全然覚えられないんです…。」

「何を、でしょうか?」

「薬草。」

「は?」

「この前も一緒にとりに行ってもらいましたよね?薬草。あの時も全然頼久さんの方が詳しかったから、あれからけっこう頑張って勉強したんですけど、なかなか覚えられないんです。」

 あかねは頼久が武士という職業柄、怪我をすることが絶えないだろうと薬草の勉強を始めたのだが、どうやらそれがなかなか思うように進まないらしい。

 頼久にしてみれば、龍神の神子であり、左大臣家の養女でもある尊き身分のあかねが自分などのために何かをしてくれるというだけでも嬉しいやらもったいないやらという思いなのだが、あかねはそんな頼久の気持ちを知ってか知らずかまだまだ努力したりないというのだ。

「予想はしてたんですけど、私、全然成長してないっていうか…龍神の神子っていう役割がなくなったら全然役立たずっていうか…。」

 欄干にもたれかかり、すっかり下を向いてしまうあかね。

 何か言葉をかけなくてはと思っても頼久の口は思うようには動いてくれない。

 このような時ほど頼久が自分の口下手を呪うことはなかった。

 あらゆる言葉で、あらゆる行動で自分を励まし、慰め、そして時には叱って、大切なものに気付かせてくれた愛しい人へ自分は言葉一つ贈ることができないのだ。

 頼久は眉間にシワを寄せてすっかり考え込んでしまった。

 今、自分が神子殿にして差し上げられることはないのだろうか?

 頼久の頭の中をしめているのはそのことだけだ。

 一瞬とも永遠とも思える沈黙の時が流れ、あかねがそっと袖口を目元に当てたのに気付いて頼久ははっと顔色を変えた。

 どうやらあかねは涙をかくそうと下を向いたようで、頼久の目の前で今、泣いているらしい。

 いてもたってもいられなくなって、頼久は何も言わずに十二単姿のあかねをさっと抱き上げた。

「よ、頼久さん?」

「お連れしたい所があります。」

「ちょっと待って下さい!これじゃ重たいし、裾引きずっちゃうし、出かけるなんて絶対ダメです!」

「大丈夫です、牛車を使います。」

「それはもっとダメです!私が牛車苦手なの知ってるじゃないですか!」

「どうしてもお連れしたい場所があるのですが?」

「着替えます!着替えてきますからっ!」

 あかねが慌ててばたついたので、頼久は渋々あかねを縁に下ろした。

 もたついていては本当に十二単のまま牛車に乗せられると、あかねはすぐに御簾の中へ入ると今までで最短という短時間で水干に着替えて出てきた。

 息さえ切らせているあかねを見て頼久は思わず微笑を浮かべる。

 それは怨霊と戦っていた頃を思わせるあかねの愛らしい姿そのままだったからだ。

「私を連れて行きたいところってどこですか?」

「参りましょう。」

 先に立って歩く頼久の後ろをあかねは追うように歩き出した。

 前にあるのは広い背中。

 怨霊と戦っていた頃はいつも自分を守ってくれた頼れる背中だが、こうして二人で歩く時に眺めることは珍しくて、あかねの顔には幸せそうな微笑が浮かんだ。

 なんだかこうして歩いていると旦那様と奥様っていう感じかも?

 そんなことを考えて一人嬉しそうなあかね。

 何も言わずに、ただ歩調だけはあかねに合わせて少しだけゆっくり歩いてくれる頼久にあかねが黙ってついていくことしばし、二人は神泉苑へと到着した。

「うわぁ。」

 人気のない神泉苑に二人きり、とても静かで穏やかで、あかねは思わず声をあげてうっとりと辺りを眺めた。

「夏とはまた違う趣かと思いまして。」

「そうですねぇ。夏は夏で綺麗なところでしたけど、冬はなんだか神秘的ですね。」

「この神泉苑が今、この姿で在るのも神子殿のおかげなのです。」

「はい?」

「神子殿がこの京をお救い下さったからこそ、今のこの美しい神泉苑があります。そのことを忘れないで頂きたいのです。」

「頼久さん…。」

「神子殿はここ数日、何やらご自分を卑下していらっしゃるようにお見受けしましたので。怨霊と戦い、京を鬼の手から救おうと、あの頃、神子殿は必死に努力なさいました。その結果、こうして京は救われました。ですから、その…今努力なさっていることもきっと…。」

 どう言えばよいかと頼久が言いよどむと、あかねはぱっと頼久に抱きついた。

 この心優しい許婚が何を言いたいのかがわかったから。

 どれほど心を砕いて自分を励まそうとしてくれているのかがわかったから。

「神子殿?!」

「有難うございます。」

「いえ…その…。」

「頼久さんの言いたいこと、わかりましたから。もう、大丈夫ですから。」

「はい。」

 誰もいない神泉苑で二人、抱き合うことしばし。

 体を離したのはあかねの方だった。

「ちょっと上手くいかないだけで落ち込んだりするの、私らしくないですよね。頑張ります。絶対、誰にも文句を言わせないくらい立派な若棟梁の妻になって見せるんだからっ!」

「み、神子殿っ!」

 あかねはガッツポーズを決めてすっかりやる気だが、若棟梁の妻になって見せると大声で断言されてしまった頼久はすっかり顔を真っ赤にして慌てた。

「だって、今のままの私じゃ絶対婚儀が済んでから頼久さん恥かいちゃいますもん。歌も詠めないし、お香もいい薫りに作れないし、大事な旦那様のために薬草一つまともに取って来れないなんて…。」

 頼久にとっては尊き龍神の神子たるあかねが自分を選んでくれたというだけで天にも昇るほどの幸せだし、帝の妻にだってなれたかもしれない神子という尊い女性が妻になったというのに周囲の者から何を言われることもないのだが、そんなことを説明してもあかねが納得するわけもない。

 だから頼久は一つ深呼吸をするとその顔に優しい笑みを浮かべた。

「文字はお上手になられました。」

「そ、そうですか?」

「はい。筆使いが特に。」

「よかったぁ。」

 頼久が思ったとおり、あかねはぱっと嬉しそうな笑顔を見せてくれた。

 頼久はあかねにこれ以上何も望みはしない。

 だが、あかね自身が自分にもっとと何かを望むのなら、ゆっくりゆっくりその望みをかなえていけばいい。

 頼久はそう思った。

「神子殿、焦らずゆっくり参りましょう。神子殿は神子殿の世界で十年以上お過ごしだったのです。たった数ヶ月でこの京で生まれ育った者と同じようにできるようになるはずがありません。」

「そう、ですよね。」

「それに、これからはいくらでも時間はあるのですから。」

「はい。」

「私は我々にはいくらでも時間がある。そのことの方が幸せに思えます。」

 そう言って微笑む頼久に見惚れて。

 それからあかねは嬉しそうに一つうなずいた。

「そうですよね。これからずっと一緒にいるんですもんね。ゆっくり頑張ります。」

 そう言ってあかねは頼久の左腕に抱きつくと、そのまま屋敷へ向かって歩き出した。

 今度はあかねが頼久を引いて歩く。

 それはあかねが元気になった証。

 いつもなら腕を抱くあかねの手をやんわりと振り解くところだが、今ばかりはと頼久はあかねに腕を抱かれたまま歩き続けた。

 そうして屋敷へ戻ったあかねはすぐに薬草について書いてあるメモを取り出すと、縁で頼久に次々と質問を浴びせた。

 元気になったあかねに頼久はこの日、陽が暮れるまで質問攻めにされるのだった。








管理人のひとりごと

小さい話が連なってるこの形式、彩り以来でしょうか。
さすがに3回もあかねちゃんが落ち込んでいると頼久さんも行動を起こします(笑)
いつも、どんな時も全力投球のあかねちゃんは京生活でも頑張り屋さんってお話。
京は全く常識が違う世界ですから、あかねちゃんも大変だったことでしょう。
でもまぁ、頼久さんがついてるから大丈夫です(笑)
それでもダメならきっと少将様が助けてくれるんです(マテ





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